終活パネルディスカッション

一条真也です。
ブログ「人生の卒業式入門」で紹介した基調講演の後、パネルディスカッションが開催され、わたしもパネリストの1人として参加しました。
テーマは、「次世代に繋げるあなたらしい人生のひとこま」です。


パネルディスカッションのようす

このメンバーで行われました



パネリストは以下のメンバーです。
一条真也(作家・株式会社サンレー代表取締役社長)
松股孝氏(日本尊厳死協会九州支部理事・医師・ロシナンテス理事)
西村達也氏(浄土真宗本願寺派無量山西法寺・住職)
山崎裕一氏(北九州成年後見センター センター長・司法書士
コーディネーターは、権頭喜美惠氏(社会福祉法人もやい聖友会理事長)です。
最初に、司会よりパネリストとコーディネーターの簡単な紹介があり、コーディネーターである権藤・もやい聖友会理事長にバトンタッチされました。


コーディネーターの権頭喜美惠氏

日本尊厳死協会の松股孝氏

無量山西法寺の西村達也氏

北九州成年後見センターの山崎裕一氏



権藤理事長より「終活を人生の終わりに対する活動と考える事が多いのですが、そうではなく、よりよい生き方をすることによって、自分だけではなく次の世代の残された人にとっても後悔のないものとしたい。終わりではなく、次につなげていく活動と考えたい」と語られ、パネルディスカッションが開始されました。
権藤理事長は、各パネリストに対して、個別の質問が投げかけられました。


さまざまな意見をお聴きしました



わたしは、「一条さんの著書に『老福論』がありますが、そのサブタイトルが『人は老いるほど豊かになる』です。老いるほど豊かになるという事は、人生の中で死を迎える時が、その方にとって最高の時であるべきではないかと思うのですが、老いて得られる豊かさ、または、後世に伝えたい、人生の中で残したいことを、お話いただけませんでしょうか?」と言われました。


最初に、「老い」の豊かさについて話しました



それに対するわたしのコメントは以下の通りです。
「日本人の自死が1年間で3万人を超えています。そのネガティブ・トレンドを食い止めるキーワードこそ、『老福』です。『人は老いるほど豊かになる』の短縮形が『老福』です。自死の多くは高齢者ですが、わたしたちは何よりもまず、『人は老いるほど豊かになる』ということを知らなければなりません」
「現代の日本は、工業社会の名残で『老い』を嫌う『嫌老社会』です。
近代工業社会はひたすら『若さ』と『生』を謳歌し、讃美してきました。
しかし、高齢化社会では『老い』と『死』を直視して、前向きにとらえていかなければなりません。今こそ幸福な『老い』と『死』のデザインが求められています。
日本は世界でもっとも高齢化が進行している先進国ですが、その中でも北九州市はもっとも高齢化が進行している政令指定都市です。つまり、北九州市は世界一の超高齢化都市と言っても過言ではないでしょう」
「高齢化が進む日本の諸都市、世界各国の大都市にとって北九州市とは自らの未来の姿そのもの。ぜひ、高齢者が多いことを『弱み』ではなく『強み』ととらえていくべきです。かつて、公害都市から環境都市へと見事に変身した北九州市なら、世界一の高齢者先進都市に生まれ変われるはず。『禍転じて福となす』の発想で、人が老いるほど豊かになる世界一の『老福都市』をつくりたいですね」


コーディネーターから意見を求められる



また、「多くの場面で、家族との別れにあたって後悔されていらっしゃる方に接することがあります。それぞれのお立場でのご経験もおありかと思いますが、その具体的な事例と、そうならないためにどのようにすべきかなどございましたら、お話をお願いします」と言われました。
わたしは、まず「孤独葬」について以下のように話しました。
「わたしは、日々いろんな葬儀に立ち会います。中には参列者が1人もいないという孤独な葬儀も存在します。そんな葬儀を見ると、わたしは本当に故人が気の毒で仕方がありません。 亡くなられた方には家族もいたでしょうし、友人や仕事仲間もいたことでしょう。なのに、どうしてこの人は1人で旅立たなければならないのかと思います」


「孤独葬」について話しました




「もちろん死ぬとき、誰だって1人で死んでゆきます。
でも、誰にも見送られずに1人で旅立つのは、あまりにも寂しいではありませんか。故人のことを誰も記憶しなかったとしたら、その人は最初からこの世に存在しなかったのと同じではないでしょうか。『ヒト』は生物ですが、『人間』は社会的存在です。『ヒト』は、他者から送られて、そして他者から記憶されて、初めて『人間』になるのではないかと、わたしは思います」



「わが社のミッションは『人間尊重』であり、『冠婚葬祭を通じて良い人間関係づくりのお手伝いをする』です。ですから、参列者がゼロなどという葬儀など、この世からなくしてしまいたいと考えています。2008年からは『隣人祭り』のお世話をさせていただいています。 隣人祭りは、生きている間の豊かな人間関係に最大の効果をもたらします。また、人生最後の祭りである『葬祭』にも大きな影響を与えます。隣人祭りで知人や友人が増えれば、当然ながら葬儀のときに見送ってくれる人が多くなるからです」


死は最大の平等です!



「人間はみな平等です。そして、死は最大の平等です。その人がこの世に存在したということを誰かが憶えておいてあげなくてはなりません。親族がいなくて血縁が絶えた人ならば、地縁のある地域の隣人が憶えておいてあげればいいと思います。わたしは、参列者のいない孤独葬などのお世話をさせていただくとき、いつも『もし誰も故人を憶えておく人がいないのなら、われわれが憶えておこうよ』と紫雲閣のスタッフに呼びかけます。でも、本当は同じ土地や町内で暮らして生前のあった近所の方々が故人を思い出してあげるのがよいと思います。そうすれば、故人はどんなに喜んでくれることでしょうか!」


家族葬についても話しました



また、わたしは「家族葬」についても話しました。
「最近、訃報を関係者に知らせない方が多くなってきました。近親者のみで葬儀をあげる方が多くなってきたのです。
『葬儀に来てくれそうな人たちが、みんなあの世に逝ってしまった』『長い間、闘病してきたので、さらに家族に迷惑はかけたくない』、だから『ひっそりとした葬式を行いたい』、こうした話しを聞くたびに、本音の部分はどうなのかと思ってしまいます。お世話になった方々、親しく交際してきた方々に見送られたいというのが、本当の気持ちなのではないでしょうか。その本当の気持ちを押し殺して、生前の故人が気をつかったというケースが多いのではないでしょうか。
本当は、お世話になった方々にお礼を言いたいのではないでしょうか。短い時間ではありますが、自分のことを思い出してもらい、ともに過ごした時間を共有したいのではないでしょうか。このことは、会葬に訪れる方々にとっても同様です」


「縁」や「絆」について考えを述べました



「『縁』や『絆』というものは、本来お互いに迷惑をかけ合うものなのです。
そもそも、縁ある方の葬儀に参列することは迷惑でも何でもありません。
それは、古代からずっと続いてきた人間として当然の行為なのです。
最近、『西日本新聞』の北九州版で訃報記事がスタートしました。
新聞のおくやみ記事は、多くの方々の目に触れます。『あっ、あの方が亡くなったのか』と驚かれることも多くなるでしょう。ぜひ、そのときはお通夜かお葬儀に参列していただきたいと思います。故人と知り合いだった方、ご近所に住んでおられた方には特にお願いしたいと思います」


さまざまな質問が出ました



最後に、「無縁社会とか孤独死など社会問題として取り上げられることも多いですが、終活そのものがこれら社会問題の解決の糸口となるのではないかと考える事があります。それぞれのお立場から、お話を頂戴できませんでしょうか」との問いかけがありました。
わたしは、それに対して以下のようにお答えしました。


尊厳死について



「これまでの日本では『死』について考えることはタブーでした。でも、よく言われるように『死』を直視することによって『生』も輝きます。
その意味では、自らの死を積極的にプランニングし、デザインしていく『終活』が盛んになるのは良いことだと思います。
一方で、気になることもあります。『終活』という言葉には何か明るく前向きなイメージがありますが、わたしは『終活』ブームの背景には『迷惑』というキーワードがあるように思えてなりません。
みんな、家族や隣人に迷惑をかけたくないというのです。
『残された子どもに迷惑をかけたくないから、葬式は直葬でいい』『子孫に迷惑をかけたくないから、墓はつくらなくていい』『失業した。まったく収入がなく、生活費も尽きた。でも、親に迷惑をかけたくないから、たとえ孤独死しても親元には帰れない』『招待した人に迷惑をかけたくないから、結婚披露宴はやりません』『好意を抱いている人に迷惑をかけたくないから、交際を申し込むのはやめよう』。すべては、『迷惑』をかけたくないがために、人間関係がどんどん希薄化し、社会の無縁化が進んでいるように思えてなりません。
結果的に夫婦間、親子間に『ほんとうの意味での話し合い』がなく、ご本人がお亡くなりになってから、さまざまなトラブルが発生して、かえって多大な迷惑を残された家族にかけてしまうことになります。その意味で『迷惑』の背景には『面倒』という本音も潜んでいるように思います。みんな、家族や夫婦や親子で話し合ったり、相手を説得することが面倒なのでしょう」


わたしは「真の終活」について話しました



そして、わたしは大きめの声で、次のように訴えました。
「そもそも、家族とはお互いに迷惑をかけ合うものではないでしょうか。
子どもが親の葬式をあげ、子孫が先祖の墓を守る。
当たり前ではないですか。そもそも“つながり”や“縁”というものは、互いに迷惑をかけ合い、それを許し合うものだったはずです。
『迷惑をかけたくない』という言葉に象徴される希薄な“つながり”。
日本社会では“ひとりぼっち”で生きる人間が増え続けていることも事実です。
しかし、いま『面倒なことは、なるべく避けたい』という安易な考えを容認する風潮があることも事実です。こうした社会情勢に影響を受けた『終活』には『無縁化』が背中合わせとなる危険性があることを十分に認識すべきです。この点に関しては、わたしたち一人ひとりが日々の生活の中で自省する必要もあります」
わたしは、後悔しない人生を考える「真の終活」についてお話しました。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2014年2月15日 一条真也