『激戦の時代【実録 柔道対拳闘】』

激戦の時代【実録 柔道対拳闘(ボクシング)】ー投げるか、殴るか。〜どちらが強かった?知られざる異種格闘技史〜

 

一条真也です。
7日の夕方、沖縄から北九州に戻りました。
『激戦の時代【実録  柔道対拳闘】ー投げるか、殴るか。』池本淳一著(BABジャパン)を読みました。「どちらが強かった? 知られざる異種格闘技史」というサブタイトルがついています。柔道と拳闘の異種格闘技戦である「柔拳」を取り上げた本で、「月刊秘伝」2015年4月号~2017年4月号に隔月連載された「明治大正 異種格闘技決闘録――マーシャルアーツに挑んだ日本武道家たち」、および2018年5月号に掲載された番外編をもとに加筆修正を行い、単行本化したものです。 

 

著者は、松山大学人文学部社会学科・准教授。博士(人間科学、大阪 大学)。専門は歴史社会学・比較社会学(中国/台湾)・地域 社会学・武道史等。中国社会科学院(客員研究員)、大連外 国語学院・蘭州理工大学(外国人招聘教師)、早稲田大学スポーツ科学学術院(助手・助教)を経て、2016 年度より現職。 社会学歴史学の視点から、東アジア武術の比較研究やスポー ツ・武道を通じたまちづくり・観光を研究。現在は 24式太極拳と中国の武器術を修行中」と書かれています。

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本書の帯

 

カバー表紙には、1990年5月16日付「時事新報」に掲載された柔拳興行の写真が使われています。ボクサーのアボット(左)と柔道家の昆野(右)が向かい合い、中央には審判のハリソン氏がいます。帯には、「アントニオ猪木 VS モハメド・アリ戦より遥か前、明治・大正期に最強"を求めるロマンは幕を開けていた!」「かつて日本で、数々の異種格闘技試合が行われて いたことを知る人は少ない。日本人柔道家と外国人 ボクサーが繰り広げた熱い戦いが、今蘇る!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「異なる格闘技を身につけた者たちが闘う、総合格闘技の原点―『柔拳興行』。時を経て、今再びクローズアップ!」「貴重な写真も多数掲載!」と書かれています。本書の「目次」は、以下の通りです。

 「はじめに」

第一章◎ペリー水兵対江戸力士
    ―異文化交流としての異種格闘技戦

第二章◎流浪のボクサーからの挑戦状
    ―ビジネスから見た柔拳試合

第三章◎決戦! 横浜柔拳
    ―決闘としての柔拳試合

第四章◎E・スミスの柔拳巡業
    ―競技としての柔拳試合

第五章◎嘉納健治の柔拳興行〈前半戦〉
    ―大正ニュー・スポーツとしての柔拳試合

第六章◎嘉納健治の柔拳興行〈後半戦〉
    ―ブームに翻弄される柔拳試合

第七章◎「華やかなりし頃」過ぎて
    ―ニセモノ、八百長、そして「時代遅れ」の柔拳試合

特別編◎沖縄空手対ボクシング
    ―本部朝基の柔拳興行飛入戦

「文献一覧」
「おわりに」

 

第一章「ペリー水兵対江戸力士―異文化交流としての異種格闘技戦」の冒頭を、著者は「開国以後、繰り広げられてきた『外国武術』との戦い」として、こう書きだしています。
中国武術カポエイラグレイシー柔術にシステマ・・・・・・世界には多くの武術があるが、『最強』の武術はどれだろうか。もちろん、それぞれの武術・格闘技には独自の技術体系があり、またそれぞれが想定している『実戦』も千差万別―たとえば戦いは街中なのか農村なのか、武器はあるのかないのか―である。さらに実際の強さは個々の修行者の鍛錬に大きく依存しているために、簡単に『最強の武術』など極められるわけがない」

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本書より

 

続けて、著者は以下のように書いています。
「しかしそれでも問わずにはいられない。あの武術とこの武術、どっちが強いんだろう・・・・・・?このもっとも素朴にしてもっとも難解な問いは、実は日本人が初めて、いわゆる『西欧』に触れた開国直後から抱き続けていたものであり、さらに開国後、実際に『外国武術』との戦いが繰り広げられてきたのであった。そしてこの荒々しいコミュニケーションを通じて、日本は徐々に『近代格闘技』を理解し、同時に日本武道の近代化に役立ててきたのである」

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本書より

 

「ペリーらに相撲の取組を観戦させた日本側、不発に終わる」として、ペリーが再来日して、横浜村で日米和親条約を結んだあとのくだりが以下のように書かれています。
「ペリーは後に『砲艦外交』と呼ばれるように、幕府側に黒船や機械製品などの圧倒的な軍事力・科学力を誇示することで、開国交渉を有利にすすめていった。一方、幕府側はそれならばと米俵運搬や相撲の取組など、力士たちの圧倒的な肉体と力業を見せつけることで、ペリーを威圧し返そうとした。しかしペリー側の記録を見る限り、この幕府側の試みは結局のところ、ペリーに日本の『野蛮さ』『野暮さ』を認識させ、日本に『文明』を伝えるという自らの『啓蒙』的な役割をさらに確信させるだけに終わったようである」

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本書より

 

第五章「嘉納健治の柔拳興行〈前半戦〉―大正ニュー・スポーツとしての柔拳試合」では、柔道とボクシングが戦う柔拳興行のプロデューサーであった嘉納健治が取り上げられます。彼は講道館柔道の創始者である嘉納治五郎の甥にあたり、神戸は御影の「菊正宗」で有名な嘉納家・嘉納治一の次男です。そのような名門の出である嘉納健治がなぜ柔拳などという異色の興行を手掛けたのか。著者はこう述べます。
「元来の柔術諸流派の多くは組技のみならず、当身や武器術を内包した『総合的』な
のであり、それゆえ『実戦的』なものであった。嘉納治五郎は柔道を作るにあたり、それら諸流派から多くの『型』を継承することで、この柔術の総合性・実戦性・言うなれば伝統武術の『武術性』をも継承しようとした。しかし多くの柔道家が『乱取り』に夢中になり、『型』稽古をおざなりにしていった結果、当時の柔道では非武術的な、試合でのみ通用する技法がもてはやされるようになった」

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本書より

 

その結果、柔道はほとんど捻じり合いばかりの骨抜き試合となってしまい、当身(打撃技)に対する防御の「ワザ」がなくなるという事態に陥ってしまいます。この事態を良しとしない嘉納健治は、当身の専門家であったボクサーと柔道家を対戦させることで、「よく当身も利き又凶器を防御する事も出来る」柔道、たとえば「武術柔道」(丸島隆雄)や「武術としての柔道」(嘉納治五郎)を生みだす実験場として、「柔拳興行」をはじめとした異種格闘技戦興行を主催したのでした。柔道における、『武術性』の回復という問題意識を共有していた嘉納健治」として、著者は「嘉納健治は『興行師』であり、柔拳興行の再開は、もちろん『大戦後の好景気』をビジネス・チャンスと見てのことだったと思われる。しかし『武術家』としての彼は、競技化の進む柔道に再び『武術性』を吹き込むために、あえてこの大正の時代に、柔拳興行を復活させたと言えるだろう」と述べています。

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本書より

 

著者は、この柔道における「武術性」の回復という問題意識は嘉納治五郎も共有するもの、さらにいえばおそらくは嘉納治五郎から嘉納健治へ受け継がれたものと考えているそうです。たとえば、嘉納治五郎は空手の「当身」を研究し、それを取り入れた「精力善用国民体育」という型を創作したり、講道館内部で棒術や剣術の研究会を開催しよりすることで、その晩年まで彼の思い描いた「理想の武術」としての柔道を追求していったというのです。著者は「このように嘉納治五郎は各種の武術・武道・格闘技の『研究』を通じて柔道の武術性の回復を試みたのに対して、甥の健治は異種格闘技戦という『実践』を通じて、それを成し遂げようとしていたのである。その意味で嘉納健治は、嘉納治五郎とは異なったアプローチながら、嘉納治五郎の武道思想を継承した人物の1人と言いうるだろう」

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本書より

 

第七章「『華やかなりし頃』過ぎて―ニセモノ、八百長、そして『時代遅れ』の柔拳試合」では、「異種格闘技戦の歴史から学び取れること―広がる武術性探求の可能性」として、著者はこう述べるのでした。
「この異種格闘技戦の歴史からは、以下の点がアナ日とれるだろう。第一に、両者が共通のルールで戦う総合格闘技とは異なり、異種格闘技はそれぞれの武道・格闘技の長所や特徴―特に攻撃方法―を発揮しうる個別のルールで行われること。第二に、この個別のルールを採用することで、異種格闘技戦は自派が培ってきた『伝統的な』攻撃法を固持したまま、オールラウンドの防御法を開発する『武術性』探求の場となりうること。第三に、そこを『探求の場』とし続けるためには、ビジネス主義や観客至上主義に陥ることなく、自らの武道・格闘技の伝統を保持した上での『現代化』という目的意識を死守しなければならないということ」

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本書より

 

著者は、異種格闘技戦を各武道・格闘技の「伝統」や「アイデンティティ」を維持したままで、その武術性を回復・増大させる場であると考えています。そしてその場を守るものは、オープンマインドで他流派と交流し、自派と他派、それぞれの技術を尊重しつつ、次の時代にも通用する新たな「伝統」を生み出すべく、ともに切磋琢磨しようとする心意気であると捉えているのでした。わたしも、これまで「柔拳」という興行は単なる組技系と打撃系の異種格闘技戦であり、UFCの源流ぐらいに思っていましたので、著者の深い読みには驚きとともに感銘を受けました。

 

 

2020年1月8日 一条真也

沖縄祝賀会

一条真也です。
守礼之邦・沖縄に来ています。ブログ「沖縄祝賀式典」で紹介した会社行事の後は、新年祝賀会がマリエールオークパイン那覇2F「ザ・クリスタルボックス」で開催。

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新年祝賀会のようす

f:id:shins2m:20200107115644j:plain康弘社長と

司会は、総務課の嶺井さんです。名司会でした。まずは高橋相談役による挨拶と乾杯の発声がありました。高橋相談役は「沖縄本部としましては、ぜひ素晴らしい一年にしていただきたい。新時代を大いに盛り上げましょう!」と述べ、乾杯の音頭を取りました。

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新年祝賀会のようす

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随行者の自己紹介


それから「入社予定者紹介」。まだ学生らしさを残した若者たちが立派に自己紹介をしました。自己紹介が終ると、会場から大きな拍手が起きました。最近は、本当に父親のような心境で彼らを見てしまいます。続いて「随行者紹介」となり、北九州から来た随行スタッフが紹介されました。北九州本部・冠婚事業課の玉谷課長、秘書課の落合さんの2人です。ともに堂々たる名スピーチを披露しました。2人が挨拶すると、会場から大きな拍手が起きました。

f:id:shins2m:20200107115814j:plain大好物の沖縄そばを食べる

 

しばらくは料理や飲み物を味わいながらの歓談タイム。昼間なので、飲み物はノンアルコールビールとウーロン茶です。料理はどれも美味しかったですが、特にわたしの大好物である沖縄そばが旨かった! 昨夜に続いて、今日も沖縄そばをお替りして2杯平らげてしまいました。最近、沖縄にもラーメン店や讃岐うどん店が増えているようですが、沖縄の麺類といえば、なんといっても沖縄そばです。高橋相談役は昔は沖縄そばが嫌いでしたが、加齢とともに好きになったとか。

f:id:shins2m:20200107122543j:plain余興&カラオケ大会のようす

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余興&カラオケ大会のようす

f:id:shins2m:20200107124732j:plain余興&カラオケ大会のようす

 

その後は、恒例の余興&カラオケ大会です。各部署の代表者の余興で大いに盛り上がりました。トップバッターは、紫雲閣事業部です。紫雲閣有志によるダンスで、名護パイナップルパークCM「パッパ パイナップル!」を踊りました。続いて、営業推進部です。北部営業所によるカラオケで、SMAPの「世界に一つだけの花」を熱唱しました。続いて、冠婚営業部です。オークパインによるダンスで、Foorinの「パプリカ」を踊りました。さすがは芸能王国の沖縄だけあって、みなさん素晴らしかったです。最後は、康弘社長と崎山支配人が、なんと欅坂46の「ガラスを割れ」を歌いました。

f:id:shins2m:20200107125238j:plain豪華賞品の数々

f:id:shins2m:20200107130009j:plain抽選のようす

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おめでとうございます!

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会長賞が当たった!

カラオケ&余興大会の後は、恒例の豪華賞品が当たる「お年玉抽選会」。賞品が当たるたびに大きな歓声が巻き起こりました。社長賞を引いたわたしは、高田延彦のマネをして「当たった者は出てこいや~!」と老反りになって叫びました(笑)。社長賞の超高級空気清浄器が当たった方は本当に嬉しそうでした。まことに、おめでとうございます!

f:id:shins2m:20200107130500j:plain最後は「末広がりの五本締め」で

 

最後は、沖縄本部の小久保本部長によるサンレー名物の「末広がりの五本締め」で宴を閉じました。それから、佐久間会長とわたしは那覇空港に向かい、JTA58便で福岡へ!
沖縄のみなさん、今日はとても楽しかったですね。今年も、こころを1つにして、世直しのために共に頑張りましょう!

 

2020年1月7日 一条真也

沖縄祝賀式典

一条真也です。
沖縄に来ています。今朝はシークワサー・ジュースを飲みながら、「琉球新報」をゆっくり読みました。やはり地元紙を読むと、沖縄の「いま」がよくわかります。

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入場のようす

7日の午前中、サンレー沖縄の新年祝賀式典を行いました。会場は、マリエールオークパイン那覇4Fの「ムーンライト」でした。さまざまな部署から、総勢200名以上が参集しました。

f:id:shins2m:20200107102710j:plain勇壮なふれ太鼓

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一同礼!

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全員で社歌を斉唱♪

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全員で「S2M宣言」を唱和

 

司会は、総務課の横木課長が務めました。
まず、東部営業所の名幸所長による「ふれ太鼓」で開幕。「開会の辞」に続いて全員で社歌を斉唱し、第二営業ブロックの小禄ブロック長代理によって「経営理念」、「S2M宣言」が読み上げられ、全員で唱和。

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会長訓示のようす

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必ず道は開けます!

それから、佐久間会長による「会長訓示」です。
参加者全員に配られた「2020年 年頭所感」にも詳しく書かれているように、佐久間会長は「新たな時代 日本人の幸福を追求して」として、「昨年の即位礼正殿の儀に際して晴れ間がのぞいたように、その人、その会社が行うべきことを遂行しようとするとき、必ず天からの加護が得られます。ゆえに、みなさんには、本年、そしてこれからの新時代に、ともに何事も陽にとらえて、明るく楽しくいきいきと取り組んでほしい。そうすれば、必ず道は開けます」と述べました。

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社長訓示を行いました

 

そして、いよいよ「社長訓示」です。わたしは、まず、弟の佐久間康弘が新たに沖縄の社長に就任したことを発表し、「みなさんで支えてあげて下さい。よろしくお願いします!」と述べました。

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ラグビー日本代表について話しました

 

それから、以下のような話をしました。2019年に最も活躍した「令和元年の顔」といえば、なんといっても、ラグビー日本代表の面々です。ワールドカップで初のベスト8入りした奮闘ぶりは、日本中に感動を与えました。じつは、彼らが心の支えにしていたのが、わたしが詠んだ歌であることを最近知って驚きました。「朝日新聞」の元旦の朝刊に出たのですが、わたしが15年前に詠んだ歌が、ラグビー日本代表強化委員長の藤井雄一郎さんの心に響いたそうです。

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サムライの歌を紹介しました 

 

それは「おそれずに 死を受け容れて 美に生きる そこに開けりサムライの道」という歌なのですが、19年のラグビーワールドカップ(W杯)で8強入りした日本代表は、サムライの美しさを意識したチーム作りをしました。その中心にいた藤井雄一郎強化委員長は、インターネットで検索し、この歌にたどり着いたそうです。かつての武士が身につけていた潔さや謙虚さを教わる気持ちになったといいます。

f:id:shins2m:20200107105058j:plain「サムライ」について語りました

 

藤井さんが検索して見つけた記事は、「いま甦る、武士道の美学 真のラスト・サムライとは誰か」というもので、2005年10月の社長訓示です。わたしは、そこで「現在の日本は平和を謳歌をしています。一般の人々が日常的に『死』に触れることはありません。そんな中、常に死を見つめ、それゆえ死を意識せずにはいられない紫雲閣のスタッフは、死の呪縛から解き放たれ、生の哲学を得る可能性をゆたかに持っています。つまり、サムライとなりうる。わたしも含めて、ぜひサンレーの中から多くのファースト・サムライが出現して、礼儀正しい日本、美意識のあるカッコいい日本を再建する礎になれればと切に願っています」と述べました。そして、最後に「おそれずに 死を受け容れて 美に生きる そこに開けり サムライの道」と詠んだのです。

f:id:shins2m:20200107104642j:plainワンチームで行こう! 

 

そのような経緯でわたしがサンレーの社員向けに詠んだ歌がラグビー日本代表の教化委員長の目にとまり、選手のみなさんを指導する一助になっていたことを知り、わたしは非常に驚きました。そして、大きな感動をおぼえました。やはり、この世は「有縁社会」であることを痛感しました。ラグビーという競技は「ワン・フォア・オール、オール・フォア・ワン」という思想に支えられています。「一人は全員のために、全員は一人のために」と訳されることが多いですが、これは互助会の根本理念である「相互扶助」そのものです。ラグビー日本代表は「ワンチーム」を合言葉に、サムライの精神で頑張りました。わたしたちもサンレーグループというワンチームで頑張りましょう。働く土地は違えど、「こころ」は1つです!

f:id:shins2m:20200107105327j:plain日の本に礼の光を放たんと こころ一つにさらに進まん

 

元旦、門司にある皇産霊神社で初詣をしました。歳旦祭の前には見事な初日の出を拝みました。わたしは、「やはり太陽ほど偉大なものはない!」と思いました。日本とは日の本、太陽の国です。サンレーとは日の光、太陽の会社です。日はまた昇る。今年こそ、大輪の花、大きな「礼の輪」を咲かせましょう。相互扶助の心と人生を肯定する冠婚葬祭に基づく互助会は永久に不滅です。新しい時代を高い志で切り拓いてゆきましょう!」と述べてから、わたしは「日の本に 礼の光を 放たんと こころ一つに さらに進まん」という道歌を披露し、拍手の中を降壇しました。

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f:id:shins2m:20200107105635j:plain佐久間康弘社長が登壇

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100年企業を目指そう!

それから、今年からサンレー沖縄の新社長となった佐久間康弘が登壇して、初の訓示を行いました。「2020年 年頭所感」の別紙にも書かれているように、「日に新た 創業の精神を継承し100年企業を目指そう!」として、「私もサンレー沖縄の皆さんと一緒に100年企業を目指す『志』を必ずや次代に引き継げるよう『日に新た』の精神で社業発展に向け邁進していまいります」と述べました。

f:id:shins2m:20200107111718j:plain各種の表彰が行われました

f:id:shins2m:20200107112414j:plainサンレーおもてなし賞」の表彰

続いて、各種の表彰式が行われました。最初に資格取得者表彰を行いました。まずは、「1級葬祭ディレクター合格者」表彰、続いて「優績者表彰」、そして「サンレーおもてなし賞」として、マリエールオークパイン那覇の東久美子さん。それぞれの対象者には金一封やトロフィーを添えて表彰状をお渡ししました。おめでとうございます!

f:id:shins2m:20200107112606j:plain決意表明のようす

 

続いて、「部門別決意表明」です。営業推進部の瀬名波部長、八重山ブロックの前原ブロック長、冠婚営業部の崎山支配人、紫雲閣事業部の新城部長代理がそれぞれの決意を読み上げました。そして、最後に沖縄本部を代表して小久保本部長が決意書を佐久間康弘社長に渡しました。

f:id:shins2m:20200107113405j:plain和のこえ

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退場のようす

 

最後は、全員で「和のこえ」を営業推進部の瀬名波部長が音頭を取り、進発式がめでたく終了。サンレー名物の「和のこえ」で全員の心が1つになりました。

 

2020年1月7日 一条真也

生活の古典を愛でる

一条真也です。
沖縄に来ています。これからマリエールオークパイン那覇で行われるサンレー沖縄の新年祝賀式典に参加します。「西日本新聞」に「令和こころ通信 北九州から」の第17回目が掲載されました。月に2回、本名の佐久間庸和として、「天下布礼」のためのコラムをお届けしています。今回のタイトルは「生活の古典を愛でる」です。

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西日本新聞」2020年1月7日朝刊

 

みなさんのお宅では、正月を祝われたでしょうか。しめ飾りと門松を飾り、初詣に行き、おせち料理を食べ、子どもや孫にお年玉をあげたでしょうか。なにも正月だけではありません。お盆にはご先祖様をお迎えし、七五三ではわが子の健やかな成長を祝う・・・。日本には一年を通して、暮らしに根差した数多くの豊かな年中行事が伝わっています。

 

年中行事とは、同じ暦日に毎年慣例として繰り返される行事のこと。そこには、昔からの伝統を大切に守り、また時間の流れと季節の移り変わりを愛でる日本人の「こころ」と「たましい」が込められています。民俗学者折口信夫は、年中行事のことを「生活の古典」と呼びました。彼は、『古事記』や『万葉集』や『源氏物語』などの「書物の古典」とともに、正月、節分、ひな祭り、端午の節句、七夕、お盆などの「生活の古典」が日本人にとって必要だと訴えました。

 

いま、「伝統文化や伝統芸能を大切にせよ」などと耳にすることが少なくありません。それはわたしたちの暮らしの中で昔から伝承されてきた「生活の古典」がなくなる前触れであり、正月もそのうち実体がなくなり、いずれは単なる1月になると予測する専門家さえいます。

 

文化が大きく変化し、あるいは衰退するのは、日本の場合は元号が変わった時であると言われます。現に明治から大正、大正から昭和、昭和から平成へと変わった時、多くの「生活の古典」としての年中行事や祭り、しきたり、慣習などが消えていきまし。おそらく、元号が変わると、「もう新しい時代なのだから、いまさら昔ながらの行事をすることもないだろう」という気分が強くなるのでしょう。

 

そして、平成も終わり、新しい令和の時代となりました。新たな御代の到来は喜ばしいことですが、同時に新元号になれば、日本人の旧習・旧慣を古い無意味なものとする意識はさらに強くなるはずです。しかし、わたしは、世の中には「変えてもいいもの」と「変えてはならないもの」があると考えます。そして、年中行事の多くは、変えてはならないものであると確信しています。

 

書物の古典にしろ、生活の古典にしろ、昔から日本人が大切に守ってきたものを受け継ぐことには大きな意味があります。それは日本人としての時間軸をしっかりと打ち立て、大和魂という「たましい」に養分を与えるからです。大和魂とは、大いなる和の魂です。それは平和を愛する「たましい」であり、美しい自然を愛し、さらには神仏を敬い、先祖を大切にする精神でしょう。「古典」はその基なのです。日本人がいつまでも心ゆたかな民族であり続けてほしいと願います。

 

決定版 年中行事入門

決定版 年中行事入門

 

 

2020年1月7日 一条真也

『講道館柔道対プロレス初対決』

講道館柔道対プロレス初対決―大正十年・サンテル事件

 

一条真也です。
6日、サンレー本社で本部会議を行ってから、佐久間会長と一緒に沖縄へ飛びます。『講道館柔道対プロレス初対決』丸島隆雄著(島津書房)を読みました。「大正十年サンテル事件」というサブタイトルがついています。2006年に刊行された本です。昭和37(1962)年、神奈川県平塚市生まれ。東海大学文学部史学科日本史専攻を卒業。「相模国中郡煤ヶ谷村における由井正雪一党搦取の一件」で第22回郷土史研究賞(新人物往来社主催)特賞を受賞しています。 

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本書の帯

 

カバー表紙には、プロレスラーのアド・サンテルが対戦相手にヘッドロックを決めている写真が使われ、帯には「異種格闘技戦の原点はここにあった!!」「日本武道界を代表する講道館に、挑戦状が送られる。対戦者はサンテル、受けて立つのは・・・」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」
第一章 サンテル講道館に挑戦す
第二章 講道館柔道と嘉納治五郎
第三章 柔道の海外発展
第四章 プロレスの隆盛とサンテル
第五章 サンテル対日本柔道
第六章 サンテルの挑戦に対して
第七章 決戦前夜
第八章 日本国際試合
第九章 戦いのあとに
第十章 「サンテル事件」の波紋
終章
「あとがき」



「はじめに」で、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎に言及した著者は、以下のように述べています。
「嘉納は、生涯を通じて柔道の海外普及に尽力した。昭和13年(1938)太平洋上で亡くなるが、そのときすでに世界の各地で柔道が行われるようになっていた。しかし、加納はその柔道を否定した。嘉納の否定した柔道、それは明らかに世界のJUDOとなった現在の柔道に繋がるものである。理解しやすくするために、その柔道を『スポーツ柔道』と呼ぶことにする。それでは、嘉納のめざした柔道は何と呼べばよいだろうか。ここでは『人間柔道』としておきたい。さらに、『武術柔道』というコンセプト(概念)も必要となってこよう。『武術柔道』とは、柔道の原形質と考えていただければいい」



「武術柔道」と「人間柔道」、さらには「スポーツ柔道」について、著者は以下のように述べます。
「はじめ柔道は、純粋な格闘技術を体系化した『武術柔道』から出発したが、嘉納は柔道の修業を通じて人間の形成というものを考えるようになった。これが『人間柔道』であり、柔道の最終目的であった。『スポーツ柔道』は、柔道の練習の中から生まれた。それまでの柔術の道場では、技の習得方法は多くの場合『形』によるものだった。これに対し柔道は、一対一で技を掛け合う『乱取』を取り入れた。さらに、これに勝ち負けを競い合う試合を見に行った。この試合(競技)が目的かしていったことが柔道をスポーツ化させていった。これが『スポーツ柔道』である」

 

さらに、武術とスポーツについて、こう述べています。
「武術は、実用的・実戦的なものでルールがない。スポーツは、娯楽的・遊戯的なものでルールが存在する。言葉をかえていえば、戦闘(戦争)のために行うのが武術であり、競技のために行うのがスポーツだといえる。柔道は、技術向上のため『乱取』を採用し、試合を導入したが、そのことが柔道のスポーツ化を促した。また、このことが柔道を発展させ、海外普及をも促進させたのである」



続けて、著者は以下のように述べています。
「嘉納にしてみれば、皮肉な結果といえるかもしれないが、嘉納が否定したのは『スポーツ柔道』そのものではない。本来『スポーツ柔道』は、柔道を身につけるための一手段でしかなかった。それが、柔道が発展する過程で『スポーツ柔道』の部分が肥大し、柔道の一部分でしかなかった『スポーツ柔道』が柔道そのもののように行われているのをみて、嘉納は嘆いたのに違いない」
柔道のスポーツ化の淵源を探っていくと、ひとつの象徴的な出来事にぶつかります。それが本書で取り上げる大正10年(1921)3月に行われた柔道対レスリング(プロレス)の異種格闘技戦でした。講道館では、当時これを「サンテル事件」と呼びました。



「サンテル事件」とは、ドイツ出身のアメリカのプロレスラーであるアド・サンテルが弟子のヘンリー・ウィーバーを帯同して来日し、講道館柔道に挑戦した事件です。サンテルは、アメリカで伊藤徳五郎五段、坂井大輔四段ら在米の柔道家、柔道からプロレスラーに転向したタロー三宅(三宅多留次)らを下して「柔道世界チャンピオン」を名乗っていました。彼は柔道家たちとの他流試合の中で精妙な関節技などその技術を吸収していましたので、純粋なプロレスラーというよりは「柔道の技術を身に着けたシュートレスラー」でした。サンテルは後にルー・テーズにバックドロップを教えていますが、これは柔道の裏投げでした。

 

第四章「プロレスの隆盛とサンテル」の冒頭、を、「黎明期のプロレス」として、著者はこう書きだしています。
「柔道の海外発展は、柔道家たちがその地で教室などを開いて地道に柔道教授をしたことにもあったが、やはり、その国の格闘技と闘い、これに勝利することで柔道の真価を示したことが大きかった。理論でいくら優れていても、実際に強くなければ格闘技としての価値はない。柔道の海外発展の歴史は、まさに柔道対異種格闘技の闘い(他流試合)の歴史でもあったのである。その柔道がもっとも多く闘ったのが、西欧で広く行われていたレスリングであった」



柔道が海外進出をはじめた時期、近代プロレスも黎明期にあったとして、著者は「19世紀から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパではレスリングの国際トーナメントが花盛りであった。競技は、当時ヨーロッパで主流を占めていたグレコローマン・スタイルで行われた」と述べています。グレコローマン・スタイルとは、古代のギリシャ・ローマからの正統スタイルという意味でこの名がつけられており、下半身への攻撃を禁じたレスリングです。実際には、15~16世紀頃にフランスで制定されたスタイルです。
一方、フリー・スタイルというのは、1936年のベルリン・オリンピックまでは正式にはキャッチ・アズ・キャッチ・キャン・スタイルと呼ばれました。これが1948年のロンドン・オリンピックからフリー・スタイルという名称に改められたのです。このスタイルについてはブログ『最強の系譜』で紹介した本に詳しいですが、もともとイギリスで一般に行われていたスタイルでした。これはグレコローマン・スタイルと違って、腰から下に手をかけたり、足をからめたりしてもよく、イギリスのランカシャー地方ではじめられました。



1908年、アメリカのシカゴにあるディクスター・パーク・パビリオンで、新しく制定するインターナショナル・チャンピオンのタイトル戦が行われました。ジョージ・ハッケンシュミット(通称ハック)とフランク・ゴッチの間で争われたのですが、著者は以下のように書いています。
「ハックは、レスリング全盛のヨーロッパで最強を誇った男であり、対するゴッチはアメリカ・チャンピオンである。だが、この当時アメリカ・チャンピオンはローカル・チャンピオンの域を出ず、ハックこそが世界一と考えられていた。二人の試合は、ハックの試合放棄という不透明な結果でゴッチが王座につく。1911年、シカゴで再びハックとゴッチのリターンマッチが行われ、ゴッチがこれを跳ね返し、世界王座を名実共にした。世界王座がヨーロッパからアメリカに移動したことで、プロレス史の舞台もアメリカに移ることになる」



また、「アド・サンテル登場」として、著者は以下のように述べています。
「近代プロレスの幕を開けたとされるフランク・ゴッチは、1911年のジョージ・ハッケンシュミットとのリターン・マッチで世界タイトルを不動のものにしたのち、全米巡業にでる。だが、1913年、全米巡業を終えハンボルトに帰ったゴッチは、突然引退を表明する。ときにゴッチ、35歳である。実はこの引退、アド・サンテルが原因だともいわれている。ゴッチが引退声明を出す直前の西部巡業中に、ゴッチはサンテルと闘い、これに引き分けたとされる。だが、このゴッチ対サンテル戦は公式記録には見当たらない。田鶴浜弘は、この試合は両者に体重差がありすぎた(サンテルはゴッチより1階級下)ので、エキシビションで闘われたと推測している。そして、この引き分けがゴッチの自信とプライドを傷つけたというのだ」



サンテルの講道館挑戦の真相について、プロレス評論家のフミ斎藤氏は「日本初の異種格闘技戦! 大正10年のプロレス対柔道、アド・サンテル事件の裏には破門覚悟の若者たちがいた」において、以下のように述べています。
「この“アメリカ人プロレスラーが講道館柔道に挑戦”というストーリーはじつに荒唐無稽で、少年漫画であればこういう設定でもあまり不自然ではないが、この時代にアメリカの超一流レスラーがなんのあてもなくわざわざ太平洋を渡って――それも飛行機ではなく何週間も船に揺られて――日本までやって来て、興行日程もなにも決まっていないような状況のなかで、ファイトマネーの交渉もなしにいきなり講道館に宣戦布告するとは考えにくい。アメリカ側にはアメリカ側でこのイベントを企画したプロデューサーがいて、日本サイドは日本サイドでそれなりの人物、あるいはそれなりのグループがそれなりの受け入れ態勢を整えていたととらえたほうがより現実的だろう.来日したサンテルを横浜で出迎えたのは、講道館の山下義昭八段をはじめとする講道館関係者数名、武侠世界社という出版社(雑誌『武侠世界』を発行)の針重敬喜社長、米国レスリング倶楽部国際競技会支部という団体の河昭一という人物だったとされる」

 

講道館が禁じた“日本柔道対西洋相撲”“日米国際大試合”のプロ興行は3月5日、6日の2日間、東京・九段の靖国神社相撲場で開催されました。後のアントニオ猪木vsウィリエム・ルスカ、猪木vsショータ・チョチョシビリなどのプロレス対柔道はすべて「プロレス」の試合でしたが、この大正10年の講道館柔道対プロレス初対決は完全な真剣勝負でした。そのルールは、柔道側は当て身、レスラー側は首(ヘッドロック、フェースロックを含む)、指関節(フィンガーロック、トーホールドを含む)への攻撃をそれぞれ禁止とし、レスラー側が柔道衣を着用することが義務づけられるという特別ルールでした。試合はいずれも20分1ラウンドの3本勝負で行われます。判定の正確さを期すため、各試合とも主審、副審の2名のレフェリーがつきました。“特設リング”は4本柱の土俵の上に床を張り、その上に約5メートル四方のキャンバスを敷いて、周囲を2本のロープで囲む形で組み立てられました。リングサイド席には元横綱太刀山が陣どり、観客数については、両日とも2万5000人という説、1万人余という説の両方があります。

 

初日の第1試合にラインナップされたウィーバー対増田二段の一戦は、1本めを増田が絞め技で先制、2本めはウェーバーが絞め技を決めてイーブンとし、3本めは20分タイムアップ。1-1のスコアでドローという結果でした。第2試合のサンテル対永田三段は、1本めが20分タイムアップで、2本めはサンテルのチョークホールドが反則かどうかで試合が中断、協議の末にサンテルの反則負けが宣告されました。しかし、負傷により永田が3本めを棄権したため、結果的に1-1の引き分けに終わりました。2日めの第1試合はウィーバー対清水三段。1本め、2本めとも清水三段が右腕の逆関節を極めて、2-0のストレート勝ちしました。これは、プロレス技でいうところのダブル・リスト・アームロック、またはチキンウィング・アームロックに相当するとされています。メインイベントは、サンテル対庄司彦男。両者譲らず、各ラウンドとも20分タイムアップ、試合は3ラウンド合計60分を闘いぬいての時間切れドローに終わりました。

 

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

  • 作者:増田 俊也
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/09/30
  • メディア: 単行本
 

 

じつは、サンテルは柔道家個人ではなく、講道館という組織に挑戦しました。講道館はこれに応じなかったため、血気盛んな学生柔道家たちが応じたのですが、彼らは講道館から破門されます。ブログ『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』で紹介した不世出の柔道家の人生を描いた大河ノンフィクションの著者である作家の増田俊成氏は公式ブログの中で、この大正10年の他流試合について、「講道館側がトップ柔道家を出したわけではなく、何人かの若い柔道家が応じただけであることをご承知おきください。 前述のように、この試合に出た若い柔道家たちは破門の憂き目にあいますが、後に復帰を許されています。1904年生まれの牛島辰熊先生はこのときまだ17歳で熊本にいましたから、この事件のことは知りません。あと数年遅ければ、牛島先生が戦っていたのにと残念」と書いています。



牛島辰熊vsアド・サンテルについて「夢のような戦いである」と言う増田氏は、さらに想像を膨らませます。
「でも実現したら30秒くらいで牛島先生が勝っていたでしょう。サンテルも弱くはないだろうけれど、やはり全日本選手権ができて鎬をけずってチャンピオンが出てきた牛島辰熊先生以後の柔道家のトップは凄まじい力を持っていましたから、全盛時代の牛島先生に勝てる格闘家は世界にいなかったでしょう。さらに数年後なら木村政彦先生が真っ先に『出る』と言うでしょう。言わなくても師匠の牛島先生が『出ろ』と仰ったでしょう。本当に夢のような戦いです」



まことに異種格闘技戦というものはロマンに溢れていますが、本書の「終章」では、「異種格闘技戦というものは成立するのであろうか。異種格闘技戦については、テニス対野球の試合というものが不可能なように、異種格闘技戦というものも成り立たないという批判があった」とした上で、著者は以下のように述べます。
「私の意見を述べれば、異種格闘技戦は成り立つ。たしかに、リング上で闘われる試合は柔道やプロレスとは異質なものには違いない。だが、そこにあるのは異種格闘技戦という名の競技なのである。ここで競技と書いたのは、ルールを整備して、その上で闘われるものであるからである。そしてその闘いのリングに立っているのは、これは間違いなく柔道家でありプロレスラーなのである。そもそも、異種格闘技戦をテニス対野球にたとえること自体がおかしいのである。テニスや野球はどんなにルールを整備しても、同じフィールドで試合することは無理だが、格闘技はルールさえ整備すれば同じ土俵(リング)に上ることは可能なのである」

 

さらに、格闘技のルールについて、著者は述べます。
「実は、異種格闘技戦のルールで一番難しいのは、試合の勝敗(決着点)をどこに求めるかということである。柔道の勝敗は、投げ技できれいに投げるか寝技で30秒間押さえ込むというところが決着点であり、レスリングでは相手の肩をマットに着けること(フォール)が勝敗の決着点である。『姿三四郎』では、相手が戦闘不能の状態になったときを勝敗の決着点にすることにした。すなわち、ギブアップあるいはKOである。これは双方が一番納得できるものであろう。これはなにも小説の中の話だけではなく、猪木対チョチョシビリ戦などの実際の異種格闘技戦でも、その多くは試合の決着点をここにおいた。前田光世などが海外で行った試合なども、ジャケットマッチ(柔道衣着用)ではあっても、柔道試合の一本ではなく、どちらかがギブアップするまでである。これにはかの細いルールが設定されていくのである。このルールについては、異種格闘技のつど独自に設定されている」

 

そして、「サンテル事件」は柔道の発展に影響を与えているとして、著者は以下のように述べるのでした。
「『サンテル事件』は、非常にいろいろな象徴的なものを含んでいた出来事であり、ある意味では講道館がその後の方向性――柔道のスポーツ化――を規定していった『事件』であったといえる。『サンテル事件』が柔道の『その後の方向性』を規定したというのは、正確にいえば柔道をスポーツ化したのではなく、柔道をスポーツに限定したといった方がいいかもしれない。そしてそれは、その理由はどうであれ、講道館が自ら他流試合(異種格闘技戦)を封じてしまい、柔道対柔道の試合しか認めないことを内外に示したことにある。他流試合を封じたことで、柔道はその実戦的な技術の習得の必要性が薄れたともいえる」
今や完全に国際化し、スポーツ化した柔道の「原点」を見つめる意味でも、本書の内容は非常に興味深いと言えます。

 

講道館柔道対プロレス初対決―大正十年・サンテル事件

講道館柔道対プロレス初対決―大正十年・サンテル事件

  • 作者:丸島 隆雄
  • 出版社/メーカー: 島津書房
  • 発売日: 2006/02/15
  • メディア: 単行本
 

 

2019年1月6日 一条真也

『柔道の父、体育の父 嘉納治五郎』

柔道の父、体育の父 嘉納治五郎 (1964年東京オリンピック物語)

 

一条真也です。
『柔道の父、体育の父 嘉納治五郎近藤隆夫著(汐文社)を読みました。幻の1936年東京オリンピックの誘致に尽力した嘉納治五郎の物語です。荒々しい武術であった柔術を柔道に昇華させた嘉納は、ヨーロッパ視察を経て、我が国にスポーツによる教育、つまり体育の普及に努めます。その生涯がわかりやすく書かれています。著者は、1967年生まれ、三重県松阪市出身。作家・スポーツジャーナリスト。プロスポーツから学校体育の現場まで、幅広く取材・執筆活動を展開。テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍中。著書に、ブログ『プロレスが死んだ日。』で紹介した本などがあります。

 

本書のカバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「柔道を始めた理由は、ただ喧嘩に強くなりたかったから。しかし、柔術に魅せられた嘉納治五郎は、それを『講道館柔道』へと昇華させる。『精力善用』、『自他共栄』――。人間の真の強さとは何かを、柔道を通して人々に説いたのだ。『柔道の父』は、『体育(スポーツ)の父』ともなる。アジア初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となり、明治の時代に日本人選手をオリンピックの舞台へと導いたのだ。大正、昭和、平成の時を経て、嘉納治五郎の功績を、いま改めて振り返る」

 

本書の「もくじ」は、以下の通りです。

プロローグ

第1章 柔術との出会い

第2章 道場での修行の日々

第3章 「講道館柔道」をつくる

第4章 柔道家として教育者として

第5章 オリンピックへの道

第6章 ストックホルムにて

第7章 悲願の東京オリンピック

エピローグ

 

第1章「柔術との出会い」では、嘉納治五郎という国際人が東京に出てきた少年時代、彼に英語を教えた箕作秋平という人物が紹介され、こう書かれています。
「箕作秋平は、浜町(現・日本橋蛎殻町)で塾を開いていた。名の通った人物で、1873(明治6)年に福沢諭吉らとともに日本初の学術団体『明六社』をつくった知識人である。ここで治五郎は、英語と共に西洋の学問を熱心に学ぶ。とはいえ、エドから明治へと移った激動の時代に、治五郎は単に西洋の文化に染まっていったわけではない。それは、箕作が、こう話していたからだ。
『西洋の文化は日本よりも進んでいる。だが、日本の文化には、西洋にはない良さがある。これを調和することを私たちは、これから考えていかなければならない』
後に発揮される治五郎の視野の広い着想は、多感な10代前半に、恵まれた教育環境のもとで育まれたのである」


東京大学へ進学した治五郎は、学問とともに柔術の修行にも励みます。天神真楊流の使い手である福田八之助に弟子入りするのですが、第2章「道場での修行の日々」には、1879年(明治12)年8月にアメリカの前(第18代)大統領、ユリシーズ・グラントが来日したときのエピソードが紹介されています。前大統領の来日に際して、実業家の渋沢栄一が、この年に東京・王子の飛鳥山に建てた別荘で柔術の披露会を催しました。
『日本伝来の柔術を、グラント前大統領にぜひお見せしたい』
渋沢はそう言って、腕の立つ柔術家を集めるのですが、師の服だとともに治五郎もメンバーに選ばれました。治五郎はグラントの前で乱取りを行い、切れ味鋭い技で次々と大男を投げ、グラントを大いに喜ばせました。グラントは「彼(治五郎)の体は、とても小さいが、大きな男たちを次々に投げ飛ばしている。特別な能力の持ち主なのか?」と質問するグラントに対して、福田は「柔術というのは、血からだけで闘うものではないのです。力が弱い者でも大男を倒すことができるのが柔術であり、そのことを理解しているからこそ彼(治五郎)は強くなったのですよ。柔よく剛を制す――です」と答えました。その後、福田から後を継いだ治五郎は18歳で道場主になっています。



若き治五郎の柔術に対する考え方は、次のように書かれています。
「強さとは何か? 腕力を誇示して人を威嚇し、威張ることでは決してない。自分に自信を持ち、他人に優しくできるようになることこそ強さなのだと、治五郎はすでに気づいていたのだ。そして、柔術を学び強さを身につければ、社会に貢献できる人間になれるとも。実は治五郎は子どもの頃から短気な性格だった。何かをやろうとして上手くいかないとイライラし、それが態度に表れてしまう。そのことを亡き母、そして父から幾度となく注意されていた。しかし、柔術を学び始めてから、その性格が変わった。ひとつのことを辛抱強くやり遂げることができるようになったのだ」
治五郎は「柔術は人の心までも鍛えることができる。もっと多くの人に柔術を学んでもらいたい」と思った治五郎は、柔術の形を変えていくことを考え始めます。その新しい形こそ、講道館柔道でした。



第3章「『講道館柔道』をつくる」では、1882(明治15)年5月に、治五郎が新たな道場を開いたことが書かれています。
下谷稲荷町(現・台東区東上野)にある永昌寺の書院を借り住まいとし、そのひと間で稽古をするようになった。12畳ほどの部屋で嘉納家に書生として入っていた富田常次郎と技を磨くことにしたのだ。これが『講道館柔道』の始まりである。
柔術ではなく、柔道――。
治五郎は、まだ数人しかいない門下生たちの前で、こう話した。『私は、柔術を柔道に変えようと思う。柔術は日本伝来の素晴らしい武術だ。しかし、このままでは、多くの人にその素晴らしさを伝えることができない。『術』である前に『道』でなければならない。いかにして学べば強くなれるのか。そのことを明確にして、柔道をもっともっと世に広めていきたい』



さらに、本書には以下のように書かれています。
講道館柔道――。
柔道の前に『講道館』の言葉を冠した。
この言葉には、『柔の道を講ずる(教える)場所』という意味がある。柔道は、単に喧嘩に強くなるために身につけるものではない。肉体だけではなく、心を強くし、人に優しく接することができる人間になるために学ぶものだと治五郎は説いた。もちろん、その時には、自らの体験も添えて話した。また、学ぶ者が自分の成長を実感しながら続けていけるものでなければならない、とも考える。そのため、段位制を設けることにした。これは、囲碁、将棋からヒントを得てのことだった。講道館柔道を設立した時、治五郎は21歳であった」



講道館柔道の設立、普及を成し遂げた治五郎は、次に日本にオリンピックを招聘することに情熱を燃やします。第7章「悲願の東京オリンピック」では、近代オリンピックの父であり、IOC会長でもあったピエール・ド・クーベルタンストックホルムで初めて顔を合わせます。ともに教育者であった治五郎とクーベルタンは大いに意気投合したといいます。治五郎が「私は、あなたが提唱したオリンピックの理念を聞いた時に素晴らしいと思いました。スポーツは何のためにあるのか。それは個人が優秀な成績を収めて、自らの強さを誇示するためではありません。スポーツを通して己を知り、また異なった文化を持つ人たちと交流することで、世界の平和に貢献するためのものだと思います。私も、あなたと一緒にオリンピック精神を日本に、そして世界に広めていきたい」と言うと、クーベルタンは「それは、あなたがつくり上げた柔道と同じです。イギリスの騎士道は、日本の武士道と通じるところがあります。私がオリンピックを通して広く世界に伝えたいのは、スポーツには相互理解を深め合う力があるということです。いまは、戦争が絶えません。でも、スポーツで世界に平和をもたらしたい」と治五郎に語ったのでした。



パリに入った治五郎はクーベルタンとともに、ボクシング、フェンシングなどの格闘競技を観戦しました。そこで、クーベルタンは「格闘技というのは、ルールがあってこそ成立するスポーツです。もし、ルールがなければ喧嘩になってしまう。これは、あなたの柔道も同じでしょう」と言います。それに対して、治五郎が「そうです。柔道は人を傷つける目的で行うものではありません。本当に強い人間は、相手の気持ちを思いやることができます。そんな人間を育てるのが柔道なんです。すぎには無理でしょうが、いつの日か、柔道をオリンピック競技にできればと私は考えています」と答えると、クーベルタンは「それは素晴らしい」と感激したといいます。


 

 

エピローグでは、以下のように書かれています。
「治五郎が柔術を始めたきっかけは、『いじめられたままでいるのは嫌だ』、『喧嘩に強くなりたい』であった。この頃は、腕力を誇示したいとの想いもあったことだろう。しかし、柔術を学び、それを柔道に昇華させていく過程で治五郎は、『真の強さとは何か』を知り、『精力善用』、『自他共栄』を説くようになる。ひいては、この考えが日本スポーツ界全体の発展を支えていくのだ。もし若き日の治五郎が、いじめられたままで黙っていたならば、また柔術に粘り強く取り組めていなかったならば、柔道は生まれなかった。そして日本のスポーツ界の発展も随分と遅れていたことだろう。
『一歩を踏み出す勇気』と『諦めない心』
その尊さも、治五郎は教えてくれる」

 

オリンピックを呼んだ男 田畑政治 (1964年東京オリンピック物語)

オリンピックを呼んだ男 田畑政治 (1964年東京オリンピック物語)

 

 

本書の他にも、著者は『伝説のオリンピックランナー‟いだてん”金栗四三』、『オリンピックを呼んだ男 田畑政治』(ともに汐文社)も書いていますが、TOKYO2020をいよいよ目前に控えた今、嘉納治五郎をはじめとした先達たちの人生を振り返ることは大いに意義のあることだと思います。ただし、2019年のNHK大河ドラマ金栗四三ではなく、嘉納治五郎を主人公にすべきだったとも思いました。

 

柔道の父、体育の父 嘉納治五郎 (1964年東京オリンピック物語)

柔道の父、体育の父 嘉納治五郎 (1964年東京オリンピック物語)

 

 

2020年1月5日 一条真也

新年祝賀会

一条真也です。
4日、ブログ「新年祝賀式典」で紹介した会社行事の後は、新年祝賀会が松柏園ホテルで行われました。最初に、社長のわたしが挨拶しました。わたしは「令和最初の新年祝賀会となりますが、これからは祝宴です。儀式の後は直会、セレモニーの後はパーティーです。大いに食べて飲んで歌って楽しんで下さい!」と言いました。 

f:id:shins2m:20200104121434j:plain冒頭に挨拶しました

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これからは祝宴です!

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カンパ〜イ!

f:id:shins2m:20200104123203j:plain新年祝賀会のようす

その後、サンレー北九州本部の玉中常務が勇ましく乾杯の音頭を取って、華やかに祝賀会がスタート。しばらくは料理や飲み物を味わいながらの歓談タイム。日頃はなかなか話せない社員との絶好のコミュニケーションの機会です。わたしも、多くの社員のみなさんとの会話を楽しみました。

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新年祝賀会のようす

f:id:shins2m:20200104122743j:plain入社予定者にビールを注ぎました

f:id:shins2m:20200104122927j:plain入社予定者にビールを注ぎました

わたしは、まず、来春の入社予定者のテーブルに向かいました。そして、1人ひとりの名前と顔を確認して、グラスにビールを注ぎました。みんな良い面構えをしているので、本当に楽しみです! その後、わたしはビール瓶を持って各テーブルを回りました。冠婚スタッフ、葬祭スタッフ、本社スタッフ、関連会社スタッフのみなさんの席に行って、いろいろと話をしました。こうやって、多くの社員のみなさんと語り合うと、「本当にわが社は優秀なスタッフに恵まれているなあ」という思いが湧いてきました。みなさんの日々の努力に報いるためにも、今年も社長業にど真剣に取り組みます。

f:id:shins2m:20200104124554j:plain大いに盛り上がる営業部門

f:id:shins2m:20200104124933j:plain入社予定者にビールを注ぎました

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冠婚部門のパフォーマンス!

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新年祝賀会でもアナ雪が登場!

 

その後は、各部署の代表者のカラオケ大会で大いに盛り上がりました。トップバッターは、令和2年入社予定者のみなさん。フレッシュに「パプリカ」(Foorin)を歌いました。2番手は営業推進部・北九州東エリアで、「真夏の出来事」(平山みき)。3番手は営業推進部・北九州西エリアで、「河内おとこ節」(中村美津子)。4番手は営業推進部・北九州南エリアで、森シゲ子さんが「君こそわが命」(水原弘)を熱唱。5番手は冠婚事業部で、「め組のひと」(ラッツ&スター)。6番手は紫雲閣事業部の生演奏で、「Tomorrow never knows」(Mr.Children)。7番手は本社の福市&西尾ペアで、忘年会以来の映画「アナと雪の女王」挿入歌の「とびら開いて」(神田沙也加・津田英佑)。みなさん、お世辞抜きで、非常に歌がお上手でした。

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わたしの番が来ました

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カラオケは苦手です!

 

最後は、社長であるわたしの番が来ました。わたしはカラオケが苦手なので固辞したのですが、みなさんが「どうしても社長の歌が聴きたい」と言うので、ステージに上がりました。昨年は北島三郎の「まつり」とサザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」の2曲で馬鹿みたいに盛り上がりましたが、今年はブログ「下呂温泉の大宴会」ブログ「平戸温泉の大宴会」で紹介したカラオケ大会のときと同じく、THE YELLOW MONKYの「太陽が燃えている」を歌うことにしました。

f:id:shins2m:20200104131808j:plain赤のレザージャケットに着替えました

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白のハットを被りました

太陽の歌ということで、昨年末に購入した赤のレザージャケットを羽織り、白のハットを被りました。まるで64年の東京五輪の日本選手のユニフォームのような「日の丸」スタイルになりました。わたしは「東京で買った服と帽子ですが、派手すぎて北九州では着られず困っていました。ふと、2つを組み合わせれば『日の丸』スタイルになることになることに気づき、新年祝賀会で試してみることにしました」と述べ、「日本は日の本、太陽の国。サンレーは日の光、太陽の会社。さあ、令和2年の始まりに太陽の歌を歌うぜ!」と前口上を言いました。さらに畳みかけるように「おそれずに 死を受け容れて 美に生きる そこに開けり サムライの道」と叫ぶと、会場が熱狂の坩堝と化しました。よし、つかみはOK牧場!(笑)

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ミュージック・スタート♪

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太陽が燃えている♪

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魂の熱唱でした

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会場がライブハウスと化しました

f:id:shins2m:20200104141255j:plainエアギターが炸裂!!

f:id:shins2m:20200104132329j:plainサンレーが燃えている ♪

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怒涛のフィナーレ!

f:id:shins2m:20200104132334j:plainみんな、ありがとう~!!

 

「太陽が燃えている」はジャパニーズ・ロックの名曲ですが、メッセージ性が豊かで、大いに盛り上げりました。わたしは渾身の力でエアギターのパフォーマンスを繰り広げました。最後は「太陽が燃えている」の歌詞を「サンレーが燃えている」に替えて歌い上げると、またもや興奮が最高潮に達しました。あまりにも激しいパフォーマンスで、NHK紅白の欅坂46ではありませんが、過呼吸で卒倒しそうになりました。

f:id:shins2m:20200104132550j:plainこの豪華景品の数々を見よ!

f:id:shins2m:20200104132810j:plain大抽選会のようす

f:id:shins2m:20200104142932j:plain社長賞の当選者と

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会長賞の当選者と佐久間会長

会場が一体となったところで、恒例の豪華賞品が当たる大抽選会です。賞品が当たるたびに、会場の各所から大きな歓声が巻き起こりました。社長賞は超高級の布団クリーナー、会長賞は超高級の空気清浄機でした。当たった方々は、本当に嬉しそうにしていました。

f:id:shins2m:20200104134322j:plain最後は「末広がりの五本締め」で・・・・・

f:id:shins2m:20200104143247j:plain新しい目標に向かって突き進め!

最後は、松田取締役の音頭によるサンレー名物の「末広がりの五本締め」で宴を閉じました。ついに2019年がスタートした実感が湧いてきました。今年は「進」の一字をキーワードに全社一丸となって、新しい目標に向かって突き進みましょう!

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松柏園ホテルの大凧の下で

 

2020年1月4日 一条真也