天皇家とグリーフケア

一条真也です。
いま、わたしは、3連休の初日で賑わう羽田空港のラウンジにいます。これから、スターフライヤーで北九州に戻ります。23日、天皇陛下が64歳のお誕生日を迎えられました。心よりお喜びを申し上げます。


お誕生日に先がけ記者会見を行われた陛下は、能登半島地震で被災した人々について、「長期化する避難生活において、高齢の方々などの病気が悪化したり、体調を崩されたりすることが案じられます」と述べられました。陛下の64歳の誕生日に際して、宮内庁は、両陛下が輪島塗など能登を代表する伝統工芸品を見ながら話をされる映像を公開しました。テーブルには、先月の歌会始で使われた御懐紙箱、両陛下の脇には皇太子時代に石川県を訪問した際、知事から献上された壺や飾盆が置かれていました。いずれも、撮影にあたって両陛下が選ばれた品々で、宮内庁は、被災者の生活が早く元に戻ることを心から願う気持ちを示されたものと拝察するとしています。


23日午前、天皇陛下はお誕生日の一般参賀に、皇后さま、愛子さまのほか、秋篠宮ご夫妻と、ご夫妻の次女・佳子さまと一緒に臨まれます。思えば、1月1日に能登半島地震が発生したとき、それを受けて、2日に予定されていた新年一般参賀は中止となりました。この事実を知ったわたしは、サンレーグループのすべての新年祝意会の開催を中止することを決めたのでした。天皇陛下は来月末に能登半島の被災地への訪問を予定されています。わたし自身も2回現地に赴きましたが、能登半島は一本道で非常に御訪問が困難な場所です。水道も完全に復旧していない上に、セキュリティも難しいことから、ヘリコプターなどを使った御訪問になると思われます。



能登半島地震の正式名称は「令和6年能登半島地震」といいます。令和になってから、もう6年が経過したのです。大正も昭和も平成も、喪中のうちに開始されましたが、上皇陛下は今もご健在です。先帝こと上皇陛下ほど、亡くなった人びと、すなわち死者へのまなざしを忘れなかった方はいらっしゃらないと思います。昭和59年(1984年)4月、結婚25周年の記者会見では、上皇陛下は「政治から離れた立場で国民の苦しみに心を寄せたという過去の天皇の話は、象徴という言葉で表すのに最もふさわしいあり方ではないかと思っています。私も日本の皇室のあり方としては、そのようなものでありたいと思っています」と語られました。上皇陛下と美智子妃は、政治から離れた立場で国民の苦しみに心を寄せることを天皇のもっとも重要な仕事と思われているのである。さらにはその中でも、「声なき人びとの苦しみに寄り添うこと」を最大の責務と考えられておられたようです。



そうした上皇陛下の姿勢がいかに徹底したものであるかは、以下の言葉からもよく理解できます。「日本ではどうしても記憶しなければならないことが4つあると思います。(終戦の日と)広島の原爆の日、長崎の原爆の日、そして6月23日の沖縄の戦いの終結の日、この日には黙とうをささげて、いまのようなことを考えています」(昭和56年[1981年]8月)
「どうしても腑に落ちないのは、広島の(原爆犠牲者の慰霊式の)時はテレビ中継がありますね。それにあわせて黙とうするというわけですが、長崎は中継がないんですね。(略)それから沖縄戦も県では慰霊祭を行なっていますが、それの実況中継はありません。平和を求める日本人の気もちは非常に強いと思うのに、どうして終戦の時と広島の時だけに中継をするのか」(同前)
ちなみに上皇陛下ご自身は、必ずこの4つの日には家族で黙とうをささげ、外出も控えて静かに過ごされてこられた。やむをえず海外を訪問中のときなども、公式日程を少しずらしてもらい、その時間に黙とうされたといいます。


フジテレビ「めざまし8」より

 

まさに天皇陛下こそは日本一の「悼む人」であることがわかります。そして、数々の被災地訪問の様子から、天皇陛下こそは日本一の「グリーフケア」の実践者であることも理解できます。その想いは世代を超えて、このたび64歳のお誕生日を迎えられた天皇陛下、さらには今春から日本赤十字社で働かれる愛子さまにも受け継がれていくことでしょう。これからはグリーフケアの時代だと考えますが、そこでは「喜びも悲しみも共に分かち合う社会」が目標とされます。映画「グリーフケアの時代」は秋篠宮皇嗣妃殿下をはじめ皇族の方々に御覧いただきましたが、ぜひ、天皇ご一家にも御高覧いただくことを願っています。なお、宮内庁には同作品のDVDをお納めしております。

 

2024年2月23日  一条真也