「リチャード・ジュエル」

一条真也です。
昨日、ブログ「柴山文夫氏お別れ会」で紹介した博多で行われた行事の後、互助会業界の仲間であるメモワールの渡邊社長と出雲殿の浅井社長が小倉に来られました。夜は、わが社の松柏園ホテルで一緒にフグを食べ、それから小倉の夜の街に繰り出して痛飲しましたが、業界の未来について大いに語り合うことができ、有意義な一夜となりました。翌日、二日酔いのまま、映画「リチャード・ジュエル」を鑑賞。感動しました。早くも、今年の「一条賞」候補作に出合いました。


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
アトランタオリンピックで起こった爆破テロを題材にした実録ドラマ。容疑者とされた爆弾の第一発見者と真実を求める弁護士の闘いを描く。メガホンを取るのは、俳優・監督としてさまざまな作品を世に送り出してきたクリント・イーストウッド。『スリー・ビルボード』などのサム・ロックウェル、『アバウト・シュミット』などのキャシー・ベイツ、『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』などのポール・ウォルター・ハウザーに加え、オリヴィア・ワイルドジョン・ハムらが出演する」

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ヤフー映画の「あらすじ」は以下の通りです。
「1996年、アトランタで開催されたオリンピックで爆破テロ事件が発生する。警備員のリチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)が爆弾の入ったバッグを発見したことで、多くの人々の命が救われた。だがFBIは、爆弾の第一発見者だということを理由に彼を容疑者として逮捕。リチャードを担当する弁護士のワトソン・ブライアント(サム・ロックウェル)が捜査に異議を唱える中、女性記者のキャシー・スクラッグス(オリヴィア・ワイルド)の記事をきっかけに容疑の報道は熱を帯びていく」

 

「リチャード・ジュエル」は、「許されざる者」「ミリオンダラー・ベイビー」「グラン・トリノ」といった作品、さらにはブログ「アメリカン・スナイパー」ブログ「ハドソン川の奇跡」ブログ「運び屋」で紹介した作品などで真実の物語を描き続けてきた巨匠クリント・イーストウッド監督の最新作です。英雄が一転して疑惑の人物になるという設定は「ハドソン川の奇跡」に似ていると思いました。

 

主役のリチャード・ジュエルを演じたポール・ウォルター・ハウザーも良かったですが、なんといっても弁護士のワトソン・ブライアントを演じたサム・ロックウェルが最高でした。この映画を観る直前に鑑賞した ブログ「ジョジョ・ラビット」で紹介した映画でも重要な役で出演していましたが、この「リチャード・ジュエル」におけるワトソンの存在感にはかないません。本当に、「こんな弁護士がいたら、いくら費用がかかっても依頼したい!」と思わせる情熱溢れる素晴らしい弁護士でした。



それにしても、無実の罪を被せられる怖さ!
「リチャード・ジュエル」に登場する1996年にアトランタで開催されたオリンピックで発生した爆破テロ事件では、FBIはジュエルを容疑者として扱いますが、結局は「証拠不十分」として逮捕には至りませんでした。でも、この世には身に覚えのないことで逮捕されたケースなど山ほどあります。『サメに襲われたら鼻の頭を叩け』で紹介した本には「万が一逮捕された際に覚えておくべく2つの重要事項」という項があります。

 

サメに襲われたら鼻の頭を叩け 最悪の状況を乗り切る100の解決策 (鉄人文庫)

サメに襲われたら鼻の頭を叩け 最悪の状況を乗り切る100の解決策 (鉄人文庫)

  • 作者:鉄人社編集部
  • 出版社/メーカー: 鉄人社
  • 発売日: 2019/02/18
  • メディア: 文庫
 

 

同書には、以下のように書かれています。
「万が一に備え必ず知っておかねばならないことが2つある。1つは『黙秘権』だ。刑事訴訟法に『あらかじめ、自己の意思に反して供述をする必要が無い旨を告げなければならない』と定められているように、警察官は黙秘権を被疑者に告知する義務がある。つまり、話したくないことは話さなくても良いというわけだ」
「もう1つの重要事項は、弁護士の助けだ。警察官の中には『1度は弁護士を呼べるが、2回目以降は高い費用がかかる』と言う者がいる。が、これは全くのデタラメ。金銭に余裕がなくとも、当番弁護士を無料で呼べるし、2回目以降も、日本弁護士連盟の法律援助事業の中の『刑事被疑者弁護援助』という制度を使うと、日弁連が費用を負担し、弁護士を派遣してくれる」



とにかく弁護士の助けを借りなければいけない場合は、不用意なことを発言せず、黙秘を貫くべきでしょう。当然ながら、国家=正義ではありませんので、自分が無実の罪を着せられそうなときは徹底的に抗戦する必要があります。映画「リチャード・ジュエル」のようにFBIが容疑者の家に盗聴器を仕掛けたりすることもあるようですが、どんなに相手が強大な存在であっても「自分は無実である」と堂々としなければなりません。

 

実際のジュエルは「アメリカ合衆国」と「メディア」という、この世で最も強大な2つの相手と闘って、勝利を手にしたのですから、凄いことです。国家の暴力とメディアリンチに勝ったのです。現在、逆境にあるすべての人に観てほしい映画です。きっと、闘うための勇気を得ることができるでしょう。最後に、記者会見を行ったジュエルの母親の涙の訴えには泣けました。キャシー・ベィツが素晴らしい演技を見せてくれましたね。母親の愛情こそ最強かもしれません。

 

2020年1月26日 一条真也

柴山文夫氏お別れ会 

一条真也です。
24日、東京から福岡に向かいました。福岡空港で迎えの車に乗って、わたしは福岡市博多区美野島にある結婚式場「RITZ5」に向かいました。ここで、(株)ラックの代表取締役社長であった故・柴山文夫氏の「お別れ会」が開かれるのです。柴山氏は昨年12月17日に逝去されました。享年78歳でした。

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会場のRITZ5

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RITZ5の前で

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「お別れの会」の看板

f:id:shins2m:20200124123453j:plain全国から届いた生花の数々

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全国から届いた生花の数々

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入口のようす

 

会場のRITZ5に足を踏み入れたわたしは、度肝を抜かれました。館内をすべて使って、故人の巨大写真や思い出の品、蔵書などが展示されていたからです。わたしも仕事柄、多くの方の「お別れ会」に参列してきましたが、こんな徹底した凄い演出は初めてです。まさに「柴山文夫ミュージアム」がそこに出現していました。

f:id:shins2m:20200124124000j:plain柴山文夫ミュージアムのようす(愛用品)

f:id:shins2m:20200124124300j:plain柴山文夫ミュージアムのようす(盛和塾

f:id:shins2m:20200124124307j:plain柴山文夫ミュージアムのようす(経営理念)

f:id:shins2m:20200124124320j:plain柴山文夫ミュージアムのようす(日用品)

f:id:shins2m:20200124124448j:plain柴山文夫ミュージアムのようす(ゴルフ)

f:id:shins2m:20200124124823j:plain柴山文夫ミュージアムのようす(手帳・メモ帳)

f:id:shins2m:20200124124828j:plain柴山文夫ミュージアムのようす(学生時代)

この「ミュージアム」というコンセプトは、故人がいかにも好まれるアイデアだと思いました。おそらく自らの死を覚悟しておられた故人は、ご自分で「お別れ会」のディティールを構想されたのではないでしょうか。わたしには、そう思えてなりませんでした。館内のようすを熱心にカメラで撮影されていた全互協の広報・渉外委員会の志賀委員長は「これまで柴山社長には多くのことを教えていただきましたが、亡くなられた後も学びを与えられたという感じですね」と語っていました。わたしも同感です。

f:id:shins2m:20200124124423j:plain再現された故人の仕事部屋

f:id:shins2m:20200124124500j:plain思い出の写真の数々

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チャペルの入口で

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チャペルの内部 

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「お別れ会」会場前のホワイエのようす 

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「お別れ会」のようす

f:id:shins2m:20200124125259j:plain赤いバラで飾られた祭壇

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「お別れ会」の式次第

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故人の人生を振り返る動画が流れました 

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故人が愛した「青春の詩」 

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全互協の山下会長による弔辞が読まれました

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「お別れ会」後の会食場のようす

 

柴山氏は、冠婚葬祭互助会業界の大先輩でした。
長い間、一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)の九州ブロック長を務められ、柴山氏の後をわたしが引き継ぎました。本と映画と旅が大好きな方で、わたしともよく読書談義をしました。

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柴山前ブロック長に感謝状を贈呈しました

 

柴山氏は学究肌の経営者として知られ、(株)冠婚葬祭総合研究所の社長も務められました。互助会保証主宰の「アジア冠婚葬祭業国際交流研究会」を研究所が継承し、韓国、台湾、ベトナムミャンマー、インド、中国への海外視察を行いました。そのすべてに参加したのは、柴山氏とわたしの2人だけです。海外視察では大きな刺激を受け、大変勉強になりました。帰国後のレポート作成に苦労したのも、なつかしい思い出です。視察先では、夜遅くまで柴山氏と現地のウィスキーを飲みながら儀式文化について語り明かしました。今ではなつかしく、良き思い出です。

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ミャンマーバガンにあるアーナンダ寺院の前で

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インドのガンジス河周辺で

 

柴山氏は数年前に最愛のお嬢様を亡くされ、それを機にグリーフケアの重要性を唱えておられました。ブログ「全互協総会in仙台」で紹介した昨年8月22日の業界の会合では、「歴代会長と正副会長の懇談会」に出席され、「互助会こそグリーフケアに取り組むべき」「グリーフケアによって、葬祭スタッフは仕事に誇りを持てる」「早急にグリーフケアの資格認定制度の立ち上げを!」と強く訴えられました。

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故人の遺志を継いで、グリーフケアに取り組みます! 

 

その後、全互協内にグリーフケアPTが発足し、わたしが座長になりました。2021年秋スタートを目指して、資格認定制度も動き始めました。昨年11月25日に行われた互助会保証の取締役会の終了後、そのことを互助会保証の会長に就任されたばかりの柴山氏にお伝えすると、当時かなり衰弱した様子だった氏はニッコリと笑って「それは良かったですね。頑張って下さい!」と言って下さいました。それが、わたしとの最後の会話になりました。その約3週間後に柴山氏は人生を卒業されたのです。わたしは、柴山氏の遺志を継ぎ、必ずや互助会業界にグリーフケアを浸透させたいです。

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故人は 巨大図書館そのものでした!

 

1人の人間、それも人生経験ゆたかな高齢者とは1個の図書館に等しいという考え方があります。それだけの情報や知識や知恵が込められているわけです。多くの本を読み、映画や絵画を鑑賞し、世界中を旅された柴山氏は巨大図書館そのものでした。本当に、いろいろとお世話になりました。思い出は尽きませんが、どうか安らかにお休み下さい。心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。

 

柴山文夫 ラックグループ冠婚葬祭物語

柴山文夫 ラックグループ冠婚葬祭物語

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: エムジー・コーポレーション
  • 発売日: 2017/11/09
  • メディア: 単行本
 

 

2020年1月25日 一条真也

「ジョジョ・ラビット」  

一条真也です。
東京に来ています。
23日、一般財団法人 冠婚葬祭文化振興財団の絵画コンクールの審査会に参加しました。その後、夜の打ち合わせまでの時間を利用して、TOHOシネマズシャンテで映画「ジョジョ・ラビット」を観ました。疲れていたせいか、冒頭の30分くらいは睡魔との闘いでした。でも、途中からスクリーンに目が釘付けになり、最後は非常に感動しました。


 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。「『マイティ・ソー バトルロイヤル』などのタイカ・ワイティティ監督がメガホンを取り、第2次世界大戦下のドイツを舞台に描くヒューマンドラマ。ヒトラーを空想上の友人に持つ少年の日常をコミカルに映し出す。『真珠の耳飾りの少女』などのスカーレット・ヨハンソンや『スリー・ビルボード』などのサム・ロックウェルらが共演。ワイティティ監督がヒトラーを演じている」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「第2次世界大戦下のドイツ。10歳のジョジョ(ローマン・グリフィン・デイヴィス)は、青少年集団ヒトラーユーゲントに入団し、架空の友人であるアドルフ・ヒトラータイカ・ワイティティ)に助けられながら一人前の兵士を目指していた。だがジョジョは訓練中にウサギを殺すことができず、教官に“ジョジョ・ラビット”というあだ名を付けられる」

 

この日の絵画コンクールの審査会では、全互協の山下会長も一緒でした。絵画は「私がやりたい結婚式」「日本の儀式」をテーマに、小学1・2年生、3・4年生、5・6年生と3分類して、優秀作品を選びます。山下会長は子どもの絵画教育に詳しく、膨大な絵を見ながら「これは子どものタッチではないですね」「これは大人の手が入っていますね」と、ビシビシ指摘していました。わたしは2人の娘がいずれも成人したので、小学生の作画レベルや才能というのがよくわかりません。映画「ジョジョ・ラビット」の主人公ジョジョは10歳なのですが、『おーい、ユダヤ人!』という本を書いており、そこでイラストもたくさん描いています。それが大人顔負けの出来栄えなので、わたしは「10歳、つまり、小学4年生ぐらいでも結構、大人っぽい絵を描くのだな」と思いました。

 

10歳のジョジョは少年らしい生活を送っていません。戦時下だからです。そういえば、現在84歳になるわたしの父は昭和10年生まれなのですが、昭和20年の終戦時に10歳だったわけで、ジョジョと同い年であることに気づきました。10歳ならば、分別もつく年頃ですから、「父は10歳で、どんな気持ちで終戦を迎えたのだろう?」などと考えました。そういえば、山下会長の父上である(株)117の山下会長も昭和10年生まれで、わたしの父(そしてジョジョ)と同い年です。

 

ジョジョは訓練中にウサギを殺すことができず、教官に“ジョジョ・ラビット”というあだ名を付けられますが、ウサギとは『不思議の国のアリス』に代表されるようにファンタジーの象徴です。この「ジョジョ・ラビット」という映画が基本的にファンタジーであることがわかります。だから、ヒトラーの幻も登場します。ただし、ジョジョにとっての“アリス”であるユダヤ人の少女はウサギの穴ではなく、彼の家の屋根裏に住んでいました。彼女の存在はファンタジーではなく、リアルそのもの。この映画ではファンタジーとリアリティ、幻想と現実が交錯するのです。彼女を匿うジョジョの母親をスカーレット・ヨハンソンが演じています。わたしの好きな女優さんなのですが、この映画での役はちょっと違和感がありました。彼女はまだ、母親役には早い気がします。

 

屋根裏部屋に住む少女といえば、どうしてもアンネ・フランクのことを連想してしまいます。17歳の少女が屋根裏でじっと息ひそめて隠れているなんて、想像しただけで胸が痛みますが、そのような状況にあった人々が多く実在したのです。ナチスによるユダヤ人のホロコーストは人類史上に残る愚行ですが、多くのドイツ人たちがヒトラーの思想に共鳴していたことを考えれば、集団ヒステリーのような側面があったのでしょう。この映画にも登場するドイツの詩人リルケ(母親がユダヤ人)の「すべてを経験せよ 美も恐怖も 生き続けよ 絶望が最後ではない」という言葉に触れると、観客はただただ頷くことしかできません。


 

さて、「ジョジョ・ラビット」に登場するヒトラーの幻はコミカルです。ヒトラーといえば悪魔の象徴のように思われていますが、この映画でのヒトラーは親しみやすい存在となっています。わたしは「ヒトラー 〜最期の12日間〜」という映画を思い出しました。この作品を初めて観たとき、心の底から哀しくなりました。戦後最大のタブーであった「人間ヒトラー」を描いた問題作なのですが、ヒトラーナチスの人々にも他人への愛情が存在したことを知り、たまらない気持ちになったのです。なぜ、家族や同胞を愛する心を持っている者が敵に対しては冷酷になれるのか。なぜ、「思いやり」ではなくて「憎しみ」なのか。なぜ、同じ地球に住む同じ人間同士なのに、殺し合わねばならないのか・・・・・・そのように思いました。

 

ヒトラー 〜最期の12日間〜」と「ジョジョ・ラビット」を併せて観れば、絶対悪の権化といったヒトラーのイメージが変わるかもしれません。いや、「ジョジョ・ラビット」を観て、ヒトラーが好きになる者さえ現れないとも限りません。いくらハリウッドのユダヤ資本によるプロパガンダ映画も多いとはいえ、過去にこれだけ膨大な数のヒトラーに関する映画が作られてきたということは、世界中の人々は基本的にヒトラーに大きな関心を寄せている、さらには深層心理ではヒトラーが好きなのかもしれません。

 

わたし自身、これまでヒトラーには多大な関心を寄せてきました。というのも、彼は儀式や式典や祭典をプロデュースする天才だったからです。『儀式論』(弘文堂)の「世界と儀式」という章でも大きく取り上げました。ヒトラーは1936年の第11回ベルリン・オリンピック大会をはじめ、ドイツ第三帝国において数多くの祝祭をプロデュースしましたが、いずれも宗教的祭儀の特質をうまく取り込んだものでした。また、祝日、民衆の合唱劇、青年運動なども政治活動に利用し、劇、音楽、通過儀礼を中心とする民俗行事、郷土芸能なども広く取り入れました。さらには、壮大な建築やマス集会を作って、次々に大規模なイベントを催したのです。

 

ヒトラーはまさに大衆を動かす一流の実践心理学者であり、儀式で人心を操る天才でした。ナチスの式典や祭典が荘厳な演出に満ちていたことはよく知られていますが、それらはカトリックの儀式を徹底的に模倣したものでした。そして、その最大のハイライトはヒトラー自身の演説でした。神がかり的といわれたヒトラーの演説には、巧みに計算されたローテクとハイテクによる演出が織り込まれていました。演説はたいてい夕暮れから夜にかけて行われ、当時の最新テクノロジーであったマイクやサーチライトも使われました。

 

満天の星空の下、無数の松明が燃えさかり、サーチライトが交錯する。ファンタスティツクな光景に加え、大楽隊の奏でる楽器の音が異様な雰囲気をかもし出し、マイクで増幅されたヒトラーの声が民衆の中の憎悪と夢を呼び起こす。熱気と興奮。恍惚と陶酔。すでに催眠状態に陥った民衆の心は、ヒトラーの発する霊的なパワーに完全に支配されてしまう。このような呪術的ともいうべき儀式の力をナチスは利用したのです。

 

ヒトラーに深い関心を寄せるわたしは可能な限りのナチス映画を鑑賞してきましたが、この日の予告編で「名もなき生涯」という新作を知りました。自らの信念と家族への愛だけでナチスに立ち向かった男の物語で、第72回カンヌ国際映画祭でエキュメニカル審査員賞を受賞した作品だそうです。2月21日公開ですが、また観たい映画ができました。

 

2020年1月24日 一条真也

全互協新年行事 

一条真也です。東京に来ています。
22日は亀戸の「アンフェリシオン」で一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)の新年行事が行われました。

f:id:shins2m:20200122104924j:plainアンフェリシオンの入口

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アンフェリシオンの入口前で

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この日のインフォメーション

f:id:shins2m:20200122134846j:plain副会長として理事会に参加

 

この日、同所で11時から冠婚葬祭文化振興財団の評議員会、11時30分から正副会長会議、12時40分から歴代会長と正副会長等との懇談会が開かれました。また、13時40分から14時40分まで理事会が開催されました。

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新春講演会で開会の挨拶をする浅井委員長

 

14時50分からは、新春講演会です。
講演者は上智大学グリーフケア研究所島薗進所長で、テーマは「グリーフケアが求められる時代」でした。冒頭、儀式継創委員会の浅井委員長が開会挨拶を行いました。浅井委員長は、「現代は、一人ひとりが、自らの生きがいを求める時代、人間らしい死に方を求める時代です。葬儀の現場においても、グリーフケアが必要になっていると言われています。グリーフケアを行うには、グリーフケアの実践を遂行できる知識や援助技術が必要になります。上智大学グリーフケア研究所は、日本で初めてグリーフケアを専門とした教育研究機関で、2009年に設立。グリーフケアの実践を遂行できる専門的な知識・援助技術を備えた人材を育成するノウハウを持っている同研究所から、所長の島薗進先生にご講演いただくことは光栄なことでありかつ意義深いものです。また、講演に続き、ディスカッションも行われるので、グリーフケアが業界の発展にどのように役立っていくのかを聴かせていただけるものと期待しています」と述べました。

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新春講演は島薗先生の「グリーフケアが求められる時代」

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新春講演会のようす

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講演する島薗先生

その後、島薗先生がⅠ「医学・心理学の所見として」、Ⅱ「遠ざかる死と死生の文化」、Ⅲ「グリーフケアの集いの形成」、Ⅳ「東日本大震災と悲嘆のスピリチュアリティ」、Ⅴ「社会関係資本という視点」、Ⅵ「ケア人材育成と社会関係資本」のテーマで講演されました。非常にわかりやすく、グリーフケアの現代性とその可能性、重要性について語って下さいました。参加者はみな、熱心にメモを取っていました。その姿を見て、わたしは「この熱意があれば、互助会業界にグリーフケアが浸透する日も遠くない」と確信しました。

f:id:shins2m:20200122160300j:plainパネルディスカッションのようす

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わたしも登壇しました

第二部はパネルディスカッションです。
島薗先生、上智大学グリーフケア研究所の粟津賢太先生とともに、わたしもパネリストとして登壇しました。コーディネーターは全互協の儀式継創委員会の平田委員でした。

f:id:shins2m:20200122160401j:plainパネルディスカッションで発言しました 

 

パネルディスカッションで「グリーフケアが冠婚葬祭互助会にとってなぜ必要になっているのか」について質問されたわたしは、次のように答えました。
「冠婚葬祭互助会は、結婚式と葬儀の施行会社ではなく、冠婚葬祭に係る一切をその事業の目的としています。確かに結婚式と葬儀を中心に発展してきた業界ではありますが、結婚式と葬儀のいずれも従来は近親者や地域社会で行なってきたものが、時代の流れにより対応できなくなり、事業化されてきたとも言えます。グリーフケアについても、葬儀後の悲嘆に寄り添うということから考えると、まさに冠婚葬祭の一部分と言えると思います。このグリーフケアについても、従来は近親者や地域社会が寄り添いクリアしてきた部分でしたが、現在その部分がなくなり、今必要とされているのです」

f:id:shins2m:20200122160434j:plainパネルディスカッションで発言しました 

 

続いて、わたしは以下のように述べました。
グリーフケアは、もちろん互助会にとっても必要なものですが、簡単なものではなく、大変デリケートなものです。しかしながら、グリーフケアの担い手がなくなり必要とされている現代、人の人生をトータルにサポートするという目的からしても避けて通ることはできません。わたしたち互助会業界こそ、最もふさわしい担い手ではないでしょうか。災害支援協定などもそうですが、地域の人々が望んでいるや困っていることを担い、それを生業とするのが冠婚葬祭互助会の使命であり、将来的に地域において生き残っていく道だと考えています」

f:id:shins2m:20200122160508j:plainパネルディスカッションで発言しました 

 

続いて、わたしは以下のように述べました。
「現場を見てみましても、地方都市においては、一般的に両親は地元に、子息は仕事で都市部に住み離れて暮らす例が多く、夫婦の一方が亡くなって、残された方がグリーフケアを必要とれる状況を目の当たりにすることが増えています。地域社会との交流が減少している中、葬儀から葬儀後において接触することが多く故人のことやその家庭環境が分かっている社員が頼りにされるという状況も増えています。互助会としては、このような状況を放置することはできません。しかしながら、グリーフケアの確かな知識のない中、社員の苦悩も増加しており、グリーフケアを必要とされている方はもちろん、社員そして会社のために必要だと言えます。弊社のケースを見てみても、グリーフケアに取り組むことによって、その重要性を理解した互助会の社員が仕事にプライドを持つことができることを指摘したいと思います」

f:id:shins2m:20200122160533j:plainパネルディスカッションで発言しました 

 

さらに、わたしは以下のように述べました。
グリーフケアは悲嘆への対応、『冠婚葬祭』のなかで『葬』と『祭』に関わることが多く、『大切な人を亡くしたこと』に対してどのようなことが出来るかということです。これまでは『葬』の儀式以後に法事法要といった儀式でその一部に対応してきましたが、現在の宗教離れや考え方の多様化によって機能不全に陥ってきたことは否めません。冠婚葬祭互助会は生まれてから『死』を迎えるまで人生の通過儀礼に関わっています。葬儀が終わっても法事法要のお世話など故人だけでなくその家族にも寄り添い続け、また新たな『生』や『死』に対しても家族と一緒に寄り添っていきます。

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f:id:shins2m:20200122160648j:plainパネルディスカッションで発言しました 
 

そして、わたしは以下のように述べました。
「『死』以降のサイクルの中で家族をはじめとしたグリーフケアが必要な方にその機会や場所をすることは冠婚葬祭互助会とお客様のつながりを途絶えさせず新たな顧客として囲い込むことが出来るといったメリットがあげられます。他にも冠婚葬祭互助会が人生に必要な儀式やグリーフケアを行うことによって、今まで寺院が担ってきた精神的な欲求を満たすインフラとしての存在価値を冠婚葬祭互助会が担っていくことにもつながってくると考えられます」

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島薗先生の発言を拝聴する

 

2番目のテーマとして、 「冠婚葬祭互助会がグリーフケアに取り組むことで、地域社会との関係がどのように変わっていくか」が提示されました。それについて、わたしは、以下のように答えました。「グリーフケアにとどまらず、地域社会が困っていることや必要としていることに関わっていくのは、冠婚葬祭互助会のような地域密着型の企業にとっては事業を永続的に続けていくために必要なことです。それは社会的責任(CSR)を果たすことにつながり、地域に認められる存在となる重要なキーポイントだと思います」

f:id:shins2m:20200122162453j:plainパネルディスカッションで発言しました 

 

また、わたしは以下のようにも述べました。
グリーフケアに限っても、グリーフケアが必要な人が増加していくことは、地域社会にとって不安要因となったり、地域交流を阻害する要因にもつながりますが、グリーフケアにより地域社会に復帰する人が増えることは、これらの要因を取り除くことになり、地域社会の交流が途絶えることなく継続したり、活発化していくことに繋がるかもしれません。その担い手が冠婚葬祭互助会だと認知されたら、それはまさにCSRを果たし、地域社会に認められる存在へとつながっていくのではないでしょうか」

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笑いも出ました

 

さらに、わたしは以下のように述べました。
「互助会が冠婚葬祭のすべてとグリーフケアを行うことによって人が生きていくうえで必要な儀式とケアが行えることになります。古来よりその役目を担ってきた地域の寺院の代わりに不可欠な精神的なインフラとして存在していくことで地域社会に必要なものとして、より根差していけるのではないでしょうか。また、地域ごとにセレモニーホールを持つ冠婚葬祭互助会は寺院が担ってきた地域コミュニティの中心としての存在となり得ることが可能です。それは人と人が関わりあう地域社会の活性化にもつながっていくと考えられます」

f:id:shins2m:20200122163245j:plain活発な語り合いが行われました

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閉会の挨拶をする金森副会長

 

三者三様で、グリーフケアについて活発な語り合いが行われ、パネルディスカッションは1時間にわたって大いに盛り上がりました。終了後は盛大な拍手が起こって、感激しました。わたしは一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会の副会長、上智大学グリーフケア研究所客員教授として、両者の間に橋を架けるというミッションがあります。ぜひ、このミッションをきちんと果たし、グリーフケアの資格認定制度をスタートさせ、互助会業界にグリーフケアを普及させたいと思います。最後は、全互協の金森副会長の挨拶があり、新春講演会&パネルディスカッションは無事に幕を閉じました。

f:id:shins2m:20200122170717j:plain新年賀詞交歓会で挨拶する全互協の山下会長

f:id:shins2m:20200122173055j:plain鏡割りのようす

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カンパ~イ!

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新年賀詞交換会のようす

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新年賀詞交換会

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国会議員の先生方と名刺交換しました

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浅井委員長、全日本仏教青年会の谷理事長と

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広報・渉外委員会の志賀委員長と

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最後は、齋藤前会長の一本締めで

 

そして、17時から新年賀詞交換会が開催されました。多くの国会議員の先生方もお越し下さり、御挨拶を頂戴した後、みなさんで鏡割りをしていただきました。鏡割りには、わたしも副会長として参加させていただきました。身の引き締まる思いでした。最後は、齋藤前会長の中締めの挨拶と一本締めで約2時間の新年賀詞交歓会は幕を閉じました。

 

2020年1月23日 一条真也

『最強の系譜』

最強の系譜 プロレス史 百花繚乱

 

一条真也です。
『最強の系譜』那嵯涼介著(新紀元社)を読みました。素晴らしい名著でした。本当は昨年読了していたので、「一条賞」に選ぶ予定でしたが、諸般の事情で、ブログ掲載が今年になってしまいました。「プロレス史 百花繚乱」というサブタイトルがついています。プロレス史専門ムック『Gスピリッツ』(辰巳出版)に、2008年から現在まで著者が寄稿してきた、論文や評伝、インタビューといった文章のほぼすべてを1冊にまとめたものです。著者は1965年、埼玉県出身。本名非公開。格闘技史研究家。ライター。2008年、『Gスピリッツ』誌に「Uの源流を探る―カール・ゴッチとキャッチ・アズ・キャッチ・キャン」を寄稿、ライターとしてデビューしました。正直、こんな凄い書き手がいることを知りませんでした。感動です! 

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には、左上から時計回りにルー・テーズカール・ゴッチダニー・ホッジビル・ロビンソン、ローラン・ボック、ビリー・ライリー、エド・ルイスといった最強プロレスラーたちの写真が使われ、帯には「格闘史研究家 渾身の評論集」「テーズ、ゴッチ、ホッジ、ロビンソン、そしてボック・・・・・・プロレス史を彩る強豪たちの軌跡」と書かれています。帯の裏には「欧州を中心とした、強豪レスラーたちのエピソード満載」「プロレス・ファン必携の一冊!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「テーズ、ゴッチ、ホッジ、ロビンソン、そしてボック・・・・・・。プロレス・ファンの間で語り継がれる伝説の強豪レスラーたち。本書は長年にわたり格闘技史研究を続けている著者が、彼らの真の強さを探求した評論集です。特に1978年にドイツ・シュツットガルトアントニオ猪木と死闘を繰り広げその後、長い間、沈黙を守り続けたローラン・ボックのロングインタビューや、1977年、78年にアントニオ猪木坂口征二異種格闘技戦を行ったザ・モンスターマンのインタビューなど、これまであまりプロレス・マスコミに登場しなかった選手の証言も収録。昭和プロレスファンには必読の内容となっています」

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

「はじめに」

第1章 ベルギーのカレル・イスタス
    ―カール・ゴッチの欧州時代―

第2章 ウィガンにあった黒い小屋
    ―‟蛇の穴“”ビリー・ライリージムの実像―

第3章 危険で野蛮なレスリン
    ―キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの起源―

第4章 JIU-JITSUは果たして敵なのか?
    ―日本柔術とキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの遭遇―

第5章 ゴッチが勝てなかった男
    ―伝説の強豪バート・アシラティ評伝―

第6章 「イスタス」から「ゴッチ」へ
    ―カール・ゴッチ アメリカ時代の足跡―

第7章 カール・ゴッチが出会ったアメリカン・キャッチの偉人たち―オールド・シューター発掘―

第8章 史上最強の三大フッカー
    ―テーズとゴッチ、ロビンソンの複雑な関係―

第9章 ふたつのリスト
    ―テーズとゴッチ、それぞれの最強レスラー論―

第10章 20世紀のパンクラティスト
     ―ダニー・ホッジ回想録―

第11章 世界各国の戦前レスリン稀覯本

第12章 恐怖のトルコ 
     ―コジャ・ユーソフとトルコレスリング―

第13章 戦前の英国プロレス盛衰記
     ―「白紙の20年」とオールイン・レスリング―

第14章 大河に抗わず―前座レスラー長沢秀幸の人生―

第15章 『ゴッチ教室』の全貌
     ―指導者カール・ゴッチの原点―

第16章 もうひとりの‟ゴッチの息子”独白
     ―ジョー・マレンコ インタビュー―

第17章 盟友アントニオ猪木とともに
     ―琴音隆裕 インタビュー―

第18章 木村政彦のプロレス洋行記
     ―知られざる戦いの足跡―

第19章 30年の沈黙を破り、あの‟墓堀人”が甦る
     ―ローラン・ボック インタビュー―

第20章 『イノキ・ヨーロッパ・ツアー』の全貌
     ―猪木のロマンとボックの野望―

第21章 ダイナマイト・キッドとシュート・レスリング―爆弾小僧の創生期―

第22章 ウィガンからのメッセージ
     ―ロイ・ウッド インタビュー―

第23章 怪物たちの述懐―ザ・モンスターマン&ザ・ランバージャック インタビュー―

「あとがき」
「参考文献一覧」



「はじめに」の冒頭には、「プロレスラーに‟強さ”を求めて何が悪い」と太字で書かれ、著者はそういう視点でこのジャンルと接してきたし、これからもそうやって生きていくだろうとして、以下のように述べています。
「『プロレスとは元来、強さを競うものではないし、ましてや‟最強”などというワードを当てはめるのは幻想にすぎない。愚の骨頂である』
格闘技ファンのみならず、プロレスを愛する者たちの間でも、そうした論調が大勢を占めるのは百も承知である。だが待て。果たして本当にそうか。我々は子どもの頃、彼らの勝ち負けや強さの優劣に一喜一憂していなかったか。ボクシングや大相撲の延長戦上に、プロレスを捉えていなかったか。『ガス灯時代の強豪』に、思いを馳せたことはないか。そして世界中のプロレスラーの中で果たして誰が一番強いのか、知りたいと思ったことはないか。少なくとも、筆者はそういう少年だった。長じて、プロレスというジャンルの‟本質”を知ったあとでも、その想いは一度も萎える事はなかった。そのことに一切の後悔はない」



また著者は、プロレスについて以下のように述べます。
「プロレスというジャンルは、決して狭義なものではない。万人の眼があれば万人の捉え方があり、いずれの想いにもプロレスは必ず応えてくれる。正解など存在しないのだ。筆者の如く、プロレスラーの強さに興味を抱き、その術理や系譜を紐解くべく歴史書を読み漁り、多くの声を聞き、悠久の歴史に想いを馳せる者にすら、プロレスは胸襟を開いてくれる。もちろん、それは、観る者に留まらない。プロレスラーの側にも、強さを飽くことなく追及し、その生涯を捧げ全うした多くの者たちが間違いなく存在し、そして、彼らが有したプロレス固有の技術も、様々な形で現存している」
そして、「この本は、そんな‟最強”を追い求めた男たちのドキュメンタリーである」と述べるのでした。


テーズ、ゴッチ、ホッジ、ロビンソンといったセメント・レスラーたちの素顔を知ることができるレポートをはじめ、本書は全編がプロレス史の貴重な資料の宝庫ですが、わたしが特に興味深く読んだのが、第19章「30年の沈黙を破り、あの‟墓堀人"が甦る―ローラン・ボック インタビュー―」と第20章「『イノキ・ヨーロッパ・ツアー』の全貌―猪木のロマンとボックの野望―」です。1978年11月25日、シュツットガルト大会で猪木とボックは4000人の観衆の前で、3度目の対決を行います。猪木が判定負けを喫し、「シュツットガルトの惨劇」と呼ばれたこの試合についてのボックと猪木の述懐が紹介されています。


猪木とボックの試合は当時のテレビ朝日「ワールド・プロレスリング」でも録画中継され、わたしも観ましたが、暗い照明の会場の中でオールド・クラシックなプロレスが延々と続いていたという印象です。後年、旧UWFが旗揚げして行われた前田vsマンテル、その後の前田vs藤原の試合をビデオで観たとき、「猪木vsボック戦みたいだな」と思ったことを思い出しました。猪木vsボックは、UWFの原点だったのかもしれません。とにかく本書は素晴らしい名著ですので、プロレス&格闘技が好きな方はぜひお買い求めの上、ご一読下さい。絶対に後悔しません!

 

最強の系譜 プロレス史 百花繚乱

最強の系譜 プロレス史 百花繚乱

 

 

2020年1月22日 一条真也

成人式に思うこと

一条真也です。
21日、スターフライヤーで東京に飛びます。
22日には、業界団体の新年行事であるグリーフケアのパネルディスカッションにパネリストとして出演します。「西日本新聞」に「令和こころ通信 北九州から」の第19回目が掲載されました。月に2回、本名の佐久間庸和として、「天下布礼」のためのコラムをお届けしています。今回のタイトルは「成人式に思うこと」です。

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西日本新聞」2020年1月21日朝刊

 

「成人の日」の前日、北九州市の成人式が行われました。あいにくの雨でしたが、来賓として招待されたわたしは、会場の北九州メディアドームを訪れました。冠婚葬祭業であるわが社にとって、成人式はビッグイベントです。各地で運営するホテルや結婚式場でも振袖のレンタルを行っており、数多くの新成人のお手伝いをさせていただきました。当日は早朝からヘアメークや着付けを行うため、現場のスタッフたちはほぼ徹夜で準備からお見送りまでを行います。

 

ただし気になることもあります。わが社が本拠をおいている北九州市の成人式が「派手すぎる」と注目を浴びているのです。派手なカラーのはかまで拡声器をもって練り歩く男性たち。花魁のように肩を出した女性たち・・・。その異様な姿が多くのメディアで取り上げられ、あろうことかインターネット上では「安定のヤンキー文化」「修羅の国」などと正月の風物詩(?)として拡散しているとか。情けないかぎりです。

 

はっきりと言わせてもらいます。わたしたちがお手伝いをさせていただいているお客様に「修羅の国」のようなスタイルをした方は一人もいません。早朝、眠い目をこすりながら家族とともに来館され、着付け後は晴れやかな笑顔で家族や友人たちと語らい、記念撮影をする姿はとてもすがすがしく、ほほ笑ましいです。

 

修羅の国」化は新成人たちだけのせいではありません。ずばり言いますが、「大人になったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます」という成人式の趣旨を無視し、「稼ぐこと」にだけ特化した一部の業者による「間違えた差別化」がこのような現象を起こしています。また一部の事象のみを面白おかしく報道するマスメディアの姿勢にも問題があります。いずれにせよ、大人たちの商売の都合で、一生に一度の晴れの日を「修羅の日」にしてはなりません。

 

数年前、初めて成人式に招かれたわたしは、式典後すぐに市の青少年課に連絡し、成人式の正常化への全面協力を訴えました。この背景には、かつて沖縄の「荒れる成人式」を、わが社の新成人が清掃活動によって変えた実績がありました。そして北九州でも、会場周辺で取り組む「おそうじ大作戦」を開始。オリジナルデザインのゴミ袋も作成して市に寄贈しました。

 

今年の「おそうじ大作戦」は、雨天のため中止となりました。まことに残念でしたが、奇抜な衣装も減り、明らかに北九州の成人式が変わってきました。儀式に関わる者として、嬉しい限りです。ちなみに、北九州メディアドームには、わたしの次女の姿もありました。東京の大学に通っているのですが、今年、新成人となったのです。娘の晴れ着姿は、やはり眩しく、感慨深かったです。

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次女の晴れ着姿が眩しかったです! 

 

2020年1月21日 一条真也

『鉄人ルー・テーズ自伝』

鉄人ルー・テーズ自伝 (講談社+α文庫)

 

一条真也です。
『鉄人ルー・テーズ自伝』ルー・テーズ著、流智美訳(講談社+α文庫)を読みました。力道山がどうしても勝てなかった20世紀最大のレスラーの自伝です。貴重な秘蔵写真200点が収められています。1995年3月、ベースボール・マガジン社から刊行されたものを文庫化にあたり加筆・訂正、新たに未公開写真の口絵を加えています。

 

著者のルー・テーズは 1916年、米国ミシガン州に生まれ。17歳でプロレス・デビュー以来、74歳で現役を引退するまで、誰もが認める史上最強のレスラーとして世界各国で活躍。獲得したタイトルは数知れず、1948年からは7年越しで936連勝という不滅の記録を達成。日本では「鉄人」の異名を取り、アントニオ猪木ら数々のレスラーに影響を与えました。まさに空前絶後、不世出の大レスラーでした。2002年、心臓疾患により死去。享年86歳 。訳者の流智美氏は1957年、茨城県に生まれ。1980年、一橋大学経済学部卒業。1981年よりベースボール・マガジン社専属のプロレス・ライターとなる。テーズとは公私ともに親密な間柄でした。

 

本書のカバー表紙には、著者と力道山が握手している写真が使われ、裏表紙には以下の「内容紹介」があります。
「テーズの前にテーズなし、テーズの後にテーズなし。史上最高、史上最強のプロレスラー、ルー・テーズを超える格闘家が現れることは、今後も絶対にあり得ない。本物の実力とは? プロレス、格闘技の本当の魅力とは?――伝説の“鉄人”が自らの驚異の足跡とともにその真実を初めて語り尽くす!『一番強いのは誰なのか』――長年の最強論争についに終止符を打つ。超レアな秘蔵写真満載の完全保存版!!」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「文庫版まえがき」

「世界ヘビー級歴代チャンピオン」

第一章 鉄人誕生からプロ・デビューまで

第二章 ルイス、サンテルとの遭遇、そして世界王者前夜

第三章 二十一歳での世界王座獲得と屈辱の転落

第四章 二度目の王座と負傷・・・太平洋戦争での召集

第五章 プロレス黄金期に全米統一

第六章 東洋の虎・力道山との邂逅

第七章 六度目の王座返り咲きとルイスの死

第八章 世界王座カムバックへの執念と
              アントニオ猪木の登場

第九章 七十四歳で引退後、「最強」に託した夢

「文庫版あとがき」
ルー・テーズ栄光の軌跡」

 

この文庫版が出版されたのは2008年5月20日ですが、時あたかもPRIDEなどの総合格闘技が全盛でした。多くのプロレスラーも総合に挑戦しましたが、そのほとんどは敗北を喫しています。そんな時期に、13年前の95年に初版が出た本書が突如、文庫化されたのです。そこには、「真の強さとは何か」というテーマがあり、「今こそテーズに刮目せよ! ヒョードル、クロコップ、サップ・・・・・・現代の格闘界の猛者たちもかなわないであろう真の強さの秘密とは何か?」というメッセージがありました。



「文庫版まえがき」で、訳者の流氏は述べています。
「やはり、『K-1』や『PRIDE』や『アルティメット』といった、この13年に多くのプロレスファン層を奪い取った新しいジャンルのスターとの対比において、単純に『テーズの超人的なスピードで、ヒョードルの強打をどうさばいただろう?』とか『テーズはミルコ・クロコップのヒザ蹴り、回し蹴りを寸前でキャッチしただろうなあ』といった『史上最強プロレスラーが現役トップ格闘技者といかに戦うか? そして勝てるのか?』というのが最も強い動機であるべきだと思う」



続いて、流氏は以下のように述べています。
「まずは肉体的な資質である。12年8ヵ月に及ぶNWA世界ヘビー級チャンピオン時代に『鋼のような筋肉と猫のような身のこなし』と評されたテーズが明らかにヒョードルやクロコップを上回っていると思うポイントが『反射神経とスタミナ』である。彼らと対峙したテーズが試合開始の5分から10分くらいの間に多少の戸惑いを見せることはあるかもしれないが、テーズの本領が発揮されるのは10分以降だ。試合が長引けば長引くほど、テーズ魔術は冴えを見せる。奥様が『ゴリラのような』と表現した2メートルのリーチとスパン31センチの両手も、長期戦となった場合の主戦武器だ。最後はダブル・リストロック(キムラ・ロックという呼称もある)でテーズが勝つ。これは1968年1月3日、テーズは試合を初めて見てから40年、現役格闘家の誰が相手であっても確信を持って断言できる『試合予想』だ」



第一章「鉄人誕生からプロ・デビューまで」では、少年時代に吃音で悩んでいたテーズが17歳にして教会の大聖堂でプロレスラーとしてデビューしたことが紹介されます。若いテーズには、ジョージ・トラゴスという専任コーチがつくのですが、彼はとんでもない危険な男でした。「専任コーチはプロレス界の‟闇の帝王”ジョージ・トラゴス」として、著者は以下のように述べています。
「1930年代のプロレス界において、トラゴスの存在を知らぬ者はいなかった。こう言っては失礼ではあるが、私を見出してくれたジョン・ザストローやジョー・サンダースンとはまったくレベルの違うレスラーであり、一口に言えば、シュートの中のシュートと呼ばれるプロレス界の闇の帝王的な存在であった」

f:id:shins2m:20191216164629j:plain(本書より)

 

ラゴスはレスラーの間で‟アイスウォーター(氷水)”と呼ばれており、数多くのレスラーが「ルー、やめておいたほうがいい。いつかトラゴスは君をクリプル(腕や足の骨を折って使いものにならなくすること)するに違いない。彼がコーチについたレスラーは皆そうなったんだから!」と注意するのでした。「世の中には上には上がいる」として、著者は以下のように述べます。
「トラゴスにコーチを受けたのは約2年間だったが、私がプロレスラーとしてのベーシックを学んだのが、まさしくこの期間であった。1つだけ技を挙げろと言われればダブル・リストロック・・・・・・私はこの技に何度助けられたかわからない。私は幸いにして一度も相手の左肩を破壊するほどの状況に追い込まれたことはないが、寸前まで締め上げたことは数百度に及ぶ。あと1インチ手前に引けば腕が折れるという加減をわきまえたうえでこの技を使っているのは、たぶん私だけであるという自信があるが、すべてトラゴスのおかげである」

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プロレス初代世界ヘビー級チャンピオンのフランク・ゴッチ

 

第二章「ルイス、サンテルとの遭遇、そして世界王者前夜」では、著者はプロレス史上に燦然と輝く伝説のシューターたちについて言及します。まずは、フランク・ゴッチです。
「1908年、プロレスの初代世界ヘビー級チャンピオンだったフランク・ゴッチは、私が生まれた翌年の17年に尿毒症で亡くなっている。私はゴッチが本当に実力者であったか否かについて大変興味があったので、師のファーマー・バーンズにその件について聞いてみたことがあるが、どうも勝つためには相手の目を突こうが髪の毛を引っ張ろうが、肛門に指を差し込もうが指の骨を折ろうが、とにっかう何でもやるタイプ・・・・・・いわゆる我々レスラー間でいう‟ダーティー・レスラー”の典型だったようだ。ゴッチの弟子で、のちにゴッチ引退後に世界王者となったチャーリー・カトラーからも同じような意見を聞いた。どうもゴッチというレスラーを“偉大なるプロレスラー”としてランクするには、若干議論が必要となりそうだ。少なくともジョー・ステッカーのレベルではないというのが私の意見だ」

f:id:shins2m:20191216164827j:plain(本書より) 

 

そのジョー・ステッカーとは、第5代、7代、13代の世界ヘビー級チャンピオンで、“胴締め王”の異名を持っていました。実兄のトニー・ステッカーはプロレスの大プロモーターで、彼のテリトリーに著者は1935年9月から36年1月までの5ヵ月間世話になりました。著者は述べます。
「この間、私にとって最も印象深いのは、ジョー・ステッカーとスパーリングができたということであった。ステッカーは当時、精神病院に収容されていた。アメリカのプロレス史には、このステッカーの精神障害はルイスのヘッドロックで何時間も締めつけられたために起きたものだと書いてある。が、これはまったくのつくり話で、ステッカーはトップ・レスラーとして貯えた2万9000ドル(現在の貨幣価値にしたら、たぶん2億円以上)もの大金を、親友の画商にすべて持ち逃げされてしまったという事件のショックから、極度の人間不信に陥ってしまったのである。だから、病院に収容されてからは、兄のトニー以外の人間とは誰とも言葉をかわさなくなっていた」

f:id:shins2m:20191217105759j:plain(本書より) 

 

ジョー・ステッカーをヘッドロックで精神病院送りにしたと噂されたルイスとは、第8代、10代、14代の世界ヘビー級チャンピオンで、後にテーズのコーチやマネージャーも務めたエド・ストラングラー・ルイスです。著者は以下のように述べています。「数多くのオールド・タイマーに出会ってきた中で、やはり群を抜いて強かったのが、エド・ストラングラー・ルイスであった。私が世界王座を6度奪取したことで、アメリカと日本のプロレス・マスコミが、‟ルー・テーズこそ20世紀最大のレスラー”と称えてくれているのは大変名誉なことだが、その称号はルイスに与えられるのが正解だと思う。ルイスは第二次世界大戦後のテレビ・プロレス全盛時にはすでに引退して私のマネージャーになっていたから、実際の試合はビデオとしてほとんど残っていないが、その強さは人間離れしたものだった」

f:id:shins2m:20191216165018j:plain(本書より) 

 

また、ルイスだけでなく、著者はアド・サンテルにもコーチを受けています。サンテルといえば、大正10年に日本上陸し、講道館柔道に挑戦して異種格闘技の死闘を演じた伝説のプロレスラーです。サンテルの裏投げは、テーズのバックドロップに受け継がれました。著者は、サンテルについて以下のように述べています。
アド・サンテル・・・・・・ジョージ・トラゴスと並び、1910年代から20年代のライト・ヘビー級で無敗を誇った伝説的な強豪だ。関節技の技術にかけては、たぶんトラゴスと互角、いやそれ以上の評価を得ていた選手である。日本に柔道という強い格闘技があると聞けば、わざわざ日本にまで出向き、柔道選手を実力で制圧してきたことは今でも日本柔道界の語り草になっている」

f:id:shins2m:20191216164923j:plain(本書より) 

 

さらに、著者はサンテルについて述べます。
「ジョージ・トラゴスに教えてもらったテクニックがプロレスのすべてだと思っていた私に、プロレスの奥に底はないということを教えてくれたのがサンテルだった。サンテルに教えてもらったのは主として‟フック”(Hook)と呼ばれる関節技の中でも最も高度で危険なものであった。のちに世界チャンピオンとなったとき、何度このサンテル教室に感謝したかわからない・・・・・・それほどサンテルのフックは実戦で役に立った」
ちなみに、「第二章の時代背景と解説」で、流氏は「1年8ヵ月の間にジョー・ステッカーとエド・ストラングラー・ルイスの2人とスパーリングを経験し、そしてアド・サンテルのコーチを5ヵ月間受けたというのだから、これは“世界チャンピオン育成最短コース”と言えよう」と述べています。

 

その後、著者は不動のNWA王者として、また、後にWWWFの牙城となるニューヨークのマジソン・スクェア・ガーデン(MSG)に乗り込んで、アントニオ・ロッカ、バディ・ロジャースといった人気レスラーと試合をしましたが、基本的にショーマンである彼らは著者の敵ではありませんでした。第六章「東洋の虎・力道山との邂逅」では、「ガ二ア・オコーナー・ゴーディエンコ・・・・・・新星誕生」として、著者は以下のように述べます。
「曲芸師や流血王の出現はさておき、1950年代のテレビによるプロレス・ブームは次々と新しい人材をプロレス界に送り込んでくれた。私の好きな、いわゆる本物のレスリングができるタイプはバーン・ガニア、ビッグ・ビル・ミラー、マイク・デビアスパット・オコーナー、ラフィ・シルバースタイン、ディック・ハットン、ジョージ・ゴーディエンコ、ルター・リンゼイ、レオ・ノメリーニらだ。そしてアマレスの経験こそないが、巨体と運動神経を兼ね備えた新しいタイプのパワー・レスラーとしてはキラー・コワルスキー、ドン・レオ・ジョナサン、ジョニー・バレンタイン、ジン・キニスキー、ウィルバー・スナイダーといった新星が次々と誕生し、私をずいぶん苦しめてくれたものである」



そして、著者は「東洋の虎」力道山と出会います。
「‟危険な奴”力道山」として、著者は1953年12月6日、力道山とハワイで戦ったエピソードを披露しています。このときは著者がリバース・スラム(パワー・ボム)でノックアウト勝ちしましたが、「さすが相撲出身ということで立ち技でのバランスが抜群によく、私が力道山に対して優位に立とうとすれば寝技に持ち込むしかなかった」「この試合を終えたとき、力道山に対して私が持ったイメージは‟何を仕掛けてくるか予想のつかない危険な奴”というのが正直なところだった」と述懐しています。



それから4年後、著者は日本で力道山と世界王座を賭けて戦います。そのときのことを、以下のように述べています。
「その力道山が待ち構える敵地日本に乗り込んでの防衛線とあって、さすがに私もナーバスになっていた。だが、日本で再び相まみえた力道山は堂々とした世界レベルのトップ・レスラーに成長しており、東京・大阪に合計6万人近い大観衆を集めて納得いく闘いができたことは、日本・アメリカ両国のプロレス発展に大きく寄与できたものと自負している、私と力道山の戦いは、彼がギャングスタ―に刺されて亡くなるまでの6年間続いたが、私のキャリアの中でこれほど短期間に、しかし壮絶にライバル関係でいられたのは力道山をおいてほかにいなかった」


第七章「六度目の王座返り咲きとルイスの死」では、バディ・ロジャースを破って47歳にして6度目の世界王座に返り咲いた当時のことが書かれています。「王座奪還後、若いパワーを次々粉砕」として、以下のように述べられています。
「この期間、私に挑戦してきたのは、まさにニュー・ジェネレーションの旗頭ばかり、その若いパワーを跳ね返していくことが私自身に課したテーマでもあった。ダニー・ホッジマーク・ルーインベアキャット・ライト、ディック・ザ・ブルーザーアーニー・ラッドヒロ・マツダ、ドリー・ファンク・ジュニア、ドン・カーチス、ボブ・エリス、カール・ゴッチビル・ワットザ・デストロイヤー、ウィルバー・スナイダー、ジョニー・バレンタイン、ティム・ウッズ、キラー・カール・コックス、ジョン・トロス、ザ・ストンパー、フレッド・ブラッシー、ジョニー・パワーズ、ネルソン・ロイヤル・・・・・・私より10歳も20歳も若い連中のパワーに圧倒されることはあったが、まだまだ“ここ一番”の技術で私を王座から追い落とす存在は現れてこなかった」

f:id:shins2m:20191216165323j:plain(本書より) 

 

1966年、著者はNWA世界王座と師であるエド・ストラングラー・ルイスを失いますが、その年の12月2日、フロリダ州ジャクソンビルで、元プロボクシング世界ヘビー級チャンピオンのジョー・ウォルコットとミックスド・マッチ(異種格闘技戦)を行います。じつに、アントニオ猪木モハメド・アリが戦う10年目でした。「ボクシング世界チャンプに快勝」として、著者は以下のように述べます。
「試合は1ラウンドにウォルコットの右ストレートで私は左目を切られたが、4ラウンドに片脚タックルからのハーフ・クラブ(逆エビ固め)を極めて勝利を収めた。試合後にウォルコットは私の控え室を訪れ、『サンキュー・ノット・ハーティンぐ・ミー(私にケガをさせずに試合を終えてくれて、ありがとう)』と言った。私はこのとき、プロレスラーと戦い終えたプロボクサーの‟本音”を聞いた。そしていかなるプロボクサーでも一流のレスラーには勝てないことを確信した」



第八章「世界王座カムバックへの執念とアントニオ猪木の登場」では、1976年6月26日に東京の日本武道館で行われたアントニオ猪木とプロボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリ戦について書かれています。じつは著者はこの試合のレフェリーを務めることになっていたのですが、直前になってアリ側のチーフ・トレーナーであるアンジェロ・ダンディからのクレームで白紙になりました。著者は述べます。「猪木は最後の最後まで‟テーズをレフェリーに”という線で粘ってくれたのだが、ダンディが‟キャンセル“”をチラつかせるという卑怯な手段に出たため、やむなくラベールで手を打たざるを得なかった。結果論ではあるが、私がレフェリーであったなら、あの試合はまったく違う展開、結果となっていただろう。少なくとも15ラウンドをフルに戦い抜くという試合にはならなかったと断言できる」



続けて、著者は猪木対アリ戦について述べます。
「猪木にとって、あまりにも不利なルールを呑まされてしまったことは、返す返す気の毒だったとしか言い様がない。プロレスリングの技を完封されて、あそこまでレスラーの強さを発揮できたのだから、猪木は本当に立派だった。ただ、ウォルコット戦で私が得た“プロレスラー最強”の再認識ができなかったことだけが心残りだった。それが15年後、髙田vsバービック戦まで尾を引くことになるのだから、私もよくよく執念深い男である」



第九章「七十四歳で引退後、『最強』に託した夢」では、1980年9月8日、ケンタッキー州ルイビル・ガーデンでビル・ロビンソンの持つCWA世界王座に挑戦したことが書かれています。1975年12月11日 、蔵前国技館での猪木とロビンソンのNWF世界ヘビー級選手権試合の立会人を務めた著者は、「現役でいる間にロビンソンと一戦交えたい」と思ったそうです。

f:id:shins2m:20191216164730j:plain(本書より) 

 

念願のロビンソン戦の結果は、41分戦ってローリング・クラッチ(回転エビ固め)でフォール負けします。しかし、内容的には悔いのない試合であり、1万人の大観衆の反応も上々だったとして、著者は以下のように述べます。
「思えば、このロビンソンとの戦いが私にとって最後のタイトルマッチとなったが、最後のタイトルマッチを戦った相手がロビンソンであったことは幸運であったと思う。願わくば、私が統一世界王者にあった頃に出会いたかった実力者であったが、22歳の年齢差を考えれば仕方のないことだ。同様のことは27歳の年齢差がある猪木との戦いにも言えた」



それにしても、親子ほど年齢の離れたロビンソンや猪木と激闘を繰り広げた著者の「強さ」には驚くばかりです。若い頃の「強さ」は想像を絶するものだったでしょう。「文庫版あとがき」の最後に、流氏は「『ルー・テーズは史上最高、史上最強のプロレスラーであり、テーズを超えるプロレスラー、格闘競技選手が現れることは、これからも絶対にない』『ないと思う』ではなく、『ない』――断言だ」と書いています。この「断言」には心底シビレました。

 

鉄人ルー・テーズ自伝 (講談社+α文庫)

鉄人ルー・テーズ自伝 (講談社+α文庫)

 

 

2019年1月20日 一条真也