『修活読本』

一条真也です。
わたしが監修した『修活読本』(現代書林)の見本が出ました。「人生のすばらしい修め方のすすめ」というサブタイトルがついています。これで、97冊目の「一条本」となります。いよいよ、100冊の大台が見えてきました。

f:id:shins2m:20190720115011j:plain修活読本』(現代書林)

 

本書の表紙には帽子を乗せた二脚の夫婦用の安楽椅子のイラストが描かれ、「人生100年時代を迎えて」「終活から修活へ」「より豊かに令和を生きるため」として、以下のように書かれています。
(特集1)
人生の後半戦を豊かに過ごすために〜修活のすすめ
生きがいさがし―—グランドカルチャーのすすめ
●「エンディングノート」の正しい書き方、残し方
●遺影の準備も忘れずに
●相続の基礎の基礎を教えます
(特集2)
私の葬儀、自分のお墓
●今どきの葬儀の実態
●あなたらしい墓選び
●墓選びの最新情報
●自然葬の基礎知識
●改葬・墓じまいの最新情報
●埋葬のイノベーション
介護も気になります
グリーフケアをご存知ですか
(読み物)
死を乗り越える“読書”
死を乗り越える“映画”

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本書の「目次」は、以下のようになっています。

特集1

人生の後半戦を豊かに過ごすために―—修活のすすめ

生きがいさがし                  

特別インタビュー

【佐久間陽心氏に聞く お茶という文化の楽しみ】

隣人祭り」に行こう!

コミュニティセンターの新しい形          

「ともいき倶楽部笑いの会」の取り組み        

達人の会                     

お隣さんいらっしゃい               

長寿祝いと同窓会                 

遺言書とエンディングノー卜の役割         

遺言書の基礎知識                 

遺言書を書こう!                 

進化するエンディングノー卜            

お金の問題                    

 無駄をチェックしてみよう            

 老後のお金5つのポイン卜            

 少子高齢社会を支える「互助会」         

 知っておきたい公的制度             

 家の問題                    

モノの整理術                   

メールや携帯の整理                

遺品整理のコツ                  

遺影の準備も忘れずに               

老後の備え 介護も気になります         

健康ガイド すぐに始めたい「運動」「食事」の改善 

 読み物

「死」を乗り越えるための“読書”         

 特集2

私の葬儀、自分のお墓

葬儀は何のために?                

今どきの葬儀の実態                

事前見積もりのすすめ               

一般的な葬儀の流れ                

葬送品も選べる時代に               

喪主の役割                    

ラクションから鐘ヘ               

弔問のマナーの基本                

法事・法要のすすめ                

変化するお墓への意識               

お墓の種類と内容                 

墓地・お墓の手続き                

墓じまいの考え方                 

納骨堂                      

埋葬のイノベーション               

海洋葬〜涙は世界で一番小さな海〜         

樹木葬〜大地に還る〜               

天空葬〜衛星口ケットに故人の遺骨を乗せる〜    

月面葬〜月を見上げて、故人を偲ぶ〜        

手元供養というスタイル              

 読み物

「死」を乗り越えるための“映画”         

 新しい活動

グリーフケアをご存知ですか? 

グリーフケア研究所が上智大学に開所

月あかりの会          

特別インタビュー                

【作家一条真也氏に聞く
 「修活」とは、残りの人生を考えることから始めよう】 

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わたしは、本書の「巻頭言」を以下のように書きました。
「人生は100年を迎えています。
厚生労働省の『平成29年簡易生命表の概況』によると、現在60歳の平均余命は男性23.72歳、女性で28.97歳。『平均余命』とは、平均的にあと何年生きられるかを示した物です。60歳にこの余命年数を足せばいいわけで、男性も80歳を超え、女性は90歳に迫ろうという寿命になります。『人生100時代』が決してオーバーな表現でないことがわかっていただけると思います。
『終活』という言葉が今、大きな高齢者のテーマになっています。終活とは、『終末活動』を縮めたものです。つまり『人生の最期をいかにしめくくるか』ということで、人生の後半戦の過ごし方を示した言葉ではないということです。『いかに残りの人生を豊かに過ごすか』−−−−わたしは人生の修め方として『修活』という言葉をご提案します。本書では、人生の後半戦をより豊かに暮すための情報や知恵を提供したいと思っています。健康寿命を延ばし、生き生きした人生の後半戦を過ごすために、『終活』から『修活』へ。ぜひ本書をご活用ください」

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究極の「修活」とは何か。それは、死生観を確立することではないでしょうか。死なない人はいませんし、死は万人に訪れるものですから、死の不安を乗り越え、死を穏やかに迎えられる死生観を持つことが大事だと思います。一般の人が、そのような死生観を持てるようにするには、どのようにしたらよいでしょうか。わたしがお勧めしているのは、読書と映画鑑賞です。何もインプットせずに、自分一人の考えで死のことをあれこれ考えても、必ず悪い方向に行ってしまいます。ですから、死の不安を乗り越えるには、死と向き合った過去の先輩たちの言葉に触れることが良いと思います。本書では、拙著『死が怖くなくなる読書』(現代書林)をベースに、修活のためのおススメ本を紹介しました。

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読書ともに映画鑑賞も大切です。長い人類の歴史の中で、死ななかった人間はいませんし、愛する人を亡くした人間も無数にいます。その歴然とした事実を教えてくれる映画、「死」があるから「生」があるという真理に気づかせてくれる映画、死者の視点で発想するヒントを与えてくれる映画などがあります。また、わたしは、映画をはじめとした動画撮影技術が生まれた根源には、人間の「不死への憧れ」があると思っています。コミュニティセンター化を進めている紫雲閣では、「老い」と「死」をテーマにした映画の上映会(「修活映画館」)を開催する企画を進めています。本書では、拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)をベースに、修活のためのおススメ本を紹介しました。

 

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本書の巻末には、わたしのインタビュー記事が掲載されています。「『修活』とは、残りの人生考えることから始めよう」という見出しで、以下のリード文が続きます。
「日本人の寿命はついに男女とも80歳代を迎え、人生100年時代と言われる超高齢化社会がすぐ目の前にきている。また今、年間140万人近い人が亡くなり、2030年には160万人を超すと言われる『多死社会』でもある。多くの人が死を意識しながら、延びた寿命を生きていくことになる。人は『老いるほど豊かである』――そんな人生の修め方を提唱し続けてきた作家の一条真也氏に、人生100年時代のすばらしい「老い」の過ごし方を聞いた」

 

――一条さんは、常日頃から「人は老いるほど豊かになる」と言い続けておられますね。
一条 はい。老いはネガティブに取られがちですが、そんな意識を変えたいと思っています。仏教は「生老病死」の苦悩を説きました。そして今、人生100年時代を迎え、「老」と「死」の聞が長くなっているといえます。長くなった「老」の時間をいかに過ごすか、自分らしい時間を送るか−そのための活動が「修活」です。「終活」という言葉がありますが、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を考えてみました。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。ぜひ「老い」をイメージしてみてください。たとえば「老」に起こることは次のようなことです。
①おっくうになる自分
外出がおっくうになる、家事がおろそかになるなどですが、それはふつうのことです。老化によって人は体力が衰えます。目の衰えに始まり、体の不調が増えます。嘆くことはありません。あなたが年をしっかりととっているという証です。
認知症になる
物忘れが始まり、もしかすると認知症になるかもしれません。こうしたことは、けっして特別なことではありません。「老」の時間の中では起こりうることです。「わたしはピンピンコロリで死ぬ」と願っても、そうなるかもしれないし、ならないかもしれません。希望することと備えることは違います。「ならない」と考えるより、「なったときにどうするか」を考えることが大切なのです。
③寝たきりになる
老化が進むと、病気になったり、転んだりして、寝たきりになることもあります。介護を受けることも十分に考えられます。

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――そうした「老い」と向き合うことも「修活」ということですね。
一条  そうです。いま、世の中は大変な「終活ブーム」だといいます。多くの高齢者が、生前から葬儀や墓の準備をしています。また、「終活」をテーマにしたセミナーやシンポジウムも花ざかりで、わたしも何度か出演させていただきました。さらに、さまざまな雑誌が「終活」を特集しています。ついには「ソナエ」(産経新聞出版)のような終活専門誌まで発刊され、多くの読者を得ているようです。その一方で、「終活なんておやめなさい」といった否定的な見方も出てきています。「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いということです。特に「終」の字が気に入らないという方に何人もお会いしました。もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。ならば、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚えてしまいます。なぜなら、「老い」の時間をどう過ごすかこそ、本来の終活であると思うからです。

 

――修活とは豊かな老後の作り方?
一条  考えてみれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」ではないかと思います。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活なのです。そして、人生の集大成としての「修生活動」があります。わたしは、かつての日本は美しい国だったように思います。しかし、いまの日本人は「礼節」という美徳を置き去りにし、人間の尊厳や栄辱の何たるかも忘れているように思えます。それは、戦後の日本人が「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」という覚悟を忘れてしまったからではないでしょうか。わたしは『人生の修活ノート』(現代書林)というエンディングノートを作りました。そのノートを書くことで人生をしっかり修めてほしいのです。老いない人問、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める…この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。

 

さて、次に訪れるのが、「死」です。どのような死を迎えるのか。誰にでも「老」の次には「死」がやってくるのです。死を考えないのではなく、ぜひ「死の準備」をしましょう。
・葬儀を考える
自分はどんな葬儀をしてほしいのか。これも終活の重要なポイントです。
・死んだ後を考える
最後は、自分が死んだ後のことを考えます。「老」の時間の中で、「死」までを考えることこそ「終活」です。それを含んで修活です。
――終活の本質とは修活であるということがよくわかりました。
一条  残りの人生をしっかり考えること−つまり自分らしくいかに生きるかを考えることこそが、修活なのだと思いますよ。

 

そもそも、老いない人間、死なない人間はいません。
死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。わたしは、「豊かに老いる」そして「美しく人生を修める」ために、あらゆる視点から本書を監修し、作成しました。『修活読本』は8月5日に発売されます。『人生の修め方』(日本経済新聞社)および『人生の修活ノート』(現代書林)とともに、ぜひ、ご一読を!

 

修活読本 人生のすばらしい修め方のすすめ

修活読本 人生のすばらしい修め方のすすめ

 

 

2019年7月21日 一条真也

サンクスフェスタ小倉

一条真也です。
20日、「サンクスフェスタ in小倉紫雲閣」が行われました。天気予報は雨でしたが、奇跡的に晴れました。まるで、ブログ「天気の子」で紹介したアニメ映画に登場した‟晴れ女”の陽菜ちゃんが祈ってくれたみたいです。

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f:id:shins2m:20180708100852j:plain会場となった小倉紫雲閣の外観

f:id:shins2m:20190720095412j:plain小倉紫雲閣の入口で

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小倉紫雲閣は予定避難所です!

f:id:shins2m:20190720094504j:plain全体朝礼で挨拶しました

 

わたしは、朝の全体朝礼で次のように話しました。
北九州市との災害時支援協定の締結以来、わが社に対する市民のみなさまの期待の大きさを感じます。昨年の西日本豪雨のようなことがないように願ってはいますが、何が起こるかは油断できません。当初は今日も大雨との予想で、イベントの中止も考えましたが、晴れて本当に良かった! 『天気の子』というアニメ映画が話題になっていますが、雨天を晴天に変える‟晴れ女”というのが登場します。今日ここにおられる女性の中にも‟晴れ女”がいるのかもしれませんね。多くのお客様も、この日を楽しみにされていたようです。みなさまの期待を裏切らないように、サービスに努めましょう!」

f:id:shins2m:20190720094457j:plain感謝と笑顔の大切さを訴えました

 

それから、わたしは次のように話しました。
「今日は、サンレーの一大イベントの開催日です。おかげさまで、先日の八幡サンクスには、例年以上に多くのお客様がお越しになられました。今日も多くのお客様で賑わうことが予想されます。今朝、ここに来られる皆さんの姿を見て、心からの感謝の念が湧いてきました。ましてや、今日のイベントに来場して下さる会員様、お客様はまるで神様のような存在だと思います。まさに『ありがとう、ありがとう、ありがとうと言わせてくれて、ありがとう』といった気持ちです。お客様がストレスを感じずにイベントを楽しんでいただけるように細心の注意を払いましょう。サンクスフェスタの名前の通り、今日は感謝の集いです。ぜひ、感謝の心と笑顔を忘れずに接客して下さい」

f:id:shins2m:20190720094506j:plainイベントの意義を話しました

 

また、わたしは次のようにも言いました。
「この小倉紫雲閣はセレモニーホールの先駆的存在とされていますが、もはや、セレモニーホールというのは葬儀だけを行う施設ではダメです。葬儀もできる地域のコミュニティセンターでなければなりません。高齢者の会員様に『生きがい』を提供し、『豊かな老い』のお手伝いをする、そんなコミュニティセンターを目指したいと思います。そのためにも今日のイベントは最重要だと思っています。よろしくお願いします!」

f:id:shins2m:20190720102359j:plain混み合う受付周辺

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受付には長蛇の列が!

f:id:shins2m:20190720131000j:plain茶道おもてなしコーナー

f:id:shins2m:20190720112552j:plain茶道おもてなしコーナー

f:id:shins2m:20190720113630j:plain盆用品コーナー

 

全体朝礼が終わると、サンレー会員様をはじめとする多くのお客様が来館して下さいました。豪雨の直後とあって、すさまじい人数でした。
「サンクスフェスタ」とは何か。それは、わが社の会員様やお客様に対して「ありがとうございます」という感謝の気持ちをお伝えするイベントです。
「ありがとう」という言葉はどこの国にもあります。それは、「ありがとう」が人間にとって非常に大切なものだからです。「お金」はなくても何とかなるが、これがなくては生きていけないというぐらい大切なものなのです。

f:id:shins2m:20190720095510j:plainサンレー施設紹介」の前で

f:id:shins2m:20190720112738j:plainにぎわう互助会コーナー

f:id:shins2m:20190720092623j:plain祭壇コーナーのようす

f:id:shins2m:20190720130736j:plain通過儀礼コーナーのようす

f:id:shins2m:20190720113021j:plain大抽選会のようす

 

「ありがとう」と言われた人は気分がいいし、「ありがとう」と言った人も気分がいい。こんなにお互いに「いい気分」になるのであれば、わたしたちは、もっともっと「ありがとう」という言葉を使うべきです。心から、そう思います。金もかからず手間もいらず、こんなに便利なものはありません。それで、みんなが元気になれれば、こんなに幸せなこともありません。まさに「ありがとう」は、他人も自分も幸せにする魔法の言葉ですね。

f:id:shins2m:20190720115351j:plain落語独演会のようす

f:id:shins2m:20190720121838j:plain前座の林家木りんさん

f:id:shins2m:20190720115539j:plain林家木久蔵さんと林家木りんさん

f:id:shins2m:20190720122531j:plain大盛り上がりの林家木久蔵独演会

 

本日のサンクスフェスタのメインイベントは、「林家木久蔵 落語独演会」。
林家木久蔵さんは昭和50年生まれ 東京都出身。平成7年10月 林家木久蔵(初代)「現・木久扇」に入門。平成8年2月前座入り、「林家きくお」となりました。平成11年9月二ツ目昇進。平成19年5月教育評論社より木久扇との共著『がんばらない子育て』を出版。同年7月親子大賞2007「選考委員特別賞」受賞。9月真打ち昇進に伴い、落語界史上初「ダブル親子襲名」を行い、二代目林家木久蔵を襲名しました。日本テレビ笑点」若手大喜利テレビ東京「ドラGO!」などに出演しています。

f:id:shins2m:20190720135120j:plain人形供養祭のようす

f:id:shins2m:20190720140032j:plain人形供養祭のようす

f:id:shins2m:20190720131448j:plain入棺体験コーナー

f:id:shins2m:20190720113309j:plain書籍販売コーナー

f:id:shins2m:20190720145945j:plainおかげさまで、たくさん売れました!


今日は、「ムーンギャラリー販売コーナー」も登場しました。
愛する人を亡くした方々の自助グループである「月あかりの会」や「うさぎの会」のメンバーの方々がさまざまな手作りの工芸品などを出品されています。こちらのコーナー、お客様の入場とともに人だかりができて大盛況でした。お菓子や「思いやり弁当」の販売も大人気でした。他にも、野菜販売、生花販売などのおなじみのコーナーも大盛況で、商品は完売しました。

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福祉コーナー

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福祉コーナー

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新鮮野菜販売コーナー

f:id:shins2m:20190720110418j:plain生花販売コーナー

 

さて、「ありがとう」の話に戻ります。
人生には1つのムダも、1つのマイナスもありません。起こっていることすべてには意味があるのです。みんな「有ること」が「難しい」ことに「当たる」から、「有難当(ありがとう)」なのです。冠婚葬祭互助会であるわが社にとって、最も感謝するべき対象とは何か?それは互助会の会員様であり、冠婚葬祭の各施設のお客様です。それらの大切な方々に対して、わが社では毎年、「サンクスフェスタ」を開催するのです。

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終礼で挨拶しました

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ありがとうございました!

 

今日は、わたしも多くの方々に「ありがとうございます」を言うことができました。わが社のスタッフのみなさんも、昨日の準備から本当にお疲れさまでした。最後は終礼で挨拶をしたのですが、スタッフのみなさんに向かって「ありがとうございました!」と述べました。今日は入場者も目標を大きく上回りましたし、その他も目標もすべて達成しました。本当に、ありがたいことです。明日も天気になあれ!

 

2018年7月20日 一条真也

「天気の子」

一条真也です。
19日、東京から北九州に戻りました。台風が接近しているとかで雨が降っていました。この日から小倉祇園太鼓が始まるのですが、あいにくの天気です。ただでさえ梅雨がなかなか明けないのに、そのうえ台風まで来るとは! その夜は、アニメ映画「天気の子」を観ました。17日からの公開ですが、この時期に公開するとは東宝もやってくれますね。

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『秒速5センチメートル』などの新海誠監督が、『君の名は。』以来およそ3年ぶりに発表したアニメーション。天候のバランスが次第に崩れていく現代を舞台に、自らの生き方を選択する少年と少女を映し出す。ボイスキャストは、舞台『「弱虫ペダル」新インターハイ篇』シリーズなどの醍醐虎汰朗とドラマ『イアリー 見えない顔』などの森七菜ら。キャラクターデザインを、『君の名は。』などの田中将賀が担当した」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「高校1年生の夏、帆高は離島から逃げ出して東京に行くが、暮らしに困ってうさんくさいオカルト雑誌のライターの仕事を見つける。雨が降り続くある日、帆高は弟と二人で生活している陽菜という不思議な能力を持つ少女と出会う」

 

ブログ「新海誠の世界」ブログ「君の名は。」にも書いたように、わたしは基本的に新海誠監督のアニメが好きで、全作品を観ています。DVDも全部持っています。
最新作の「天気の子」を観て、まず思ったのは、「やはり新海アニメは、絵が力強い」ということ。豪雨のシーンはこの世の終わりのように凄まじく、雨が晴れ上がるシーンは神々しさを感じました。場所としては、ほとんど東京の都心が描かれるのですが、新宿にしろ秋葉原にしろ、ビルの看板や店舗名までディテールが細かく描き込まれています。街の光景だけでなく、「マックバーガー」とか「からあげ君」とか「カップヌードル」とか、これはおそらくは商品PRのタイアップもあるのでしょうが、あまりにも具体的です。オカルト雑誌の「ムー」まで登場したのには驚きました。「うさんくさいオカルト雑誌」と説明されていましたが、まさか、これも版元である学研とのタイアップ?

 

それから思ったのは、「気宇壮大というか荒唐無稽というか、とにかくスケールの大きな物語だな」ということです。前作「君の名は。」と同じ路線なのですが、「天気の子」では、冒頭から「世界の秘密についての物語」とか「世界の形を決定的に変えてしまった」とか、とにかく大仰な表現が目立ちます。そのビッグ・スケール・ストーリーは確かに面白いのですが、逆に登場人物たちの状況説明には細かな描写が足りないと感じました。
まず、帆高が家出した理由が「息が詰まったから」程度で、その詳しい理由が語られておらず、大変な思いをして東京まで出てきた理由がわかりませんでした。また、陽菜の母親が亡くなったのはわかりますが、父親はどうしたのか、なぜ幼い弟と二人暮らしなのかもわかりません。ストーリーでいうと、ピストルの存在は不要ではないかとも思いました。警察の描写が、こういったファンタジーには似合わないからです。あと、ラブホの描写も必要だったかなあ?

 

主人公2人の「森嶋帆高」と「天野陽菜」という名前です。
じつは、帆高のほうは例の丸山穂高議員を、陽菜のほうはわたしの次女である陽奈を連想してしまいました。もっとも、2人とも字は違うのですが、「ホダカ」「ヒナ」というように音がまったく同じであるため妙に心に引っ掛かってしまい、ちょっとストーリーを追う邪魔になりましたね。
あと、この映画には豪雨のシーンがやたらと登場するのですが,ブログ「北九州市災害時支援協定調印式&記者会見」で紹介した北九州市とわたしが社長を務める株式会社サンレーの間で「災害時における施設の使用に関する協定を締結したこともあって、「今日にでも北九州が豪雨の被害に遭って、多くの人たちがわが社の施設に避難してくるかもしれない」などと考えてしまいました。実際、わたしは出張中でしたが、前日も大雨でスマホの警報が鳴ったそうです。いつ、「その日」が来るか、油断はできません。

 

さて、「天気の子」は言うまでもなく「天気」についての物語です。つまり、「自然」についての物語です。日本に住んでいると、自然の脅威を嫌というほど思い知らされます。よく、「自然を守ろう」とか「地球にやさしく」などと言います。しかし、それがいかに傲慢な発想であるかがわかります。やさしくするどころか、自然の気まぐれで人間は生きていられるのです。生殺与奪権は人間にではなく、自然の側にあるということです。実際、地震津波や台風で、多くの死者が出ています。

 

神道とは何か 自然の霊性を感じて生きる (PHP新書)

神道とは何か 自然の霊性を感じて生きる (PHP新書)

 

 

自然を畏れる気持ちが日本固有の宗教である「神道」を生む原動力となりました。神道とは何でしょうか。日本を代表する宗教哲学者にして神道ソングライターであり、また神主でもある鎌田東二氏は、著書『神道とは何か』(PHP新書)で述べています。
「さし昇ってくる朝日に手を合わす。森の主の住む大きな楠にも手を合わす。台風にも火山の噴火にも大地震にも、自然が与える偉大な力を感じとって手を合わす心。 どれだけ科学技術が発達したとしても、火山の噴火や地震が起こるのをなくすことはできない。それは地球という、この自然の営みのリズムそのものの発動だからである。その地球の律動の現れに対する深い畏怖の念を、神道も、またあらゆるネイティブな文化も持っている。インディアンはそれをグレート・スピリット、自然の大霊といい、神道ではそれを八百万の神々という」

 

 

 「カミ」という名称の語源については、「上」「隠身」「輝霊」「鏡」「火水」「噛み」など古来より諸説があるものの、定説はありません。でも、江戸時代の国学者である本居宣長は大著『古事記伝』で、「世の尋(つね)ならず、すぐれたる徳(こと)のありて、畏(かしこ)きもの」と「カミ」を定義しました。つまり現代の若者風に言えば、「ちょー、すごい!」「すげー、かっこいい!」「めっちゃ、きれい!」「ちょー、ありがたい」「ありえねーくらい、こわい」などの形容詞や副詞で表現される物事への総称が神なのだと鎌田氏は述べます。

 

「天気の子」を観て、わたしは一神教多神教の違いについても考えました。おそらく自然に対する考え方が、欧米人と日本人では相反していることが重要な点であると思います。欧米人は厳しい環境に囲まれているので、自然を対立するもの、征服する対象と見ますが、日本人は自然を生きる恵みを与えてくれるものとして見ました。そして、自然に感謝し、畏敬の念を抱き、これと調和して暮らしてきました。そのため宗教にしても、彼らは排他的で独裁的な征服の思想を持つキリスト教のような一神教になります。対する日本は、自然に逆らわず自然の中に神を見て畏敬の念を抱き、自然と一体になろうとする寛容な思想の神ながらの道=神道になります。

知ってビックリ!日本三大宗教のご利益』(だいわ文庫)

 

拙著『知ってビックリ!日本三大宗教のご利益』(だいわ文庫)にも書きましたが、自然に対して西洋では高い姿勢、傲慢な態度で立ち向かうのに、日本では低い姿勢、謙虚な態度で受け入れる。彼らは、たとえば石を見ればすぐ彫刻したり、規格統一して並べたりして人間の偉大さを誇ります。日本では、石を河原から拾ってきたままの姿で庭に置き、重く安定した姿の石庭を楽しみます。また、彼らは水を見れば引力に逆らって噴水を上げたがりますが、日本庭園では、水は上から下へと泉水や滝を造って、自然のあるがままの姿を楽しみます。日本庭園は大自然を縮小してそのまま移したものですが、西洋では人工的な直線や円を描いて幾何学的な庭園を造る。

 

このように日本が「自然に従う文化」なら、西洋は「自然に逆らう文化」と呼べるかもしれません。パレスチナやアラビアの苛酷な自然風土の中では、自然に対決し、自然を征服しようとする唯一絶対神を必要として一神教を生む。これに対して自然の温和な日本では、自然順応、調和、共生の多神教が生まれる。一神教が排他独善の不寛容な神、妬みの神になるのに対して、多神教は誰をも受け容れる、きわめて寛容な慈愛の神々となるのです。ブログ「ジオストーム」で紹介したSF映画では、天候をコントロールする気象宇宙ステーションが暴走する様子が描かれます。もちろん、科学技術によって天気をコントロールすることなど現実世界では不可能です。アメダス気象衛星、気象レーダー、スパコンなどを駆使して天気予報の精度は飛躍的に向上しましたが、未だに人類は天気をコントロールすることには成功していません。

 

ところで、「天気の子」では、ビルの屋上にある鳥居が重要な役割を果たします。陽菜も、帆高も、この鳥居から不思議な空の世界へ飛び立ちます。映画の中で、ある占い師が「空の世界は海よりも謎に満ちている」として、積乱雲ひとつでも湖に等しい水分を含んでいると述べたシーンが非常に興味深かったです。この不思議な空から透明な魚やクジラなどが降ってくるのですが、それらは地上に落ちると消えてしまう。このミステリー・ワールドとしての「空」をもっと描いてほしかったですね。また、「天気の子」には、「空」は「彼岸」に通じているという老婆の談話が出てきます。その彼岸である「空」から死者が地上に戻ってくるのが「お盆」だといいます。もう日本人の民俗世界が炸裂していますね。入力

 

話を鳥居に戻すと、いま、神社が若い人たちの間で「パワースポット」として熱い注目を浴びています。いわゆる生命エネルギーを与えてくれる「聖地」とされる場所ですね。これも鎌田東二氏によれば、空間とはデカルトがいうような「延長」的均質空間ではありません。世界中の各地に、神界や霊界やさまざまな異界とアクセスし、ワープする空間があるというのです。ということは、世界は聖地というブラックホール、あるいはホワイトホールによって多層的に通じ、穴を開けられた多孔体なのですね。そして、鳥居とは、ブラックホールやホワイトホールの結界の入口なのかもしれません。

 

先に、日本人は、自然に逆らわず自然の中に神を見て畏敬の念を抱き、自然と一体になろうとする寛容な思想を持っていると述べました。その神ながらの道こそが神道になるわけですが、日本は天気をコントロールできる唯一の存在として、神道のシンボルである「天皇」をいただいているという考え方もあります。そういえば、このたびの御譲位では、さまざまな儀式の際はことごとく晴れでした。
天皇晴れ」という言葉をご存知でしょうか。昭和天皇は、行幸の先々で好天に恵まれ、それは世に「天皇晴れ」と呼ばれました。1975年9月、昭和天皇が訪米した折、アメリカはずっと晴れていました。そしてその間、日本は曇天か雨でしたが、天皇の帰国の日に特別機が羽田空港に降り立つと、ぴたりと雨が止み、にわかに雲の切れ間から光が射し込んみました。その光景はテレビ中継されていたので、多くの国民が驚いたといいます。

 

なんといっても天皇家は太陽神である天照大御神の子孫ですが、「天皇晴れ」という言葉は、1964年の東京オリンピックの頃から使われ始めたそうです。竹田恒泰氏の著書『語られなかった皇族たちの真実』に詳しく触れられていますが、竹田恒泰氏の祖父で旧皇族だった竹田恒徳は著書『雲の上、下 思い出話』で以下のように述べています。
東京オリンピック大会の開会式は昭和39年の10月10日、東京・国立競技場で行われたが、その前夜はひどい雨だった。(中略)ところが、一夜明けた当日になると、それこそ前夜の雨がうそのように、雲ひとつない青空が広がっているではないか。私自身も信じられないような、見事な“天皇晴れ”であった」

 

雲の上、下思い出話―元皇族の歩んだ明治・大正・昭和

雲の上、下思い出話―元皇族の歩んだ明治・大正・昭和

 

 

天皇晴れ」は、単に晴れるだけではなく、悪天候天皇の登場に合わせて快晴に転じることをいいます。この現象は、1972年2月3日、札幌冬季オリンピックの開会式でも再現されました。ブログ『怪奇事件はなぜ起こるのか』で紹介した本で、著者の小池壮彦氏は「「天皇晴れは、オリンピックや国民体育大会、そして1970年の大阪万博、1985年の科学万博などでも見られたが、国内のイベントのみに現われた現象ではない。1971年の昭和天皇訪欧時には“エンペラーズ・ウェザー”が地球規模で現出して世界に衝撃を与えている」と述べています。

 

怪奇事件はなぜ起こるのか

怪奇事件はなぜ起こるのか

 

 

羽田空港からアンカレッジに飛び立った昭和天皇は、現地でも珍しい極彩色の巨大なオーロラをアンカレジの空に出現させます。その後も、デンマーク、ベルギー、フランス、イギリス、オランダ、スイスと秋晴れが続きました。最後の行幸地である西ドイツも晴天でしたが、すべての日程を終えた天皇が特別機でボン空港を発ったとたん、現地はどしゃぶりの雨になりました。これが“エンペラーズ・ウェザー”として欧州人を驚嘆させたわけです。だがむしろ注目すべきは、その間に日本が記録的な天候不順に見舞われていたことだと、小池氏は指摘します。

 

「天気の子」では、ヒロインの陽菜が「晴れ女」として、雨天を晴天に変えるというサービスを提供します。多くの顧客が陽菜に依頼してきますが、わたしたちは子どもの頃、運動会や遠足や旅行の前日が雨模様だったりすると、てるてる坊主を吊り下げて晴天を祈願したものです。てるてる坊主とは民間信仰の対象なのですが、その人間版が陽菜というわけです。もっとも、陽菜の弟の凪は、てるてる坊主の着ぐるみを着るのですが。「てるてる坊主」という童謡がありますが、3番の歌詞では、もし晴れにできなかったら、「首をちょんと切る」となっています。つまり、雨天を晴天にすることに失敗したら殺されるわけです。てるてる坊主は、本当は怖い話なのです。

 

てるてる坊主は、中国から伝わった風習とされています。ただ、中国では「坊主」ではなく女の子でした。白い紙の頭に、赤い紙の服を着せ、箒を持たせた「掃晴娘(サオチンニャン/そうせいじょう)」という女の子の人形があります。この掃晴娘が箒で雨雲を払い、晴れの気を呼んでくれるわけです。掃晴娘と日本のてるてる坊主との類似はすでに江戸時代の榊原篁洲『榊巷談苑』で指摘されています。また、ヘボン和英語林集成』は「TERI-TERI-BŌZU」に「掃晴娘」の字をあてています。Wikipedia「掃晴娘」には、「北京に切り紙が得意な美しい娘、晴娘がいた。ある年の6月、北京に大雨が降り、水害となった。北京の人々はこぞって雨が止むよう天に向かって祈願をし、晴娘も祈りを捧げた。すると、天から晴娘が東海龍王の妃になるなら雨を止ませるという声が聞こえた。晴娘がそれに同意すると、雨は止み、晴娘は消えた。以来、北京の人々は皆雨が続くと晴娘を偲んで切り紙で作られた人形を門に掛けるようになった」と書かれています。この「掃晴娘」が日本に伝わり、「てるてる坊主」になったのでしょう。

儀式論』(弘文堂)

 

古代、人類にとっては、雨を晴れにすることよりも、雨を降らせることのほうがずっと重要でした。そのために、雨乞いの儀式が世界各地で行われました。拙著『儀式論』(弘文堂)などにも書きましたが、儒教の発生にも雨乞いが深く関わっています。儒教の「儒」という字は「濡」に似ていますが、これも語源は同じです。ともに乾いたものに潤いを与えるという意味があります。すなわち、「濡」とは乾いた土地に水を与えること、「儒」とは乾いた人心に思いやりを与えることなのです。儒教の開祖である孔子の母親は雨乞いと葬儀を司るシャーマンだったとされています。

唯葬論』(サンガ文庫)

 

雨を降らすことも、葬儀をあげることも同じことだったのです。なぜなら、雨乞いとは天の「雲」を地に下ろすこと、葬儀とは地の「霊」を天に上げることだからです。その上下のベクトルが違うだけで、天と地に路をつくる点では同じなのです。母を深く愛していた孔子は、母と同じく「葬礼」というものに最大の価値を置き、自ら儒教を開いて、「人の道」を追求したのです。ですから、拙著『唯葬論』(サンガ文庫)でも強調したように、葬儀は人類にとっての最重要行為なのです。「天気の子」を観て、最後はそんなことを考えました。20日の土曜日、小倉紫雲閣では「サンクスフェスタ」が開催され、多くのお客様のご来場が予想されます。
映画を観終わったとき、わたしは「明日、天気になあれ!」とつぶやきました。

 

2019年7月20日 一条真也

「アマンダと僕」

一条真也です。
18日の夜、シネスイッチ銀座で映画「アマンダと僕」を観ました。この映画を京都で観たという上智大学グリーフケア研究所特任教授の鎌田東二先生から薦めていただいたのですが、北九州では上映しておらず、東京で観ることにしました。ちょうど、上智大学を訪問して、グリーフケア研究所所長の島薗進先生にお会いした直後の鑑賞でした。

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「第31回東京国際映画祭の東京グランプリと最優秀脚本賞を受賞したドラマ。主人公が姉の死によって人生を狂わされながらも、残されためいを世話しながら自らを取り戻す。監督は、プロデューサーとしても活動してきたミカエル・アース。『ヒポクラテス』などのヴァンサン・ラコスト、『グッバイ・ゴダール!』などのステイシー・マーティンらが出演する」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
ダヴィッド(ヴァンサン・ラコスト)は、レナ(ステイシー・マーティン)という恋人ができ、穏やかな毎日を過ごしていた。ある日、姉が事件に巻き込まれ、亡くなってしまう。ダヴィッドは残された7歳のめい、アマンダ(イゾール・ミュルトリエ)の世話をすることになる。悲しみの中、困惑するダヴィッドと母の死を受け入れられないアマンダの共同生活が始まる」

 

久々に観たフランス映画でしたが、フランス語の響きが非常に耳に心地良かったです。まるで音楽のように聴こえました。ヴァンサン・ラコスト演じるダヴィッドも、オフェリア・コルブ演じるサンドリーヌも、生粋のパリっ子という感じで洒落ていました。姉弟が自転車でパリの街を走るシーンも良かったです。「トニー・カマターニュ・パリス」というフランス名(?)を持ち、セーヌ川が大好きな鎌田先生も「アマンダと僕」を観て、きっとパリの香りを満喫されたことでしょう。

 

ダヴィッドとレナ(ステイシー・マーティン)の恋愛も、まるで思春期同士のような初々しさで、とても爽やかでした。そう、初恋を思わせるような二人の交際でした。不幸にもレナが右腕が使えなくなってからも、ダヴィッドはなんとか彼女を支えようとする気持ちが伝わってきて、切なくなりました。田舎にあるレナの実家に訪ねていくシーンも、ダヴィッドの誠実さを感じました。

 

そして、なんといっても、この映画は子役イゾール・ミュルトリエの名演技に尽きます。映画の公式HPを見ると、「ミカエル・アース監督に見いだされ、本作でスクリーンデ ビューを果たした奇跡の新星。監督自ら、体育教室から出てきたイゾールに声をかけ、オーディションのチラシを渡したことがきっかけだった」とあります。母親を亡くした少女の悲しみを見事に演じていました。わたしも日々、多くの愛する人を亡くした人たちにお会いしますが、お母さんを失った幼いお子さんの姿には、今でも涙します。

愛する人を亡くした人へ』(現代書林)

 

拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)は、おかげさまで刊行以来、多くの方々に読まれてきましたが、同書の「愛する人を亡くすということ」で、こう書きました。
「あなたは、いま、この宇宙の中で一人ぼっちになってしまったような孤独感と絶望感を感じているかもしれません。誰にもあなたの姿は見えず、あなたの声は聞こえない。亡くなった人と同じように、あなたの存在もこの世から消えてなくなったのでしょうか。フランスには『別れは小さな死』ということわざがあります。愛する人を亡くすとは、死別ということです。愛する人の死は、その本人が死ぬだけでなく、あとに残された者にとっても、小さな死のような体験をもたらすと言われています。もちろん、わたしたちの人生とは、何かを失うことの連続です。わたしたちは、これまでにも多くの大切なものを失ってきました。しかし、長い人生においても、一番苦しい試練とされるのが、あなた自身の死に直面することであり、あなたの愛する人を亡くすことなのです」

 

そのような人生で一番苦しい試練を幼い子どもが経験するとは、なんという悲しいことでしょうか。しかし考えてみれば、戦時中はそのような悲劇は珍しくありませんでした。スタジオ・ジブリの名作アニメ「火垂るの墓」に登場する節子も、幼くして両親を亡くしています。亡き母の供養のために、蛍の死骸を集めて埋葬する節子の姿は涙なしには観れません。アマンダの母であるサンドリーヌは戦争ではなく、テロが原因で命を落としました。戦争、テロ以外にも災害、事故、病気・・・・・・さまざまな理由で、孤児は生まれていきます。

 

一方、姉を失ったダヴィッドは、姪のアマンダを引き取るのかと友人に問われたとき、「子育てなんて心の準備ができていないし、頼る人もいない」と泣き出します。彼も心の整理ができていないのです。「映画.com」で、映画評論家の矢崎由紀子氏は、「親を亡くした子どもと、その保護者になった人物との触れ合いを題材にした映画には、佳作が多い。喪失を抱えた子どもと、子育てに不安を抱えた保護者が、距離を縮めながら互いに成長していく物語は、心の琴線に触れるヒューマンドラマの王道を行く。そのうえで、『マーサの幸せレシピ』は保護者が料理人、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』は保護者が凄絶な過去の持ち主、『gifted ギフテッド』は子どもが天才、『うさぎドロップ』は子どもが祖父の隠し子と、多種多様な味つけがされている。『アマンダと僕』の場合は、保護者のダヴィッド(バンサン・ラコスト)が、人生の方向が定まらない24歳の若者であるところに特徴がある」と述べています。

 

「アマンダと僕」を観て、わたしは昔好きだったあるドラマを思い出しました。「パパと呼ばないで」というホームドラマで、1972年10月4日から1973年9月19日まで、日本テレビ系列で放送されました。独身男の安武右京(石立鉄男)が亡くなった姉・豊子の子、橋本千春(杉田かおる)を引き取り、東京都中央区佃の米屋・井上精米店の2階に下宿を始めます。子どもの扱いがわからず、とまどう安武でしたが、次第に情が通い、千春はかけがえのない存在になっていくのでした。幼い姪のことを「チー坊」と呼ぶ右京は28歳でしたが、その姿が24歳のダヴィッドと重なりました。2人に共通しているのは、周囲に心ある隣人たちがいて、独身男の子育てを応援してくれることです。「パパと呼ばないで」では、大坂志郎三崎千恵子松尾嘉代、有吉ひとみ、小林文彦、花沢徳衛富士真奈美(のちの冨士眞奈美)といった往年の名優たちが右京と千春の隣人を演じていました。彼らは千春のことを「チーちゃん」と呼んで、かわいがります。あの頃の杉田かおるは可愛かったなあ!

 

最初は亡き母を恋しがって泣いてばかりで心を閉ざしていた千春も、いつしか右京に心を許して「パパ」と呼ぶようになります。アマンダはダヴィッドのことを「パパ」と呼ぶのでしょうか。「アマンダと僕」には、そのシーンは登場しませんが、ラストでアマンダとダヴィッドは自転車に乗り、笑顔で川沿いの道を駆け抜けます。それは、かつてサンドリーヌとダヴィッドの姉弟が自転車で競争したシーンを彷彿とさせました。7歳の少女であるアマンダもあと10年もすれば、美しい娘に成長するでしょう。そして、いつかは花嫁としてウエディングドレスに身を包むかもしれません。そのとき、アマンダの養父であるダヴィッドは何を思うのか。そんなことを考えていたら、また涙腺が緩んできました。素晴らしい映画を紹介して下さった鎌田先生に感謝いたします。
Tonyさん、人生は「ボンジュール」と「オルボワール」の連続ですね!

 

2019年7月19日 一条真也

裕次郎さんの弔い上げ

一条真也です。
東京に来ています。18日は恒例の月次祭および天道塾が開かれる日ですが、今回は参加できません。今日は互助会保証の監査役会上智大学での全互協とのコラボ打ち合わせと重要な仕事が続き、気が抜けません。昨日17日は、昭和の大スター、石原裕次郎さん(享年52)の命日でした。裕次郎さんは1987年に亡くなられました。横浜市鶴見区総持寺では三十三回忌法要が営まれ、ファン500人が参列しました。

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SANSPO.COM(撮影:蔵賢斗)より

 

裕次郎さんの妻で石原プロモーション会長の石原まき子さん(85)は、「あっという間に30年過ぎてしまいました。30年という区切りにおきまして、故人が極楽浄土に参ると聞いております。石原裕次郎もやっと極楽浄土へ行って、ゆっくりしていられるようになったと思っております」と挨拶されました。そして毎年、命日に訪れる多くの同世代のファンについて、「7月17日、午前9時というのがだんだん困難になっておりました。私同様、ご年配の方々が増えて(墓のある)お山へ登ってくる道も大変、困難になってきました。心配でございます」と案じ、「弔い上げと申しまして、30年を区切りに本日で終わらせていただきます」と三十三回忌の節目で公の供養を終えることを告げました。

 

わたしは、「ああ、裕次郎さんが亡くなって、もう30年も経つのか」と思、しみじみと思いました。30年前、わたしは大学生でしたが、裕次郎さんが亡くなったと同時にTVのニュース速報が流れたことを記憶しています。青山葬儀所で営まれた告別式には多くのファンが参列しました。裕次郎さんと同じく、昭和の大スターだった美空ひばりさんの逝去のときも同様でした。時代は令和。昭和は遠くなりにけり。

 

最近の大物芸能人や俳優の死去がなぜかリアルタイムで知らされず、「葬儀は近親者のみですでに終えたという」といった報道に接するたびに、わたしは強い疑問を抱いていました。最近の「知らせない」風潮に対して、あえて物申したいのですが、歌手にしろ、俳優にしろ、芸能人というのはファンあってのもの。ファンに支えられて生活し、輝かしい人生を送ってきたはず。ファンには長年応援してきた芸能人がこの世を去った日にそれを知り、その日に悲しむ権利があるのではないでしょうか。それにしても、30年間も命日に多くのファンに弔ってもらえた裕次郎さんは幸せでした。ファンの方々も、きっと幸せだったと思います。

永遠葬――想いは続く』(現代書林)

 

拙著『永遠葬――想いは続く』(現代書林)で、わたしは「永遠葬」という言葉を提示しましたが、そこには「人は永遠に供養される」という意味があります。日本仏教の特徴の1つに、年忌法要があります。初七日から百ヶ日の忌日法要、一周忌から三十三回忌、そして五十回忌までの年忌法要です。「弔い上げ」には、三十三回忌で行う場合と五十回忌で行う場合とがあります。たとえ五十回忌で「弔い上げ」を行った場合でも、それで供養が終わりというわけではありません。死後50年も経過すれば、配偶者や子どもたちも生存している可能性は低いと言えます。そこで死後50年経過すれば、死者の霊魂は宇宙へ還り、人間に代わってホトケが供養してくれるといいます。

 

つまり、「弔い上げ」を境に、供養する主体が人間から仏に移るわけで、供養そのものは永遠に続くわけです。まさに、永遠葬です。有限の存在である「人」は無限のエネルギーとしての「仏」に転換されるのです。あとは「エネルギー保存の法則」に従って、永遠に存在し続けるのです。つまり、人は葬儀によって永遠に生きられるのです。そう、多くの人々を魅了した石原裕次郎は永遠に生き続けるのです。今夜は、わたしの好きな裕次郎さんの名曲「夜霧も今夜も有難う」をカラオケで歌いたい気分です。

 

2019年7月18日 一条真也

「凪待ち」

一条真也です。
17日、スターフライヤーで東京に来ました。この日はグリーフケア関係の取材、「出版寅さん」こと内海準二さんと出版関係の打ち合わせ後、夜は内海さんと一緒にTOHOシネマズシャンテで日本映画「凪待ち」を観ました。ネットで非常に高評価なのでずっと気になっていたのですが、北九州では上映されていないのです。公開からかなりの時間が経過しているにもかかわらず、劇場はほぼ満席でした。 

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『凶悪』『彼女がその名を知らない鳥たち』などの白石和彌監督がメガホンを取ったヒューマンドラマ。パートナーの女性の故郷で再出発を図ろうとする主人公を、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』シリーズや『クソ野郎と美しき世界』などの香取慎吾が演じる。脚本を『クライマーズ・ハイ』『天地明察』などの加藤正人が担当する」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「木野本郁男(香取慎吾)はギャンブルをやめ、恋人の亜弓(西田尚美)と亜弓の娘の美波(恒松祐里)と共に亜弓の故郷である宮城県石巻に移住し、印刷会社で働き始める。ある日、亜弓とけんかした美波が家に帰らず、亜弓はパニックになる。亜弓を落ち着かせようとした郁男は亜弓に激しく非難され、彼女を突き放してしまう。その夜、亜弓が殺される」

 

いやあ、久々に凄い映画を観ました!
これはもう、今年の「一条賞」の有力候補です。
なんというか、くどいくらいの畳み込み、波状攻撃というべきストーリーで、ようやく登場人物たちの未来に光明が見えてきて、「これでもう終わりかな?」「エンドロールが流れるかな?」と思っても、簡単にそれが裏切られて、また元の木阿弥になってしまう。観ていて、たいそう疲れました。でも、とても面白かったです。「映画とは、こんなにも面白いものか」と思いました。東日本大震災が背景にあるとか、希望と再生の物語とか何とか言うより、とにかく面白い。ダメ男というか人間のクズを演じきった香取慎吾の演技力に脱帽です。正直、彼を見直しました。

 

白石和彌監督の映画を観たのはブログ「凶悪」で紹介した映画(ピエール瀧が出演!)以来だったのですが、内海さんは彼の作品のファンで、けっこう観ているそうです。この人、とにかく人間の闇を描かせたら天下一品ですね。石巻の印刷工場で働く競輪中毒の男とか、その競輪のノミ行為を行う賭場を仕切っているヤクザとか、「世の中には、ここまでクズがいるのか!」と思ってしまう奴らが続々と登場します。しかし、本当は西田尚美演じる亜弓を殺害した犯人が一番クズなのですが、ネタバレになってしまうので、ここで止めておきましょう。それにしても本当に救いのない映画で、内海さんは「映画に出てくるウイスキーもビールも日本酒もみんなマズそうだった。ここまで、酒がマズそうな映画は珍しい」と変なところで感心していました。

 

変なところといえば、わたしも変なところに反応してしまいました。ずばり、競輪の魅力に目覚めてしまったのです。この映画、とにかく競輪のノミ行為の場面がたくさん出てくるのですが、観ているとすごく面白そうで、自分もやりたくなってきます。競輪はわたしの地元である小倉発祥の競技ですが、わたしは一度も競輪をやったことはありません。競輪場にも行ったことはありません。内海さんいわく、「競馬と違って、競輪は人間関係が重要なファクターになる」そうです。つまり、選手同士が先輩・後輩であるとか、出身地が同じとか、そういったことが勝敗に微妙に影響してくるというのです。ならば、人間関係についての著書もあるわたし向きの競技ではないか。選手たちのパーソナル・データを熟知すれば、高い確率で勝てるのではないか。それで、「これからは競輪をやろうかな」と言ったところ、即座に「やめなさい!」と言われました。ぎゃふん!

 

「凪待ち」を観て、香取慎吾以外にも素晴らしい役者さんを発見しました。亜弓の娘である美波を演じた恒松祐里も輝いていましたが、なんといっても、亜弓の父親である勝美を演じた吉澤健が最高に良かったです。最初は勝美を演じているのは奥田瑛二かと思いました。というのも、ブログ「洗骨」で紹介した日本映画で彼はアル中の老人・新城信綱を演じたのですが、その姿に吉澤健演じる勝美がそっくりだったからです。もっとも、「洗骨」の信綱も「凪待ち」の勝美も、ともに最愛の妻を亡くして抜け殻のようになった点は非常に似ていました。吉澤健という俳優さんは知りませんでしたが、ネットで調べてみると、1946年5月10日生まれとあります。なんと、わたしと誕生日が同じではありませんか。一気に親しみが湧いてきましたが、年齢は73歳なのですね。

 

香取慎吾の話に戻りますが、映画の中に数回出てきた食事のシーンがとても良かったです。コンビニのおにぎりを食べるだけで、あそこまで人生を感じさせる演技はなかなかできるものではありません。それに、彼が演じる郁男の表情がとにかく暗い。目が死んでる。まるで生きる屍のようです。これだけの演技ができるというのは、香取慎吾の人生そのものにも何か心に深い傷を残す出来事があったのではと思わずにいられません。そこで思い当たるのが、例のSMAPの解散騒動です。ジャニーズ事務所内の不幸な人間関係のもつれによって、平成を代表する大スターだったSMAPは有終の美を飾ることができませんでした。特に、メンバーの中で最年少だった香取慎吾が最も傷ついたといいます。

 

SMAP解散といえば、香取慎吾木村拓哉との確執が囁かれました。じつは、「凪待ち」を観て、わたしが連想したのは、ブログ「検察側の罪人」で紹介した日本映画でした。「凪待ち」と同じく犯人不明の殺人事件を扱った物語ですが、主役のエリート検事を演じたのが木村拓哉でした。わたしはもともとキムタクの出演する映画はけっこう観ているのですが、俳優としての彼の実力は高く評価しています。ふと、「木村拓哉香取慎吾が殺人事件の映画で共演したらいいな」と思いました。検事と被告でも、刑事と犯人でもいいですが、強者が木村で、弱者が香取の演技合戦を見てみたいです。ジャニー喜多川氏の逝去により、その葬儀(家族葬)で「久々に元SMAPの5人が一堂に会するのでは」と予測されましたが、残念ながら実現しませんでした。その最大の要因は、やはり木村と香取との確執にあったといいます。もし、映画での2人の共演が実現すれば、故ジャニー喜多川氏に対する最高の供養になると思うのですが・・・・・・。

 

2019年7月18日 一条真也

まずはじめに感謝してしまえ(中村天風)

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一条真也です。
言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、異色の哲学者・中村天風の言葉です。
多くの指導者を教えた中村天風は、生涯を通じて感謝の重要性を説きました。彼は、「ありがとう」という気持ちを持ち続けていれば、不平、不満、怒り、怖れ、悲しみなどは自然に消えてなくなると訴えたのです。究極のポジティブ・シンキングですね。「とにかく、まずはじめに感謝してしまえ」というのも天風の言葉です。

 

運命を拓く (講談社文庫)

運命を拓く (講談社文庫)

 

わたしたちは、感謝すべき出来事があって、その後に感謝するのが普通です。しかし天風は、「とにかく、まずはじめに感謝してしまえ」と説きました。いま、ここに「生きている」というだけでも、大きな感謝の対象になるというのです。そうは言われても、「感謝を先にしろ」と言われても、なかなかできるものではありませんね。

 

ここで登場する天風の教えは、非常に実践的です。どうしたら感謝本位の生活ができるのかに言及し、それが「三行」の生活としてまとめられています。わかりやすく言うと、正直・親切・愉快に日々過ごしていくことです。この3つの行いを実践することによって、感謝することが容易にできるようになっていくというのです。

 

冠婚葬祭という営みこそ、感謝の「こころ」を「かたち」にしたです。最近では自分たちを主役と思う新郎新婦が増えてきましたが(それとともに離婚も増えましたが)、結婚式とはもともと両親や参列者に対して新郎新婦が感謝を表明する行事です。また、葬儀とは故人に対して哀悼の意とともに感謝の意を表す儀式です。

 

ですから、結婚式の花嫁の手紙でも、葬儀の友人代表の弔辞でも、最後の一文は「ありがとうございました」という言葉が圧倒的に多いわけです。通過儀礼もしかり。初宮参りにしろ、七五三や成人式にしろ、いずれも神様に「生かしていただいて、ありがとうございます」と感謝する儀式です。冠婚葬祭こそは、人々が「ありがとう」と言う最大の機会となっているのです。

 

2019年7月17日 一条真也