青木新門氏からの手紙

一条真也です。
本日、ブログ「青木新門氏にお会いしました」でご紹介した作家の青木新門氏から封書が届きました。その中には丁重なお手紙が入っていました。
「読売新聞」のコピーが2枚同封されており、そこには「死を語る」という作家の五木寛之氏と青木氏のインタビュー記事が掲載されていました。


手紙に同封されていた新聞記事のコピー



結論から言うと、青木氏は、五木寛之氏の「死を語る」での発言に大きな違和感を覚えておられます。ブログ「五木寛之講演会」でご紹介したように、五木氏はわが社の「サンレー文化アカデミー」の記念すべき第1回で講演していただきました。その後、上智大学グリーフケア研究所でも講演され、わたしが親しくさせていただいている同研究所の島薗進所長、鎌田東二特任教授とも「死別の悲しみ」についての鼎談をされています。



そのように、五木氏とも青木氏とも御縁をいただいているわたしとしては正直言って戸惑ったのですが、青木氏は手紙の冒頭に「1月15日付けの読売新聞の五木寛之氏のインタビュー記事を見て、唖然とし、お手紙しました。インタビュー記事というものは以外と本音がでるものです」と書かれ、以下のような五木氏の発言を紹介されています。
老いや死に対して、安らかな、落ち着いた境地があるというふうに想像するのは幻想でしょう」
「年老いるというのは、そんなきれいなものではありません」
「昔は宗教があり、あの世の極楽と地獄という観念がリアルにありました。しかし今は、死ねば宇宙のゴミになる感覚でしょう」
「子や孫に囲まれて、息をひきとるようなことはもうあり得ない」
「最期は、一人でこの世を去るという覚悟」
「僕は、老いさらばえていく姿を、むしろ家族にみられたくない」



五木氏のインタビュー記事にはこうした言葉が並んでいますが、青木氏は「この死生観こそが、戦後の唯物論や実存哲学に洗脳された知識人や作家が依り処とする思想でした」として嘆かれています。手紙の最後には「とにかく五木氏のような著名人が発行部数日本一の読売全国版でこうした発言をされては、その影響は計り知れません。私は、五木氏とは正反対な立場で発言したつもりです。ご一読賜れば幸いです」と結ばれていました。
青木氏は自身のブログ「新門日記」でも、以下のように五木氏の発言に異を唱えておられます。長いですが、そのまま引用させていただきます。

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1月27日(金) 〜28日(土) 曇り時々晴れ後曇り

ある方から読売新聞の「安心の設計」という五木寛之氏のインタビュー記事(1月15日付)と私の記事(1月22日付)をコピーして送られてきた。比較して読んで五木氏の死生観に違和感を覚えるとコメントが添えられてあった。
五木氏が副題「死を語る」の(上)を、私が同じテーマで(中)を受け持っていたことを知らなかった。その五木氏の記事を一読して驚いた。驚いたというよりこの方仏教、特に親鸞について語っておられるが、果たして親鸞の説く仏教がわかっておられるのだろうかと思った。短い文面の中のいたるところに反仏教的ともいえる支離滅裂な言葉がみられた。


発言の中に「老いや死に対して、安らかな、落ち着いた境地があるというふうに想像するのは幻想でしょう」という言葉がある。ブッダが出家なさったのはこの生・老・病・死の四苦を解決して安心の境地で生きる道を説かれたのではなかったか。 親鸞は、この安心の境地を求めて、即ち生死出づへき道を90年の生涯を賭けて唯一筋に歩かれたのであった。親鸞が幻想を追っていたとでも言うのだろうか。

また「年老いるというものは、そんなにきれいなものではありません」とある。一昨日の「新門日記」に私が「秋の紅葉が美しいのは、環境変化(温度変化)に対応しているからだ」と書き、「青春は美しい、老も美しい、死もまた美しい」と思っている私の死生観と真っ向から対立する。
また「昔は宗教があり、あの世の地獄と極楽という観念がリアルにありました。しかし今は、死ねば宇宙のゴミになる感覚でしょう」と語っておられる。島田祐己的現象論。有見(死後の世界が有るとする見解)・無見(死後の世界は無だとする見解)は、釈尊や龍樹の時代からあったのである。だから「悉能摧破有無見」という言葉が『正信偈』に出てくるのであるし、親鸞が「光触かぶるものはみな、有無をはなるとのべたまふ」と和讃しておられるのは、親鸞の時代も有無にとらわれ放れられない人間ばかりだったと言うことではないか。何をいまさらと思ってしまう

特に最期の「僕は、老いさらばえていく姿を、むしろ家族に見られたくない」という言葉に、臨終に立ち会う大切さを講演や新門日記で訴え続けている私は、愕然とした。五木氏には、死や仏教を語る資格はないと思った。無知なのである。「諸君、死を恐れるという事は、智恵がないのにあると思っていることにほかならないのです。それは知らないのに知っていると信じていることになるからです。もしかすると、死は人間にとって最大の幸福であるかもしれないのです。しかし人間は死を最大の悪であると決めてかかって恐れているのです。それこそ知らないのに知っていると信じる事、すなわち無知ではないでしょうか」というソクラテスの云う無知。他力という本まで出しておられるのに、他力がわかっておられない。他力がわかっておられないのに、親鸞についてよく書けるものだと思う。親鸞のいう「他力」は、仏性のはたらき、即ち回向をいうのだが、仏性が感得できなければわからない。仏性は即ち弥陀の光明である。なぜ親鸞が『教行信証』の教の巻に「光顔巍々」を据え、二種の回向を浄土真宗の根本に据えたかなどもわからないだろう。「仏性にあふをもって、大般涅槃に安住す」(涅槃経)とか「この光に遇うものは、三垢消滅して、身意柔軟なり、歓喜踊躍して 善心生ず」とか「清浄光明ならびなし遇斯光のゆえなれば、一切の業繋ものぞこりぬ」などという言葉は、他力即ち仏性やその回向に触れなければ理解できないのである。SPIRITUALな部分、親鸞は不可思議光といったこの仏性に関する部分が五木氏の作品には完全に欠落している。


私は五木氏の作家としての才能を高く評価している。しかし仏教解釈に関しては評価しない。「われ指をもって月を指(おし)ふ、なんじをしてこれを知らしむ、なんじなんぞ指を看て、しこうして月を看ざるや」と親鸞も云っておられたが、五木氏の小説『親鸞』にしても、親鸞の指を拡大粉飾して書かれたFICTION(戯作品)に過ぎない。仏法に照らせば、すべて<いたずらごと>である。「他力」という本をだしておられるのに、他力がわかっておられない。他力がわからないということは、弥陀の本願も二種の回向も実感としてわかっておられないと云うことである。イメージできないから幻想と言わざるをえなくなってしまう。


今日の日記は、五木氏の「安らかには、幻想」という発言で驚き、向きになって書いたきらいがあるが、実は戦後の近代文学者の仏教解釈に共通しているのは<永遠>というものを排除する傾向である。
堀田善衛近代文学者の立場を見事に言い当てた言葉がある。
「私は、小説を書いて生きている人間だが、近代小説というものは、あらゆるものを相手にしてもいいけれど、とにか<永遠>という奴だけは直接相手にしないという暗黙の約束の上に成り立っている。永遠などという、非歴史的な、歴史を否定するようなものは、詩と宗教の方へ行ってもらって小説家は相手にしない立場である」
また戦後の哲学者や仏教学者がもてはやしたドイツの哲学者ハイデッカーが、友人のユンガーから「虚無がその限界に達したら、宗教の云う新しい世界が開けるのではないか?」と問われた時「我々はその一線を越えない立場である。不安のまま、不安を感じて生きるのが実存である」と応えたという。五木氏もこの「不安の哲学」の立場を踏襲しているとしか思えない。一線を越えないとは、信を獲らないと言うことである。親鸞が生涯賭けて到達したのは<信>であった。「信なくば、いたすらごとよ」と云ったのは蓮如であった。「自信教人信」と言ったのは善導であった。


私の記事での発言は「前(さき)に生まれんものは後を導き、後に生まれんひとは前を訪(とぶら)へ。連続無窮にして、願わくは休止せざしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり」という道綽禅師の言葉を念頭に、生と死が交差する生死一如の瞬間に顕れる如来の回向(十九願)によって無量寿(いのち)のバトンタッチが連続無窮に続くことを願っての発言であった。先に往く人がすーっと息を引き取る時に見せる安心の笑顔こそが残った人を安心へと導くのです。側にいなければ、微かな光の慈悲の回向は感得できないのです。「家族にも見られたくない」という五木氏の発言は、宗教にも科学的事実にも反する自我に固執する近代知識人の、それこそ死を醜悪とみなす幻想によって導かれた発言にほかならない。


安らかに死ぬということは自分のためだけではない。残る人のためである。「一人でこの世を去る覚悟」との発言はかっこいいが、自己中心の思想にほかならない。誰にも看られないで一人でこの世を去る死に方の典型は自殺である。近代作家に自殺が多いのはその所為かもしれない。太宰治有島武郎芥川龍之介川端康成三島由紀夫江藤淳などなど。釈尊のように、生きとし生けるもののために我が道を行くのならいいけど、自分のために自殺を選んでまで我が道をゆくのはいかがなものか。<いのち>を自分のものだと思っているのである。
個体の死があるから類(人類)の存続があることを知らねばならない。無我を前提に成り立っている仏教に自我を持ち込むのが近代化だとでも思っているのだろうか。親鸞は、<海に入れば一味となる>と言っておられたのに、五木氏は「大河の一滴」の一滴の自我に最期までこだわっておられる。自我を完全放棄しない<信>などありえないのだ。
影響力のある有名人に「家族に看とられたくない」などと発言してもらってはほんとうに悲しくなる。そして五木氏と同様に思っている人が大半の社会になっていることを嘆かわしいと思うのである。

今日の日記は、五木氏の発言に驚き、興奮して僭越なことも書いたが、そして私の立場に賛同する人より五木寛之氏の立場に賛同する人が何百倍も多いのはわかっているが、敢てFACEBOOKの友達の皆様に五木氏の発言記事と私の発言記事を読んでもらいたい。
皆さんがどのように思っておられるのか、ぜひコメントを頂きたい。超高齢化社会にとって大事な問題ですから(以上、「新門日記」より)

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わたしは、このブログ記事を周囲の方々にメールで転送しました。
すると、東京で「看取りの文化を考える」シリーズのサロンを主宰している年長の友人から、以下のようなメールが届きました。
「私はこれまでも五木さんの書いたものには何の思想性も感じていませんので、いつものようなさびしい文章だと思っただけです。彼の『他力』も友人がわざわざ持ってきて読まされましたが、まったく退屈で、途中で放棄しました。今回の感想は一言。さびしい人生を送っているのだなと感じただけです。みんな五木さんに期待が大きすぎるように思います」



また、金沢在住の知人から以下のようなコメントが届きました。
「結論からいえば、五木先生の記事内容は青木先生が慨嘆されているほどのものとは思えません。人生いろいろ、ですから、死生観もいろいろ、です。
『無常忽ちにいたるときは 国王大臣親昵従僕妻子珍宝たすくる無し 唯独り黄泉に趣くのみなり』 この道元禅師の御言葉どおり、黄泉には唯独りで赴くしかないのですから。仏教もいろいろ、信心もいろいろ、です」



また、わが国の死生学研究の第一人者である女性からは、「立場の違いですね。仏教を語る、研究しているからといって、本人が仏教思想にたつ必要がないのではないでしょうかね。青木さんが老いは美しい、というのも正しい、五木さんが醜いというのも真実。新聞社としてはいろんな意見を提示しなければ、報道が偏りますものね。私自身、他人の意見に寛容でいられる心をもたねば、と強く感じました」とのコメントが届きました。


唯葬論

唯葬論

では、わたし自身の意見はどうかと言えば、やはり死生観は人それぞれだと思います。それと、意外に思われるかもしれませんが、じつはわたしは「死」にあまり関心がありません。人が死ぬのは当たり前だからです。
関心があるのは「葬」です。拙著『唯葬論』の帯には「問われるべきは『死』ではなく『葬』である」と書かれています。これが、わたしの考えです。


唯葬論』の帯



オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。死の事実を露骨に突きつけることによってオウムは多くの信者を獲得しましたが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできませんでした。繰り返しますが、人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、ことさら言う必要などありません。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということなのです。問われるべきは「死」でなく「葬」です。よって、同書のタイトルは『唯死論』ではなく『唯葬論』としました。
青木氏がどうしても納得がいかないなら、青木氏は五木氏に直接対談を申し込まれてはいかがかでしょうか。興味深い内容になると思います。
対談といえば、わたしは宗教学者島田裕巳氏と対談をさせていただきました。その内容は、『葬式に迷う日本人』(三五館)に収められています。


葬式に迷う日本人

葬式に迷う日本人

ブログ『葬式に迷う日本人』に反響続々!」で紹介したように、同書を青木にお送りしたところ、氏は「新門日記」に以下のように書かれていました。
「お二人とも自力では解決できない問題を『こうあるべきだ』と自己主張しておられる。『前に生まれんものは後を導き、後に生まれん者は前を訪へ、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す』と、親鸞道綽の言葉を『教行信証』の後書きに引用している。前に生まれんものとは、ここでは浄土へ生まれた者はという意味である。仏になった死者が残った人たちを導くのである。如来の回向によって、すなわち他力によって安心の世界へ導かれるのである。そのことに報恩感謝して、その光が射してくる行き先を目指して残った人も順次訪れなさい。それが連続無窮に続くことを願ってやまないと言っているのである。まさに〈法〉の継承であり〈いのちのバトンタッチ〉である。ここに葬送のあるべき姿の原風景があると私は思っている。行き先が定まれば自ずと行き方は定まる」



また、青木氏は以下のようにも述べておられます。
「〈光蝕かぶるものは〉とか〈前に生まれんものは〉といった世界は〈信〉なくばわからない世界である。島田氏とは無縁の世界と言っていい。なぜなら人間と自然を分けて自然を対象化して視る思考、すなわち近代西洋思想に裏打ちされた科学的思考の学者だからである。そうでなければ学者としての社会的地位は抹殺されてしまう。
永遠とか霊性とかいったものは今日の我国の学会はうさんくさい非科学的なものとして受け入れないのである。だから無見の視座にスタンスを置いて現代葬儀を現象学的に解説するのが限界なのである。
また、有見の一条氏の『葬式は要る』の根拠は人類は昔からやってきたという事例をあげての説明だったが、その説得力は弱かった。それより一条氏の不利な点は自らが葬祭業をやっているため『葬式は要る』と力説すればするほど、我田引水的にみられることであった。 しかし、お二人とも、よく勉強をしておられ、本音で語られていて、今日の葬儀のおかれた現状やその要因などを知るにはこれ以上の本はないといっていいだろう」



青木氏の言いたいことはわかりますが、氏が親鸞の説く浄土真宗的発想の枠から出ておられないことがよく理解できました。それはあくまでも信仰の世界であり、「普遍」の問題を論ずる地平にはありません。わたしの葬式必要論の根拠は「人類は昔から葬儀を行ってきた」ということだけではありません。グリーフケアとしての機能をはじめ、葬儀の役割をさまざまな視点から説いたつもりですが、残念ながら青木氏の心には届かなかったようです。
「志」を共有するというのは、なかなか難しいものですね。
多くの気づき、学びを与えていただいた青木新門氏に感謝いたします。


*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2017年2月8日 一条真也