「週刊現代」取材

一条真也です。
11日の午後、サンレー本社で「週刊現代」の取材を受けました。
ブログ「渡辺淳一さんらしいお別れ」で書いたように、本来は7月29日に東京で受けるはずの取材でしたが、特集企画が延期になったのでした。


週刊現代」の取材のようす



取材のテーマは「死後の世界」でした。
お盆が近いので、タイムリーな企画と言えるかもしれません。
「死後の世界」といえば、「丹波哲郎さんが教えてくれた 大霊界に持っていけるもの」にも書きましたが、「霊界の宣伝マン」と呼ばれた故・丹波哲郎さんと、わたしは霊界談義をよく交わしました。丹波さんの説く「大霊界」は非常に大らかでした。そして夢がありました。



丹波さんは数多くの臨死体験者の証言や、スウェーデンボルグをはじめとする心霊主義の研究書、エジプトやチベットの『死者の書』などの死のガイドブックなどから独自の霊界論をまとめ上げました。常々、「私は霊能者ではない。霊界研究者にすぎない」と公言されていました。そこに丹波さんの誠実さ、謙虚さを私は感じてしまうのですが、丹波さんの説く大霊界には誰にでも非常にわかりやすいという特徴がありました。なお、丹波さんが亡くなられた日の前夜、わたしは丹波さんの夢を見るという不思議な体験をしています。そのことも取材者であるライターさんにお話ししました。


ロマンティック・デス―月を見よ、死を想え (幻冬舎文庫)

ロマンティック・デス―月を見よ、死を想え (幻冬舎文庫)


わたし自身の「死後の世界」についての考え方は、拙著『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)にすべて書いています。わたしは同書をライターさんにお渡ししました。そして、その中で展開した「月こそ死後の世界である」という持論を熱く語りました。



さらに、わたしは「死は最大の平等である」という信条を述べました。
箴言で知られるラ・ロシュフーコーが「太陽と死は直視することができない」と語ったように、太陽と死には「不可視性」という共通点があります。わたしはそれに加えて「平等性」という共通点があると思っています。
太陽はあらゆる地上の存在に対して平等です。
太陽光線は美人の顔にも降り注げば、犬の糞をも照らすのです。



わが社の「サンレー」という社名には、万人に等しく冠婚葬祭を提供したいという願いを込めて、太陽光線(SUN−RAY)という意味があります。
「死」も平等です。「生」は平等ではありません。生まれつき健康な人、ハンディキャップを持つ人、裕福な人、貧しい人・・・「生」は差別に満ちていますが、王様でも富豪でも庶民でも乞食でも、「死」だけは平等に訪れます。


さまざまな視点から「死」について語りました



また、世界中に数多くいる、死に臨んで奇跡的に命を取り戻した人々、すなわち臨死体験者たちは次のような共通の体験を報告しています。死んだときに自分と自分を取り巻く医師や看護婦の姿が上のほうから見えた。それからトンネルのようなものをくぐって行くと光の生命に出会い、花が咲き乱れている明るい場所が現れたりする。さらに先に死んでしまった親や恋人など、自分を愛してくれた人にめぐりあう。そして重大なことは、人生でおかした過ちを処罰されるような体験は少ないこと、息を吹き返してからは死に対して恐怖心を抱かなくなったということが主な内容です。


そして、いずれの臨死体験者たちも、死んでいるあいだは非常に強い幸福感で包まれていたと報告しています。この強い幸福感は、心理学者マズローの唱える「至高体験」であり、宗教家およびロマン主義文学者たちの「神秘体験」、宇宙飛行士たちの「宇宙体験」にも通じるものです。いずれの体験においても、おそらく脳の中で幸福感をつくるとされるβエンドルフィンが大量に分泌されているのでしょう。



臨死体験については、まぎれもない霊的な真実だという説と、死の苦痛から逃れるために脳が作り出した幻覚だという説があります。しかし、いずれの説が正しいにせよ、人が死ぬときに強烈な幸福感に包まれるということは間違いないわけです。しかも、どんな死に方をするにせよ、です。こんな平等が他にあるでしょうか!まさしく、死は最大の平等です。日本人は死ぬと「不幸があった」と馬鹿なことを言いますが、死んだ当人が幸福感に浸されているとしたら、こんなに愉快な話はありませんね!


最後に写真撮影しました



それから、取材者のライターさんから「誰でも死は怖いですが、死の恐怖を乗り越える方法はありますか?」と質問され、わたしは再び「太陽と死は直視できない」というラ・ロシュフーコーの言葉を取り上げました。
たしかに太陽も死もそのまま見つめることはできません。しかし、サングラスをかければ太陽を見ることはできます。同じように「死」という直視できないものを見るためのサングラスこそ「愛」ではないでしょうか。



誰だって死ぬのは怖いし、自分の死をストレートに考えることは困難です。しかし、愛する恋人、愛する妻や夫、愛するわが子、愛するわが孫の存在があったとしたらどうでしょうか。人は心から愛するものがあってはじめて、自らの死を乗り越え、永遠の時間の中で生きることができるのです。



そんなことを話しているうちに、あっという間に1時間以上が経過しました。
最近、「週刊現代」誌ではブログ『0葬』で紹介した本で島田裕巳氏が提案されている「0葬」をよく取りあげています。今日はその反論も述べさせていただきました。まあ、わたしの言い分は、おそらく誌面には掲載されないと思いますが・・・・・・。


命には続きがある 肉体の死、そして永遠に生きる魂のこと

命には続きがある 肉体の死、そして永遠に生きる魂のこと

最後に、この「死後の世界」特集の取材は「勇気の人」こと矢作直樹先生も受けられるとのこと。矢作先生との対談本『命には続きがある』(PHP研究所)でも訴えた「死は不幸ではない」ことを今日の取材でも強調しました。わたしのインタビュー記事が掲載された「週刊現代」は来週の月曜日(18日)発売予定、九州は水曜日(20日)発売予定だそうです。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2014年8月11日 一条真也