一条真也です。
8月31日の朝、わたしは東京出張の際の定宿であった「赤坂エクセルホテル東急」をチェックアウトしました。この日の11時、同ホテルは54年の歴史に幕を閉じました。わたしは、知っているホテルマンやスタッフの方々に「長い間、お世話になりました。ありがとうございました」と挨拶してから、同ホテルを後にしました。
赤坂エクセルホテル東急
今朝のチェックアウト後の玄関前で
フロントを背景に
ロビーを背景に
1969年(昭和44年)赤坂の中心に赤坂東急ホテル(2002年ブランド再編成により改称)が誕生しました。昭和の日本を代表するグラフィックデザイナー・田中一光によるピンクと白のストライプ柄に彩られた特徴的な外観をまとった建物の様子から、開業当時は「軍艦パジャマ」の愛称で親しまれました。その後現在まで赤坂見附のランドマークとして広く愛され、ビジネスや観光の拠点として営業を続けてきました。
ロビーのようす
ロビーの花を背景に
赤坂エクセルホテル東急は地下鉄赤坂見附駅から徒歩1分、日比谷・銀座・新橋・青山・渋谷・新宿といった東京の中心地にも近く、抜群の立地でした。わたしは、東京出張の際にホテルニューオータニ東京と赤坂エクセルホテル東急を愛用してきたのですが、コロナ以後はずっと赤坂エクセルホテル東急に宿泊していました。
赤坂エクセルホテルの外観
赤坂セクセルホテルの入口
ニューオータニは広大なので、部屋からタクシー乗り場に行くまで10分ぐらいかかるのですが、赤坂エクセルの場合は1分以内でタクシーに乗ることも可能でした。特に、足を骨折したときにエレベーター近くの部屋を利用してからは、ホテル側がずっとエレベーターから一番近い部屋を用意してくれるようになり、利便性が高まりました。
赤坂エクセルホテルの外観
赤坂エクセルホテルを背景に
赤坂エクセルホテルでお会いした方も多く、東急エージェンシーの社長を務められていた新井喜美夫氏や「孔子の子孫」こと世界孔子協会の孔健会長にも初めてお会いしたのはこのホテルです。「出版寅さん」こと内海準二さんともよくこのホテルのレストランで朝食ミーティングをしました。さらには、わたしが東京から北九州に転居するときに、妻・長女と3人で東京最後の夜を過ごしたのもこのホテルでした。本当に思い出は尽きません。
プルデンシャル生命ビルの隣
赤坂エクセルホテルの右隣にあるのは、「プルデンシャル生命ビル」です。ここには昔、「ホテルニュージャパン」が建っていました。じつは、わたしの両親が結婚披露宴を挙げたのがこのニュージャパンでした。わたしが生まれた1963年(昭和38年)、ここの1階にあったナイトクラブ「ニューラテンクォーター」でプロレスの力道山が暴力団員に刺され、その後亡くなったことは有名です。しかし、なんといっても、1982年(昭和57年)に同ホテルで火災が発生し、32人が死亡するという痛ましい出来事がありました。「史上最悪の人災」とも呼ばれ、横井英樹社長(当時)の責任が問われました。
セブンイレブンも今日で閉店
お酒コーナーもガラガラ・・・
タリーズコーヒーも本日閉店
「ステーキくに赤坂店」閉店の案内
赤坂エクセルの閉館に伴って、同じ建物の1階にあったセブンイレブンやタリーズコーヒーなども31日で営業終了します。徒歩1分の場所にあり、よく通っていた「ステーキくに赤坂店」も閉店しました。じつは、コロナ禍時代に、駅前の「コージーコーナー」や「レストラン河鹿」をはじめ、愛用していた赤坂見附の飲食店がたくさん閉店して、寂しい思いをしていました。
DANが入居していた「メトロビル」の前で
DANのマスターとママさん
DANの10周年で熱唱🎵
「カラオケスナックDAN」の前で
閉店した店の中で忘れられないのが、カラオケスナックDANです。赤坂エクセルから徒歩3分の「東京の止まり木」でした。ブログ「さよなら、カラオケスナックDAN」に書いたように、2020年10月20日、最後に同店を訪れました。DANはメトロビルという昭和を連想させるビルの2階にありましたが、ここでわたしは数えきれないほどの歌を熱唱しました。業界の仲間や社員、編集者の方々をはじめ、いろんな人とも御一緒しました。わたしの人生を振り返ったとき、DANの存在は大きいです。
1988年当時の東急エージェンシー本社ビル
「週刊朝日」1988年6月24日号
「AVANT」1988年10月号
「AVANT」1988年10月号
そして、わたしの出身会社であった東急エージェンシーの本社もなくなりました。東急エージェンシーは1970年に渋谷から赤坂に本社を移転。約50年もの間赤坂を拠点としていました。かつては青山通り沿いの社名看板に「赤坂4丁目8番」と記すなど、地域のシンボル的存在でした。2021年の11月1日、同社は本社を東京都港区西新橋に移転しました。再開発地区にオープンしたオフィスビル「日比谷フォートタワー」の17~19階に入居したのです。「赤坂4丁目8番」は伝説となりました。
東急エージェンシー本社跡地
東急エージェンシー本社の入口跡
わたしは1988年に東急エージェンシーに入社し、入社1ヵ月後に処女作『ハートフルに遊ぶ』を同社の出版事業部から上梓しました。そのときの担当編集者が「出版寅さん」こと内海準二さんです。広告代理店の新入社員が出版した同書は大きな話題となり、わたしは何度も新聞や雑誌の取材を受けました。そのとき、いつも東急エージェンシーの本社ビル前で写真撮影しました。「赤坂4丁目8番」は一条真也の生まれた場所なので、寂しい限りです。
8月30日夜の赤坂エクセルホテル東急
そして、きわめつけが赤坂エクセルホテル東急の閉館です。「軍艦パジャマ」と呼ばれ、赤坂見附のランドマークであった同ホテルでなくなることによって、街も一変するでしょう。東急エージェンシーも、DANも、赤坂エクセルホテル東急もない赤坂見附はわたしにとって用のない場所です。おそらく、もうこの街に来ることは激減するでしょう。寂しい限りですが、時代は変化するものなので仕方ありません。わたしは、新しい街でまた新しい時間を過ごします。ありがとう、赤坂エクセルホテル東急。そして、さよなら、赤坂見附!
さよなら、赤坂見附!
2023年8月31日 一条真也拝