『僕とジャニーズ』

僕とジャニーズ

 

一条真也です。
『僕とジャニーズ』本橋信宏著(イースト・プレス)を読みました。著者は、1956年埼玉県所沢市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。集合写真で「一人おいて」と、置かれてしまった人物、忘れ去られた英雄を追い続けているそうです。執筆内容はノンフィクション・小説・エッセイ・評論。著書『全裸監督 村西とおる伝』(太田出版新潮文庫)が原作となり、山田孝之主演でNetflixから世界190か国に配信され、世界的大ヒットとなりました。主な著書に『裏本時代』『AV時代』(以上、幻冬舎アウトロー文庫)、『新・AV時代 全裸監督後の世界』(文春文庫)、『心を開かせる技術』(幻冬舎新書)、『東京最後の異界 鶯谷』(宝島SUGOI文庫)、『東京の異界 渋谷円山町』(新潮文庫)、『新橋アンダーグラウンド』『高田馬場アンダーグラウンド』『歌舞伎町アンダーグラウンド』(以上、駒草出版)、『ベストセラー伝説』(新潮新書)、『出禁の男 テリー伊藤伝』(イースト・プレス)等多数。1988年、35万部のベストセラーとなった北公次『光GENJIへ』(データハウス)の構成を担当し、同名の映像作品も監督しました。2023年公開されたBBCドキュメンタリー「J-POPの捕食者〜秘められたスキャンダル」にも取材協力しています。


本書の帯

 

本書の帯には、「緊急出版!」「闇は深い。戦後最大のタブーを暴く。」「1970年代、スーパースターだった北公次の著書『光GENJIへ』(1988年刊)は、たちまち35万部のベストセラーとなった。ジャニー喜多川の性加害糾弾の原点であるこの本を書いたのは、本橋信宏(『全裸監督』の原作者)だった。いまこそ、これまで明らかにしてこなかった怪物(プレデター)、ジャニー喜多川と彼をとりまく人間のドラマを語ろう。筆者渾身の書き下ろし」と書かれています。


本書の帯の裏

 

帯の裏には、「長年にわたりタブー扱いされてきたジャニー喜多川性加害問題の舞台裏を明かすことは、『光GENJIへ』の覆面作家だった私に負わされた責務だろう。果たしてそこには何が書いてあったのか、またいったい何が書かれないまま残されたのか。降ろしたはずの幕をもう一度あける思いで、私はそれらを明らかにしていこうと思う。(序章「覆面作家の告白」より)」とあります。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
    序章 覆面作家の告白
第1章 発火点
第2章 ジャニーズ事務所
                  マル秘情報探偵局

第3章 北公次を探して
第4章 告白
第5章 ある行為
第6章 合宿所、夜ごとの出来事
第7章 急げ! 若者
第8章 懲役10か月執行猶予3年
第9章 41歳のバク転
 終章 35年目の決着
「最後に」

 

 

著者は『全裸監督 村西とおる伝』を書いていますが、村西とおる氏という日本AV界にその名を残す快男児が、ジャニーズ事務所の本質を語る上で非常に重要な役割を果たします。有名なアダルト・ビデオ監督だった村西氏が、1988年に、「ジャニーズ事務所の所属タレントと一夜を共にした」と語る女優を起用したところ、激怒したジャニーズ事務所が事実を否定し、主演女優と制作者サイドを激しく批判したのです。


そのジャニーズ・タレントとは田原俊彦で、AV女優とは梶原恭子でした。梶原の告白記事が「週刊ポスト」に掲載され、大きな話題になりました。しかし、版元の小学館に抗議したジャニーズ事務所と村西監督は梶原恭子と一緒に面談することになります。ジャニーズ側の出席者は田原俊彦、白波瀬傑部長(その後、副社長兼総務責任者)、副社長のメリー喜多川藤島ジュリー景子でした。その場で、ジャニーズ側から「梶原恭子はウソをついている」と激しく攻撃され、田原も情事を否定したのです。

 

第2章「ジャニーズ事務所マル秘情報探偵局」では、面談の場に田原本人が出席したことについて、著者は「本来ならプロダクションにとって自社のタレントを守ることは重要な任務である。トラブル処理の現場にタレント本人を同席させることは、心身ともにリスクがあるので、現場に引き出すことはめたにない」と述べます。それをやってしまったことの背景を、村西氏は「あのころ娘のジュリーと田原俊彦が付き合っているという噂があったでしょ。母親も、娘が(田原を)好きなら一緒にさせるしかない、と思ったんだろうけど、あれを亭主にするのはねえ・・・・・・。人の上に立つポジションはもっとしいかりした人じゃないとと思ったんだろうね。メリー副社長は、マッチを溺愛してたからね。わたしのマッチはどうするんだってことですよ」と語っています。


続けて、村西氏は「ともかくトシちゃんを一発ぎゃふんと言わせないと。向こうとしては、あの場にトシちゃんを連れてくるのがもうひとつのメインテーマだった。ジュリーにしてみたら、トシちゃんが追っかけと寝たなんてこと、信じたくもない。だからわたしに証拠見せてちょうだいって思いですよ。だからね、あのとき、メリー副社長は『この機会にトシちゃんを放逐してマッチを帝国のナンバーワンにしよう』という思いを巡らせていたんだろうね。トシちゃんも家に帰って、『おれはなんであそこに引きずり出されてしまったんだろう』って悔し涙流したと思うよ。そういう思惑があの場で交錯してたんだよ。まぁ、メリーも若いころはきれいだったと思うよ。ジュリーも利発そうな女だったよ」とも語っています。


その後、さも梶原恭子が売名行為のために田原俊彦と寝たとウソをついたように印象づける記事が「週刊ポスト」に掲載されました。35年ぶりに記事を再読した村西氏は、「この当時(1988年)の背景から解説しないといけないんだけど、小学館は小学生の学年雑誌が1年生から6年生まであって、社名になったほどの大看板だったんです。そこに登場するのがジャニーズ事務所のアイドルたちですよ。光GENJIが人気絶頂で、シブがき隊、少年隊、マッチにトシちゃん、彼らが誌面に登場しなくなったら、雑誌が潰れちゃうくらいの衝撃ですよ。生命線なのよ。だからもう一切ジャニーズの問題には触れない。そういうバックグラウンドがあっておれのところに、『どうしても(ジャニーズ事務所に)会ってください』と頼んできたの。『週刊ポスト』には黒木香が毎週、対談の連載をやってお世話になってたから、仕方ないから会議室に向かったのよ」と語っています。



田原俊彦のスキャンダルは「週刊ポスト」だけでなく、深夜テレビ番組の「11PM」でも取り上げられました。1988年当時はまださほど、ジャニーズ事務所に気を回さなければならない案件ではありませんでした。「笑って済ませられる程度の話」だったという村西氏は、「あの2つの件が分水嶺でしたね。マスコミもジャニーズ事務所もそれまで、お互いに魚心に水心、運命共同体、対等だと思っていたら、違っていた。うち(ジャニーズ事務所)が放送局や出版社のトップにクレームを入れたら、うちが上に立てるんだってことを学習してしまった。所属タレントのスキャンダルも封印できるんだって学んでしまった。それ以来、ドラッグ以外のことならスキャンダルはなんとでもなる、という認識をもってしまった。タレントも、ジャニーズにいればなんでももみ消してもらえると思うようになった」と語ります。

 

 

あまりにも理不尽で高圧的なジャニーズ事務所のやり方に怒りをおぼえた村西氏は、ジャニーズ事務所のスキャンダルを募集する電話回線を開設しました。すると、ジャニー喜多川社長と元ジャニーズ事務所のアイドル、北公次の同棲生活について、タレコミ情報が入りました。すでにジャニーズ事務所を辞めて、歌手や俳優として鳴かず飛ばずの状況だった北公次氏は、村西とおるの指名で急行した著者の取材を受け、ジャニー喜多川氏の性加害について赤裸々に語りました。証言は『光GENJIへ』という本になり、その後、ドキュメンタリービデオになりました。ビデオの中で北公次はカメラに向かって性加害を辞めるようジャニー喜多川に訴えかけました。しかし、ビデオは当時ほとんど売れず、新聞をはじめ、あらゆる媒体がこの証言を無視したのです。

 

北公次は、フォーリーブスのリーダーであり、最も人気のあるスターでした。第4章「告白」では、1970年代に公開録画の会場で最も大きな声援と悲鳴を浴びていたのはフォーリーブスであったとして、著者は「60年代後半、グループサウンズ(GS)ブームが吹き荒れ、ギターとドラムスの5人前後で編成されたバンドが世を席巻した。ザ・タイガース、ザ・テンプターズザ・スパイダース、ブルー・コメッツ、ザ・ジャガーズ、オックス、ザ・ワイルドワンズ」と説明しています。


続いて、著者は「1967年4月1日に結成したフォーリーブスは、GSブームに飲み込まれることもなく、独自の路線を歩む。ギター、ドラムスといった楽器は使わず、ダンスと歌でステージに立つ。GSは人気先行で実力が伴わないバンドも多く、レコーディングのときはスタジオミュージシャンが代わりに演奏していたケースも珍しくなかった。だがフォーリーブスは本人たちが歌って踊る。ステージで代役は立てられない。実力派折り紙付きだ。歌とダンスで勝負する、現在のK-POPの先駆けといえるだろう」と述べます。


第5章「ある行為」では、ジャニーズ事務所に16歳で入所した北公次ジャニー喜多川に性加害を受けたときの様子が赤裸々に描かれています。そのときのことを『光GENJIへ』の中で、北は以下のように回想しています。
「16歳のおれは女を知る前に男と性体験をしてしまったのだった。喜劇とも悲劇ともつかない複雑な心境に陥った。おれにもしホモの性癖があるならば、また多少なりとも両刀遣いの素質があるのならば、あるいはこのジャニーさんとのホモ体験も我慢できたのかもしれない。しかしその気がまったくないおれには毎夜のジャニーさんの愛撫はまさに生き地獄だった。嫌ならばさっさと部屋から出てしまえばいい、何度そう思ったことか。しかし東京で食いつなぎながらアイドルになるためには、ジャニー喜多川氏のもとで生活する以外に手段はなかった」


第6章「合宿所、夜ごとの出来事」では、ジャニー喜多川の性加害問題が古くから一部で報道され、芸能界では知られた話だったことが明かされます。手に入る最も古い資料である「週刊サンケイ」(1965年3月29日号)では、「“ジャニーズ”売り出しのかげに」というタイトルで、ジャニー喜多川の“淫らな行為”を報道しています。2年後、「女性自身」(1967年9月25日号)が「ジャニーズをめぐる“同性愛”裁判 東京地裁法廷で暴露された4人のプライバシー」というタイトルで裁判を報道しました。法廷でタレントたちは、「覚えていません」と証言をはぐらかしました。事前にジャニー喜多川とタレントが口裏を合わせていたのです。


1972年、「フォーリーブスの弟」というキャッチフレーズで、郷ひろみジャニーズ事務所からデビューしました。北公次はこの後輩を「ひろみ」と呼んで弟のようにかわいがったそうです。優男に見えましたが、芯の通った男だと北公次は感じたそうです。郷ひろみも一時期、合宿所に住んでいました。北公次によれば、当時少年たちが100人ほどアイドル予備軍として合宿所に寝泊まりしていましたが、そこにはすでにデビューした郷ひろみも入っていました。北公次は、「そのひろみが悲しそうな顔で部屋にいるのを何度も見かけたことがあった。そして母親が毎晩彼を迎えに来て自宅まで連れて帰ることが続いた。ジャニーズ事務所のタレントたちはお互い“あのこと”について話したりはしなかったが、ひろみもまた“あのこと”で悩んでいるのだろうと思った」と回想しています。

 

北公次は自分だけではなく、自分の後から合宿所に入ってきた少年たちも社長の性愛の対象になっていると気づきました。著者は、「男性同性愛者というのは、同性愛志向がある男を好きになる場合と、同性愛志向がなく、異性愛志向の男、いわゆる“ノンケ”を好きになる場合がある。ジャニー喜多川は後者、元気で少年っぽい10代の男の子が大好きだった。それまでは北公次ひとりだけだったが、合宿所に郷ひろみをはじめ、小坂まさる、豊川誕、川崎麻世、JOHNNYS`ジュニア・スペシャルといった少年たちが集まりだしたので、北公次ひとりに性愛が向けられることは減っていた」と書いています。


終章「35年目の決着」では、村西とおる氏の「ケツ掘られた少年が重要なんです。ケツを掘られた少年がもっと他にいるはずです」と彼お得意の露悪的な言葉を紹介し、著者は「このときの発言は実は性虐待問題の核心をついていた。1989年当時、男性による男性への強制的な猥褻行為はなかなか事件になりにくかったし、被害者も恥じて訴えようとしなかった。だが、強制的な肛門性交は当時でも傷害罪が成立するし、強制猥褻にあたるものだった。これに加えて、小中学生という義務教育中の男子が肛門性交を強制されていたという二重の罪は、法改正の当時でも逮捕案件だったのだ。メディアも司法もなかなか問題視しないことに、村西とおるはあえて『ケツケツ』と連呼したのである」と述べるのでした。



「最後に」では、最大のタブーとされたジャニー喜多川の性加害問題が35年前の蟻の一穴によって公になり、被害の修復がはじまったとして、著者は「憶測やデマが流れるなか、真相を記録することは無駄ではないだろう。今回、声をかけてくれた穂原編集長、渦中の人物・村西とおる、そして私は、奇しくも『全裸監督』に関わった3人である。いうなれば、本書は『全裸監督』のアナザーストーリーといえるだろう」と述べます。蟻の一穴を開けた『光GENJIへ』をゴーストライターとして書いたのは、著者・本橋信宏氏でした。


本橋氏は、「長年にわたりタブー扱いされてきたジャニー喜多川性加害問題の舞台裏を明かすことは、『光GENJIへ』の覆面作家だった私に負わされた責務だろう。果たしてそこには何が書いてあったのか、またいったい何が書かれないまま残されたのか。降ろしたはずの幕をもう一度あける思いで、私はそれらを明らかにしていこうと思う」と述べるのでした。わたしは35年前に『光GENJIへ』を書店で購入して読んだ人間ですが、35年後にジャニーズ帝国が崩壊しつつある現実を見て、「事実は小説より奇なり」という言葉を噛みしめています。

 

 

2023年11月8日 一条真也