一条真也です。
沖縄に来ています。戦後80年の「沖縄慰霊の日」の前日、ブログ「ひめゆりの塔」で紹介した慰霊塔を訪れた後、わたしは「令和7年 沖縄全戦没者追悼式前夜祭」の会場である沖縄平和祈念公園を訪れました。
沖縄平和祈念公園にやってきました

翌日の式典会場入口の前で
「令和7年 沖縄全戦没者追悼式」も同じ沖縄平和祈念公園で行われますが、この日は要人が集まるためセキュリテイー・チェックが非常に厳しく、自由に写真撮影などもできないため、前夜祭を訪れることにしました。

式典会場を背に

「沖縄全戦没者追悼式」の祭壇
この公園は、本島南部の「沖縄戦終焉の地」糸満市摩文仁の丘陵を南に望み、南東側に険しく美しい海岸線を眺望できる台地にあります。公園整備は琉球政府時代に着手、復帰後昭和47年から都市公園として本格的な整備を進めています。沖縄県民をはじめ、多くの人々が訪れています。
「平和の丘 モニュメント」を背景に

「平和の丘 モニュメント」の真下で

ガマの内部をイメージしています

全国から千羽鶴が寄せられていました

「平和の丘」に立つ

「平和の丘」から式典会場を望む
広大な公園ですが、まずはひと際目立つ「平和の丘 モニュメント」に向かいました。全体は地下と地上の二重構造で、当時、住民たちが逃げ込んだ洞窟「ガマ」を地下部分に「再現」し、地下の奥まったところで天井部分が開け、「平和の光」(自然光)が差し込む構造になっています。アーチの高さは7.5メートル、幅10.6メートル。デザインは福岡県北九州市の藤波耕司氏によるもので、2001年6月23日に除幕されました。

とても広大な公園です

全学徒隊の碑

全学徒隊の碑の横に立つ

各都道府県別に犠牲者の名前が・・・
公園内には「国立沖縄戦没者墓苑」があります。沖縄県内の戦没者の遺骨は、戦後、生活の復興と同時に、住民の手によって収骨され、各地に納骨所、慰霊塔が建立されました。その後、日本政府が委託建設した中央納骨所へ整理統合されましたが、昭和54年、これらの戦没者を永く追悼するため、摩文仁の丘に新たに造られた国立沖縄戦没者墓苑に遺骨が移されました。納骨堂には約18万余柱の遺骨が納められ、参拝者が絶えません。また、「各県沖縄戦関係慰霊塔エリア/霊域参道」では、参道沿いには32府県の慰霊碑があります。沖縄守備隊第32軍司令官牛島中将が自決した壕もあります。
「平和の礎」

「平和の礎」に向かって祈る

「平和の火」の向こうには海が・・・

「平和の火」の前に立つ
「沖縄県平和祈念資料館」の前で
「沖縄県平和祈念資料館」の回廊で
1995年に除幕した「平和の礎」(平和の火)には、国籍や軍人、民間人を問わず、沖縄戦における全戦没者24万人余の氏名が刻まれており、戦争で肉親を失った遺族や平和学習の団体等、多くの人々が訪れます。また、「平和の礎」内にある広場の中央には「平和の火」が灯されています。この「平和の火」は、沖縄戦最初の米軍の上陸地である座間味村阿嘉島において採取した火と被爆地広島市の「平和の灯」および長崎市の「誓いの火」から分けられた火を合火し、1991年から灯し続けた火を1995年6月23日の「慰霊の日」にここに移し、灯したものです。ちなみに、わたしは8月6日の「広島原爆の日」には広島を、同月9日の「長崎原爆の日」には長崎を訪れます。「平和の礎」の隣接地には「沖縄県平和祈念資料館」が建っています。ここは、悲惨な沖縄戦の実相及び教訓を後世に正しく継承するとともに、平和創造のための学習、研究及び教育の拠点施設として活用されています。
「沖縄平和祈念堂」を」背に

「沖縄平和祈念堂」の前で
平和祈念公園の中核施設は、やはり「沖縄平和祈念堂」です。第二次世界大戦で最後の激戦地となった沖縄は、軍民合わせて約24万人余もの尊い人命を失いました。この悲惨な戦争を二度と繰り返さぬよう世界の人種や国家、思想や宗教のすべてを超越した“世界平和のメッカ”として昭和53年10月1日、この平和祈念堂は開堂しました。
12メートルの「平和祈念像」
沖縄平和祈念堂の中には、高さ12メートル、幅8メートルの「平和祈念像」が安置されています。これは、沖縄県下の各市町村および学童による募金活動の支援を受けて、沖縄が生んだ傑出した芸術家である山田真山氏が18年余の歳月をかけて原型を制作したものです。この平和祈念像は沖縄の人々あるいは全人類の平和のシンボルです。
2025年6月22日 一条真也拝