一条真也です。
ブログ「シネマトークのお知らせ」で紹介したように、26日(日)の12時10分からブログ「小倉昭和館」で紹介した名画座でシネマトークを行いました。
テーマは、「映画で学ぶ人生の修め方」です。
シネマトークのポスター
小倉昭和館の前で
上映作品のポスターの前で
シネマトークを案内する看板
小倉昭和館の樋口智巳館主と
このイベントはブログ「おみおくりの作法」およびブログ「マルタのことづけ」で紹介した小倉昭和館で上映されている映画について語るイベントでした。コーディネーターは小倉昭和館の樋口智巳館主でした。
樋口館主がコーディネーターを務められました
盛大な拍手に迎えられて入場しました
最初に花束を贈呈されました
最初に樋口館主が今回のシネマトークの趣旨を説明されました。
そして、「それでは、一条真也さん、ご入場下さい。どうぞ!」と言われて入場しました。盛大な拍手を受けて感激しましたが、自分の席に着いて客席を見ると、知っている人がたくさんいたので驚きました。
シネマトークのようす
ブログ「博多湾セーリング」で紹介した「マイ・ローヤー」こと弁護士の辰巳和正先生や、北九州市立文学館の今川英子館長、それになんと父であるサンレーグループの佐久間進会長の姿もあったので、ちょっと動揺しました(苦笑)。また、このシネマトークは、拙著『唯葬論』『永遠葬』のダブル出版記念ということで、2冊の新刊の発売を記念して昭和館さんから花束を贈呈され、驚きつつも感動しました。ありがとうございました!
まず最初に、わたしはイギリス・イタリア合作映画「おみおくりの作法」について語りました。ヨーロッパ版「おくりびと」として話題になった映画です。感動のラストシーンが用意されていますが、わたしがステージに上がったときはちょうど「おみおくりの作法」が上映された直後だったので、観客のみなさんの目が赤くなっていました。
「おみおくりの作法」について話しました
この映画の主人公であるジョン・メイは、孤独死のお世話をするという仕事をしながらも、豊かな教養の持ち主として描かれていました。クロスワード・パズルなど、彼に解けない問題はありません。そんな該博な知識を誇る彼が他人の「死」と向かい合い続けているという事実に、わたしは「死生観は究極の教養である」という持論を改めて再認識しました。
「おみおくりの作法」のチラシ(表)
ジョン・メイは、孤独死した人々の人生に想いを馳せます。
彼らが孤独死した部屋を訪れ、残された写真などから彼らの人生を辿ります。写真こそは死者の生き様を知る上での唯一無二のメディアであることを再認識しました。もともと、写真とは「死者と再会したい」という人間の想いが生んだメディアであると思います。ちなみに、すべての人物写真は遺影です。たとえ生きている人を撮影した写真であっても、それは将来必ず、遺影となります。なぜなら、死なない人はいないからです。
写真とは徹底して「死」と結びついたメディアであり、葬儀の際に遺影を飾るのはあまりにも当然と言えるでしょう。
ジョン・メイは、写真をはじめとした僅かな手がかりをもとに、死者の身内や知人を訪ねます。そして、「ぜひ葬儀に参列してあげてほしい」と頼み込むのです。彼は1つの案件が終了すると、ノートに「調査終了」と書き込みます。それを見て、彼の仕事は基本的に探偵なのだなと気づきました。探偵は、依頼人のこれまでの人生や、死体が生きていた頃の様子などについて推理を働かせます。ジョン・メイの仕事もまったく同じでした。
死者の人生を「調査」するジョン・メイ(映画パンフレットより)
探偵といえば、コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』に登場する名探偵が思い浮かびます。ちなみに、ホームズはロンドンの霧の中から生まれました。わたしは「おみおくりの作法」を観ながら、ブログ「シャーロック・ホームズ」で紹介した映画を連想しました。
シャーロック・ホームズには独特の推論形式があります。
ホームズは、やってきたクライアントの話を聞く前に、その人物の職業や来歴をぴたりと言い当てます。この映画にも、「あなたは家庭教師をしていて、教え子は8歳の男の子ですね」と的中させるシーンが出てきます。これは、どういう服を着ているかとか、その服のどこにインクの染みがあり、顔のどこに傷がついているかとか、具体的なデータを読んでいるわけです。そのような細部の情報を組み合わせて、ホームズはその人のパーソナル・ヒストリーを想像の中で構成しているのです。
わたしは、「行旅死亡人」と呼ばれる人々のことを思い浮かべました。氏名も職業も住所もわからない行き倒れの死者たちです。いわゆる「無縁死」で亡くなる人々です。そんな死者が、日本に年間3万2000人もいるといいます。明日、自宅の近くの路上にそんな死者が倒れている可能性がないとは言えません。その人が何者で、どのような人生を歩んできたのか。それを、みんなで推理しなければならないのが「無縁社会」です。わたしたちは、「一億総シャーロック・ホームズ」の時代を生きているのかもしれません。そして、「おみおくりの作法」こそは「探偵の仕事は葬送儀礼と同じ」という真実を見事に示した映画と言えるでしょう。
誰も参列者のいない葬儀のことを「孤独葬」といいます。わたしは日々、いろんな葬儀に立ち会いますが、中には参列者が1人もいないという孤独な葬儀が存在するのです。そんな葬儀を見ると、わたしは本当に故人が気の毒で仕方がありません。亡くなられた方には家族もいたでしょうし、友人や仕事仲間もいたことでしょう。なのに、どうしてこの人は1人で旅立たなければならないのかと思うのです。もちろん死ぬとき、誰だって1人で死んでゆきます。でも、誰にも見送られずに1人で旅立つのは、あまりにも寂しいではありませんか。故人のことを誰も記憶しなかったとしたら、その人は最初からこの世に存在しなかったのと同じではないでしょうか?
「となりびと」は「おくりびと」です!
真剣に聴き入る方々
最近よく、そんなことを講演などで話すのですが、これはそのまま「実存的不安」の問題にほかなりません。つまり、その人の葬儀に誰も来ないということは、その人が最初から存在しなかったことになるという不安です。逆に、葬儀に多くの人々が参列してくれるということは、亡くなった人が「確かに、この世に存在しましたよ」と確認する場となるわけです。
「となりびと」は「おくりびと」でもあります。
わが社では、孤独な高齢者の方々を中心に、1人でも多くの「となりびと」を紹介する「隣人祭り」を開催するお手伝いをしています。この映画を観て、わたしは今後も「隣人祭り」を開催し続けていく決意を固めました。
ジョン・メイは、孤独死した故人の葬儀にたった1人で参列し続けました。
彼は仕事の範疇を超えて、多くの死者たちを見送ります。
葬儀で流す音楽を選び、自ら故人のための弔辞を書きます。
どんな社会的弱者であっても、生きている者が相手なら、いつかは感謝の言葉を与えられるかもしれません。社会的に大きな称賛を浴びる可能性だってあります。でも、孤独死した死者に尽くす生き方には、何の見返りもありません。これこそ真の隠徳というものでしょう。そして、映画のラストでジョン・メイの陰徳は無駄ではなかったことが示されるのでした。
そして、この映画の最大のテーマは「葬儀とはいったい誰のものなのか」という問いです。死者のためか、残された者のためか。ジョン・メイの上司は「死者の想いなどというものはないのだから、葬儀は残されたものが悲しみを癒すためのもの」と断言します。わたしは、多くの著書で述べてきたように、葬儀とは死者のためのものであり、同時に残された愛する人を亡くした人のためのものであると思います。
わたしたちは、あまりにもこの世の現実に関わりすぎているので、死者に意識を向ける余裕がほとんどありません。どうしたら、この世の人間は死者との結びつきを持てるのでしょうか。そういうことを考える前に、まず言えるのは、死者が現実に存在していると考えない限り、その問題は解決しないということです。つまり、死者など存在しないということになってしまえば、いま言ったことはすべて意味がなくなってしまいます。ところが、仏教の僧侶でさえ、死者というのは、わたしたちの心の中にしか存在していないという人が多いのです。そういう僧侶は、人が亡くなって仏壇の前でお経をあげるのは、この世に残された人間の心のために供養しているのだというのです。もし、そういう意味でお経をあげているのなら、死者と結びつきを持とうと思っても、当人が死者などいないと思っているわけですから、結びつきの持ちようがありません。死んでも、人間は死者として生きています。しかし、その死者と自分との間には、まだはっきりした関係ができていないと考えることがまず前提にならなければならないのです。
葬儀をテーマにした映画といえば、誰しも日本の「おくりびと」を思い浮かべることでしょう。わたしは、この「おみおくりの作法」と「おくりびと」は葬儀の真の意味を考える上で相互補完する内容であると思いました。すなわち、死者にとっての葬儀を描いたのが「おみおくりの作法」であり、残された人にとっての葬儀を描いたのが「おくりびと」ではないでしょうか。
日本では「参列者のいない葬儀を行う意味などあるのか」、「そもそも葬式は何のためにやるのか」、ひいては「葬式は、要らない」などという声も出ています。しかし、たとえ参列者がいなくとも、死者がいる限り、葬儀とは必要なものなのです。最後に、この映画の原題は“STILL LIFE”ですが、「おみおくりの作法」という邦題は見事であると思いました。
冠婚葬祭業に従事する方々はもちろん、「死者を弔う」ことの意味を見失いつつあるすべての日本人に観てほしい映画です。
それから、「マルタのことづけ」についても話しました。
この映画を観終わって、わたしは1本の映画を思い出しました。
おそらく、映画好きの多くの人も同じ映画を思い出したことでしょう。
2003年のカナダ・スペイン合作映画「死ぬまでにしたい10のこと」です。
この映画の日本語予告版を観たい方は、こちらをクリックして下さい。
「死ぬまでにしたい10のこと」は、スペイン出身のイザベル・コイシェが監督・脚本を担当した作品で、ナンシー・キンケイドの短編を原作とします。舞台はカナダのバンクーバーで、幼い2人の娘と失業中の夫と共に暮らすアンは、ある日腹痛のために病院に運ばれ、検査を受けます。その結果、癌であることが分かり、23歳にして余命2ヶ月の宣告を受けるのでした。その事実を誰にも告げないことを決めたアンは、「死ぬまでにしたい10のこと」をノートに書き出し、1つずつ実行してゆくというストーリーです。
わたしは、「死ぬまでにしたい10のこと」を最初に観たとき、非常に衝撃を受けました。この映画の影響を「マルタのことづけ」も受けていることと思われますが、それよりも日本版スタッフが「死ぬまでにしたい10のこと」を強く意識しているのは明らかです。それは「マルタがやっておきたいこと」というチェックリストからも一目瞭然と言えるでしょう。
しかし、23歳という若さで、しかも幼い2人の娘を残して死んでゆく「死ぬまでにしたい10のこと」は「マルタのことづけ」よりも残酷な映画だったかもしれません。特に、病院で癌の宣告を受けたにもかかわらず、幼稚園に娘を迎えに行かなければならない若い母親に姿には泣けました。一方、マルタの場合は、亡くなる本人がそれなりの年齢である(とはいえ、47歳の若さですが)ということもあり、残酷とか悲惨というよりも、一種の「爽やかさ」を感じました。ラストシーンは明るくさえあります。わたしは次回作として『死が怖くなくなる映画』(現代書林)という本を執筆する準備を進めているのですが、この映画を観れば、本当に死が怖くなくなります。
公式HPより
主人公が「死」を覚悟して笑顔で旅立つ「マルタのことづけ」は、いわゆる「終活」をテーマにした映画であると言えるでしょう。
現在、日本社会には「終活ブーム」の風が吹き荒れています。多数の犠牲者を出した東日本大震災の後、老若男女を問わず、「生が永遠ではないこと」そして必ず訪れる「人生の終焉」というものを考える機会が増えたことが原因とされます。多くの高齢者の方々が、生前から葬儀やお墓の準備をされています。また、「終活」をテーマにしたセミナーやシンポジウムも花ざかりで、わたしも何度も出演させていただきました。
いつの間にか、わたしは「終活」の専門家のように見られるようになり、ついには昨年、『決定版 終活入門〜あなたの残りの人生を輝かせるための方策』』(実業之日本社)という著書を上梓しました。おかげさまで好評をいただいているようです。同書でも書いたのですが、ブームの中で、気になることもあります。「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いことです。特に「終」の字が気に入らないという方に何人も会いました。
たくさんの「ありがとう」が登場します(公式HPより)
もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。正直に言って、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚えています。そこで、「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しました。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。
よく考えれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」であるという見方ができます。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活だからです。そして、人生の集大成としての「修生活動」があるわけです。かつての日本人は、「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」ということを知っていました。これは一種の覚悟です。いま、多くの日本人はこの「修める」覚悟を忘れてしまったように思えてなりません。
「愛する人へのことづけ」を考えてみませんか?
そもそも、老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。この「マルタのことづけ」には、人生を修める知恵、そして人生をアートのように美しくする方法が描かれています。
太陽の国メキシコの「修活」から日本人が学ぶことは多いはずです。
あなたも、「死ぬまでにしたいこと」「死ぬまでにするべきこと」、そして「愛する人へのことづけ」を考えてみませんか?
30分という短い時間でしたが、わたしは以上のようなことを話しました。
トーク後の質疑応答の時間では、上品な貴婦人から「家族葬についてどう思われますか?」という質問を受けました。
わたしは、「家族葬というのは誤解されています。『身内だけで弔いますので、外部の方はご遠慮します』と言うのはおかしい」と申し上げました。「家族葬」は、もともと「密葬」と呼ばれていました。身内だけで葬儀を済ませ、友人・知人や仕事の関係者などには案内を出しません。本来、1人の人間は家族や親族だけの所有物ではありません。多くの人々の「縁」によって支えられている社会的存在です。ですから、「密葬」には「秘密葬儀」的なニュアンスがあり、出来ることなら避けたいといった風潮がありました。それが、「家族葬」という言葉を得ると、なんとなく「家族だけで故人を見送るアットホームな葬儀」といったニュアンスに一変し、身内以外の人間が会葬する機会を一気に奪ってしまったのです。家族が生前お世話になった方をお招きして、故人になりかわって御礼を述べる・・・これが本当の「家族葬」であると述べました。その貴婦人は満足されたように微笑んで下さいました。
質疑応答も終わると、満員の客席からまるで名作映画を観終わったときのような盛大な拍手が起こり、とても感激しました。大きな拍手に包まれながら、退場しました。
そのまま帰ろうとすると、ある人に呼び止められました。かつてサンレーの社長室長を務められた朝妻貞雄さんでした。朝妻さんは目を真っ赤にしながら、「素晴らしいトークでした。本当にご立派になられましたね」と言ってくれて、わたしの胸も熱くなりました。今日は、大好きな小倉昭和館で大好きな映画の話ができて本当に幸せでした。このような素敵な機会を与えて下さった樋口館主に心より感謝いたします。また、この日はわたしの知り合いもたくさん駆けつけてくれました。みなさま、本当にありがとうございました! 2本とも素晴らしい映画だったでしょう?
*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。
2015年7月26日 一条真也拝