一条真也です。
今年最後の書評ブログをお届けします。
『あるヤクザの生涯 安藤昇伝』石原慎太郎著(幻冬舎)を読みました。あの石原慎太郎が、伝説のヤクザである安藤昇について書くということだけでも驚きですが、さらに驚いたのは本書を読むことを薦めてくれたのが父だったことです。父は生前の安藤昇に会ったことがあるそうで、「それはもう、大した貫禄だった」と言っていました。
本書の帯
本書のカバー表紙にはタバコをふかす安藤昇の顔写真が使われ、帯には「男の最大の武器は知力と色気、そして暴力!」「特攻隊員、愚連隊、安藤組組長、映画俳優・・・・・・ハジキか女を抱いて寝るような、その破天荒な生き様をモノローグで描ききる圧巻のノンフィクションノベル!」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、「あんた『雪後の松』という詩を知っているかい。昔、ある坊主から教わったんだ。『雪後に始めて知る松柏の操、事難くしてまさに見る丈夫の心』とな。男というのは普段の見かけがどうだろうと、いざと言う時に真価がわかるものだ。松の木は花も咲かず暑い真夏にはどうと言って見所のない木だが、雪の積もる真冬には枝を折るほどの雪が積もっても、それに耐え、青い葉を保っている。それが本物の男の姿だというのだ。俺はこの詩が好きなんだ。(「長い後書き」より)」とあります。
アマゾンより
安藤昇は、ヤクザから俳優に転身した異色の映画スターでした。少年時代は少年院に収容されるなど荒れた生活を送りました。1952年(昭和27年)には不動産の売買や飲食店の用心棒、賭博なども手掛ける東興業を設立。後に「安藤組」と呼ばれる一大組織となり、組長として1000人を超える組員を率いました。その中には、「最強の喧嘩屋」と呼ばれた花形敬や作家の安部譲二らもいました。
1958年(昭和33年)に、後にホテルニュージャパン社長となる実業家の横井英樹とトラブルになり、組員を伴って襲撃事件を起こしました。恐喝などの容疑で指名手配を受け、都内で逮捕。6年間の服役後、64年に安藤組を解散。翌65年に手記『激動』を映画化した「血と掟」に主演して映画俳優に転向し、松竹と専属契約を結びました。精悍なマスクに、左ほおに本物の刀傷がある元ヤクザの迫力もあり、たちまち人気俳優となりました。
本書の冒頭を、著者は「人間の本性はそう簡単に変わるものでありはしない。ましてその時代が人間を生きにくいものにすればなおさらのことだ。特にあの大きな戦争が惨めに終わった後の混乱は腹の立つことばかりだった。あのでかい戦は負けはしたが、それなりに意味があった。この俺もそれを信じて死ぬ覚悟で兵隊になり、志願して特攻隊員にもなったのだ」と書きだしています。兵隊になったことについては、「軍隊と言えば、襟に付けている星が一つ違うだけで絶対の秩序が成立する世界なのに、その中で俺一匹が小さなナイフをかざして俺の言い分をまかり通したという体験は、結局俺の一生を支配する強い信念になったと思う。それは人間の世の中のある部分では、理屈ではなしに理屈からはみ出た暴力が事を容易に左右するという、人の世の隠れた原理への自覚だった。そして俺はそれを選んだ」と書かれています。
戦後、安藤昇は渋谷を本拠に「安藤組」を立ち上げますが、組員の中でも最も有名だったのが「ステゴロ最強ヤクザ」との異名を持っていた花形敬でした。花形が安藤の子分になるとき、花形は殊勝に手をつき、安藤の下で働く約束をしますが、そのときの様子が以下のように書かれています。
その時、テーブルに殊勝に手をついて頭を下げる彼に言い渡した。
「いいか花形、お前の命はこれからこの俺が預かる。生きるも死ぬも俺が決める。勝手なことは許さない。それでいいな」
「結構です」
とあいつも強く頷いた。
それからの彼はうちの看板の戦力となった。
しかし、俺から眺めるとあいつは一種の二重人格だったな。頭がいい癖に粗暴で、何かが気に障ると紙の裏表が引っ繰り返るように人間が一変してしまう。そんな男の手綱はこの俺しか引けはしなかったろう。
(『あるヤクザの生涯 安藤昇伝』P.67~68)
花形敬といえば、あの「日本プロレス界の父」である力道山も恐れた男として知られています。本書には、「男同士の力ずくのいざこざで俺の組の存在感が高まり、世間の耳目を集めたのは、当時人気の高かったプロレスラーの力道山との軋轢だった。相撲の関脇からプロレスラーに転じた彼は外人のレスラーを痛めつけるショウで人気を高め、戦後のアメリカ支配に鬱屈していた国民の憂さ晴らしを代行していることで国民的な人気があったが、それを良いことに増長し、酒癖も悪く顰蹙を買うことが多かった」と書かれています。
安藤組は、地元の博徒落合一家と縁の深いテキ屋の武田組との小競り合いが続いていました。武田組との全面衝突を避けるべく、安藤は武田組の大親分筋の巻頭一円を仕切っている尾津組の親分に掛け合おうとします。懐に拳銃を忍ばせて尾津の自宅を早朝に訪ねた安藤は、尾津から奥の応接間に通されます。緊迫したやり取りの後、尾津組長は以下のように言いました。
「武田にどんな事情があるのか俺にはわからねえが、俺が呼びつけて話してやるよ」「で――」
身を乗り出していった俺を手で制して、
「わかってる、わかってるよ。もう言うな、アハハハハ」
笑い飛ばされて終わりだった。その後、
「おうい、酒を持ってこい」
言われて若い者が持ってきた日本酒を、並べた茶碗に自ら注いでくれた。
その手が緊張で微かに震えているのを俺は見届けた。
(よし、これでこいつには勝った)
密かに俺は思った。
あれは俺の生涯にとっても大層な教訓だった。暴力はこちらも死ぬ覚悟で使わなくては本当の役には立たぬという人生の真理の体得だった。あの大親分の尾津が俺たち若造の前で媚びて震えながら酒を注いでくれたのだ。
(『あるヤクザの生涯 安藤昇伝』P.86~87)
尾津組長には勝った安藤でしたが、ある人物に貫禄負けします。異色の実業家・横井英樹です。後にオーナーを務めるホテルニュージャパンの杜撰な管理によって火災事故を起こしたことで知られる横井を安藤は日本橋のデパート・白木屋の株取得の際にサポートしましたが、安藤組の賭場の常連だった元山富雄社長から依頼を受けます。用件は白木屋の大株主になっていた横井の債務の取り立てでした。安藤は、腕の立つ舎弟の千葉一弘を連れ、懐に拳銃をしまって元山と一緒に出かけました。通された部屋には先客が3人いましたが、安藤が座るなり取り出した拳銃をテーブルに置いたら全員が仰天して離席しました。しかし、まったく動じず、金を返すつもりがないばかりか、安藤のことをチンピラ扱いし、出されたコーヒーをすする安藤に「まったく、うちじゃヤクザの借金取りにまでコーヒーを出すんだからな」と吐き捨てるように言った横井の一言に安藤がキレました。
この男に一杯のコーヒーで蔑まれる覚えはなかった。
この俺とて一介のチンピラから伸し上がって今では少しは名の通った男になっているのだ。その俺と同じように無名無一文の身から這い上がってきた男に、ある種の共感こそ抱いていたが、無理算段で掠めてきた金の多寡が違うことで蔑まれたなら俺の男としての自負が成り立たない。
ならばこの場で、この男をこの手で殺して俺という男を立てて見せてやろうかと思い、テーブルに置いてあるものに手をかけ直した。
しかし、その手を横にいた元山さんが慌てて取り押さえた。
それを見て横井が鼻でせせら笑って、
「お前さん本気かね。お前みたいなチンピラが俺みたいな名の通った経済人を殺したら、すぐに死刑か、まず無期だな。だから帰れ、帰れよ。そのほうが身のためだ、バカはよせよ」
言われたら元山さんが手をかけ強く俺を制したので、立ち上がり、
「覚えていろよ」
捨て台詞を吐いて部屋を出てきてしまった。
(『あるヤクザの生涯 安藤昇伝』P.94~95)
拳銃を前にして、「帰れ」と言い放つ横井も大したもので、後日、「あれは俺の貫禄負けだった」と安藤は著者に語ったそうです。しかし、どうにも腹の虫が収まらず、自分を喪いかけていたことに気づいた安藤は「よし、このまま引き返してあの野郎をやっちまおう」と言ったら、子分の千葉が「それはやばいですよ。あなたはここにいてください。あいつは俺一人でやります。あなたが捕まってしまったら組はどうなります。俺一人でならどこへでも隠れられるし、外国に逃げてもいいんですから。あなたが直にやるのは絶対にやめてください。頼みますから俺一人で」と懇願するので、安藤も「そうか、わかった。そうしよう。その代わり殺すな。心臓は外して右側の肩にでもしておけ」と言いつけ、千葉を送り出したそうです。これが「横井英樹襲撃事件」の真相でした。
さて、横井英樹襲撃事件で逮捕状が出された安藤は、逃亡中に女たちのもとを渡り歩きます。とにかく安藤はモテたようで、34日間の逃亡中にはなんと7人の女がいたとか。その中には、作家の山口洋子、女優の嵯峨美智子などもいました。わたしのような凡人から見ると羨ましいのを通り越して、一種の求道者精神のようなものさえ感じてしまいあますが、そのときのことが本書には以下のように書かれています。
警察の目をごまかして転々と放浪する経験はまたとないもので、俺の第三の人生とも言えそうな新しい張りがあった。中でも俺が愛した女たちの誠意は厄介な出来事の最中だけに如実に身に染みて感じられ、今までのそれとは次元の異なる男と女の繋がりを感じさせてくれた。とりわけ世間にすでに名の知れて通った、後に直木賞を受賞する作家の山口洋子や女優の嵯峨美智子などは指名手配された俺を匿ったことが知れれば致命的なことにもなったろうが。
(『あるヤクザの生涯 安藤昇伝』P.104)
34日間に渡る逃亡劇の末、安藤は葉山の別荘に警察に踏み込まれて、ついに逮捕されます。どうせなら、武士の嗜みとしてオシャレをしていこうと、安藤は真新しい下着に仕立て下ろしの紺の背広、チェック柄のシャツ、ブルーのストライプのネクタイを締めて手錠を受けます。それから葉山警察署、さらに神奈川県警から護送車で東京へ向かいます。臨時ニュースで聞いたらしく沿道には見物人が溢れていたそうです。桜田門の警視庁前には500人ほどの野次馬と報道陣が待ち受けていました。
車から降りた途端、カメラマンたちが俺を取り囲んだ。口々に「もっとゆっくり歩いてくれ」「こっちを向けよ」、それには応えず俺は黙ったまま取調室までの百メートルを十分もかかって歩いた。その間、一度だけカメラに向かってにっこり笑ってみせた。あれは山口洋子との約束だった。
「もし捕まったら、その時は私に向かって笑ってみせてね」
と彼女は言ったのだ。その約束を俺は果たしてやったのだ。あれは俺たちの別れの儀式だった。
(『あるヤクザの生涯 安藤昇伝』P.112)
逮捕された安藤は6年間服役した後、安藤組を解散します。1965年、自らの自叙伝を映画化した『血と掟』(松竹配給)に主演し映画俳優へ転向。この作品がヒットを記録し、松竹と契約金2000万円、1本当たりの出演料が看板女優である岩下志麻を凌ぐ500万円で専属契約を結びました。その後、67年に東映に移籍。この移籍は本来なら五社協定違反でしたが、映画界の慣習を知らない安藤が松竹に「(五社協定なんて)知らない」と言うと、それで通ってしまったといいます。長身ではありませんが、端整な顔立ちに曰くありげな左頬の傷跡、有名暴力団の元組長という類い希な経歴から、数々のヤクザ映画に出演し、人気を博しました。
引退した後、ある週刊誌に載せた俺の自伝が映画化され、大当たりしたのがきっかけで心ならずも映画に俳優として出ることにもなった。これはいい実入りになったのでずるずる居座ったが、映画は所詮作り事で命を張っての緊張がある訳でもなし、誰かが言っていたが男子一生の仕事と思えもしなかった。それにしても俺が死にもの狂いで生きてきた世界の焼き直しの作り物が世間であんなに受けるというのは、人間の本性の裏側に暴力という禁忌なエネルギーへの渇仰が在るに違いない。
(『あるヤクザの生涯 安藤昇伝』P.134)
安藤は、自分が引退した後に出た映画による人気など、これまでの命懸けの綱渡りへの喝采の余禄でしかないと考えていました。松竹・日活・東映各社で多くの主演作を持った安藤は、自ら主題歌も歌い、レコードも数枚リリースしています。俳優となった後も暴力団関係者との交流は続いており、友人がある一家の跡目を襲名した際には、その記念に開かれた賭場に顔を出し、後日警察に逮捕されています。安藤の話によると、この時警察で著書へのサインを頼まれたとか。79年、東映映画「総長の首」出演を最後に俳優を休業。これ以降はごく希にVシネマに客演する程度で、Vシネマのプロデュースや文筆活動に勤しんでいました。
人生はラグビーのボールだとも言うが、地面に落ちた時、どっちに跳ねるかわかったものじゃない。俺がつくった安藤組はヤクザの組織とは違って愚連隊の集まりだから、ヤクザのような仕来りは一切ありはしなかった。俺と舎弟たちとの繋がりは口頭での繋がりだけで盃を交わしたりもせず、ヤクザとは全く違っていた。それが弱みでもあり強みでもあった。それに俺は舎弟たちに入れ墨は一切させなかった。何かの落ち度で指を詰めるなどということもさせなかった。着る物も並みの勤め人と同じにさせていた。その仕来りが不良の学生たちには馴染みやすいものに見えたろう。
(『あるヤクザの生涯 安藤昇伝』P.135)
思えば俺の一生というものは並の人間たちとは違ったものだった。聖人してから脂の乗り切った俺はいつもハジキか女を抱いて寝るような生き様だった。いつも惚れた女のいない人生なんてこの俺には考えられない。そんな人生なんて何の感動もありはしまい。惚れた女の存在だけが男の人生を彩ってくれるのだ。女のことを『色』とも言うが、女こそ男の人生の彩りなのだ。あの俳句の名人の芭蕉のような渋さに徹した男でさえ『万婦ことごとく小町まり』と言っていたそうな。
(『あるヤクザの生涯 安藤昇伝』P.142)
思い返してみれば、十九歳で特攻隊に志願した時、俺の人生は終わったと覚悟したな。終戦を迎えて後の人生は余禄だと思った。顔を切られた時、これで一生をヤクザで終わると腹を決めたよ。前を見つめながら一直線に必死で走ってきたつもりでも、ふと立ち止まり、振り返ってみると、その曲折には唖然とさせられるな。生きようとして叶わず、死のうとしても叶わず。己の知らぬところで運命は決まっていくものなのだなあ。俺の座右の銘は柄にもなく「心善淵」。「心、淵を善とする」だが、つまり変化する速い川の流れの中で深く澱んで静かな淵がいい、深く澱んで静かな川のようになりたいものだが、この年齢になっても俺はまだまだ血が騒ぐんだ。
(『あるヤクザの生涯 安藤昇伝』P.146)
「長い後書き」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
晩節の私が今さらこんな本を書いたことに世間は顰蹙するかもしれないが、肉体派の私にとって死を背景にした暴力なるものは、目を背けることの出来ぬ人生の主題だった。人生の過程にはさまざまな闘いが待ち受けるが、それを克服するためには時には理不尽な力を行使しなくてはならない。それは理性の範疇を超越した行為によってのみ達成され、人はそれを理不尽な行為を見なし、暴挙とも呼ぶが、その行為によってしか達成されぬ事柄が、この世には横溢している。(「長い後書き」)
著者があるとき訪れた八丈島で選挙の話になったとき、あの安藤昇が島に居を構えており、しかも著者を支持していると漏らしたと聞いて、著者は早速ある興味に駆られて過去の伝説を背負った男に会うことを決めました。そして、2人はついに会い、以下のような会話が交わされたといいます。
「この島の友達から、あなたがこの私を支持してくださっているとお聞きしましたので、改めて今後のお願いに参上したのですが」
「あんたは、この国は核兵器を持つべきだと言っているんでしょ。それは今時珍しいことだが、俺も同感だね」
「それは何故です」
思い切って質した私に、薄く笑うと、
「だって相手が拳銃を持っているのに、こちらがドスだけじゃ喧嘩にならないからね。そんな当たり前の道理が何故通らないのかねえ。私みたいな渡世をしてきた人間にはわかりきった話だが、平和惚けしたこの世では通らない話なのかね。しかしあんただけはよく言ってくれたよな」(「長い後書き」)
この安藤の意見にはわたしも基本的に賛成です。しかし、「拳銃」や「ドス」という物騒な単語が出てきますが、若い頃から彼はつねに懐にジャックナイフを、ヤクザなってからは拳銃をしのばせて、相手を脅していたというのが正直ありカッコ良くいと思います。彼の分には「ステゴロ最強ヤクザ」と呼ばれ、力道山も避けたという花形敬や、國學院大學の空手部の元主将だった西原健吾もいたではないですか。西原は、奇妙な縁で石原慎太郎・裕次郎の兄弟とも親交がありました。西原が森戸の浜で慶應の水泳部員7人と喧嘩したとき、一瞬にして全員をノックアウトした姿を眺めて、慶應の不良グループで副番長を務めていた裕次郎がしみじみ、「あいつは強い、本当に強いなあ」と慨嘆していたそうです。安藤昇もチャカやドスに頼るだけでなく、花形や西原のようにステゴロで漢を見せてほしかったと思います。そんな安藤昇も、2015年12月16日に89歳で永眠しました。
2016年2月28日、東京・青山葬儀所で執り行われた安藤昇の「お別れ会」には、北島三郎や岩城滉一や梅宮辰夫なども訪れました。「人生の浮き沈みは人の世の常だが、それは誰のせいでもなく手前自身のせいだ。自分の進め方の選択は自分で決めるしかなく、たとえ誰か信用出来る仲間なり他人に相談して決めたとしても所詮自分の選んだことでしかありはしない。それを後になって悔いたり、ぼやいたりするのはみみっちい姿だ。何が起ころうと愚痴ったり嘆いたりせず、男は棺に入るまで毅然として生き抜きたいと思うがね」と言ったという安藤昇の言葉が胸に沁みます。最後に、ブログ『天才』で紹介した本で田中角栄を、本書で安藤昇の生涯を描いた著者には、昭和三部作の最後として、ぜひ三島由紀夫のノンフィクションノベルを書いていただきたいです!
2021年12月29日 一条真也拝