「WORTH 命の値段」

一条真也です。
26日の日曜日、シネプレックス小倉で映画「WORTH 命の値段」を観ました。東京のミニシアターでしか観れないと思っていたので、地元のシネコンで鑑賞できるのは有難いです。内容も最高でした。いわゆる社会派の映画ですが、社会派映画に面白い作品が少ないのは事実です。わたしの好きな映画ジャンルはホラーやSFなのですが、この映画は「ホラーとかSFを呑気に観てる場合じゃないな!」と思わせるぐらいの強いインパクトがありました。もちろん、本年度の一条賞の有力候補作品です!


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
アメリ同時多発テロの被害者と遺族に補償金を分配すべく奔走した弁護士たちの実話を描くドラマ。監督は『キンダーガーテンティーチャー』などのサラ・コランジェロ、脚本は『キングコング:髑髏島の巨神』などのマックス・ボレンスタインが担当。テロ犠牲者の命を補償金で換算するという難題に挑んだ主人公を『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』などのマイケル・キートンが演じ、『スーパーノヴァ』などのスタンリー・トゥッチ、『ストレンジ・アフェア』などのエイミー・ライアンらが共演する」

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「2001年9月11日のアメリ同時多発テロ発生直後、政府は被害者と遺族を救済するための補償基金プログラムを設立する。弁護士のケン・ファインバーグ(マイケル・キートン)は特別管理人を任され、約7000人の対象者に支払う補償金額の算出作業を開始。しかし、ケンら弁護士チームは遺族それぞれの苦悩と向き合ううちに、年齢も職種もさまざまな犠牲者たちの『命の値段』をどのように算出するのか葛藤する。厳しい批判にもさらされる中、彼らは法律家として遺族たちのために奔走する」


死別の悲嘆をケアする「グリーフケア」はわたしの専門テーマの1つですが、この映画には次から次にグリーフを抱えた人々が登場します。愛する肉親を失った彼らの悲しみは深いです。生前の収入にどれだけの差があろうとも、その悲しみの深さに変わりはありません。この映画は、同時多発テロの被害者と家族約7000人に補償金を分配する難事業に挑んだ辣腕弁護士の実話に基づいた社会派ドラマです。監督のサラ・コランジェロは、「道徳的にいえば人命を金銭に換算するのは不快感が伴う。人々の悲嘆や喪失感に接し、葛藤する1人の男性の変容に迫りたかった」と述べています。わが社は孔子の唱えた「礼」の心を重んじ、ドラッカーの提唱した「人が主役」の人間尊重経営を目指していますが、この映画は「礼」や「人間尊重」の本質について問いかけているように感じました。

愛する人を亡くした人へ』(現代書林)

 

ケン・ファインバーグはアスベスト枯葉剤などの案件での実績が認められ、アメリカ合衆国政府から9・11同時多発テロの被害者への賠償金の特別管理人に選ばれます。初めて彼が被害者遺族たちに向かい合ったとき、遺族たちは激しい怒りを彼にぶつけました。そのシーンを見て、わたしは拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)で紹介した死別から生じる怒りのことを思いました。死生学の権威であったアルフォンス・デーケン博士は、死別による精神的ショックを受けてから立ち直りまでを12段階のプロセスに分類しています。その中で、ショック状態が収まると徐々に「なぜ自分たちだけが辛い思いをしなければならないのだ」という不当感や、死に至らしめた相手に対する怒りがこみ上げてきます。

 

 

大きくなりすぎた負のエネルギーは、加害者だけでなく、加害者の親族、加害者の所属機関、所属機関の監督省庁をも怒りの対象にすることがあります。さらには、医療機関や葬儀社の社員にまで怒りを向けることがあるのは有名です。映画では、後に被害者たちのリーダーとなるチャールズ・ウルフ(スタンリー・トゥッチ)が、ファインバーグのことを「この人が災難の原因を作ったわけない。この人は、政府の見解を説明しているだけだ」と述べたとき、その場の怒りのエネルギーが沈静化したのが印象的でした。デーケン博士は、「悲嘆教育」と訳されるグリーフ・エデュケーションを提唱しました。愛する人を亡くしたとき、どういう状態に陥ることが多いのか、どんな段階を経て立ち直ってゆくのか、悲嘆のプロセスを十分に商家できなかった場合はどんな状態に陥る危険性があるのかなど、人間として誰もが味わう死別の悲しみについて学ぶのがグリーフ・エデュケーションです。

 

 

特別管理人のファインバーグが同時多発テロの遺族たちに向かい合ったとき、彼は「株で金儲けしている連中と命の値段が違うのか?!」と1人の遺族から糾弾されるシーンがあります。犠牲者の母親からは「うちの子は消防士だったのよ!」という言葉も投げつけられます。わたしは、ブログ『ブルシット・ジョブ』で紹介した本の内容を連想しました。ブルシット・ジョブとは「クソどうでもいい仕事」という意味です。アメリカの文化人類学者デヴィッド・グレーバーが、ブルシット・ジョブのポイントを「生産する経済からケアする経済へ」と一言で説明。彼は、「なぜ、やりがいを感じずに働くひとが多いのか。なぜ、ムダで無意味な仕事が増えているのか。なぜ、社会のためになる職業ほど給与が低いのか」と読者に問いかけ、「労働とは『生産』というより『ケア』だ」と訴えます。


グレーバーは、読者に「ある職種の人間すべてがすっかり消えてしまったらいったいどうなるだろうか、と問うてみること」を薦めています。もし仮に看護師やゴミ収集人、あるいは整備工の方々が消えてしまったら社会は壊滅的になりますし、教師や港湾労働者の方々のいない世の中はただちにトラブルだらけになるでしょう。企業の株の売り買いで収益を得るCEOやロビイスト、広報調査員、保険数理士、テレマーケター、裁判所の廷吏、リーガル・コンサルタントが消えた場合はどうなるか? グレーバーによれば、人々は何ら困らないといいます。看護師、バス運転手、歯科医、道路清掃員、農家、音楽教師、修理工、庭師、消防士、舞台美術、配管工、ジャーナリスト、保安検査員、ミュージシャン、仕立屋、子どもの登下校の交通指導員といった人々のうち、「あなたの仕事は世の中に意味のある影響を与えていますか」という質問に対し、「いいえ」にチェックする者は、およそゼロです。


グレーバーは、「労働とは、槌で叩いたり、掘削したり、滑車を巻き上げたり、刈り取ったりする以上に、ひとの世話をする、ひとの欲求や必要に配慮する、上司の望むことや考えていることを説明する、確認する、予想することである」と述べます。これらの仕事を「ケアリング労働」といいます。「ブルシット・ジョブ」の反対に「エッセンシャルワーク」という言葉があります。医療・介護などをはじめ、社会に必要な仕事のことですが、トイレの清掃も含まれます。わたしは冠婚葬祭業も含まれると考えています。しかも、冠婚葬祭業は他者に与える精神的満足も、自らが得る精神的満足も大きいものであり、いわば「心のエッセンシャルワーク」、「ハートフル・エッセンシャルワーク」とでも呼ぶべきでしょう。それは、この世で最も必要とされる仕事であると言っても過言ではありません。ちなみに、わたしは冠婚葬祭業はハートフル・エッセンシャルワークであると確信しています。


わたしは、いま、『コンパッション!』(仮題、オリーブの木)という本を書いています。「コンパッション」とは仏教でいう「慈悲」のこと。「慈悲」の思想が生まれた背景には悲惨なカースト制度がありました。ブッダは、あらゆる人々の平等、さらには、すべての生きとし生けるものへの慈しみの心を訴えました。つまり、コンパッションには「平等」への志向があるのだと思います。現在、新型コロナウイルスによるパンデミックによって、世界中の人々の格差はさらに拡大し、差別や偏見も強まったような気がします。このような分断の時代に、また超高齢社会および多死社会において、「コンパッション」は求められます。わたしは、この「コンパッション」からスタートして持続的幸福である「ウエルビーイング」へと至るハートフル・サイクルを提唱しているのですが、映画「WORTH 命の値段」に何度も登場するWTC(ワールド・トレード・センター)の文字が「ウェルビーイング・トゥー・コンパッション」の意味に思えてきました。


「WORTH 命の値段」の冒頭、1人の中年女性が登場します。彼女は9・11のWTC爆破で愛する息子を失いました。その遺体は発見されず、彼女は大きな喪失感を抱えます。「あの子の爪1つさえ遺されなかった」と嘆く母親の姿を見て、わたしは3・11東日本大震災のときを思い出しました。東日本大震災における遺体確認は困難を極めた。津波によって遺体が流されたことも大きな原因の一つで、同じ震災でも、阪神淡路大震災のときとは事情が違っていた。「日本史上最悪の埋葬環境」と呼ばれた東日本大震災では、これまでの災害にはなかった光景が見られました。それは、遺体が発見されたとき、遺族が一同に「ありがとうございました」と感謝の言葉を述べ、何度も深々と礼をされていたことです。従来の遺体発見時においては、遺族はただ泣き崩れることがほとんどでした。しかし、東日本大震災は、遺体を見つけてもらうことがどんなに有難いことかを遺族が思い知った初めての天災だったように思えました。遺体を前に葬儀をあげることができるのは、じつは幸せなことなのです。


わたしは、2001年10月1日に株式会社サンレーの社長に就任しました。その直前の9月11日に起こったのが、米国同時多発テロ事件でした。ニューヨークの世界貿易センタービルでは、じつに2753人が犠牲になりました。ブログ「グラウンド・ゼロ」に書いたように、2014年の9月、わたしはニューヨークを訪れました。マンハッタンの各所を回りましたが、「グラウンド・ゼロ」が最も強く印象に残りました。Wikipedia「グランウンド・ゼロ」には、「グラウンド・ゼロ(英: ground zero)とは、英語で『爆心地』を意味する語。強大な爆弾、特に核兵器である原子爆弾水素爆弾の爆心地を指す例が多い。従来は広島と長崎への原爆投下爆心地や、ネバダ砂漠での世界初の核兵器実験場跡地、また核保有国で行われた地上核実験での爆心地を『グラウンド・ゼロ』と呼ぶのが一般的であった。しかし、アメリカ同時多発テロ事件の報道の過程で、テロの標的となったニューヨークのワールドトレードセンター(WTC)が倒壊した跡地が、広島の原爆爆心地(原爆ドーム、正確には原爆ドーム近隣の島病院付近)を連想させるとして、WTCの跡地を『グラウンド・ゼロ』とアメリカのマスコミで呼ばれ、これが定着した」と書かれています。


「9/11 MEMORIAL」に向かう

犠牲になった消防士のモニュメント

 

WTCは、ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社が管理していました。Wikipedia「ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社」の「同時多発テロ事件とその後」には、「2001年9月11日の同時多発テロ事件での世界貿易センターの崩壊は、ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社にも大きな打撃を与えた。港湾公社の本部もまた世界貿易センターにあり、職員にも多くの犠牲を出した。事件当時、約1400名の職員が世界貿易センターで勤務していたと推定されている。そのうち、ポートオーソリティ警察の警官37名を含む、84名の職員が事件で死亡した」と書かれています。事件で死亡した職員の中には、同年4月からエグゼクティブ・ディレクターを務めていたニール・d・レビンやポート・オーソリティ警察の警視フレッド・モローンもいました。



崩壊後の救助作業により、ポート・オーソリティ警察の警官2名が、崩壊から24時間を経過した後で9mもの高さに積み上がった瓦礫の下から救助されました。後に、この2名の警官の救出劇はオリバー・ストーン監督、ニコラス・ケイジ主演の映画「ワールド・トレード・センター」で描かれています。現在、世界貿易センターの跡地には「9・11メモリアル」のモニュメント、そしてフリーダムタワー(Freedom Tower)が建っています。9・11以降じつに半年にわたってニューヨークの人々は悪臭に苦しめられたそうです。雨が降ると、街中にプラスチックの焼ける臭いが立ち込めました。グラウンド・ゼロの地下では、ずっと火が消えておらず、くすぶり続ける大量の瓦礫が山のように積み重なっていました。雨が降ると、それらが自然鎮火されてプラスチックを焼いたような悪臭が漂ったのです。ダウンタウン一帯が悪臭に包まれ、30分もすると頭が痛くなってきたとか。そんな話、現地を訪れて初めて知りました。


全犠牲者の名前がプレートに刻まれています

白いリストバンドを貰いました

 

わたしはグランウンド・ゼロで犠牲者の冥福を祈って合掌し、心からの祈りを捧げました。帰り道、犠牲者のための寄付を募っていました。わたしが貧者の一灯を募金箱に入れると、「9/11 MEMORIAL」と書かれた白いリストバンドを貰いました。20世紀末の一時期、20世紀の憎悪は世紀末で断ち切ろうという楽観的な気運が世界中で高まり、人々は人類の未来に希望を抱いていました。 もちろん、人類の歴史のどの時代もどの世紀も、戦争などの暴力行為の影響を強く受けてきました。20世紀も過去の世紀と本質的には変わりませんが、その程度には明らかな違いがあります。本当の意味で世界的規模の紛争が起こり、地球の裏側の国々まで巻きこむようになったのは、この世紀が初めてなのです。なにしろ、世界大戦が1度ならず2度も起こったのです。その20世紀に殺された人間の数は、およそ1億7000万人以上だといいます。そんな殺戮の世紀を乗り越え、人類の多くは新しく訪れる21世紀に限りない希望を託しました。


しかし、そこに起きたのが2001年9月11日の悲劇だったのです。テロリストによってハイジャックされた航空機がワールド・トレード・センターに突入する信じられない光景をCNNのニュースで見ながら、わたしは「恐怖の大王」が2年の誤差で降ってきたのかもしれないと思いました。いずれにせよ、新しい世紀においても、憎悪に基づいた計画的で大規模な残虐行為が常に起こりうるという現実を、人類は目の当たりにしたのです。あの同時多発テロで世界中の人びとが目撃したのは、憎悪に触発された無数の暴力のあらたな一例にすぎません。こうした行為すべてがそうであるように、憎悪に満ちたテロは、人間の脳に新しく進化した外層の奥深くにひそむ原始的な領域から生まれます。また、長い時間をかけて蓄積されてきた文化によっても仕向けられます。それによって人は、生き残りを賭けた「われら対、彼ら」の戦いに駆りたてられるのです。

ハートフル・ソサエティ』と『心ゆたかな社会

 

グローバリズムという名のアメリカイズムを世界中で広めつつあった唯一の超大国は、史上初めて本国への攻撃、それも資本主義そのもののシンボルといえるワールド・トレード・センターを破壊されるという、きわめてインパクトの強い攻撃を受けました。その後のアメリカの対テロ戦争などの一連の流れを見ると、わたしたちは、前世紀に劣らない「憎悪の連鎖」が巨大なスケールで繰り広げられていることを思い知らされました。まさに憎悪によって、人間は残虐きわまりない行為をやってのけるのです。そんなことを考えて、わたしは『ハートフル・ソサエティ』(三五館)を2005年9月に上梓しました。そして、それから15年後の2020年5月、『心ゆたかな社会』(現代書林)が刊行されました。それから3年後となる今年5月、わたしは次回作『ウェルビーイング?』『コンパッション!』(ともにオリーブの木)の2冊で人類の「平和」と「平等」について改めて広く問いかけたいです。

 

2023年2月27日 一条真也