上智大学でグリーフケアを語る

一条真也です。
1日の夜、東京に入りました。
2日は全互連、3日は全互協の理事会が行われるのです。
さて、わたしはNIKKEI STYLE「一条真也の人生の修め方」というコラムを連載しています。第37回目となるコラムが本日アップされました。


「上智大学でグリーフケアを語る」


今回のタイトルは、「上智大学でグリーフケアを語る」です。
7月20日、上智大学で特別講義を行いました。同大学グリーフケア研究所の島園進所長からのお招きです。島薗所長は日本における宗教学界の大御所で、死生学の権威です。2コマの連続講義で、「儀式」をテーマとした第1部に続いて、第2部では「グリーフケアの時代」と題して、死別の悲嘆ケアについて話しました。



上智大学といえば、日本におけるカトリックの総本山ですが、わたしは仏教の開祖であるブッダの話をしました。「釈尊」ことブッダは、「生老病死」を苦悩としました。わたしは、人間にとっての最大の苦悩は、愛する人を亡くすことだと思っています。老病死の苦悩は、結局は自分自身の問題でしょう。しかし、愛する者を失うことはそれらに勝る大きな苦しみではないでしょうか。



配偶者を亡くした人は、立ち直るのに3年はかかるといわれています。幼い子どもを亡くした人は10年かかるとされています。この世にこんな苦しみが、他にあるでしょうか。一般に「生老病死」のうち、「生」はもはや苦悩ではないと思われています。しかし、ブッダが「生」を苦悩と悟ったのは、「生まれること」ではなくて、愛する人を亡くして「生き残ること」ではなかったかと、わたしは思うのです。



グリーフケアとしての読書」についても話しました。もともと読書という行為そのものにグリーフケアの機能があります。これまでは自分こそ「この世における最大の悲劇の主人公だ」と考えていても、読書によってそれが誤りであったことを悟るのです。長い人類の歴史の中で死ななかった人間はいません。愛する人を亡くした人間も無数に存在します。その歴然とした事実を教えてくれる本というものがあります。それは宗教書かもしれませんし、童話かもしれません。いずれにせよ、その本を読めば、「おそれ」も「悲しみ」も消えてゆくことでしょう。



なお、第38回目のアップは8月16日(火)を予定しています。
タイトルは、「島田裕巳氏と葬儀について語り合う」です。
先日、宗教学者島田裕巳氏と対談しました。島田氏との共著『お葬式を問う』(仮題、三五館)の巻末企画です。これまで往復書簡の形で、「葬儀」をテーマに何通か手紙のやりとりをしてから最後に対談したのです。
かつて、わたしは島田氏の『葬式は、要らない』というベストセラーに対し、『葬式は必要!』を書きました。それから5年後、再び島田氏の著書『0葬』に対抗して本書『永遠葬』を執筆しました。当事者のわたしが言うのも何ですが、理想的な議論が実現したのではないかと思います。けっして馴れ合いではなく、ときには火花を散らしながら、ある目的地に向かっていく。今後の日本人の葬送儀礼について、意義深い対談となったように思います。
次回は、そんな話を書きます。どうぞ、お楽しみに!



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年8月2日 一条真也