「来る」   

一条真也です。
7日、この日公開されたばかりの日本映画「来る」を観ました。北九州で撮影されたそうです。「こわいけど、面白いから、観てください。最恐エンターテインメントが、来るぅぅぅ~!!」とのコピーに惹かれましたが、正直あまり「恐い」とは思いませんでした。かなり興味深い内容ではありましたけどね・・・・・・。

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「第22回日本ホラー小説大賞に輝いた澤村伊智の小説『ぼぎわんが、来る』を、『告白』などの中島哲也監督が映画化。謎の訪問者をきっかけに起こる奇妙な出来事を描く。主演を岡田准一が務めるほか、黒木華小松菜奈松たか子妻夫木聡らが共演。劇作家・岩井秀人が共同脚本、『君の名は。』などの川村元気が企画・プロデュースを担当した」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「幸せな新婚生活を送る田原秀樹(妻夫木聡)は、勤務先に自分を訪ねて来客があったと聞かされる。取り次いだ後輩によると『チサさんの件で』と話していたというが、それはこれから生まれてくる娘の名前で、自分と妻の香奈(黒木華)しか知らないはずだった。そして訪問者と応対した後輩が亡くなってしまう。2年後、秀樹の周囲でミステリアスな出来事が起こり始め・・・・・・」

 

中島哲也監督の作品はけっこう好きで、「下妻物語」や「嫌われ松子の一生」は素晴らしい名作でした。ブログ「告白」ブログ「渇き。」で紹介した映画も異色作といった印象で、インパクト大でした。さすが、80年代から気鋭のCMディレクターとして名を馳せただけあって、中島監督には豊かな才能を感じます。
なによりも、岡田准一妻夫木聡黒木華松たか子小松菜奈・・・・・・よくぞここまで演技派にして個性派の俳優を集めたものです。特に、松たか子小松菜奈の霊能者姉妹の強烈なキャラクター設定や黒木華の妖艶さには驚かされました。彼女たちをこんなふうに使うとは、やはり中島哲也はタダ者ではありません。

 

この映画、わたしには、けっこう不愉快でした。
イクメン・パパを気取って、「泣き虫パパの子育て日記」というくだらない妄想ブログを書く妻夫木聡演じる田原秀樹が気持ち悪いということもありますが、それよりも映画の中に出てくる冠婚葬祭の描写に悪意を感じたからです。
冒頭から、地方の旧家の十三回忌のシーンが登場するのですが、年忌法要を旧・有縁社会の負の産物のように醜悪に描いていました。その旧家は田原秀樹の実家で、彼は妻の香奈(黒木華)を連れて帰るのですが、香奈は非常に窮屈で嫌な思いをします。
また、彼らの結婚披露宴のシーンも登場しますが、これも「結婚披露宴に何かトラウマでも?」と中島監督に訊ねたくなるほどに不快指数の高い描き方をしていました。

決定版 冠婚葬祭入門』(実業之日本社

 

拙著『決定版 冠婚葬祭入門』(実業之日本社)にも書きましたが、わたしは、人間が幸せに生きていくうえで冠婚葬祭ほど大事なものはないと思っています。現在の日本社会は「無縁社会」などと呼ばれていますが、この世に無縁の人などいません。どんな人だって、必ず血縁や地縁があります。「縁」という目に見えないものを実体化して見えるようにするものこそ冠婚葬祭だと思います。結婚式や葬儀、七五三や成人式や法事・法要のときほど、縁というものが強く意識されることはありません。冠婚葬祭が行われるとき、「縁」という抽象的概念が実体化され、可視化されるのではないでしょうか。

儀式論』(弘文堂)

 

しかし、この「来る」という映画、冠婚葬祭の描き方はひどかったですが、儀式そのものは違いました。「これほど儀式のダイナミズムを表現した映画がこれまで存在したか!」と思えるほど、空前の儀式エンターテインメント映画だったのです。「儀式バカ一代」を自認するわたしは狂喜しましたね。拙著『儀式論』(弘文堂)にも書きましたが、日本には、茶の湯・生け花・能・歌舞伎・相撲といった、さまざまな伝統文化があります。そして、それらの根幹にはいずれも「儀式」というものが厳然として存在します。すなわち、儀式なくして文化はありえないのです。儀式とは「文化の核」と言えるでしょう。儀式は、地域や民族や国家や宗教を超えて、人類が、あらゆる時代において行ってきた文化です。哲学者のウィトゲンシュタインが語ったように、人間とは「儀式的動物」であり、社会を再生産するもの「儀式的なもの」であると思います。

 

その儀式とは、何か邪悪なものが来るのを迎える儀式です。松たか子演じる最強の霊能者・比嘉琴子が「あれ」を迎えて祓うための儀式です。彼女は沖縄のユタの出身であり、その意味では琉球神道、さらには内地の神道の儀式なのですが、観客はどうしてもエクソシストを連想してしまいます。
わたしは今春から上智大学グリーフケア研究所客員教授に就任しましたが、上智といえば日本におけるカトリックの総本山です。カトリックの文化の中でも、わたしは、エクソシズム(悪魔祓い)に強い関心を抱いています。なぜなら、エクソシズムグリーフケアの間には多くの共通点があると考えているからです。エクソシズムは憑依された人間から「魔」を除去することですが、グリーフケアは悲嘆の淵にある人間から「悲」を除去すること。両者とも非常に似た構造を持つ儀式といえるのです。

 

また、来年4月いっぱいで、平成は終わります。
その後、「大嘗祭」という儀式によって新天皇が誕生します(最近、この大嘗祭についていろいろと異議を唱える方がいるので困ったものですが)。この神道の秘儀である大嘗祭と、キリスト教の秘儀であるエクソシズムは正反対の構造をしています。大嘗祭とは「聖」を付着させること、エクソシズムとは「魔」を除去することだからです。いつか、わたしは『大嘗祭エクソシズム~儀式の秘密をさぐる』という本を書きたいと思っています。それで、カトリックの悪魔祓いに関心を抱いたわたしは、関連書を固め読みしました。いずれ、それらは当ブログでも紹介したいと思います。

 

エクソシズム」という言葉を日本人が知ったのは、何といっても映画「エクソシスト」(1973年)が公開されてからでしょう。この映画はホラー映画の歴史そのものを変えたとされています。中島監督はホラー映画をほとんど観ておらず、「エクソシスト」と「シャイニング」(1980年)の2本くらいしか記憶に残っていないとコメントしているそうですが、映画「来る」には、このホラー映画史に残る二大名作を連想させるシーンが登場します。

 

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

 

 

さて、比嘉琴子は何を祓おうとしているのか。一体、何が「来る」のか。この映画の原作は澤村伊智の小説『ぼぎわんが、来る』(角川ホラー文庫)ですが、「ぼぎわん」とは何なのか。結論から言うと、「ぼぎわん」とは来訪神のような存在であると思われます。それは限りなく魔物とか妖怪に近いのですが、あくまでも神であり、だからこそ丁重な儀式を行うことによって恭しく迎え入れる必要があるのです。

 
来訪神といえば、今年の11月29日、ユネスコの政府間委員会は29日、無形文化遺産に「男鹿のナマハゲ」(秋田県)など8県の10行事で構成される「来訪神 仮面・仮装の神々」を登録することを決定しました。2009年に単独で登録された「甑島(こしきじま)のトシドン」(鹿児島県)に、新たに9行事を加えて1つの遺産として申請していたそうです。来訪神は、季節の変わり目に異世界からの神に扮した住民が家々を巡り、災厄を払う民俗行事です。集落全体で伝承し、地域の絆を強める役割を果たします。

 

じつは、その起源は分かっておらず、何世代も受け継ぐ間に鬼のイメージが定着した地域もあります。ユネスコ無形文化遺産に登録された10行事はいずれも国の重要無形民俗文化財に指定されており、保護が図られてきました。今回は、アワビの殻を吊り下げた「吉浜のスネカ」(岩手県)や渦巻き模様の耳を持つ「薩摩硫黄島メンドン」(鹿児島県)、他にも「米川(よねかわ)の水かぶり」(宮城県)「遊佐(ゆざ)の小正月行事」(山形県)「能登のアマメハギ」(石川県)「見島(みしま)のカセドリ」(佐賀県)「悪石島(あくせきじま)のボゼ」(鹿児島県)「宮古島パーントゥ」(沖縄県)が登録されました。

 

しかしながら、わたしは日本を代表する来訪神は、「アカマタ・クロマタ」であると考えています。アカマタ・クロマタは、沖縄県八重山諸島西表島東部の古見を発祥とし、小浜島石垣島宮良、上地島に伝わる来訪神です。アカマタ・クロマタ男女二神は、旧七月の「プール」または「プーリ」と呼ばれる豊年祭に出現します。これは、その年の作柄を感謝し、来期の豊作を予祝するための祭りです。拙著『儀式論』(弘文堂)の「祭祀と儀式」でも「アカマタ・クロマタ祭祀」について詳しく書きましたが、この祭祀をテーマにしたホラーが荒俣宏氏の『二色人の夜』(角川ホラー文庫)です。その物語は、『ぼぎわんが、来る』の世界観と通じています。

 

 

アカマタ・クロマタの男女二神は、旧七月の壬・癸の日に出現しますが、神々は太陽が没して夜の世界になって初めて、集落の外にある「ナビンドゥ」と呼ばれる洞穴から出現します。神々は暗い洞穴の世界から、夜の世界に現れてくるのです。出現した男女二神は村人の歓喜と畏敬に迎えられて集落に入ります。それから、アカマタ祭祀集団とクロマタ祭祀集団のそれぞれの宗家を訪れ、神詞を唱えます。そしてアカマタ神はアカマタ組の家々を、クロマタ神はクロマタ組の家々を訪れ、「世」を授けるのです。

 

しかしこの1年、共同体の掟を犯したり、秩序を乱したものは、神々の怒りに触れ、神々が右手にたずさえている杖で打たれます。神の杖に打たれた者は、1年以内に死亡したり不幸な目に遭うとされています。神々による家回りが終ると、日の出前に集落のはずれで両神が落ち合います。そして、村人の感謝と別れの悲しみの中を両神は再び洞穴の中へ去っていきます。やがて日の出を迎えると、共同体は新生し、新しい秩序を回復して新しい生活が始まるのです。

 

この「アカマタ・クロマタ祭祀」は秘祭であり、写真・ビデオ撮影や口外も厳しく禁じられています。沖縄の祭祀を研究し続けた社会人類学者の村武精一氏は著書『祭祀空間の構造』で「なぜ〈アカマタ・クロマタ〉祭祀が研究者や観光客を拒否して、その儀礼生活の完全性を追求するか」という問いを立てています。その答えは、祭りを担う人々は、自分たち共同体の始源的世界に回帰することによって、来たるべき1年の「活力」を真に獲得できることを体得しているから。つまり、真の「力」は、自分たちの「この世」をもたらしてくれた祖型世界への回帰を、何びとにも邪魔されたり犯されたりすることなく遂行することによって得られるというのです。



当然ながら、祭りはもともと、「よそもの」のためにあるものではなく、真に連帯できる人間のためにあるものです。そのことをはっきり知っている人々が、研究者や観光客を拒否して、祭祀の完全性を追求するのだというわけです。祭祀の対象となる超越的な存在は「この世」に幸と豊穣の「力」を授けてくれるものとして、ときには来訪神として、ときには「この世」の人の目にはみえない霊的存在として現れてきます。村武氏は同書で「このような広義の神々の訪れによって人びとは祝福をうけ、豊穣を授かる。こうして共同体祭祀においては、《祝祭》の性格が強調される」と述べています。
ならば、「来る」の来訪者も人びとに祝福を与え、豊穣を授けるのでしょうか。いずれにせよ、この前代未聞の儀式映画、非常に興味深く観ました。

 

2018年12月8日 一条真也