死を乗り越える川端康成の言葉

 

死んだ時に
人を悲しませないのが、
人間最高の美徳さ。
川端康成

 

一条真也です。
言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、日本の小説家である川端康成(1899年~1972年)の言葉です。彼は、大阪府生まれ。東京帝国大学文学部国文学科卒業。代表作に『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。日本人初のノーベル文学賞受賞。



「死んだ時に人を悲しませないのが、人間最高の美徳さ。」とは、日本人の美意識を追求した作家である川端康成らしい言葉です。彼が描き出す女性像がわたしは好きなのですが、この言葉は女性に向けた言葉に感じてしまいます。死んだ時に、その人の価値が決まるといいますが、その価値を「人を悲しませない」と表現したことに、わたしは彼の死生観を感じます。



川端こそ、「死」をしっかりととらえ、美学を描き出した作家ではないでしょうか。しかしながら、彼自身は自殺という道を選んでしまいました。ただ、遺書がなかったことで事故説もあります。同じように遺書がなく自殺したといわれるマリリン・モンローの死に対し、「無言の死は無言の言葉だと考えますね」と川端は語っています。



自殺の理由の1つに、川端が15歳の時に寝たきりで下の始末も自らできずに死んでいった祖父・三八郎の世話した記憶があったというものがあります。老醜が具体的な恐怖となっていたというものです。しかし、わたしは、そんなことはなかったと思います。「人を悲しませない」といいながら、その美徳を表現できなかったのが残念です。なお、この川端康成の言葉は『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)に掲載されています。

 

 

 2022年9月4日 一条真也

『仕事と人生に効く 教養としての映画』

一条真也です。
125万部の発行部数を誇る「サンデー新聞」の最新号が出ました。同紙に連載中の「ハートフル・ブックス」の第172回分が掲載されています。今回は、『仕事と人生に効く 教養としての映画』伊藤弘了著(PHP研究所)を取り上げました。

サンデー新聞」2022年9月3日号

 

「日本一わかりやすい」映画講師という著者は、関西大学同志社大学甲南大学で非常勤講師を務めています。また、東映太秦映画村・映画図書室にて資料整理の仕事を行なっており、本書が初の単著となります。本書の冒頭で、著者は「映画研究者=批評家としての立場から、私は『映画を意識的に見ることは、人間としての能力の底上げや人生の向上につながる』という確信を抱いています」と高らかに宣言します。

 

第一講「映画を見たらどんないいことがあるか――人生が劇的に変わる5大効用」の「映画は『オワコン』ではない」では、2020年はコロナ禍の影響もあって観客数、興行収入ともに2019年の55%弱に落ち込んでしまいましたが、そのような状況のなかでアニメ映画「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」が歴代最高の興行収入を記録したことは注目に値するとして、「人々には依然として映画に対する強い欲求があり、機会があれば困難な状況下でも映画館に足を運ぶということが証明されたからです」と述べます。

 

さて、映画を観る効用について、著者は作家の池波正太郎の意見にならって説明します。すなわち映画の真骨頂は、疑似体験した複数の人生を現実の自分の人生に持ち込むことができる点にあると指摘し、「映画ではしばしば危機的な状況や困難な状況が描かれます。そうした状況を打開するために登場人物たちが見せる知恵や勇気、決断力は、分野を超えて私たちに多くのことを教えてくれます」と提唱するのです。

 

また、「知識を身につけるきっかけになる」という映画の効用も紹介されます。ウイルス感染の脅威、アポロ計画の実態、原発事故の現場、リーマン・ショックの背景など、映画は実に多彩な題材を取り上げますが、著者は「こうしたテーマを書籍や文献で学ぶのはもちろん重要なことですが、いきなり専門的な書籍に当たるのはハードルが高いですよね。その点、映画は視覚的なイメージから入ることができます。しかも多くの映画は一般的な観客の理解力をシビアに計算してわかりやすく作られていますので、無理なくその分野に馴染むことができます。非常にコスト・パフォーマンスがよいのです」と指摘します。

 

さらに、映画を意識的に見続けると、「粋な人間になって行く」「人間の『質』が違ってくる」などの池波説を紹介して、実例を挙げています。本書から、わたしは多くを学びましたが、何より、著者の映画に対する深い愛情に感銘を受けました。もうすぐ上梓する拙著『心ゆたかな映画』(現代書林)を書く上で非常に参考になったことを告白するとともに、最高の映画入門として広くオススメします。

 



2022年9月3日 一条真也

「NOPE/ノープ」 

一条真也です。
映画「NOPE/ノープ」をシネプレックス小倉で観ました。8月26日公開で、もっと早く観たかったのですが、諸般の事情で鑑賞が遅れました。タイトルの「NOPE」は「ありえない」という意味で、ブログ「ゲット・アウト」ブログ「アス」で紹介したジョーダン・ピール監督の最新作です。わたしは、この監督がお気に入りなのですが、今回も非常に面白かったです!


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『ゲット・アウト』『アス』などのジョーダン・ピールが監督、脚本、製作を務めたサスペンススリラー。田舎町の上空に現れた謎の飛行物体をカメラに収めようと挑む兄妹が、思わぬ事態に直面する。『ゲット・アウト』でもピール監督と組んだダニエル・カルーヤ、『ハスラーズ』などのキキ・パーマー、『ミナリ』などのスティーヴン・ユァンのほか、マイケル・ウィンコット、ブランドン・ペレアらが出演する」

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「田舎町に暮らし、広大な牧場を経営する一家。家業を放って町に繰り出す妹にあきれる長男が父親と会話をしていると、突然空から異物が降り注ぎ、止んだときには父親は亡くなっていた。死の直前、父親が雲に覆われた巨大な飛行物体のようなものを目にしていたと兄は妹に話し、彼らはその飛行物体の動画を公開しようと思いつく。撮影技術者に声を掛けてカメラに収めようとするが、想像もしていなかった事態が彼らに降りかかる」


予告編からではっきり示しているように、この映画にはUFOが登場します。UFOというのは「未確認飛行物体」という意味ですが、最近ではUAP(未確認航空現象)という言葉が使われるようです。映画の中でも紹介されていましたね。そのUFO・UAPの正体は意外な存在でした。ネタバレになるので詳しく書くことはやめますが、子どもの頃は怪獣大好き少年だったわたしは、東宝の特撮SF映画「宇宙大怪獣ドゴラ」(1964年)や「ウルトラQ」の第11話「バルンガ」を連想しました。しかし、「怪獣の造形は、アメリカより日本の方が優れているなあ」とも思いましたね。


ジョーダン・ピールは黒人監督ですが、「ゲット・アス」で黒人を差別する白人への憎しみを見事にスクリーンで表現しました。この「NOPE/ノープ」でも、白人への嫌悪感が強く漂ってきます。映画の草創期に貢献した黒人の子孫が映画界からぞんざいな扱いを受けるという描写もそうですが、映画の撮影中にチンパンジーが凶暴になって人間を襲うシーンが印象的でした。チンパンジーは共演した白人たちを殺戮するのですが、ジュープというアジア人の少年にだけは敵意を見せず、それどころか友好のサインであるグータッチをしようとします。現在でも、アジア人を「イエロー・モンキー」と呼ぶ白人は多くいますが、チンパンジーはジュープが同じ見世物であり道化であると共感したのかもしれません。


その意味では、「Gジャン」と呼ばれたUFO・UAPもチンパンジーと同じように、自らを見世物として扱う人間を攻撃します。ネタバレにならないようにギリギリの線で言うと、Gジャンを直視した者は殺され、視線を逸らした者は救われます。まるで見た者を石に変えてしまう妖女ゴーゴンやメドゥーサのようですが、見ることによって命を奪われる存在というのは、まるで映画そのもののメタファーではないかと思いました。それにしても、ジョーダン・ピールという人は、よくこんな発想ができるものです。


ゲット・アウト」や「アス」のときも大いに驚かされましたが、今回の「NOPE/ノープ」も奇想天外な映画でした。わたしは最初に彼を知ったとき、その奇想ぶりから「M・ナイト・シャマランの再来」のように思っていましたが、シャマランは「シックス・センス」(1999年)に感動した観客をその後は裏切り続けています。シャマラン作品には、「NOPE/ノープ」と似たテーマの「サイン」(2002年)がありますが、これはどうしようもないトンデモ映画でした。同じような題材を扱っても「NOPE/ノープ」とは月とスッポン。ジョーダン・ピールは、シャマランをとっくに超えてしまいましたね。

 

2022年9月3日 一条真也

「ブレット・トレイン」

一条真也です。9月になりましたね。
1日公開の映画「ブレット・トレイン」をシネプレックス小倉で観ました。わたしと同い年であるブラッド・ピットの最新主演作ということで、鑑賞前はかなり期待していました。しかし、映画はタランティーノ作品、特に「キル・ビル」の出来損ないみたいな感じでイマイチでした。


ヤフー映画の「解説」には、「映画化もされた『グラスホッパー』などで知られる伊坂幸太郎の小説を原作に、ブラッド・ピットが主演を務めたアクションスリラー。日本の高速列車を舞台に、謎の人物から指令を受けた殺し屋が、列車に乗り合わせた殺し屋たちから命を狙われる。メガホンを取ったのは『デッドプール』シリーズなどのデヴィッド・リーチ。共演には、『キスから始まるものがたり』シリーズなどのジョーイ・キング、『キック・アス』シリーズなどのアーロン・テイラー=ジョンソンのほか、真田広之マイケル・シャノンらが名を連ねる」とあります。

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「あるブリーフケースを盗むよう謎の女性から指令を受け、東京発京都行の高速列車に乗り込んだ殺し屋・レディバグ(ブラッド・ピット)。ブリーフケースを奪って降りるだけの簡単な任務のはずだったが、疾走する車内で次々に殺し屋たちと遭遇してしまう。襲い掛かってくる彼らと訳も分からぬまま死闘を繰り広げる中、次第に殺し屋たちとの過去の因縁が浮かび上がってくる」


列車内でバトルを繰り広げる映画はたくさんありますが、「ブレット・トレイン」は日本の高速列車すなわち新幹線が舞台というのが注目すべきポイントです。ただ、現在の新幹線では見かけない食堂車のような車両があったり、グリーン車を「ファーストクラス」と呼んで、飛行機のファーストクラスのような飲み物サービスをするのが気になりましたね。東海道新幹線北陸新幹線をしょっちゅう利用するわたしとしては、「?」の連続でした。


ブラッド・ピット演じる主人公のレディバグが、殺し屋たちを次々に迎え撃つのですが、彼らが襲ってくる理由もわからずにバトルが展開されるので、観客は取り残されたように感じてしまいます。新幹線の車内も異様に乗客が少なく、殺し合いをしていても他の乗客は気づきません。富士山も有り得ないような変な場所で登場するし、日本が馬鹿にされているような気になってきました。最初は「映画だから、まあいいか」と思いましたが、あまりのリアリティのなさに次第にストレスが溜まっていきます。

 

わたしは、SF・ホラー・ファンタジーといった非日常的な物語を描いた映画こそ細部にはリアリティが必要だと考えているのですが、「ブレット・トレイン」は「ほぼファンタジー」と呼んでいいレベルのアクションスリラーです。当然ながらリアリティが求められますが、そんなものは皆無。列車内バトルで死人が出るたびにトイレに隠すという荒っぽさで、「そんなことしてたら、すべてのトイレが死体安置所になるよ!」と思ってしまいました。京都駅のホームで武装した殺し屋たちが待ち構えているのも、「パラレルワールドのSFかよ!?」と思ってしまいました。


そもそも、次から次に人が殺されているのに、列車がそのまま京都に向かうというのもナンセンスです。普通は1人殺された時点で発覚し、大騒ぎになって停止するのが確実だからです。いくら荒唐無稽な物語といっても、純粋にそれを楽しむことはできませんでした。もっと、1つの死体を慎重に隠さなければなりません。1つ1つのリアリティが、楽しめるファンタジーを生むのです。その点、ハチャメチャなラストシーンも含めて、まったく楽しめない映画でした。カタルシスなどゼロです!

 

 

映画「ブレット・トレイン」の原作は、伊坂幸太郎の『マリアビートル』(角川文庫)です。わたしは同書を読んでいませんが、アマゾンの内容紹介には、「殺し屋シリーズ累計300万部突破!東京発盛岡着、2時間30分のノンストップエンターテインメント! 幼い息子の仇討ちを企てる、酒びたりの殺し屋『木村』。優等生面の裏に悪魔のような心を隠し持つ中学生『王子』。闇社会の大物から密命を受けた、腕利きの二人組『蜜柑』と『檸檬』。とにかく運が悪く、気弱な殺し屋『天道虫』。疾走する東北新幹線の車内で、狙う者と狙われる者が交錯する――。小説は、ついにここまでやってきた。映画やマンガ、あらゆるジャンルのエンターテイメントを追い抜く、娯楽小説の到達点! 『グラスホッパー』『AX アックス』に連なる、殺し屋たちの狂想曲」と書かれています。原作はすごく面白そうなのですが、このプロットが映画「ブレット・トレイン」にうまく反映されておらず、キャラクターもおかしな方向に改変され、とにかく観客は混乱する一方です。



はっきり言って、この「ブレット・トレイン」、シナリオが大失敗だと思います。ラストに唐突に登場するサンドラ・ブロックの使い方も「?」で、彼女のような大スターを起用する意味がまったくありませんでした。これでは、シナリオとキャスティングのバランスがあまりにも悪いです。音楽もかなり「?」で、なんと、カルメン・マキの「時には母のない子のように」、麻倉未稀の「ヒーロー HOLDING OUT FOR  A HERO」、坂本九の「上を向いて歩こう」などが流れます。きっと、わたしのような昭和歌謡ファンが感涙にむせぶとでも思ったのでしょうが、そうは問屋が卸しません。この選曲も日本人が馬鹿にされたように思えて、ひたすら不愉快でした。



ただ、エンターテインメントとしてのレベルは低い映画でしたが、アクションシーンは見応えがありました。特に、ブラット・ピットのアクションは良かったです。ただ殴り合うだけでなく、近くにあるものを武器として駆使する戦い方は魅力的でした。アクションといえば、日本が誇るアクションスターの真田広之も良かったです。デヴィッド・リーチ監督が確実に影響を受けたであろう「キル・ビル」には千葉真一が出演していましたが、千葉の弟子である真田は「ブレット・トレイン」で見事な刀さばきを披露しました。これは亡き師への追悼にもなったでしょうし、アメリカの観客たちも「日本にサムライあり!」と思ったのではないでしょうか?

 

2022年9月2日 一条真也

『ミッショナリー・カンパニー』

一条真也です。
84冊目の「一条真也による一条本」紹介は、『ミッショナリー・カンパニー』(三五館)。「サンレーグループの大いなる使命」というサブタイトルがついており、発行日は2016年11月18日となっています。この日は、株式会社サンレー創立50周年の当日です。

ミッショナリー・カンパニー』(三五館)

 

本書の著者名ですが、「一条真也」ではなく、「佐久間庸和」となっています。これまで、ペンネームでは多くの著書を上梓してきました。しかし、本名、そして、サンレーの社長として書きました。


これで3冊揃いました

 

本名で本を出すのは、創立40周年記念出版の『ハートフル・カンパニー』、創立45周年記念出版の『ホスピタリティ・カンパニー』(ともに三五館)に続く3冊目の出版となります。今回の『ミッショナリー・カンパニー』は、50周年記念出版となります。


本書の帯

 

本書の帯にはわたしの写真が使われ、「50th anniversary」の文字が躍り、さらに「五十にして天命を知る!」「ミッション(使命)のある会社しか発展できない」「冠婚葬祭のリーディングカンパニーを輝かせる理念と実践とは?」「株式会社サンレー創立50周年記念出版」と書かれています。


本書の帯の裏

 

また、カバー前そでには以下のように書かれています。
「『創業守礼』と『天下布礼』。この二つの言葉は、わが社の原点であり未来です。一九六六年、佐久間進会長は万人に太陽の光のように等しく冠婚葬祭のサービスを提供したいと願って、サンレーを創業しました。そして、その根底には『礼』すなわち『人間尊重』の精神がありました。この創業時に掲げた『人間尊重』の精神を忘れないことが『創業守礼』であり、『人間尊重』の精神をあらゆる場所で、あらゆる人々に伝えることが『天下布礼』です。『人間尊重』は、わが社の大ミッションでもあります」


「ホスピタリティ」から「ミッショナリー」へ

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。
「まえがき」
第1章 ホスピタリティ・カンパニー
               ――2011年12月
お客様に何を贈ることができるか ホスピタリティは心のギフトだ!
第2章 礼業の王道をゆく

               ――2012年1月〜12月
無財の七施とは何か?いま、ブッダの考え方を知ろう
坂の下にたなびく紫の雲 老いと死を陽にとらえる時代へ
おかげさまで、孔子文化賞受賞 天下布礼をさらに加速しよう!
人間尊重をめざして サンレーグループは礼業だ!
新しい仲間を迎え、"和のこえ"で福を呼び込もう
『論語』という船に乗って、世界一の礼の実践をめざそう!
この世はすべて有縁である 無縁社会などありえない!
続々と新施設がオープン 土地と人をさらに輝かせよう!
注目されるサンレーの会社行事 儀式マネジメントの模範となろう!
深刻化する領土問題 礼こそは究極の平和思想
神道は日本人の心の柱 グリーフケアこそ産霊である!
小よく大を制す...柔道ストラテジーで勝つ
第3章 儀式産業の誇り

               ――2013年1月〜12月
サムシング・グレートを感じ 心からの祈りを捧げよう!
見えない縁を可視化する 冠婚葬祭こそ家族の縁だ!
老人漂流社会の到来 さあ、サンレーの出番だ!
海賊とよばれた男に学ぶ 『人間尊重』がミッションだ!
利の元は義である 黄金の奴隷たるなかれ!
非道を知らず存ぜず 正々堂々と王道を歩もう!
人間にとって必要なものとは? 真のインフラ企業をめざそう!
死を直視する時代 人々に希望を与えよう!
儀式の意味を考える 人生儀礼で人を幸せにしよう!
おもてなしの時代 相手の喜ぶことをしよう!
新しい儀式文化の創造 禮鐘が日本の葬儀を変える!
創業守礼は初期設定で、天下布礼はアップデートだ!
第4章 慈礼の発見

               ――2014年1月〜12月
慈しみの心が世界を救う 大いなる慈礼の時代へ
今だって乱世だ! われら平成の軍師とならん!
『慈経』が日本を救う 日本仏教をアップデートしよう!
笑う門には和が来る 和来で心を一つにしよう!
冠婚葬祭は文化の核 誇りをもって取り組もう!
全互連の会長に就任 互助の心で有縁社会を!
これでいいのか日本仏教? 孔子の末裔として礼を広めよう!
人間尊重の「かたち」 礼の実践に努めよう!
人類の未来を育む礎に 冠婚葬祭業の使命を知ろう!
高まる終活ブーム 人生を修める時代が来た!
ミャンマーでの感動体験 「人間尊重」は世界共通だ!
現代日本最高の賢者と対談 『永遠の知的生活』とは何か?
第5章 日本人を幸せにする

               ――2015年1月〜12月
日本人とは何か? その答えは冠婚葬祭にある!
高野山開創1200年 超天才・空海に学ぼう!
「おもてなし」は日本文化の清華 慈礼の精神で追求しよう!
若き桜よ咲き誇れ! 礼の社で「おもてなし」を!
豊崎紫雲閣オープン! 守礼之邦の生き方に学ぶ
目に見えないものを 目に見せる魔術師になろう!
サンレー流コンパで 心を開いて語り合おう!
戦後70年を迎え  死者を弔うことの意味を知る
お墓について考える季節 さまざまな葬送の「かたち」
夜空の月は動かず  志を曲げずに生きよう
創立49年を迎え  和を求めてさらに前進しよう!
バリ島で感じたこと 葬儀は直接芸術だ!
第6章 ミッショナリー・カンパニー

                ――2016年1月〜11月
いよいよ創立50周年の年 わが社の天命を知ろう!
ゲスの極みにならないために きちんと冠婚葬祭をしよう!
インドで悟ったこと 太陽と死は平等だ!
新入社員のみなさんに問う 死ぬまでに何をやりたいか?
熊本地震の発生に思う 冠婚葬祭で世直しをしよう!
茶道は究極のおもてなし 「こころ」を「かたち」にするプロになろう!
儀式は絶対になくならない 人間には礼欲があるからだ!
日本仏教の本質とは グリーフケア文化装置だ!
島田裕巳氏との対談で悟る 葬儀は永遠のセレモニーだ!
儀式の本質を考え抜く 儀式なくして人生なし!
おかげさまで50周年 ミッショナリー・カンパニーへ!
「社長のおススメ本リスト」
一条真也著書一覧」
S2M MAP」

 

本書の刊行時、わたしが2001年10月に代表取締役社長に就任してから丸15年が経過し、わが社も無事に50周年を迎えました。これも、ひとえに社員各位、関係者のみなさま、そして、何よりもサンレー会員様、お客様のおかげだと、心より感謝いたしました。本書に収録されている文章は、わたしが社員のみなさんの前で話したメッセージです。いわゆる「社長訓示」と呼ばれているものですね。すべてのメッセージは毎月の社内報に掲載してきました。また、わたしのホームページ上にも「マンスリーメッセージ」としてアップされています。社内向けのメッセージを外に向けてもオープンにしているわけです。いわば、「公開社長訓示」と言えるでしょう。もちろん同業者にも読まれるわけですから、ある意味ではリスクの高い行為であることは重々承知しています。

 

しかし、これには、理由があります。多くの方々に「サンレーの社長はこんなことを言っているが、現場では本当に実践できているのか」とチェックしていただきたいのです。いくら社長が口でうまいことを言ったとしても、お客さまと接する現場で生かされていなければ何にもなりません。それを、ぜひ見ていただきたいのです。実際、「ちゃんと実行できているね」とお褒めの言葉をいただくこともあれば、「あそこの施設では、社長の考えと反対のことをやっているよ」とお叱りの言葉をいただくこともあります。どちらも、ありがたいアドバイスであり、本当に感謝しています。

 

また、ホームページでの「公開社長訓示」を同業他社の経営者や社員の方々もよく読んで下さっているようです。自社での朝礼やスピーチなどに使わせてもらったという声もよく頂戴します。わたしの言葉、わが社の取り組みが何かのヒントになれば、こんな嬉しいことはありません。そんな方々の「ぜひ、1冊の本にまとめてほしい」という声をたくさん頂戴しました。そこで、50周年の記念ということもあり、本書を上梓することを決めたのです。

 

本書のタイトルは『ミッショナリー・カンパニー』としました。「ミッション」とは「使命」のことであり、「ミッショナリ―・カンパニー」は「使命のある会社」という意味になります。『論語』には「五十にして天命を知る」という言葉がありますが、まさに創立五〇年を迎えたわが社は、天から与えられた使命としての「ミッション」を知らなければなりません。わが社の小ミッションは「冠婚葬祭を通じて良い人間関係づくりのお手伝いをする」です。冠婚葬祭ほど、人間関係を良くするものはありません。そして、わたしたちの理想はさらに大ミッションである「人間尊重」へと向かいます。太陽の光が万物に降り注ぐごとく、この世のすべての人々を尊重すること、それが「礼」の究極の精神です。

 

わが社の活動の根底には「天下布礼」という思想があります。これは、「サンレーの創業時に佐久間進]会長が掲げていたスローガンです。2008年、わたしが上海において再び社員の前で打ち出しました。中国は孔子が生まれた国です。2500年前に孔子が説いた「礼」の精神とは「人間尊重」そのものだと思います。上海での創立40周年記念パーティーで、わたしは社員のみなさんの前で「天下布礼」の旗を掲げました。

 

かつて織田信長は、武力によって天下を制圧するという「天下布武」の旗を掲げました。しかし、わたしたちは「天下布礼」です。武力で天下を制圧するのではなく、「人間尊重」の思想で世の中を良くしたいのです。天下、つまり社会に広く人間尊重思想を広めることがわが社の使命です。わたしたちは、この世で最も大切な仕事をさせていただいています。これからも冠婚葬祭を通じて、良い人間関係づくりのお手伝いをしていきたいです。

 

 

かつて「エクセレント・カンパニー」および「ビジョナリー・カンパニー」というコンセプトが非常に流行しました。それぞれ世界的ベストセラーになったビジネス書のタイトルに由来するものでしたが、それらを超える新時代の企業コンセプトとして「ミッショナリー・カンパニー」を提唱し、かつ目指したいと思います。何よりも大切なのは使命感だと確信します。

 

各メッセージの最後には、内容の要約となる短歌を掲載しました。「庸軒」は、わたしの歌詠みの雅号です。江戸時代の石田梅岩が開き、商人を中心とした庶民のあいだで盛んになった「心学」では、人の道を説くメッセージ・ポエムとしての「道歌」が多く詠まれました。五・七・五・七・七のリズムは日本人の心の奥にまでメッセージを届ける力を持っています。本書に登場する短歌も、けっして芸術性の追及ではなく、社員すなわち読者のみなさんの理解を深めていただくための道歌をめざして詠んだものです。

 

また、巻末には「社長のおススメ本」というブックリストが掲載されています。これは、毎月の社内報で、わたしがサンレーグループの社員向けに紹介した「仕事に役立つ」本の一覧です。こちらは、2003年1月から2016年12月までのおススメ本170冊を一覧にして掲載してあります。これらの本を読まれた社員のみなさんと本の感想について語り合ったものです。これからも、わが社は学び続けるラーニング・オーガニゼーションを目指します。「まえがき」の最後、次道歌を披露いたしました。

 

かねてより天からの命おぼえれど
   わが社いま知命迎へり(庸軒)

 

 



2022年9月1日 一条真也

安倍氏の戒名と麻生氏の弔辞

一条真也です。
9月になりました。1日は恒例のサンレー本社の総合朝礼が行われるはずでしたが、今月も新型コロナウイルスの感染拡大を防止するために中止になりました。この日、産経新聞社の WEB「ソナエ」に連載している「一条真也の供養論」の第50回目がアップされます。最終回となる今回は、「安倍氏の戒名と麻生氏の弔辞」です。

安倍氏の戒名と麻生氏の弔辞」

 

2022年7月12日、参院選の街頭演説中に銃撃され、67歳で死去した安倍晋三元首相の葬儀が行われました。場所は、東京・芝公園増上寺です。葬儀会場には約200人が参列したほか、多数の人が献花や焼香に訪れたが、安倍元首相の戒名が「紫雲院殿政誉清浄晋寿大居士」であることに驚きました。わが社の葬祭施設でもある「 紫雲閣」と同じ「紫雲」が戒名の最初に付けられていたからです。「紫雲」とは人の臨終の際に迎えに来るという仏が乗る紫色の雲のことだ。そういえば、わたしはかつて、紫雲閣を国民的作家だった司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』にかけて、「坂のぼる上に仰ぐは白い雲 旅の終わりは紫の雲」という歌を詠んだことがあります。

 

安倍晋三氏の葬儀では、友人代表として、自民党麻生太郎副総裁(元首相)が次のように弔辞を捧げました。麻生氏は、冒頭に「安倍先生、今日はどういう言葉を申し上げればよいのか、何も見つけられないまま、この日を迎えてしまいました」と呼びかけ、故人とのさまざまな思い出を語った後、「先生はこれから、(父親の)晋太郎先生の下に旅立たれますが、今まで成し遂げられたことを胸を張ってご報告をして頂ければと思います。そして、(祖父の)岸信介先生も加われるでしょうが、政治談議に花を咲かせられるのではないかとも思っております」と述べました。

 

また、麻生氏は「ただ先生と苦楽を共にされて、最後まで一番近くで支えて来られた昭恵夫人、またご親族の皆様もどうかいつまでも温かく見守って頂ければと思います。そのことをまた、家族ぐるみのお付き合いをさせて頂きました友人の一人として心からお願いを申し上げる次第であります。まだまだ安倍先生に申し上げたいことがたくさんあるのですが、私もそのうちそちらに参りますので、その時はこれまで以上に冗談を言いながら、楽しく語り合えるのを楽しみにしております。正直申し上げて、私の弔辞を安倍先生に話して頂くつもりでした。無念です」と述べました。

 

失言が多いことで知られる麻生氏ですが、この裏表のない真心の言葉は多くの国民の心に響いたことと思います。わたしも、感動しました。このような残された人の言葉は、亡くなった人に届いているのでしょうか。数えきれないほどの葬儀に参列し、その後の遺族の不思議な経験談を聴き、心霊関係の本も少なからず読んだわたしの考えは、「弔辞や故人へのメッセージは必ず届いている」です。そうでなければ、葬儀など行う意味はありません。生前親交のあった「霊界の宣伝マン」こと丹波哲郎さんは、「葬儀のとき、亡くなった人は遺影のところに立っているか、棺に腰かけて、自分の葬儀の様子を見ている」と言われていました。

 

また、医療と心霊科学の第一人者である東京大学名誉教授の矢作直樹さんと対談したとき、「肉体は死んでも、最後まで聴力と臭覚だけは残っている。だから、枕経をあげたり、線香を焚いて、死者を導くのだ」という会話を交わしました。当然ながら、弔辞は故人に聴こえているのです。なお、対談内容は、『命には続きがある』『命には続きがある』(PHP文庫)に収められています。ともあれ、憲政史上最長の政権を築いた偉大な政治家である故人の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。

 

 

本連載は今回で最終回となります。
50回もの長きにわたるご愛読に感謝いたします。なお、本連載は産経新聞出版社より単行本化される予定です。どうぞ、お楽しみに!

 

2022年9月1日 一条真也

『吉本隆明 思想家にとって戦争とは何か』

吉本隆明 思想家にとって戦争とは何か シリーズ・戦後思想のエッセンス

 

一条真也です。
吉本隆明 思想家にとって戦争とは何か』安藤礼二著(NHK出版)を読みました。ブログ『三島由紀夫 なぜ、死んでみせねばならなかったのか』ブログ『石原慎太郎 作家はなぜ政治家になったか』で紹介した本と同じく、戦後75年で気鋭の論客が戦後知識人を再評価する「シリーズ・戦後思想のエッセンス」の1冊です。著者は、ブログ『死者の書・口ぶえ』で紹介した本の解説者であり、ブログ『霊獣「死者の書」完結篇』ブログ『神々の闘争 折口信夫論』ブログ『折口信夫』 、およびブログ『場所と産霊』で紹介した本の著者でもあります。1967年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。多摩美術大学芸術学科准教授、同大学芸術人類学研究所所員。2002年「神々の闘争―折口信夫論」で群像新人文学賞評論部門優秀作受賞。2004年に刊行された同作品の単行本つまり本書で2006年芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。2009年『光の曼陀羅 日本文学論』で大江健三郎賞伊藤整文学賞を受賞。2014年に刊行された本書『折口信夫』でサントリー学芸賞角川財団学芸賞を受賞。

 

本書の帯には、「詩人としての出発、柳田国男から母型論へ、『アフリカ的段階』と思想の完成」「なぜ人は、破滅的な幻想に巻き込まれるのか?」「[戦後思想の巨人]その原点を問い直す!」と書かれています。また、カバー前そでには、「時間と空間という限定を乗り越えていく『母型』と、時間的にも空間的にも限定された『戦争』と。吉本隆明という表現社はその二極に引き裂かれ、それゆえ、固有性をもちながらも普遍性を志すことがある意味において、近代日本が生み出すことができた最大の著述家である。(「はじめに」より)」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
はじめに 「母型」と「戦争」
      ――吉本隆明とは何者だったのか
Ⅰ 詩語と戦争
1 詩語の発生
2 戦争と大衆
3 イエス親鸞
Ⅱ 南島へ
1 言語・共同幻想・心的現象
    ――吉本幻想論の完成
2 異族の論理
Ⅲ 批評の母型
1 状況へ
2 批評へ
3 表現の根底へ
4 母型と反復
Ⅳ 最後の吉本隆明
1 偏愛的作家論
2 イメージの臨界へ
3 アフリカ的段階へ
4 〈信〉の解体
後記「来るべき批評の未来へ向けて」
吉本隆明 年譜」

 

 

はじめに「『母型』と『戦争』――吉本隆明とは何者だったのか」の冒頭を、著者は「私が吉本隆明の著作をはじめて手にしたのは、1982年に角川文庫から刊行された『共同幻想論』である」と書きだしています。同じく吉本の著作の文庫化である『言語にとって美とは何か』Ⅰ・Ⅱ、『心的現象論序説』とともに購入したとのことで、中学2年生から3年生に移り変わろうしている時期だったとか。

 

 

そのとき、とうていその内容が理解できたとは思えないとしながらも、著者は「しかし、私にとって吉本が切り取ってくる『遠野物語』や『古事記』の断片(『共同幻想論』)、『海』を目の前にした狩猟人がもらす原初のつぶやき(『言語にとって美とはなにか』)、『分裂病』の少女が見続けた光景(『心的現象論序説』)は、異様な感銘をもたらした。それほど早熟でも鋭敏でもなかったごく普通の中学生がなぜ難解で知られる吉本の代表作をわざわざ手に取って、しかも購入したのか。それは『角川』の文庫であったことが大きい』と書いています。

 

 

なぜ、角川文庫であったことが大きかったのか。著者は、当時、角川文庫で江戸川乱歩横溝正史、さらには半村良の著作をむさぼり読んでいたとして、「今日では伝奇小説を一括される作品群である。私は、彼らが書き続けていった膨大な世界が、ただ単に、商業的な成功だけを目的とした作り物であるとはとても思えなかった。そこには『異世界』への憧憬、もう一つ別の夢幻的な世界を自らの言葉だけで構築していこうとする、やむにやまれぬ熱意があった。そう思われた」と述べます。これは、著者の4歳年長であるわたしにも同様の経験があるので、著者の心境はよく理解できます。

f:id:shins2m:20120316224743j:plain著者と小生が愛読した角川文庫の旧版

 

ブログ『共同幻想論』で、わたしは、2012年3月16日に亡くなった吉本の代表作について紹介文および感想を書きました。また、拙著『唯葬論』(三五館、サンガ文庫)の「人間論」の中でも同書を大きく取り上げ、「『共同幻想論』は、当時の教条主義化したマルクス・レーニン主義に辟易し、そこからの脱却を求めていた全共闘世代に熱狂して読まれ、強い影響を与えた思想書だ」と書いています。「共同幻想論」とは唯物史観すなわち「唯物論」に対するアンチテーゼにほかなりませんでした。吉本は、何よりも日本人の「こころ」を追求しました。そして、『共同幻想論』では『古事記』や『遠野物語』などの日本人の「こころ」の琴線に触れる書物を取り上げたのです。

 

 

共同幻想論』は、『古事記』からは初期国家における共同幻想、『遠野物語』からは村落社会の共同幻想の姿をあぶり出しています。非常にラディカルな問題提起の書なのですが、その「序」には「ここで共同幻想というのは、おおざっぱにいえば個体としての人間の心的な世界と心的な世界がつくりだした以外のすべての観念世界を意味している。いいかえれば人間が個体としてではなく、なんらかの共同体としてこの世界と関係する観念の在り方のことを指している」と書かれています。

 

 

共同幻想論』は、「禁制論」「憑人論」「巫覡論」「巫女論」「他界論」「祭儀論」「母制論」「対幻想論」「罪責論」「規範論」「起源論」の11の論考から成っています。いずれも興味深い論考ばかりですが、中には人類学や民俗学から見て、すでに無効になっている引用文献や考え方も少なくはないようです。しかし、その着眼点および発想はまったく古くなっていないと言えます。


角川文庫版『共同幻想論』に新たに付された「序」で、吉本は「この本は子供たついが感受する異空間の世界についての大人の論理の書であるかもしれない」と書いています。この「子供たちが感受する異空間の世界」という言葉について、著者は「もし文学的な表現が生まれ、文学的な表現を通して実現が目指される境地を一言であらわすとしたなら、これ以上のものはないであろう」と述べます。

 

 

吉本が、この「序」を書き終えたのは昭和56年、1981年の10月25日のことですが、著者は「それから35年以上が過ぎ去ったいま、もはや初老となりつつあるこの私に、晶文社から現在も刊行中である『吉本隆明全集』の月報に収録する予定の原稿依頼がきた。予定されているのは第十八巻、吉本のこの一文が書かれたまさにその時期、1980年から1982年にかけて世に問われた作品群、著作群が集大成される巻であった。私にとって出逢いの偶然が一つの必然となった(この「はじめに」は、その月報として書かれた原稿がもとになっている)」と述べます。

 

 

本書は、吉本が残した膨大な著作群のうちで最も重要であると思われるものを、書物としてまとめられた順序に従ってただひたすら読み進めていくという構成をとっているとして、著者は「その結果、『母型』を求め続けた吉本隆明の思想と表現の起源に『戦争』があったことに気づかされた。時間と空間という限定を乗り越えていく『母型』と、時間的にも空間的にも限定された『戦争』と。吉本隆明という表現者はその二極に引き裂かれ、それゆえ、固有性をもちながらも普遍性を志すことができた。ある意味において、近代日本が生み出すことができた最大の著述家である」と述べます。

 

 

吉本隆明は、近代日本の可能性と不可能性の両面(「母型」と「戦争」)を兼ね備えた表現者であると指摘し、著者は「『戦争』の起源であるとともに、それを乗り越えていくもう一つ別の可能性をも秘めた『母型』を、生涯をかけて探った人である。本書のサブタイトルを『思想家にとって戦争とは何か』とした所以である。『母型』と『戦争』は表裏一体の関係にある」と述べ、さらには「『戦争』を条件として、表現の『母型』、関係の『母型』を求め続けた一人の思想家。その思想家の可能性と不可能性を確定した地点から、新たな時代の思想と表現がはじまるはずである」と述べるのでした。


Ⅰ「詩語と戦争」の1「詩語の発生」の冒頭で、「吉本隆明とは一体何者だったのか」と問いかけ、著者は「私は、表現が生まれ出てくる起源の場所(「母型」)、さらには、そこから生まれ出てくる起源の表現(「詩語」)を求め続けた人だと思っている。表現のもつ可能性と不可能性を、理論的に実践的にも探究していく。それが、吉本隆明がやり続けたことだ。私は、そのことこそが最も広義の『批評』であると考えている。だからこそ、思想の世界においても、文学の世界においても、吉本隆明は孤独であったように思われる」と述べています。

 

 

しかし、そこには1人のかけがえのない先達がいたはずだとして、著者は「民俗学者にして国文学者である折口信夫である。折口もまた、釈超空という不可思議な筆名を用いて、短歌・詩・小説・戯曲と日本語で可能なすべての創作の分野で優れた作品を残した。私は折口信夫もまた、最広義の『批評家』であったと考えている。折口信夫から吉本隆明へ。そこにこそ最も豊饒な『批評』の系譜を見出すことができる。私の吉本隆明論は、その地点からはじまる」と述べています。

 

 

「理想とした詩人」として、吉本が自らの理想とした「詩人」は宮沢賢治であると指摘し、著者は「そのことは無償の情熱の産物である『初期ノート増補版』に収められた若々しく名未完の論考や断章群からもよく理解できる。しかし、賢治的な世界は、実際は吉本という書き手の個性からは最も遠くある、そう喝破したのは実の娘、よしもとばななであった。『言葉からの触手』が文庫となったとき、そこに付された『解説』にそう記されていた。卓見であると思う。それは吉本の表現の本質を見事に射抜いた言葉であると同時に、そうした想いは吉本自身にも共有されていたようである」と述べます。

 

 

それでは「批評家」として吉本が理想としていた者とは一体誰か。おそらくそれは折口ではなく、柳田国男であろうと、著者は推測します。「柳田国男折口信夫」として、著者は「『共同幻想論』から『柳田国男論』を経て『母型論』にいたる理論的な著作の主要な参照基準として、またサブカルチャーの積極的な取り込みに関しても、吉本にとって柳田国男という存在は非常に大きかった、というよりも別格の位置を占めていたと思われる。宮沢賢治柳田国男。この両者からの巨大な影響を吉本の著作の上に認めることについては、客観的にもほとんど異論はないはずである。事実、吉本自身も両者について、それぞれ美しくも戦慄的な書物を1冊ずつ書き上げている」と述べています。



吉本にとって、自らの内なる「詩人」と「批評家」はなによりも「表現する言語」という1つの点で重なり合うものだったと指摘する著者は、「そして吉本の言語論にその原型を提供したのは折口信夫である。これを言い換えてみれば、吉本にとって、宮沢賢治の『詩』と柳田国男の『批評』は、折口信夫の『言語論』において1つに統合されるものなのである。この事実は、吉本個人を超えて、日本文学史それ自体の壮大な書き換えをも図るヴィジョンにつながってゆくだろう」と述べるのでした。



Ⅱ「南島へ」の2「異族の論理」では、「『海上の道』から『母型論』へ」として、著者はこう述べています。
柳田国男の『遠野物語』は、大逆事件が起こり、韓国併合が行われた1910年に刊行された。列島に近代的な国民国家が名実ともに確立された年である。そして、この『遠野物語』を読解の中心に据えた吉本隆明の『共同幻想論』は、全世界的に変革の嵐(プラハの春学生運動の昂揚およびそれらの壊滅)が吹き荒れる最中の1968年に刊行された。世界規模で近代的な国民国家という枠組み自体が変質しはじめた年である。さらに、吉本の『共同幻想論』を介して『遠野物語』に描き出された『死と共同体』の関係を再発見した三島由紀夫が自刃するのは、それから2年後の1970年のことである。『遠野物語』刊行からちょうど60年の月日が過ぎ去っていた」

 

 

遠野物語』について、著者は「民俗学のみならず文化人類学社会学、さらには哲学や芸術、映画や漫画、つまりメインカルチャーからサブカルチャーに至るまで、精緻な研究書から無責任な二次創作に至るまで、刊行から現在までの百年以上の間に、無数の分身を生み出し続けてきた」と指摘し、超近代化の果てに列島がどのような変貌を遂げていくのか、また遂げざるを得ないのかを占うためにも、『共同幻想論』において『遠野物語』読解の次元を根本から変えてしまった吉本隆明の営為から、1968年以降の『遠野物語』の変容を跡づける必要があるとし、「なぜなら、吉本隆明は意識的に柳田国男を自身の学の先達として位置づけ、おそらくは無意識的に柳田の仕事をなぞるようにして自身の学を深め、完成していったからである」と述べています。

 

 

Ⅳ「最後の吉本隆明」の1「偏愛的作家論」では、「宮沢賢治――表現の在り方として憧れ続けた詩人」として、著者は「吉本隆明のなかには、つねに『詩人』と『批評家』が同居している。この両者の統合、さらにはその相克から、吉本にとってすべての実り豊かな成果が生まれてきた。吉本が『批評家』として、自らの先達に意図的に位置づけているのは、柳田国男である(『母型論』の「序」はその宣言でもある)。そして『詩人』として、さらにはその表現の在り方として、少年時代から憧れ続けていたのが宮沢賢治なのである(吉本は、自らの出発点を『宮沢賢治論』で飾ろうとしていた。その論の骨子は『初期ノート増補版』のなかにすべて収められている)。

 

 

柳田国男――旅人としての眼差し」として、著者は「吉本隆明にとって、柳田国男は特別な存在である。柳田の夢見がちな、特異な個性がなければ、個人幻想と対幻想、さらには共同幻想が浸透しあったアジアの古層に存在する『薄暮の感性がつくりだした』世界の、幻想領域の全体像を感受することなどできなかったであろう。吉本にとって、柳田はまず、さまざまな『幻想』に取り憑かれやすい特別の資質をもった個体、『眠り』の世界に誘われ、そこに言葉を紡ぐ〈憑人〉としてあったのです。



柳田が囚われた「幻想」に共通して現れる「構造的な志向」を抽出するとすれば、それは「柳田の入眠幻覚がいつも母体的なところ、始原的な心性に還る』というところにある。このようなあらゆるものの「母型」を幻視する者、「このつよい少年時の入眠幻覚の体験者が『遠野物語』の語り手であるおなじ資質の佐々木鏡石と共鳴したとき、日本民俗学の発祥の典拠である『遠野物語』が」生み落とされたのであると、吉本は『共同幻想論』に書きます。

 

 

吉本が、柳田の「旅人」の眼を通して描き出したイメージを、さらに「世界視線」によって普遍化し得たとき、そこには、人類の始原における、「自然」に対する命名行為の歷史過程のすべてが見出されたのであると指摘し、著者は「まず、自然現象や地勢が命名される、それが反復され、神々の固有名が生まれる。そして地名と人名が分かれ、地名は物語化されてゆく。『初期歌謡論』で描き出された、母型とその反復による文学の発生というヴィジョンとも大きく共振し、交響する。柳田の『地名論』と吉本の『枕詞論』は深く通底していく」と述べます。

 

 

3「アフリカ的段階へ」では、著者は「詩の言葉、その意味にしてイメージを限りなく遠い未来に探っていくことは、同時にその詩の言葉、意味にしてイメージを生命そのものの基盤にまで探っていくことにつながる。未来は過去に通じ、特殊は普通に通じる。『ハイ・イメージ論』と『言葉からの触手』の達成をもとにしてあらわされた『母型論』と『アフリカ的段階について』は、思想家にして表現者、批評家としての吉本隆明の到達点を示している」と述べています。

 

 

『母型論』と『アフリカ的段階について』は、文字通り、吉本隆明の思想の到達点を指し示しているとしながらも、著者は「もちろん、その見解を無条件で受け入れることはナンセンスである。両著書で吉本が参照している資料類についても、現在では、種々の疑義が提出されている。しかし、それでもなお、個人の発生史と種族にして人類の発生史を一つに結び合わせ、個人のドラマにして人類のドラマとして語り尽くすという『最後の吉本隆明』の姿には大きな感銘を受ける。来たるべき批評は、このようなかたちをとるべきであろう」と述べます。

 

 

4「〈信〉の解体」では、著者は吉本の著書である『最後の親鸞』にかけた「最後の吉本隆明」について、「最後の吉本隆明は、自らの探究の起源に螺旋を描いて回帰していく。戦争を生み出した『共同幻想』としての国家が死滅したあと、そこには一体何が残るのか。もしかしたら、そこには国家の戦争を超える剝き出しの暴力、剥き出しの『悪』しか残っていないのかもしれない。人間のはじまりにして人間の終焉でもあるそうした『無』の場所、ゼロの場所に立ち続けること。それが、吉本隆明の最後の教えである」と述べています。


「戦争の母型」として、著者は、あらためて、「なぜ人は、破滅的な幻想に巻き込まれるのか?」という最初の問いに戻りたいとして、「自らが滅ぼされると分かっていながら、なぜ戦争に、根源的な破壊に、我を忘れて熱狂してしまうのか。吉本隆明が、文字通りその生涯を通して考え続けた問いである。しかし同時に、そのはじまりから、吉本は、きわめて簡潔に答えを提示してくれてもいる。それは「心」をもってしまったからである」と述べます。


吉本的な語彙を用いて説明するならば、外的な自然(環境)からも、内的な自然(身体)から二重に疎外された「心的な領域」をもってしまったからであるとして、著者は「破滅的な幻想の原因、戦争の母胎にして戦争の『母型』とは、人間がもたざるを得なかった『心』にこそ存在している。ほぼ同時に書き進められた『共同幻想論』と『心的現象論序説』は、まさにそうした、人間がもたざるを得なかった「心」の構造を徹底的に探究したものであった」と述べています。


そして、宮沢賢治の裏面には麻原彰晃が潜み、麻原彰晃の裏面には宮沢賢治が潜んでいると指摘し、著者は「戦争を真に理解するためには、人間のもつ『心』の構造を真に理解しなければならない。極東の列島に固有の問題であるとともに、人類にとって普遍の問題でもある。近代的な問題であるとともに古代的な問題でもある。問いはいまだひらかれている」と述べるのでした。


後記「来るべき批評の未来に向けて」では、著者は私は、吉本隆明の著作を読み解くことから、自身の批評の方法を身につけていった。私にとって吉本隆明の仕事は、まさに批評の原型であり、原型としての批評であった。吉本隆明の批評はすべて、表現の生まれ出てくる根源的な場所(「母型」)を目指して書き進められていた。その結果、吉本の批評が対象とする領域は、狭義の文学に限られないことになった」と述べます。

f:id:shins2m:20120316224152j:plainわが書斎の吉本隆明コーナー

 

そして、著者は「心理学、歴史学社会学民俗学、人類学、考古学等々、吉本は人文諸科学のあらゆる成果を貪欲に消化吸収し、自ら独自の理論として磨き上げていこうとした。しかも現実の世界の情況に真摯に対応しながら・・・・・・。それゆえ、それぞれの学問分野から、あるいは一部のメディアや表現者たちから激烈な批判を受けることになった(もちろんそのなかにはきわめて正当なものもある)」と述べるのでした。


本書は140ページほどの小著ですが、柳田国男折口信夫宮沢賢治といった人々からの影響関係も明確に書かれており、非常に興味深い吉本隆明論でした。著者には、いずれ書いてほしいテーマがあるのですが、それは著者の師である中沢新一氏についての論考です。楽しみです!

 

 

2022年8月31日 一条真也