道は爾きにあり而るにこれを遠きに求む(孟子)


一条真也です。
「道」といえば、道教の思想のように思われますが、儒教においても重要な概念でした。「道」は、もともと道路の意味です。そこから道理・方法などの意味が生まれ、孔子を祖とする儒教では、仁義などの徳目が人のよるべき道として掲げられました。すなわち道とは、これによらなければ、人間が存在することができないもの、生活して行動してゆくことができないものなのです。したがって、人間が生活するに当たって一番大事なことは、まず道をつけることです。孔子の後継者である孟子も、道を求めました。


孟子〈上〉 (岩波文庫)

孟子〈上〉 (岩波文庫)

孟子〈下〉 (岩波文庫)

孟子〈下〉 (岩波文庫)


日本人は、「道」という考え方が好きです。
茶道に華道、書道に歌道、剣道や柔道といった武道はもちろん、双葉山は相撲道を、松下幸之助は経営道を提唱しました。サンレーグループ佐久間進会長は、礼法を礼道に高めたいと願っています。
しかし、道を学ぶ人間の中には、とかく観念的・抽象的になって、実際の生活から離れがちの人もいるようです。そこで、その弊害を戒め、昔から禅僧などがよく手厳しい警告を行っています。かって、趙州和尚に雲水が「道とは何ですか」と言って尋ねました。
和尚答えて言うには「道ならそこの垣根の外にあるではないか」「私の尋ねておるのはそんな道ではありません。大道です」「大道、長安に通る。大道か、それならあの道だ。長安の都に通じておる」 
今なら国道一号線というところでしょうが、これはつまり観念の世界や論理の遊戯に堕することを戒めたものです。



孟子』には、「道は爾(ちか)きに在り、而(しか)るにこれを遠きに求む」とあります。生きていくうえでの原理・原則というものは、案外に平凡で常識的であることが多いですね。孟子が言うように、人間の踏むべき道は、どこか高遠なところにあるように見えて、実は日常の身近なところにあるのでしょう。たとえば、職場の人間関係がこじれて暗い雰囲気が漂っていた会社が、あるとき、些細なことから明るくなった。そのきっかけは、社員の1人がはじめた大きな声の「おはよう」という挨拶だった。誰にでも実行できてしかも大事なことというのは、このようなごく平凡で些細なことなのです。



宋代には「道・器の論」が盛んに論じられました。「器」というものは用途によって限定されています。茶碗がどんなに立派だろうが、また便利だろうが、器はどこまでも器であって、無限ではなく、自由ではない。これに対して「道」というものは、無限で自由なものである。したがって「道」に達した人は、何に使うという限定がなく、まことに自由自在で、何でもできる。
すなわち、こういう人を「道人」というのです。



企業においても経営道、営業道、企画道、経理道、総務道、人事道、秘書道・・・・・さまざまな道がありますが、すべてのプロフェッショナルは自由自在な道人をめざしたいものです。
なお、今回の孟子の名言は『龍馬とカエサル』(三五館)にも登場します。


龍馬とカエサル―ハートフル・リーダーシップの研究

龍馬とカエサル―ハートフル・リーダーシップの研究

*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2017年3月10日 一条真也