人生のラストステージ「終活」を探る

一条真也です。
東京から北九州に帰ってきました。
いま、迎えの車に乗って大分県中津市に向かっているところです。
大変お世話になった母方の親戚の方が亡くなられ、本日、中津紫雲閣で行われる葬儀に参列するのです。縁のある方の最期のセレモニーに参列し、きちんとお別れすることは、人として大切なことであり、必要なことです。


西日本新聞」11月28日朝刊



さて、ブログ「最期の絆シンポジウム」で紹介した画期的なシンポが25日に開催されましたが、その特集が28日付の「西日本新聞」朝刊で組まれました。
「人生のラストステージ『終活』を探る」の大見出しで、「最期の絆シンポジウム詳報」と続きます。そして冒頭には、「誰もが迎える人生の最期に向けて、生前に葬儀や墓の手配などを済ませておく『終活』が注目されている。25日に小倉北区のステーションホテル小倉であった『最期の絆シンポジウム〜終活ブームの中で縁(えにし)を考える〜』(西日本新聞北九州本社主催)では作家、NPO法人理事長、住職、文化人類学者が、人生のラストステージでの死や周囲との向き合い方について活発な議論を交わした」と書かれています。


西日本新聞」11月28日朝刊



そして、わたし発言した内容は「『家族に迷惑』の考え一因」のタイトルで、以下のようにまとめられています。
「終活ブームの背景には、家族に迷惑をかけまい、という考えがあり、『迷惑』という言葉の肥大化は無縁社会を生んだ一因だ。その本音の部分には『面倒くさい』ということがあるのではないか。例えば、育児や親の介護などは『面倒』なことだ。しかし、それは人間として当たり前の行為で多くの人がやっている。むしろ、そうした面倒なことの中にこそ、人としての幸せがあるはずだ。
人は、ゆかりの人たちに見送られて旅立つのが幸せだろう。
葬式に一人も参列者がいないことはつらいことだ。人間はみな平等、死は最大の平等だ。身寄りのない人でも、社会の一員であり、人知れず社会から消えることはあってはならない。それを防ぐのが葬式の最大の機能。
そして、自分の葬式で周囲にどう悼んでもらいたいかを具体的に想像すれば、他者との関係を良い方向に見直せるはずだ」



同シンポジウムの後、非常に多くの反響があり、NHKでも報道されました。
わたしのもとにも「刺激的だった」「考えさせられた」「感動しました」「もう一度やってほしい」といった内容のメールがたくさん届きました。
このようなシンポジウムが再び開催されれば、ぜひ参加したいです。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2013年11月28日 一条真也