沖縄全戦没者追悼式前夜祭 

一条真也です。沖縄に来ています。
戦後80年の「沖縄慰霊の日」の前日となる6月22日、ブログ「沖縄平和祈念公園」で紹介した「令和7年 沖縄全戦没者追悼式前夜祭」の会場を訪れました。


「沖縄全戦没者追悼式前夜祭」に参加


沖縄平和祈念堂を見上げる

前夜祭の式典は、「沖縄平和祈念堂」で行われます。第二次世界大戦で最後の激戦地となった沖縄は、軍民合わせて約24万人余もの尊い人命を失いました。この悲惨な戦争を二度と繰り返さぬよう世界の人種や国家、思想や宗教のすべてを超越した“世界平和のメッカ”として昭和53年10月1日、この平和祈念堂は開堂しました。


沖縄平和祈念堂の前で


平和祈念像

 

沖縄平和祈念堂の中には、高さ12メートル、幅8メートルの「平和祈念像」が安置されています。これは、沖縄県下の各市町村および学童による募金活動の支援を受けて、沖縄が生んだ傑出した芸術家である山田真山氏が18年余の歳月をかけて原型を制作したものです。この平和祈念像は沖縄の人々あるいは全人類の平和のシンボルです。


前夜祭の会場にて


前夜祭が開始されました


献灯のようす


献鐘を行う遺族のみなさん


黙祷が行われました


わたしも黙祷しました

 

19時から、沖縄全戦没者追悼式前夜祭が開始。二部制で、第一部は「式典」です。開式、献火、献鐘、黙祷、鎮魂(しずたま)のことば、献花の順で行われました。献火は一般財団法人 沖縄県遺族連合会の代表、献鐘は一般財団法人 日本遺族会の代表、黙祷は参列者一同、鎮魂(しずたま)のことばは公益財団法人 沖縄協会の清水治会長、献花は関係機関代表によって行われました。

「鎮魂(しずたま)のことば」のようす


献花は代理だらけでした!

 

式典は厳粛なものでしたが、残念だったのが献花で名前を呼ばれた玉城デニー沖縄県知事をはじめ、沖縄県議会議長、沖縄市長などがいずれも本人ではなく代理だったことです。おそらく要人が集まる翌日の「慰霊の日」の本番に備えて、前夜祭はスルーしたのでしょうが、前夜祭と本番の2日ぐらい頑張っていただきたかったですね。そもそも、行政の首長の最大の仕事とは式典への参加、それも追悼式典への参加ではないでしょうか。

第二部は「琉球音楽献奏及び琉球舞踊奉納」


琉球古典音楽を堪能しました

琉球古典音楽 独唱献奏

琉球舞踊奉納

 

第二部は「琉球音楽献奏及び琉球舞踊奉納」。「琉球古典音楽 合同献奏」「琉球古典音楽 独唱献奏」「琉球舞踊奉納」など、琉球の芸能文化を存分に堪能しました。亡くなった犠牲者たちの魂を慰めたことと思います。5月30日に他界された宗教哲学者の鎌田東二先生は「グリーフケアに最も効果的なのはアートだ!」と喝破されていましたが、生者のグリーフケアだけでなく、死者の鎮魂にも音楽や舞踊などのアートが重要であると痛感しました。


時計台の周囲をロウソクが囲む


「平和80」と書かれたキャンドル・アート

 

沖縄全戦没者追悼式前夜祭がすべて終了して、沖縄平和祈念堂の外に出ると、時計台の周辺を多くのロウソクで囲んでいました。とても美しい光景でしたが、ひときわ明るい光を放っているのは「平和80」の形をしたロウソクでした。それを見て、わたしは、わが社のサンレーグランドホールで行われる「隣人祭り 秋の観月会」でいつも見ているキャンドル・アートを思い出しました。


「平和の礎」からサーチライトが!

とても幻想的な光景でした

 

海側の「平和の礎」の広場からサーチライトが空に向かって放射されていました。4本のサーチライトが夜空を照らしているさまはまことに幻想的で、わたしが考案した月への送魂を連想しました。とても幸せな気分になり、サーチライトとは「幸(さち)光(ライト)」であると思いました。そして、わたしは沖縄戦のすべての犠牲者はもちろん、昨年亡くなった父・佐久間進、先月末に亡くなった“魂の義兄”である鎌田東二先生のことを想いながら、空を仰いで合掌しました。すべての死者が幸せでありますように。世界が平和でありますように・・・・・・。

父や鎌田先生のことを想いました


最後は1本の光に・・・・・・

 

2025年6月22日  一条真也