おくやみ記事

一条真也です。
本日の「西日本新聞」北九州版で画期的な試みがスタートしました。
亡くなられた方の記事(訃報記事)を掲載する「おくやみのページ」の開始です。「無縁社会」を乗り越えるために、きわめて意義のある試みです。


西日本新聞社の許可を得て掲載しております)



今朝の「西日本」朝刊に入っていたチラシには、「親交のあった方々へ、大切なお知らせを・・・おくやみ記事を掲載しています。」と大きく書かれ、続いて次のような説明があります。
西日本新聞は、ご遺族の方のために、あるいは親交のあった故人の知人・友人の方々のために、お悔やみを紙面を通してお知らせするお手伝いをいたします。(訃報記事:氏名、亡くなった日、享年、住所、葬儀・告別式会場、喪主など。掲載に関する、ご連絡・お問合せは下記連絡先までお願いいたします。)情報を提供していただいても、ご遺族(喪主の方など)のご了解なき場合は、紙面掲載はいたしません。
(ご掲載連絡先)
西日本新聞慶弔センター フリーダイヤル0120−582−244
●おくやみ専用フリーダイヤル 【受付時間】午前9:30〜午後4:00まで」



訃報記事の掲載には大きな意義があります



サンレーグループは、特に北九州、沖縄、北陸で重点的に冠婚葬祭事業を展開しています。これまで沖縄の「琉球新報」および「沖縄タイムス」、北陸の「北國新聞」では訃報記事が掲載されており、それを読んだ方々が通夜や葬儀に参列するという習慣がありました。それによって地縁が強化されます。全国でも最も高齢化が進んでいるといわれる北九州市において、新聞に訃報記事が掲載されるというのは非常に意義のあることだと思います。



最近、訃報を関係者に知らせず、近親者のみで葬儀をあげる方が多くなってきました。「葬儀に来てくれそうな人たちが、みんなあの世に逝ってしまった」「長い間、闘病してきたので、さらに家族に迷惑はかけたくない」、だから「ひっそりとした葬式を行いたい」、こうした話しを聞くたびに、本音の部分はどうなのかと思ってしまいます。お世話になった方々、親しく交際してきた方々に見送られたいというのが、本当の気持ちなのではないでしょうか。その本当の気持ちを押し殺して、生前の故人が気をつかったというケースが多いのではないでしょうか。



本当は、お世話になった方々にお礼を言いたいのではないでしょうか。短い時間ではありますが、自分のことを思い出してもらい、ともに過ごした時間を共有したいのではないでしょうか。このことは、会葬に訪れる方々にとっても同様です。また、「会葬の方々にも迷惑をかけたくないから」という声も聞きます。しかし、「縁」や「絆」というものは、本来お互いに迷惑をかけ合うものなのです。そもそも、縁ある方の葬儀に参列することは迷惑でも何でもありません。それは、古代から続いてきた人間として当然の行為です。


葬式は必要! (双葉新書)


葬儀という儀式は、何のためにあるのでしょうか。遺体の処理、霊魂の処理、悲しみの処理、そして社会的な処理のために行われます。
わたしたちはみんな社会の一員であり、1人で生きているわけではありません。その社会から消えていくのですから、そんな意味でも死の通知は必要なのです。社会の人々も告別を望み、その方法が葬儀なのです。



アカデミー外国語映画賞を受賞した「おくりびと」が話題になりましたね。
映画のヒットによって「おくりびと」という言葉が納棺師や葬儀社のスタッフを意味すると思い込んだ人が多いようです。しかし、「おくりびと」の本当の意味とは、葬儀に参加する参列者のことです。人は誰でも「おくりびと」、そして最後には、「おくられびと」になります。1人でも多くの「おくりびと」を得ることが、その人の人間関係の豊かさを示すように思います。



わたしは、日々いろんな葬儀に立ち会います。
中には参列者が1人もいないという孤独な葬儀も存在します。そんな葬儀を見ると、わたしは本当に故人が気の毒で仕方がありません。亡くなられた方には家族もいたでしょうし、友人や仕事仲間もいたことでしょう。なのに、どうしてこの人は1人で旅立たなければならないのかと思うのです。
もちろん死ぬとき、誰だって1人で死んでゆきます。でも、誰にも見送られずに1人で旅立つのは、あまりにも寂しいではありませんか。
故人のことを誰も記憶しなかったとしたら、その人は最初からこの世に存在しなかったのと同じではないでしょうか?


隣人の時代―有縁社会のつくり方


「ヒト」は生物です。「人間」は社会的存在です。
「ヒト」は、他者から送られて、そして他者から記憶されて、初めて「人間」になるのではないかと思います。人間はみな平等です。そして、死は最大の平等です。その人がこの世に存在しということを誰かが憶えておいてあげなくてはなりません。血縁が絶えた人ならば、地縁のある隣人たちが憶えておいてあげればいいと思います。



わたしは、参列者のいない孤独葬などのお世話をさせていただくとき、いつも「もし誰も故人を憶えておく人がいないのなら、われわれが憶えておこうよ」と、わが社の葬祭スタッフに呼びかけます。でも、本当は同じ土地や町内で暮らして生前のあった近所の方々が故人を思い出してあげるのがよいと思います。そうすれば、故人はどんなに喜んでくれることでしょうか。



新聞のおくやみ記事は、多くの方々の目に触れます。「あっ、あの方が亡くなったのか」と驚かれることも多くなるでしょう。ぜひ、そのときはお通夜かお葬儀に参列していただきたいと思います。故人と知り合いだった方、ご近所に住んでおられた方には特にお願いしたいです。



なお、西日本新聞社では今回の訃報記事掲載スタートを契機として、現代日本人の「死」と「供養」について考えるシンポジウムを11月25日(月)13時から「ステーションホテル小倉」で開催します。
パネルディスカッションも行われ、文化人類学者の波平恵美子氏、曹洞宗・瑞松寺住職の末廣石光氏、東八幡キリスト教会の牧師でNPO法人北九州ホームレス支援機構理事長の奥田知志氏、そして、わたしが出演する予定です。シンポジウムの詳しい情報は、また後日このブログでもお知らせいたします。無縁社会を乗り越える大きな風が、北九州から吹き始めました!



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2013年11月6日 一条真也