一条真也です。
9月20日の朝に満88歳で旅立った父・ 佐久間進の葬儀が26日に小倉紫雲閣で行われました。
昨日の通夜の直前の虹
「太陽を追う花」が「太陽を追う男」を囲む
昨日、雨が降りました。しかし、通夜直前には雨が上がり、小倉紫雲閣の上には見事な虹がかかったそうです。ご弔問の方から画像を頂きました。まさに通夜が始まる直前に雨があがり、美しい太陽の光が差し込み、虹が現れました。わたしは、「ああ、太陽を追う男らしい奇跡だな」と思った次第です。その「太陽を追う男」は、祭壇の中で「太陽を追う花」の向日葵に囲まれて微笑んでいます。
お斎のようす
お斎で談笑しました
26日の朝、小倉紫雲閣でモーニングコートに着替えました。その後は遺族一同、「桜の間」でお斎をいただきました。その後、棺が大ホールに移され、11時からは遺族親族で大ホールにおいて集合写真を撮影しました。写真を撮影されながら、「もし冠婚葬祭がなかったら、親戚なんて最初から存在しないのと同じだなあ。やっぱり、冠婚葬祭は必要だ・・・・・・」としみじみと思いました。
集合写真を撮影しました
開式前に鎌田先生と語り合う
開式前のようす
開式前のようす
なつかしい方が来て下さいました
開式前に、京都大学名誉教授で宗教哲学者の鎌田東二先生が来られて、しばし語り合いました。いきなり、鎌田先生のYouTube番組の取材を受けました。この日、鎌田先生には葬儀の最後に父への追悼歌を捧げていただき、火葬場の収骨まで御一緒していただきました。11時30分から迎賓が開始され、多くの参列者をお迎えしました。業界の仲間たち、地元でお世話になっているみなさまをはじめ、多くの方々がお越しになられ、父の人間関係の豊かさを再認識しました。11時50分に一同着席。それから、昨日の通夜式と同じように追想ムービー「太陽を追う男 佐久間進 八十八年の足跡」が上映されました。
導師入場のようす
読経のようす
最初に焼香する母の車椅子を押す
母が焼香しました
次に、わたしが焼香しました
弟が焼香しました
その後、導師・式衆入場。葬儀が開式され、読経が始まりました。昨日と同様、10人の僧侶が一斉に読経をあげる様子は壮観でした。それから喪主焼香となり、最初に足の悪い母が焼香するので、わたしが車椅子を押して焼香台まで行きました。母も心を込めて焼香しました。再び車椅子を押して喪主席に戻ってから、次にわたしが焼香をしました。頭上の父の写真を見上げ、父が無事に天寿国へ行けるようにと祈りました。続いて、弟が焼香しました。
友人代表弔辞を読む合馬紘院長
まことに心のこもった弔辞でした
弔辞を読む孫・佐久間弘明
社員代表弔辞を読む井口幸治部長
それから「弔辞」です。友人代表弔辞として、合馬内科クリニックの合馬紘院長。孫を代表して、弟・康弘の長男である佐久間弘明。そして社員代表弔辞として、 サンレー冠婚事業部の井口幸治部長が弔辞を読みました。それぞれ心に沁みる感動的な内容でした。わたしも泣けてきました。
弔電拝読の後、再び読経が・・・
10人の僧侶による読経は圧巻でした!
参列者のみなさんに挨拶しました
それから「弔電拝読」です。自民党の岸田文雄総裁、麻生太郎副総裁、林芳正官房長官、福岡県の服部誠太郎知事をはじめ、政治家、経済人、文化人、そして生前の父と縁のあった方々からの弔電が披露されました。最後は東京大学名誉教授で宗教学者の島薗進先生の弔電が全文披露されましたが、グリーフケアの第一人者の悲しみに寄り添う言葉は心に沁みました。みなさまには、心より感謝申し上げます。それから再び読経となり、遺族・親族が焼香しました。その後、弔問者焼香が行われました。父が支援し続けた世界平和パゴダのミャンマー僧たちも参列し、父のために祈りを捧げてくれました。
遺族親族代表謝辞をしました
それから、「遺族親族代表謝辞」として、わたしがマイクの前に立ちました。わたしは、最初に「遺族親族を代表して、ひとことご挨拶申し上げます。皆様、本日はお忙しい中、父 佐久間進の葬儀にご参列いただき、心よりお礼申し上げます」と述べました。
父の病状を説明しました
それから、「父は昨年3月頃に体調の不良を訴え、検査の結果『大腸がん』が発見されました。その後、今年2月には肝臓への転移が発覚しました。当初は放射線治療を行いましたが、その後は抗がん剤や手術を施すことなく、あるがままに自らの死を受け入れるが如く、おだやかに自宅で療養に努めてまいりました。合馬内科クリニック・合馬紘院長には、主治医として、時には大切な友人として、抗がん剤を使わない・手術をしない・延命をしないという父の信念に寄り添って頂きました。御多忙にもかかわらず、毎週、父が療養する自宅に往診していただき、父を励ましていただきました。心より感謝申し上げます。そして9月20日、満88歳という米寿の節目で、父は静かにその生涯を閉じました。最後は、家族に見守られて、堂々と人生を卒業していきました」と述べました。
父の人生を振り返りました
それから、「父は1935年に千葉県富津市で生まれ、國學院大學文学部を卒業後、1962年に松柏園ホテルに入社し、1966年に冠婚葬祭互助会事業をスタートさせました。その後、株式会社 サンレーとしての歩みを始め、58年間にわたり、多くの皆様とのご縁を頂きながら、多忙でありながらも充実した日々を過ごして参りました。つねに新しいことに挑戦し、亡くなる直前まで、会社の利益を超えた世の中を良くするためのアイデアを語っていました。最後まで、人と人とが助け合い、支え合う相互扶助に基づいた『互助共生社会』の実現を想っていました。それは、スケールが大きく、かつ具体的なものでした。その構想は、私が受け継ぐことを約束しました」と言いました。
父は最後の最後まで大切なことを教えてくれました
それから、「父は3人の孫に恵まれ、孫たちからは『大パパさん』と親しまれていました。運動会を見に来てくれたり、お祭りに連れていってくれたり・・・『優しいおじいちゃん』の一面を見せていましたが、その一方で礼儀作法に対しては厳しく指導しました。しかし、父のいう作法とは挨拶やお辞儀の仕方というより『こころ』を『かたち』にする『思いやりの作法』でした。亡くなる直前まで自宅で療養していた父は、わたしたち家族や、介護や看護をして下さる方々にいつも『疲れてないか』『食事はしてるか』『寝てるか』などと声をかけていました。そして必ず両手を合わせて『ありがとう』と言いました。自分の体調が優れないのに、周囲の人を思いやる父の姿は、最後の最後まで大切なことを教えてくれました」と述べました。
長い年月を経て、普通の親子に戻れました
それから、「わたしは、昭和から平成に変わった1989年にサンレーグループに入社致しました。子供の頃や学生時代の父は、本当に優しく温かい存在でしたが、入社後はその優しさが一転し、非常に厳しい上司となりました。35年間、ほぼ毎日のように叱られ、顔を合わせるたびに叱責を受けることも多く、時には反発もしてきました。入社した瞬間から『親子の関係』ではなく『上司と部下』という関係に変わり、わたしはプライベートでも父のことを『社長』や『会長』と役職で呼んできました。しかし亡くなるその日、35年ぶりに・・・本当に久しぶりに私は父に『お父さん』と声を掛けました。まさに亡くなる直前に『お父さん、ありがとう』と言いました。長い年月を経て、父と私の関係は『普通の親子』に戻れた気がします。その瞬間、父の厳しさの裏にあった深い愛情と、わたしへの期待を改めて感じ、温かな感謝の念が泉のように湧き上がりました。父の表情も柔らかなものになりました。自然と涙がこぼれました」と述べました。
死は不幸ではありませんが、死別は寂しいです
本日は誠にありがとうございました!
そして、「わたしは『死は不幸ではない』という信条を持っております。それでも父という存在を失ったことは、やはり寂しいです。この寂しさは決して不幸ではありませんが、それでも心の奥底に残るものです。本日、この日が偶然にも父の行年90歳の誕生日にあたります。父は90歳の誕生日を迎えることを望んでいましたが、残念ながら叶いませんでした。本日の葬儀では、このように多くのかけがえのない皆様に見守っていただいております。本日、この日は、父が新しい世界へと生まれ変わる誕生祝いだとも考えています。寂しいながらも、微笑みと共に、父のことを送りたいと思っています。皆様には、父が生前に賜りましたご厚情に対し、改めて感謝申し上げます。今後とも、遺族親族への変わらぬご厚誼とご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。簡単ではございますが、これをもちましてお礼の挨拶にかえさせていただきます。本日は誠にありがとうございました」と述べたのでした。
四重奏で「あぁ人生に涙あり」を献奏♪
その後、導師・式衆が退場し、四重奏で父が大好きだった「あぁ人生に涙あり」を献奏しました。生前、会社の宴会などの大トリでいつも父が「あぁ人生に涙あり」をカラオケで歌っていた姿が思い出されて、また泣けてきました。カラオケといえば、父は松村和子の「帰ってこいよ」も好きでしたが、わたしが東急エージェンシーを退社して、サンレーに入社した祝賀会の最後で歌ってくれました。そのとき、父が最後の「帰ってこいよ~」の歌詞を「帰ってきたぞ~」と笑顔で言い換えたことが懐かしいです。
鎌田先生が追悼歌を詠んで下さいました
鎌田先生は最高の礼を尽くして下さいました
献奏が終わると、京都大学名誉教授で宗教哲学者の鎌田東二先生が、父に「進みゆく 礼(ゐや)びの道の その果てに ついに至りし やすらぎの郷」という追悼歌を捧げて下さいました。歌を詠む前に、鎌田先生は「佐久間進様の御霊は天寿国へと旅立たれました。まことに、おめでとうございます」と言われました。「天寿国」というのは、聖徳太子が死後に向かったという浄土です。父は聖徳太子を深く崇拝しており、天寿国を極楽浄土そのものととらえて、「自分は天寿国へ行きたい」といつも語っていました。鎌田先生が詠まれた追悼歌は棺の中に入れられ、鎌田先生は火葬場まで御同行され、収骨まで付き添って下さいました。いくら家族同然の関係とはいえ、感謝の言葉もありません。こうして、葬儀は閉式となりました。
『佐久間進のすべて』を棺に入れました
大パパさんのシャツとネクタイを入れました
みんながお花を入れてくれました
お酒を飲ませてあげました
閉式後は「お別れの儀」が行われました。父の柩を囲み、最後のお別れをしました。遺族親族は胡蝶蘭、会葬者は白デンファレを柩に入れました。わたしは、柩の中に父の生涯と思想を1冊にまとめたムック『佐久間進のすべて』を入れました。この本の完成が間に合って、本当に良かったです。棺は白い花で埋め尽くされ、父が生前に愛用した帽子やシャツやスーツなどが収められました。その後、生前はお酒が好きだった父のためにお気に入りの日本酒が用意され、それをグラスに移して百合の蕾に浸して父の唇につけてあげました。闘病中はずっと好きなお酒が飲めなかったので、さぞ父も喜んでいるでしょう。
90歳の誕生日ケーキも入れました
みんなで「ハッピー・バースデー」を歌いました♪
「また、会いましょう!」と言いました
棺の蓋を閉めました
最後に、家族で合掌しました
そして、この日が誕生日だった父のためにバースデーケーキが用意され、わたしたちは「ハッピー・バースデー」を歌って、ケーキを棺に入れてあげました。このサプライズには、今日で行年90歳を迎えた父も驚いていることでしょう。そして、喜んでくれているでしょう。蓋を閉める直前、わたしは、父の頬をなでながら「お疲れ様でした。ありがとうございました。また、会いましょうね!」と言いました。
位牌を持って大ホールを出ました
家族写真の前を通って月の広場へ
役員のみなさんが棺を運んで下さいました
棺が霊柩車へ運ばれました
棺が霊柩車に収められました
出棺前に弟が挨拶をしました
月の広場を回る霊柩車
「感謝」「祈り」「癒し」で3周しました
そして出棺しました
その後、遺族親族と会葬者は月の広場へ。父が眠る棺も運ばれ、霊柩車に乗せられました。そのとき、柩はわが社の役員のみなさんが持ってくれました。出棺の際は、弟が挨拶をしました。それから、わたしが位牌、弟が骨壺、最後まで父を献身的に介護してくれた妻が写真を持って霊柩車に乗り込みました。そして、そのまま門司にある東部斎場へ向かったのでした。昨日の通夜に弔問していただいた方々、本日の葬儀に参列していただいた方々、供花や弔電を賜った方々、そして2日間、親身になって支えていただいたサンレーグループのみなさんに心より感謝いたします。本当に、ありがとうございました。
2024年9月26日 一条真也拝