東京赤坂ロータリークラブ卓話

一条真也です。
昨日、東京に入りました。今日は、東京赤坂ロータリークラブで卓話をいたしました。会場は、ANAインターコンチネンタルホテル東京です。


東京赤坂ロータリークラブのHPより

ANAインターコンチネンタルホテル東京の前で

卓話者の紹介を受けました

卓話がスタートしました



卓話のテーマは、「なぜ、葬儀は必要なのか――永遠葬」でした。
わたしは簡単な自己紹介をした後、以下のような話をしました。
みなさんは、「0葬」という言葉を知っているでしょうか。通夜も告別式も行わずに、遺体を火葬場に直行させ焼却する「直葬」をさらに進め、遺体を焼いた後、遺灰を持ち帰らず捨てるのが「0葬」です。


冒頭に自己紹介しました

本日の卓話のようす

「葬儀」の現在を説明しました

さまざまな人間観

「永遠の0」対決!

「葬式は、要らない」vs「葬式は必要!」



わたしは宗教学者島田裕巳氏が書いた『0葬――あっさり死ぬ』(集英社)に対して、『永遠葬――想いは続く』(現代書林)を書きました。「永遠」こそが葬儀の最大のコンセプトであり、「0葬」に対抗する意味で「永遠葬」と名づけたのです。かつて、島田氏のベストセラー『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)に対抗して、わたしは『葬式は必要!』(双葉新書)を書きました。今回は、戦いの第2ラウンドということになります。じつは、1年前に同クラブで島田氏の卓話が行われたそうです。同クラブのプログラム委員長を務めている牧野出版の佐久間憲一社長が島田氏と親しいからですが、何を隠そう、わたしも佐久間社長との御縁で今日の卓話をお引き受けしました。


本日の卓話のようす

儀式なしに遺体を焼いていいんですか!?



今年の8月15日、終戦70周年を迎えました。じつに日本人だけで310万人もの方々が亡くなった、あの悪夢のような戦争から70年という大きな節目を迎えたのです。3月20日には、地下鉄サリン事件から20周年を迎えました。ということは、いわゆるオウム真理教事件はちょうど戦後50年の年に起こったことになります。麻原彰晃は「ナチス」に異様な関心を抱いており、自身をヒトラーに重ね合わせていたことは有名です。ナチスやオウムは、かつて葬送儀礼を行わずに遺体を焼却しました。ナチスガス室で殺したユダヤ人を、オウムは逃亡を図った元信者を焼いたのです。今年になって、「イスラム国」と日本で呼ばれる過激派集団が人質にしていたヨルダン人パイロットのモアズ・カサスベ中尉を焼き殺しました。わたしは、葬儀を抜きにして遺体を焼く行為を絶対に認めません。しかし、イスラム国はなんと生きた人間をそのまま焼き殺したのです。


「薄葬」の流れについて

「人の道」とは「礼の道」



現在の日本では、通夜も告別式もせずに火葬場に直行するという「直葬」が増えつつあります。あるいは遺灰を火葬場に捨ててくる「0葬」といったものまで注目されています。 しかしながら、「直葬」や「0葬」がいかに危険な思想を孕んでいるかを知らなければなりません。葬儀を行わずに遺体を焼却するという行為は「礼」すなわち「人間尊重」に最も反するものであり、ナチス・オウム・イスラム国の巨大な心の闇に通じているのです。


四大「永遠葬」について説明しました

グリーフケアの時代



20年前の一連のオウム真理教事件の後、日本人は一気に「宗教」を恐れるようになり、「葬儀」への関心も弱くなっていきました。もともと「団塊の世代」の特色の一つとして宗教嫌いがありましたが、それが日本人全体に波及したように思います。それにしても、なぜ日本人は、ここまで「死者を軽んじる」民族に落ちぶれてしまったのでしょうか?
葬儀によって、有限の存在である“人”は、無限の存在である“仏”となり、永遠の命を得ます。これが「成仏」です。葬儀とは、じつは「死」のセレモニーではなく、「不死」のセレモニーなのです。そう、人は永遠に生きるために葬儀を行うのです。「永遠」こそが葬儀の最大のコンセプトであり、わたしはそれを「0葬」に対抗する意味で「永遠葬」と名づけたのです。


「終活」から「修活」へ

「修める」という心構え



さらに、わたしは『唯葬論』(三五館)を上梓しました。
同書のサブタイトルは「なぜ人間は死者を想うのか」です。わたしのこれまでの思索や活動の集大成となる本です。
わたしは、人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えています。約7万年前に、ネアンデルタール人が初めて仲間の遺体に花を捧げたとき、サルからヒトへと進化しました。その後、人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒すべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行いました。
つまり「死」ではなく「葬」こそ、われわれの営為のおおもとなのです。
そして、いま、超高齢社会を迎えた日本人には「人生を修める」という心構え、すなわち「修活」が必要とされています。


本日の卓話のようす

ここで質問です。

葬式は必要!

卓話終了後に謝辞を受けました



葬儀は人類の存在基盤です。葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。そして、死者を弔う行為は「人の道」そのものなのです。以上のようなお話をしたところ、盛大な拍手を頂戴して感激しました。卓話の終了後、東京赤坂ロータリークラブの橋本年男会長から丁重な謝辞を受けました。


牧野出版の佐久間社長と

ホテルのラウンジで対談本の打ち合わせをしました



卓話終了後は、ホテルのラウンジで牧野出版の佐久間社長と打ち合わせをしました。打ち合わせの内容は、島田裕巳氏とわたしの対談本の企画についてです。両者と人間関係のある佐久間社長にしか実現できない企画だと言えるでしょう。東京、京都、北九州などで数回にわたって島田氏とわたしが対談し、往復書簡をメールで交わすというアイデアなども出ました。実現すれば、必ずや大きな話題となるでしょう。楽しみです!



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年12月4日 一条真也

「フューネラルビジネス」に『唯葬論』が紹介されました

一条真也です。3日、東京に入りました。
ブログ「『フューネラルビジネス』に『永遠葬』が紹介されました」に書いたように、冠婚葬祭業界のオピニオン・マガジンである「月刊フューネラルビジネス」10月号の「Book Review」のコーナーに『永遠葬――想いは続く』(現代書林)の書評が掲載されましたが、続いて12月号に『唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館)の書評が掲載されました。


「フューネラルビジネス」12月号



「Book Review」の記事には以下のように書かれています。
「大手互助会の社長を務める著者が、社会や民族、生者と死者にとって『葬儀』はいかに必要不可欠かを説く。書名の『唯葬論』には、問われるべきは『死』(人が死ぬこと)ではなく、『葬』(死者をどのように弔うか)であるという著者の思いが込められている。
全18章で、葬儀の本質は宇宙で生まれた人間が、故郷である宇宙に還ることにあると説く『宇宙論』にはじまり、人間の本質を述べた『人間論』、文明のシンボルは墓にあるとした『文明論』などと続き、最終章『葬儀論』で“葬儀の意味”についての見解を述べる。
『葬儀こそ人類の最重要問題』と位置づけ、さまざまな角度から葬儀を論じる本書は、葬儀が亡くなった者のためだけにあるのではなく、今後生きていく者にとっても重要な意味をもつことを気づかせてくれる」



ムーンサルトレター」第126信がアップしましたが、日本を代表する宗教哲学者の鎌田東二先生は『唯葬論』について、以下のように書いて下さいました。
「これまでのShin(一条真也)さんの仕事の集大成であり、また新出発の記念すべき名著ですね。全体は極めて体系的、構築的に出来上がっていて、堅牢な高層建築のようです」
「この体系性と全体性と各論との緊密な連系は目を見張ります。この全18章の前半部は、宇宙論から哲学・宗教・芸術論で、まさに全リベラルアーツ大特集です。そして、第10章臨死論からの怒涛の後半、は死と葬儀の各論となります。そして第18章「葬儀論」の最後の結論は、<葬儀は『人類の精神的存在基盤』>という主張です。葬儀即人間。葬儀なくして人間はない。『ホモ・フューネラル』(人間とは葬儀を行なう動物)としての人間論をぶち上げています。まさに『人間尊重』『人間讃歌』ですね」
「『唯葬論』は、葬祭業界にとっても、葬儀を考える一般読者にとっても、これから大切なカノン(規範)とも聖典とも古典的良書ともなるでしょう」



その葬祭業界のオピニオン・マガジンこそ「フューネラル・ビジネス」です。本当に、ありがたいことです。身に余るお言葉を頂戴した鎌田先生には心より感謝しております。今年も残すところあとわずかですが、『唯葬論』を上梓することができて、思い出に残る年となりました。そして今、次回作である『儀式論』(仮題、弘文堂)の執筆準備を進めています。


唯葬論

唯葬論

*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年12月4日 一条真也