熊本城

一条真也です。
ブログ「全互連会長に就任しました」に書いたように、3日に熊本で開催された全国冠婚葬祭互助会連盟の定時総会で新会長に就任しました。
その翌日、わたしはオプションの観光コースに参加しました。
菊南温泉ユウベルホテルを8時に出発し、まずは熊本城を訪れました。


熊本城の頬当御門で

まず、集合写真を撮ることにしました

熊本城での集合写真



熊本城は、「日本三名城」の1つとされています。「日本三名城」には諸説がありますが、秀吉や家康といった天下人による「天下普請」でない熊本城こそ、名城中の名城と評する歴史ファンも多いようです。


久々に熊本城を訪れました

われ、思ふところあり・・・・・・

人は石垣、企業は人・・・・・・

ダチョウ倶楽部ではありません!



熊本城公式HPには次のように解説されています。
「日本三名城のひとつ熊本城は、名将加藤清正が幾多の実戦の経験を生かし、慶長6年(1601年)から7年の歳月と、心血を注いで築城したものです。大小天守閣をはじめ、櫓49、櫓門18、城門29を数え、城郭の広さは約98ヘクタール(東京ドーム21個分)、周囲約5.3キロメートルにも及ぶ豪壮雄大な構えで、清正流石垣と呼ばれる優美な石垣と、自然の地形を巧みに利用した高度な築城技術で知られています。
昭和30年に再建された天守閣は大小2つの天守からなり、最上階が展望所になっています」


城の棟下で隠密気分

ふてぶてしい武士と

ちょっと控え目な武士と

セレモニーの志賀社長と



続いて、以下のように説明されています。
熊本城は加藤家2代、細川家11代の居城として続いた後、明治になり廃城となりました。西南戦争では薩摩の大軍を迎えて、50余日の籠城に耐え、不落の名城として真価を発揮しましたが、総攻撃の3日前、原因不明の火事により天守閣や本丸御殿など主要な建物を焼失してしまいました。焼失を免れた宇土櫓など13棟の建造物が国の重要文化財に指定されています。なお、現在の天守閣は昭和35年(1960年)に、1市民の5,000万円もの浄財を基に、約1億8,000万円をかけて、鉄筋コンクリート造で外観復元されたものです」


城内部の銅像の前で

城の模型の前で

天守閣にて



熊本城を築城した加藤清正豊臣秀吉とは血縁関係にあり、双方の母親が従姉妹同士だったという説もあるようです。9歳の頃から秀吉に仕え、映画「清州会議」で一躍有名になった柴田勝家と秀吉が雌雄を決した「賤ヶ岳の戦い」では「七本槍」の1人に数えられるほどの武功を立てます。
その功により、清正は天正16年(1588年)には秀吉から侍大将から、肥後北半国19万5,000石の領主に任命されます。


こんなのがありました!

もちろん、ワシもやりました



当時、清正は27歳ですが、入国後は治山治水、新田開発などに力を入れ、積極的な領地経営を進め、領民からは神様のように慕われていたそうです。今でも熊本では清正の善政は「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」という言葉が残っているほどです。しかし、清正亡き後、加藤家は改易されてしまいます。その後に肥後に入国したのが、豊前小倉城主細川忠利です。祖父は細川幽斎、父は忠興、母は明智光秀の娘であるガラシャです。


本丸御殿大広間にて

細川藩の本膳料理

大広間の前で



公式HPでは、この細川家入国の秘話が掲載されています。
「細川忠利が肥後に入国するにあたって一番気を使ったのが、加藤家に礼を尽くすことでした。国入りのときに行列の先頭には清正の位牌を掲げ、入城する際は大手門で深々とぬかずき、天守に登って清正の眠る本妙寺に向かい頭を下げたと伝えられています。
この気遣いは細川家代々伝えられ、自分の事跡も『清正公のお陰』としたこともあったようです。熊本で清正人気が根強いのも、このあたりからくるのではないでしょうか」


将軍の間の前で

素晴らしいデザインです!



忠利は文武両道の名君として知られ、剣術は柳生宗矩に師事し、二階堂流の奥義も極めています。そして晩年は宮本武蔵を客分として迎え入れるのです。武蔵が、細川忠利公に招かれ熊本に来た経緯を公式HPでは次のように説明しています。
「剣豪宮本武蔵寛永17年(1640年)57歳のとき、藩主細川忠利公に招かれ、城内千葉城で晩年を過ごしました。
武蔵が熊本に来たのは、終焉の地を求める心のほかに、彼が剣の道から得た真理を治国経世の上に役立てようという気持ちもあったようです。武蔵はこの地で自ら創始した二天一流兵法を大成して「兵法三十五ヶ条の覚書」「五輪書」などを著し、また茶、禅、書画製作の日々を送りました。
正保2年(2645年)62歳の生涯を閉じ、生前の希望どおり大津街道の林の中に甲冑姿で葬られたといわれています。この地が選ばれたのは、恩顧をこうむった細川藩主の江戸参勤交代を草葉のかげから拝したい、という武蔵の願いだったといわれています。」


熊本城ゆかりの宮本武蔵(?)と

ワシも武蔵になる!

加藤清正公になる!



また、細川家の熊本藩には「時習館」という藩校があり、全国の藩校の中でも屈指と言われた規模、組織、授業内容を誇っていたそうです。
島原の乱を最後に、天下泰平の江戸時代には合戦は耐えてなくなり、城は平和の象徴となっていました。しかし、明治に入って熊本城が天下の名城として面目躍如となる戦争が起こります。そう、西郷隆盛による西南戦争です。この戦争では政府軍が熊本城で52日間に及ぶ籠城で西郷軍の攻城を退け、難攻不落の名城であることが実証されました。西郷隆盛が終焉の地である鹿児島の城山で「わしは官軍に負けたのではない清正公に負けたのだ」と独白したという伝承も熊本城に箔をつけています。


熊本城内案内図



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2014年6月4日 一条真也