一条真也です。
『21世紀の啓蒙』上下巻、スティーブン・ピンカー著、橘明美+坂田雪子訳(草思社)を読みました。「理性、科学、ヒューマニズム、進歩」というサブタイトルがついています。著者は、ハーバード大学心理学教授。認知科学者、実験心理学者として視覚認知、心理言語学、人間関係について研究しています。進化心理学の第一人者です。主著に『言語を生みだす本能』『心の仕組み』『人間の本性を考える』『思考する言語』(以上、NHKブックス)、『暴力の人類史』(青土社)などがあり、本書『21世紀の啓蒙』が10冊目になります。研究、教育ならびに著書で数々の受賞歴があり、2004年には米タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」に、2005年にはフォーリンポリシー誌の「知識人トップ100人」に選出。米国科学アカデミー会員。『アメリカン・ヘリテージ英語辞典』の語法諮問委員会議長も務めています。
本書の上巻の帯
本書の上巻の帯には、「世界は決して暗黒に向かってなどいない。」と大書され、「食糧事情から平和、人々の知能まで、多くの領域が啓蒙の理念と実践により改善されてきたことをデータで提示。ポピュリズムと二極化の時代の今こそ、この事実を評価すべきと説く」「全米ベストセラー! ビル・ゲイツ絶賛――“私の生涯の愛読書となる、新しい一冊だ。”」と書かれています。
本書の上巻の帯の裏
上巻の帯の裏には、以下のように書かれています。
「『わたしたちは理性と共感によって人類の繁栄を促すことができる』という啓蒙主義の原則は、あまりにも当然で、ありふれた、古くさいものに思えるかもしれない。だが実はそうではないとわたしは気づき、それでこの本を書くことにした。古くさいどころか、理性、科学、ヒューマニズム、進歩といった啓蒙主義の理念は今かつてないほど強力な擁護を必要としている。わたしたちは啓蒙主義の恩恵に浴していながら、あまりにも慣れすぎてしまった。(本書より)」
上巻のカバー前そでには、こう書かれています。
「“世界は良くなり続けている。たとえ、いつもはそんなふうに思えないとしても。スティーブン・ピンカーのように、大局的な視点から世界の姿を我々に見せてくれる聡明な思想家がいてくれることを、私は嬉しく思う。『21世紀の啓蒙』は、ピンカーの最高傑作であるのはもちろんのこと、私の生涯の愛読書となる、新しい一冊だ。“――ビル・ゲイツ」
「啓蒙主義の理念――理性、科学、ヒューマニズム、進歩――は、今、かつてない大きな成功を収め、人類に繁栄をもたらしている。多くの人は認識していないが、世界中から貧困も、飢餓も、戦争も、暴力も減り、人々は健康・長寿になり、知能さえも向上して、安全な社会に生きている。どれも人類が啓蒙主義の理念を実践してきた成果だ。にもかかわらず、啓蒙主義の理念は、今、かつてないほど援護を必要としている。右派も左派も悲観主義に陥って進歩を否定、科学の軽視が横行し、理性的な意見より党派性を帯びた主張が声高に叫ばれている。ポピュリズムと二極化、反知性主義の時代の今こそ、啓蒙主義の理念は、新しく、現代の言葉で語り直される必要がある。つまり、現代ならではの説得力を持った新しい言葉、『データ』『エビデンス』によって――。知の巨人ピンカーが驚くべき明晰さで綴る、希望の書」
本書の下巻の帯
本書の下巻の帯には、「知の巨人が綴る事実に基づいた希望の書。」と大書され、「わたしたちは、今、史上最良の時代を生きている――。過去を理想化して進歩を否定、未来は衰退に向かうと主張する反啓蒙主義の嘘・誤りを、データにより明らかにする」「32の言語/地域で刊行、各国で議論を巻き起こす世界的ベストセラー!」と書かれています。
本書の下巻の帯の裏
下巻の帯の裏には、以下のように書かれています。
「世界の状況を正しく評価するにはどうしたらいいのだろうか。答えは『数えること』である。今生きている人が何人で、そのなかの何人が暴力の犠牲になっているのか。何人が病気にかかり、何人が飢えていて、何人が貧困にあえぎ、何人が抑圧されていて、何人が読み書きができず、何人が不幸なのか。・・・これは実は道義的にも賢明な方法だといえる。なぜなら、身近な人を優先するわけでも、テレビ受けする人を特別扱いするわけでもなく、一人ひとりの価値を平等に扱う取り組みだからだ。(本書より)」
下巻のカバー前そでには、こう書かれています。
「ポピュリズムの隆盛により、民主主義の死はもはや決定づけられた。世界人口の増加により、今世紀中の食糧危機の到来は間違いない。地球温暖化も核兵器拡散も、解決の糸口はまるでつかめていない。・・・・・・というのは本当だろうか。若い人はポピュリズムを支持しておらず、世代交代とともに衰退する可能性が高い世界人口が増加しても、農業の進歩により飢餓に苦しむ人の数は大きく減少している。温暖化も核兵器も現実の脅威だが、GDPあたりの二酸化炭素排出量は減少しており、また世界の核兵器の数は近年減少し続けている。決して解決できない問題ではない。データを用いて、無根拠な『衰退の予言』の欠陥を指摘し、啓蒙の理念による進歩の重要さを説く。世界をよりよいものにする意志に満ちた、世界的ベストセラー」
アマゾン「出版社より」
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
【上巻】
序文
第一部 啓蒙主義とは何か
第一章 啓蒙のモットー「知る勇気をもて」
第二章 人間を理解する鍵
「エントロピー」「進化」「情報」
第三章 西洋を二分する反啓蒙主義
第二部 進歩
第四章 世にはびこる進歩恐怖症
第五章 寿命は大きく延びている
第六章 健康の改善と医学の進歩
第七章 人口が増えても食糧事情は改善
第八章 富が増大し貧困は減少した
第九章 不平等は本当の問題ではない
第一〇章 環境問題は解決できる問題だ
第一一章 世界はさらに平和になった
第一二章 世界はいかにして安全になったか
第一三章 テロリズムへの過剰反応
第一四章 民主化を進歩といえる理由
第一五章 偏見・差別の減少と平等の権利
「原注」
【下巻】
第一六章 知識を得て人間は賢くなっている
第一七章 生活の質と選択の自由
第一八章 幸福感が豊かさに比例しない理由
第一九章 存亡に関わる脅威を考える
第二〇章 進歩は続くと期待できる
第三部 理性、科学、
ヒューマニズム
第二一章 理性を失わずに議論する方法
第二二章 科学軽視の横行
第二三章 ヒューマニズムを改めて擁護する
「原注」
「参考文献」
「索引」
第一部「啓蒙主義とは何か」の「啓蒙主義の理念は今こそ擁護を必要としている」では、わたしたちは啓蒙主義の恩恵に浴していながら、あまりにも慣れすぎてしまったことを指摘し、著者は「たとえば、今生まれる子どもたちは80年以上の寿命を期待でき、市場には食料品があふれていて、指をちょっと動かすだけで清浄な水が流れ、同じく指をちょっと動かすだけでごみが消え、痛みを伴う感染症も錠剤で治癒し、息子たちを戦場に送り出さずにすみ、娘たちが通りに出ても危険がなく、権力者を批判しても投獄されたり撃たれたりせず、世界の知識と文化がシャツのポケットに入ってしまうといったことを、わたしたちは当たり前だと思っている。しかしこれらはすべて人類が可能にしたことであって、当たり前の生得権ではない。読者の皆さんの多くも、戦争、食糧難、病気の蔓延、無知、命の危険などが日常の一部だった時代のことを記憶にとどめているだろうし、恵まれない国の人々なら体験してもいるだろう。しかもわたしたちは、国というものがそうした昔の状態に逆戻りしうることを知っている。つまり啓蒙主義の成果を無視するのは、自ら危険を招くようなものである」と述べています。
また、啓蒙主義の理念は理性が生み出したとしながらも、人間の本性は2本の糸を縒り合わせたようなもので、その1本である理性は常にもう1本の糸と戦っていると指摘し、著者は「もう1本の糸とはすなわち、部族への忠誠、権力への服従、呪術的思考、不運を何者かのせいにすることなどだ。現に、2010年代に入ってから、自国が悪の派閥によって地獄さながらのディストピアに引きずり込まれつつあり、それに抵抗できるのは『再び偉大な国に』引き戻してくれる強い指導者だけだと考える政治運動が高まりを見せている。しかもその運動は、対抗勢力のリーダーたちがよく口にする話に煽られて勢いづいてきた。つまり、現代の諸制度は破綻したとか、生活のあらゆる面で危機が深まっているといった話である。結局のところ『今ある制度を壊せば世界は良くなる』という点では両陣営が声を揃えているわけで、これはなんとも恐ろしい事態である。人類の長い進歩のなかで、その流れに反する諸問題が起こったときに、それらを解決することでますます進歩を重ねられると考えるような前向きなビジョンをもつ人々の声は、今は小さくなってしまっていてあまり聞こえない」と述べます。
第一章「啓蒙のモットー『知る勇気をもて』」の冒頭の「啓蒙とは何か。啓蒙主義とは何か」を、著者は「啓蒙とは何か。この問い『啓蒙とは何か』をタイトルに掲げた1784年の小論で、イマヌエル・カントはこう答えている。それは『人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ること』〔『カント全集14』福田喜一郎訳、岩波書店より〕であり、宗教的・政治的権力の『ドグマと因襲』への『怠惰で臆病な』服従から抜け出ることである。そして啓蒙のモットーは『知る勇気をもて!』であり、その基礎をなす要求は思想と言論の自由である」と書きだしています。また、「一般的には18世紀中頃からその世紀末までとされているが、実際には、17世紀の科学革命と理性の時代に湧き出て、18世紀を通して流れつづけ、19世紀前半の古典的自由主義の全盛期へと流れ込んでいった。啓蒙思想家たちは、それまでの常識に対して科学と探検が異議申し立てを行ったことに触発され、少し前の血なまぐさい宗教戦争の記憶に苛まれ、また思想と人の移動が容易になったことに助けられて、人間のありようについての新しい理解を探し求めた。この時代にはさまざまな考えが花開き、なかには相矛盾するものもあったが、次の4つのテーマで全体を括ることができる。すなわち理性、科学、ヒューマニズム、進歩である」と書いています。
「『理性』とは本来、交渉や駆け引きとは無縁のもの」では、啓蒙思想家たちに共通点があるとすれば、それはあくまでも理性の基準に照らして世界を理解しようとし、信仰、ドグマ、啓示、権威、カリスマ、神秘主義、占い、幻影、第六感、聖典解釈といった妄想の源に頼らなかったことであると指摘し、著者は「多くの啓蒙思想家が、人間の姿をして人間の問題に口をはさむ神を信じなかったのも、理性で考えたからだった。理性を使ったからこそ、奇跡の報告が疑わしいことも、聖典の著者がいずれも正真正銘の人間であることも、自然現象には人間の幸福への配慮など一切見られないことも、信じる神が文化によって異なり矛盾が生じているが、そのどれもが等しく想像の産物にすぎないことも明らかにできた(モンテスキューがいうように、「三角形たちが神をつくったら、その神は三角形になる」)。もちろん彼らが全員無神論者だったわけではなく、一部は無神論者の対語としての理神論者だった。理神論とは、神はこの宇宙を創造したところで身を引き、あとの展開を自然法則に任せたとする考えだ」と述べます。
理神論者の他にも、「神」を自然法則と同義と考える汎神論者もいました。しかしながら、戒律を定め、奇跡を起こし、子をもうけるという、聖典に書かれているような神を信じた啓蒙思想家はほとんどいなかったとして、著者は「現代の多くの著述家は、啓蒙主義による理性の是認と、『人間は完全に合理的な主体だ』というばかげた主張とを、混同している。これほどひどい誤解があるだろうか。カント、スピノザ、トマス・ホッブズ、デイヴィット・ヒューム、アダム・スミスといった啓蒙思想家たちは好奇心旺盛な心理学者でもあり、人間が非合理な感情や弱点をもつことを十二分に承知していた。そのうえで、弱点を乗り越えるには、数々の愚行の共通要因を突きとめて対処するしかないと考えた。理性を使うとき、意識的にそうする必要があるのは、間違いなく人間の普段の思考があまり理性的ではないからだ」と述べます。そして、著者は、「こうした考え方は啓蒙主義の第2の理念である『科学』――理性を磨いて世界を理解すること――につながる。科学革命は文字どおり革命的な出来事だった」と述べるのでした。
「『科学』による無知と迷信からの脱却」では、モンテスキュー、ヒューム、スミス、カント、ニコラ・ド・コンドルセ、ドゥニ・ディドロ、ジャン=バティスト・ダランベール、ジャン=ジャック・ルソー、ジャンバッティスタ・ヴィーコといった思想家たちは、多くの点で意見を異にしながらも、「人間の科学」の必要性というテーマは共有していたと指摘し、著者は「彼らは普遍的な人間性というものがあると信じ、それは科学で探求できると考えた。そして実際、数々の科学の先駆者となったのだが、それらに何々学という名がついたのは数世紀のちのことである」と述べます。たとえば、彼らは今日いうところの認知神経科学者や進化心理学者や社会心理学者や文化人類学者となって、普遍的な人間性を探求したわけです。
「感覚をもつ者への共感が『ヒューマニズム』を支持する」では、こうした普遍的な人間性の探求が、わたしたちを啓蒙主義の第三の理念である「ヒューマニズム」に導くと指摘し、著者は「理性の時代の思想家も、啓蒙時代の思想家も、宗教以外の道徳基盤を懸命に探し求めた。十字軍、異端審問、魔女狩り、宗教戦争と、数世紀に及んだ宗教上の殺戮の歴史が記憶に深く刻まれていたからだ。彼らは新たな道徳基盤を、今日『ヒューマニズム』と呼ばれるものに置くことにした。部族、種族、国家、宗教の栄光よりも、個々の男性、女性、子どもの幸福を重視する考え方である。なにしろ喜び、痛み、満足、苦しみを感じるのは集団ではなく、『感覚をもつ存在』である個人なのだから。それは『最大多数の最大幸福』〔ベンサム〕と表現されることもあれば、『他者をただの手段としてではなく目的としても扱え』〔カント〕という定言命法で表現されることもあるが、いずれにせよ、人間なら誰もがもつ苦しんだり喜んだりできる能力が、わたしたちの道徳的関心を呼び起こすと彼らは述べた」と書いています。
ヒューマニズムの感性ゆえに、啓蒙思想家たちは宗教上の暴力だけではなく、奴隷制度、専制政治、窃盗や密猟などの軽罪での死刑執行、加虐的な刑罰(鞭打ち、切断、串刺し、腹裂き、車裂き、火あぶり)など、当時の世俗の残虐行為も糾弾したことを紹介し、著者は「啓蒙主義運動が時に人道主義革命とも呼ばれるのは、どの文明でも何千年も前から普通に行われていた野蛮な慣行が、この運動によって廃止されたからだ」と述べます。さらに、「啓蒙主義の『進歩』の理念とは何か」では、奴隷精度や残虐な刑罰の廃止が進歩ではないとしたら、進歩などどこにもないことになってしまうとして、「わたしたちは啓蒙主義の第四の理念、『進歩』にたどり着く。科学によって世界の理解が進み、理性とコスモポリタニズムによって共感の輪が広がったことで、人類は知的にも精神的にも進歩することができた。現代もなお悲劇や不合理があるからといって、わたしたちはそれに甘んじる必要はないし、失われた黄金時代に逆戻りをしようとする必要もない」と述べるのでした。
「いかに富は創造され、『繁栄』が実現するか」では、繁栄について初めて理論的分析を試みたのも啓蒙思想家で、その分析の出発点は富がどのように配分されるかではなく、そもそも富はどうやって生まれるかだったとして、著者は「アダム・スミスは出生地スコットランドはもちろん、フランスやオランダからも影響を受け、それらを足がかりにこう考えた。何か有用なものが豊富に出回っているとしたら、それは単独で働く農民あるいは職人が魔法のように生み出したのではなく、各人が効率的なつくり方を学べて、各人の創意工夫、スキル、労働の成果を互いに組み合わせたり交換したりできるような専門家のネットワークが生み出したのだと」と述べます。
交換市場は社会全体を豊かにするだけではなく、より良いものにします。なぜなら、効率的市場においては物を盗むより買うほうが安く上がりますし、誰かが死ぬより生きていてくれるほうがあなたのためになるからです。このことを、経済学者のルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは数世紀後に「仕立て屋がパン屋と戦争を始めたら、そのときから自分でパンを焼かなければならなくなる」と表現しました。こうした考えから、モンテスキュー、カント、ヴォルテール、ディドロ、アベ・ド・サン=ピエールなど、多くの啓蒙思想家が「温和な商業(doux commerce)」という理想を支持しました。ジョージ・ワシントン、ジェームズ・マディソン、とりわけアレクサンダー・ハミルトンといったアメリカの建国の父たちも、生まれたての国のために、この理想を育むような諸制度を考えたのです。
「『平和』は実現不可能なものではない」では、これらはもう1つの啓蒙主義の理念である「平和」にもつながるとして、著者は「かつては戦争があまりにも頻繁に起こったので、これはもう手の施しようがない人間の性であり、メシアの時代にならないかぎり平和は来ないと思われていた。しかし今日では、戦争は耐え忍んで嘆くしかない天罰でもなければ、何としてでも勝って祝うべき名誉をかけた試練でもなく、軽減されるべき実際的問題で、いつかは解決されるべきものだと考えられている。カントは『永遠平和のために』(中山元訳、光文社)のなかで、自国を戦争に引きずり込まないために、為政者はどうするべきかを論じた。そして自由貿易とともに、代表共和制(わたしたちが民主主義と呼ぶようなもの)、相互透明性、征服と干渉を防ぐ規範、移動・移民の自由、紛争解決のための国際的な連合などを推奨している」と述べるのでした。
第二章「人間を理解する鍵『エントロピー』『進化』『情報』」の冒頭の「人間を理解する第一の鍵『エントロピー』」を、著者は「人間のありようを理解するための第一の鍵は、『エントロピー』ないし無秩序の概念である。これは19世紀の物理学から生まれ、物理学者のルートヴィヒ・ボルツマンによって現在の形に定式化された。彼が導き出した熱力学の第二法則によれば、孤立系(外界との相互作用がない系)におけるエントロピーは決して減少しない(熱力学の第一法則は「エネルギーは保存される」、第三法則は「絶対零度には到達できない」)。この法則により閉鎖系は否応なく徐々に構造や秩序を失い、有意味で有用な結果を得られる可能性も減っていき、やがて特徴も活気もない均質な平衡に至り、そこに落ち着く」と書きだしています。
「人間を理解する第二の鍵『進化』」では、著者は「一見すると、エントロピーの法則があるかぎり、わたしたちには悲劇的な歴史と憂鬱な未来しか描けないように思えるだろう。宇宙はビッグバンという超高密度のエネルギー状態、すなわちエントロピーの低い状態から始まった。そこからすべてが低密度へと坂を下っていき、宇宙は拡散し――今後も拡散しつづけるが――希薄な霧状の粒子が宇宙全体にむらなく、まばらに広がった状態となった」「物質界のあの優雅なシンメトリーやリズムではなく、生物界の機能的なデザインのことだ。生物は複数の器官から成り、各器官はまたそれぞれ異なる部分から構成されているが、それらが奇妙な形状、奇妙な配置になっているのは、生命体の生存に必要不可欠な役割を果たすため(エントロピーに抵抗するべくエネルギーを吸収しつづけるため)である」と述べます。
「人間を理解する第三の鍵『情報』」では、著者は「情報はエントロピー減少の1つと考えていいだろう。膨大な数の無作為で無用な系から、秩序ある構造化された系を区別する要素と考えられるからだ。猿がタイプライターででたらめに打った何ページもの文字列、ラジオのチューニング中に局の周波数から外れたところで聞こえるホワイトノイズ、コンピューターファイルが壊れたときのぐちゃぐちゃな画面を思い浮かべてほしい。これらの文字や音や画素の配列には、同じように意味をなさないうんざりするような組み合わせが膨大にある。だがそこで、これらの装置が何らかの信号によって制御され、文字、音、画素を世界の何かと関連づけるような配列に並べ替えられたとする。すると、たとえば文字列は独立宣言に、音列は『ヘイ・ジュード』に、画素列はサングラスをかけた猫になる。このときわたしたちは、『その信号は独立宣言やヒットソングや猫に関する“情報”を伝えている』という」と述べます。
知識によって獲得したエネルギーはエントロピーに抵抗する時効薬となり、エネルギー獲得効率の向上は人類の運命の向上につながったと指摘する著者は、「約1万年前に農業が発明され、植物栽培と家畜からさらに多くのエネルギーが得られるようになると、人類の一部は狩猟採集以外にも目を向ける余裕を得て、しだいに書いたり、考えたり、考えたことを蓄積したりするようになった。そして哲学者のカール・ヤスパースが『枢軸時代』と呼んだ紀元前500年頃、各地に分散したいくつかの文化圏で、ただ儀式と生贄で不運を逃れようとする文化から、無私無欲を奨励し、精神的超越へと導く哲学的・宗教的信念の文化への転換が起こった。実際この時代には、ほんの数世紀のあいだに、中国の道教と儒教、インドのヒンドゥー教と仏教とジャイナ教、古代ペルシアのゾロアスター教、ユダヤの第二神殿時代のユダヤ教、古代ギリシャの哲学と演劇などが次々と出現している(孔子、ブッダ、ピタゴラス、アイスキュロス、そしてヘブライの最後の預言者は、同時代にこの地上を歩いていた)」と述べるのでした。
第三章「西洋を二分する反啓蒙主義」の「現在もなお続くロマン主義による抵抗」では、啓蒙主義の理念にとりわけ激しく抵抗したのはロマン主義運動だったと指摘し、著者は「ルソー、ヨハン・ヘルダー、フリードリヒ・シェリングなどは、『理性は感情と区別できる』『個人をその文化から切り離して考えることができる』『人は自らの行動の根拠を示すべきである』『時代や地域を超えて通用する価値がある』『平和と繁栄こそ望ましい目標である』といった考えを否定し、こう主張した。人間は文化、民族、国家、宗教、時代の精神、歴史を動かす力といった有機的統一体の一部であり、自分が属するその統一体を創造的に超越的調和へと導かなければならない。問題の解決ではなく英雄的な闘争こそが最大の大義であり、また暴力は自然に内在するのだから、それを抑えると必ず活力を奪うことにつながるのだと。シャルル・ボードレールはこう書いている。『尊敬に値する人間は3種類しかいない。司祭、戦士、詩人。つまり知り、殺し、創作する人々』」と述べます。
「最もわかりやすいのは宗教的信仰である」と著者は言います。何かを信仰するというのはもっともな理由もなく信じることであり、超自然的存在への信仰はそもそもの定義からして理性と相容れません。また、宗教は道徳的善を人の幸福より上に置こうとする点で、ヒューマニズムともぶつかることが多いとして、「たとえば聖なる救世主を受け入れる、神聖な物語を公式なものと認める、儀式や禁忌を強要する、改宗を強要する、それに従わない人を罰したり悪魔とみなしたりするといった場合である。さらに宗教は、命より魂を重んじる点でもヒューマニズムとぶつかる(死後の魂と聞けば気持ちが高ぶるが、そのわりには救いにならない)。来世を信じることは、現世は人生のほんの一部にすぎないから健康や幸福などたいしたものではないとか、人々に救済を受け入れさせるのは恩恵の施しであるとか、殉教こそわが身に起こりうる最良の出来事かもしれない、などと考えることに通じる。
では、啓蒙主義ヒューマニズムと哲学との相性はどうかというと、これまた宗教と同様で、著者は「相性の悪さを示す事例ならガリレオ、進化論裁判、幹細胞研究、気候変動と、歴史上の語り草から最近の出来事に至るまで枚挙にいとまがない」と述べています。そして、「所属する集合体の栄光を優先する人々」として、「人間を超個体――氏族、部族、民族、宗教、人種、階級、国家など――を形成する使い捨ての一細胞とみなすもので、至上の善は集合体の栄光にあり、その集合体を形成する人間の幸福ではないと考える。わかりやすい例がナショナリズムで、その場合の超個体は国民国家、すなわち1つの政府をもつ民族集団である」と述べ、これらの人々も反啓蒙主義であると指摘します。
第二部「進歩」の第四章「世にはびこる進歩恐怖症」の「世界が良くなっていることを認めない人々」では、「世界は過去より良くなっていて、今後もさらに良くなりうる」という考えは、知識人のあいだではとっくの昔に流行遅れになっているとして、著者は「アーサー・ハーマンは『西洋史における衰退の思想』のなかで、大学の一般教養課程に必ず登場する著名人たちがいずれも悲観論者だったことを示していて、そのなかにはニーチェ、アルトゥール・ショーペンハウアー、マルティン・ハイデガー、テオドール・アドルノ、ヴァルター・ベンヤミン、ヘルベルト・マルクーゼ、ジャン=ポール・サルトル、フランツ・ファノン、ミシェル・フーコー、エドワード・サイード、コーネル・ウェスト、そして一群の環境悲観論者が含まれている」と述べています。
世界の状況が実際悪いほうに向かっているかどうかはさておき、ニュースというものはそもそも、人間の認知機能と相互作用することによって、わたしたちに「世界は悪いほうに向かっている」と思わせるようにできていると指摘し、著者は「ニュースは何かが起こるから報じるのであって、何も起こらなければ報じない。キャスターがカメラに向かって『戦争が起こっていない国から生中継でお伝えします』ということなどありえないし、爆撃されていない都市や、銃撃されていない学校も同じことだ。地球上から悪い出来事がなくならないかぎり、ニュースで取り上げるべき話題が尽きることはない。今や何十億台ものスマートフォンが世界中に出回っていて、それを手にした人々を事件記者や従軍記者に変えてしまうのだから、なおさらのことである」と述べます。
また、実際には良いことも悪いことも起こっているとしても、この2つは異なる時間軸で展開するとして、著者は「その意味で、ニュースは『歴史の最初の草稿』というより、むしろスポーツの実況放送に近い。ニュースが焦点を合わせるのは個別の出来事であり、またほとんどの場合その前に報道された以降の出来事である(昔なら前日の報道以降、今では数秒前の報道以降の出来事だ)。悪いことは一瞬で起こりうるが、良いことは一朝一夕では成し遂げられず、ゆっくり展開するあいだにニュースの時間軸から外れてしまう。平和研究者のヨハン・ガルトゥングは、新聞が半世紀ごとにしか発行されないとしたら、有名人のゴシップだの政治スキャンダルだのではなく、平均寿命の延びといった、もっと重要で地球規模の変化を報じるだろうといっている」と述べています。
「ニュースと認知バイアスが誤った悲観的世界観を生む」では、利用可能性バイアスによる誤りは、しばしば人間をばかげた推論へと導くと指摘し、著者は「アメリカの医学部1年生は発疹を見るとすぐ外来病だと思うし、バカンス客はサメ襲撃の記事を見たあとや『ジョーズ』を観たあとは海に入ろうとしない。飛行機事故は必ずニュースになるが、それよりはるかに多くの命を奪っている自動車事故はほとんどニュースにならない。それはもちろん、空を飛ぶのは怖いと思う人が多いのに対して、車の運転を怖いと思う人は圧倒的に少ないからだ。また、アメリカ人は竜巻のほうが喘息より多くの命を奪うと思っているが(実際は米国の年間死者数は前者が50人で、後者が4000人以上)、これもおそらく竜巻のほうがテレビ映えするからだろう」と述べています。
「事実、世界は目を瞠る進歩を遂げてきた」では、進歩について、著者は以下のように述べるのでした。
「進歩とは何だろうか。この質問はあまりに主観的で、文化しだいでもあるので、答えようがないと思うかもしれない。だが実は、これほど答えるのが簡単な質問もない。ほとんどの人は死より生がいいと思っているはずだ。同様に、病気より健康が、飢餓より満腹が、貧困より裕福が、戦争より平和が、危険より安全が、専制政治より自由が、偏見や差別より平等が、文字が読めないより読めるほうが、無知より知が、愚鈍より明敏が、不幸より幸福がいいと思っているはずだ。さらに、単調な重労働を強いられるより、家族や友人と過ごしたり文化や自然を楽しんだりする機会があるほうがいいと思うだろう。これらの項目はすべて測ることができる。そして測った結果、時とともに後者が増えていれば、それが進歩である」
第六章「健康の改善と医学の進歩」の「医学の進歩が1つずつ問題を解決してきた」では、人類史の大半において、最大の脅威は感染症だったとして、著者は「質の悪い進化とでもいいたくなるが、微小で増殖率が高く、進化も速い生物が宿主の体を食いものにし、昆虫や他の微生物、宿主の分泌物や排泄物などを利用して体から体へと乗り移っていく。伝染病ともなると何百万という単位で人命を奪い、文明を丸ごと消滅させたり、ある地域の人口を激減させたりしてきた」と述べています。
創造力豊かなホモ・サピエンスは、長いあいだ祈禱、生贄、瀉血、吸角法〔ガラス容器で皮膚を吸引する民間療法〕、有毒金属〔梅毒治療に使われた水銀軟膏など〕、ホメオパシー、あるいは患部に雌鶏を押し当てて絞め殺すといった方法で病と闘ってきました。しかし、18世紀末のワクチンの発明をきっかけに、また19世紀の細菌学の進展に後押しされて、闘いの形勢が変わりはじめたとして、著者は「手洗いの習慣、助産術、蚊の駆除、とりわけ公共下水道の整備と塩素殺菌による飲料水の保護に力を入れたことで、何十億人もの命が救われることになった。なにしろ20世紀になるまで、都市は糞便の山だらけ、周辺の川も湖もごみでどろどろで、住民は悪臭を放つ茶色い水を飲み、そこで洗濯していたのだから」と述べます。世界中がコロナ禍にある今、この著者の発言を読むと感慨深いものがありますね。
第七章「人口が増えても食糧事情は改善」の「飢饉は長いあいだ当たり前の出来事だった」では、歴史学者のフェルナン・ブローデルの説が紹介されます。それによれば、近代以前のヨーロッパは数十年ごとに飢饉に見舞われていました。飢えに苦しむ農民たちはまだ熟していない穀物を刈り、雑草を食べ、人肉さえ食らい、町に押しかけて物乞いをしました。飢饉でないときでさえ、多くの人は摂取カロリーの大半をパンか粥に頼っていて、それも十分に食べられたわけではなかったといいます。著者は、「そのように飢えていたからこそ、ヨーロッパ人は『コカーニュの国』の物語のような一種のフードポルノで気をまぎらせていたわけだ。この国では木々にパンケーキが実り、通りにはパイが敷きつめられ、豚の丸焼きが歩きまわり、その背中にはナイフが刺さっていていつでも切り分けることができ、川には調理済みの魚がいて、それが跳ね上がって足元に落ちる。今日のわたしたちコカーニュの国で暮らしていて、カロリー不足ではなくカロリー過多が問題になっている。コメディアンのクリス・ロックにいわせれば、『貧しい人たちが太っている社会なんて史上初だよ』となる」と述べます。
「科学技術の進歩がマルサス人口論を無効化した」では、「緑の革命」のおかげで、わたしたち人類は以前の3分の1以下の面積で同じ量の食糧を得られるようになったとして、著者は「言葉を換えれば、1961年から2009年までに世界の農地面積は12パーセント増えたが、収穫量のほうは300パーセント増えた。より多くの食物をより少ない農地面積で育てられるようになったことは、飢餓対策として有効なのはもちろん、広い視野でいえば地球にとっても好ましい。農地には牧歌的な魅力があるものの、実体は森林や草原を犠牲にして広がった生物学的砂漠である。その農地が今や一部の地域で縮小し、温帯林が復活しつつある」と述べます。
第八章「富が増大し貧困は減少した」の冒頭の「世界総生産は200年でほぼ100倍に」を、著者は「経済学者のピーター・バウアーは、『貧困に原因はないが、富には原因がある』といった。エントロピーと進化が支配する世界においては、通りにパイが敷きつめられていたり、調理済みの魚が足元に落ちてきたりすることはない。だが人はこの自明の理を忘れ、富はもともとあるものだと思い込みやすい。歴史は勝者が書くというより、むしろ金持ち、つまり暇と学があるごく一部の人々が書く。経済学者のネイサン・ローゼンバーグと法学者のL・E・バーゼル・ジュニアがいうように、『わたしたちは過去に貧困が蔓延していたことを忘れるように仕向けられている。それは一部には、詩や小説といった文学、伝説などが、裕福に暮らした人々を取り上げ、貧困にあえいだ声なき人々についてはあまり語らないせいである。貧困の時代は神話化されがちで、素朴でのどかな黄金時代に祭り上げられることさえある。だが現実はそうではなかった』」と書きだしています。
「貧困からの大脱出を可能にした三大イノベーション」では、「科学の応用」というイノベーションがきっかけをつくったのだが、それで十分だったわけではなく、ほかにも2つのイノベーションが必要だったといいます。その1つは、モノとサービスとアイデアの交換を促進する「制度の構築」――アダム・スミスが富を生み出すものと指摘した原動力――です。もう1つのイノベーション、科学の応用と制度の構築に続く3つ目のイノベーションは「価値観の変化」であるとして、著者は「経済史学者のディアドラ・マクロスキーが『ブルジョアの徳』と呼んだものの承認といってもいい。貴族・宗教・軍事文化においては、商業は常に下品で腐敗したものと見なされてきた。しかし18世紀のイギリスとオランダでは、商業は有徳で人を前向きにさせるものと考えられるようになった。ヴォルテールをはじめとする啓蒙主義時代の哲学者たちは、商業精神には派閥間、宗派間の憎悪を消滅させる力があるとして、これを高く評価した」
第九章「不平等は本当の問題ではない」の「所得格差は幸福を左右する基本要素ではない」では、著者はソビエト連邦時代のある小話を紹介します。「あるところにイゴールとボリスという貧しい農夫がいて、どちらも猫の額ほどの畑を耕して辛うじて家族を養っていた。2人の違いといえば、ボリスの家には痩せこけたヤギが1頭いるが、イゴールのほうにはいない。それだけだった。ある日イゴールの前に妖精が現れて、1つだけ願いを叶えてあげましょうといった。するとイゴールは『ボリスのヤギが死にますように』と願った。ヤギが死んでイゴールの妬みは解消され、2人は前より平等になった。だが結局どちらの暮らしもよくならなかったというのがこの小話のオチである」というものですが、これがまさに「所得格差は幸福を左右する基本要素ではない」ことを示しているというのです。
哲学者のハリー・フランクファートは、2015年の『不平等論』(山形浩生訳・解説、筑摩書房)でこうした問題を掘り下げ、「不平等それ自体は道徳上好ましくないわけではない。好ましくないのは『貧困』である。長生きで、健康で、楽しく、刺激的な人生を送れるなら、お隣さんがいくら稼いでいても、どれほど大きな家に住んでいても、車を何台もっていても、道徳的にはどうでもいい。『道徳的見地からすれば、誰もが“同じだけ”もつことは重要ではない。道徳上重要なのは誰もが“十分に”もつことである』と論じています。
2014年にはトマ・ピケティの『21世紀の資本』(山形浩生・守岡桜・森本正史訳、みすず書房)がベストセラーになり、格差をめぐる論議が白熱しました。同書には、「総人口のうちの貧しいほうの半分は過去と同様に貧しいままである。2010年時点で彼らは富全体の5パーセントしか占めていないが、1910年にもそうだった」と書かれています。しかし今日の富の総和は1910年よりもはるかに大きいのだから、貧しい半数の人たちが同じ割合を所有しているなら「過去と同様に貧しい」のではなく、ずっと豊かになっていると指摘し、著者は「魂の誤謬よりさらに有害なのが、裕福になった人は本来の取り分以上のものを他人から奪っているという考え方である」と述べます。
今日の世界的な富豪の1人に『ハリー・ポッター』(松岡佑子訳、静山社)シリーズの著者、J・K・ローリングがいます。このシリーズは4億部以上を売り上げ、さらに映画化されて同じくらいの観客を動員しました。著者は、「仮に10億人が『ハリー・ポッター』のペーパーバックか映画のチケットのために10ドルずつ支払い、その1割がローリングの収入になったとしよう。当然のことながら彼女は大富豪となり、格差を拡大させたことになるわけだが、人々を不幸にしたわけではなく、むしろ幸福にした(すべての富豪が人々を幸せにしたという意味ではない)。この説明はローリングの所得が努力や能力の成果にすぎないとか、彼女が世界に提供した情報や幸福の対価にすぎないといっているのではない。どこかの委員会が彼女は富豪になるにふさわしいと決めたわけでもない。彼女が得た富は、10億人の読者や鑑賞者の自発的行為から生まれた副産物である」と述べています。
「『不平等が悪を生む』という考えは間違っている」では、著者は「自分または自国が裕福になるほど幸福を感じるとしても、周囲が自分よりもっと裕福だと、周囲が自分と同じ場合より惨めな気分になるのかもしれず、だとしたらやはり格差が拡大すると不幸になるということだろうか?」と読者に問いかけます。疫学者のリチャード・ウィルキンソンとケイト・ピケットは、有名な著書『平等社会』(酒井泰介訳、東洋経済新報社)の中で、所得格差の大きい国では殺人、収監、10代の妊娠、乳幼児の死亡、身体および精神疾患、社会不信、肥満、薬物乱用の率が高いと述べている。つまり「不平等が悪を生む」というわけで、格差社会に生きる人間は勝者独り勝ちの覇権争いのただなかにいると感じ、そのストレスで病気になったり、自己破壊的になったりするという。『平等社会』および類似の著書の理論は「左派の万物の新理論」と呼ばれていて、複雑に絡み合う相関関係をいきなり1つの原因で説明しようとするところに問題がある(この問題を内包する理論はほかにもたくさんある)」と述べます。
「不平等と不公正を混同してはならない」では、著者は以下のように述べています。「人は国が能力主義であるかぎりは経済的不平等を受け入れるが、国が能力主義社会だと感じられなくなったときには怒りを覚える。また、人は格差の“存在”そのものは受け入れていても、格差の“原因”について耳にすると穏やかではいられなくなる。そこを突いてくるのがある種の政治主張で、民衆を煽りたてるのに利用される。自分の取り分以上のものを不正に得ている悪者として、たとえばウェルフェア・クイーン〔公的扶助を受けながら優雅に暮らす女性〕、移民、諸外国、銀行、富裕層、また往々にしてエスニック・マイノリティを槍玉に挙げるというやり方だ」
「経済発展に伴い格差はどう推移するか」では、平等であったと思われがちな狩猟採集民社会について、著者は「狩猟採集民社会は一見高度な平等主義に基づいているように見え、マルクスとエンゲルスが『原始共産制』を思いつくヒントにもなった。しかし民族誌学者は、狩猟採集民が平等主義だというのは語弊があるといっている。まず、現存する狩猟採集民で、学者たちの研究対象になってくれている諸部族は、祖先の生活様式をそのまま踏襲しているわけではない。彼らは耕作限界地に追いやられ、移動生活を強いられていて、富の蓄積などできない(そもそも邪魔になるから持ち運べないということもある)」と述べています。
一方、定住している狩猟採集民の社会は明らかに不平等だとして、著者は「たとえばサーモン、ベリー類、毛皮動物などが豊富にとれるアメリカの太平洋岸北西部の先住民の場合は、世襲貴族が存在し、その貴族は奴隷や贅沢品を所有し、ポトラッチと呼ばれる盛大な儀式で贅沢な贈り物をすることで富を誇示する。また、非定住の狩猟採集民は確かに肉は分け合うが、植物性食物はあまり分け合わない。狩猟は運に大きく左右されるし、分け合っておかないと獲物がない日に困ることになるので、肉はそうする。しかし採集は努力しだいであって、見境なく平等に分けていたら手抜きをする仲間も出てくるので、植物性食物はそうしない。結局のところ、いつの時代のどんな社会にもある程度の不平等は存在したと考えるべきで、不平等意識も同様である」と述べます。
「20世紀以降の格差縮小の最大要因は戦争」では、著者は以下のように述べています。
「19世紀の格差拡大はクズネッツの説明どおりで、『拡大する経済』が徐々に人々を都会の仕事へ、熟練を要する賃金の高い仕事へ引き込んでいった様子が反映されている。だが20世紀に入ってからの格差縮小――『大平準化(the Great Leveling)』、『大圧縮(the Great Compression)』などと呼ばれている――のほうはかなり唐突で、これには特別な原因があった。この縮小は二度の世界大戦と重なっていて、しかもそれは偶然ではない。大規模な戦争は所得分布の平準化をもたらすことが多い。戦争は富を生む資本を破壊し、インフレによって債務を帳消しにし、富裕層に高い税率をのませ、その分を政府が軍人と軍需産業労働者に再分配し、その結果それ以外の分野の労働需要が増大し、格差縮小につながる」
「資本主義経済の発展とともに社会移転は増えた」では、現代社会は人々の健康、教育、年金、所得補助などのためにかなりの金額を支出するようになっていて、これを「平等主義革命」と呼ぶこともあると指摘し、著者は「社会的支出の急増とともに政府の役割も再定義され、従来の戦争と警察に扶養が加わった。政府が新たな役割を引き受けたのにはさまざまな理由がある。たとえば、社会的支出は国民のあいだでの共産主義やファシズムの高まりを予防する。社会的支出のなかには普通教育や公衆衛生のように、直接の受益者のみならず国民全体にとっての公共財となるものがある。人々を襲う不幸のなかには、個々人がリスクヘッジをかけられない、あるいはかけようと思わないものがあり、国の政策の多くはそうした不幸から国民を守る(だから「セーフティーネット」という遠回しな表現になっている)。また困窮者への支援は、凍え死んだマッチ売りの少女、腹をすかせた姉の子のためにパンを盗んで投獄されたジャン・ヴァルジャン〔『レ・ミゼラブル』〕、祖父をルート66の路肩に埋葬するしかなかったジュード一家(『怒りの葡萄』)などに涙する現代の良心に寄り添うものだ」と述べます。
「実はアメリカの貧困は撲滅されつつある」では、グローバル化と技術の進歩によって、少なくとも先進国では、貧困が何を意味するかが変わったとして、著者は「昔は貧しい人といえば痩せ細り、ぼろをまとっていたが、今日では雇用主と同じくらい肥満気味で、同じようなフリース、ジーンズ、スニーカーを身につけている。かつて貧しい人は『もたざる者』と呼ばれたが、2011年に所得が貧困ラインを下回っていたアメリカの世帯は、95パーセント以上が電気、水道、水洗トイレ、冷蔵庫、料理用コンロ、カラーテレビを手にしていた(1世紀半前には、ロスチャイルド一族、アスター一族、ヴァンダービルト一族でさえこれらをもっていなかった)。またほぼ半分が食洗機を、60パーセント以上がエアコン、ビデオレコーダー、携帯電話を所有していた」と述べています。
また、著者は「わたしは所得平等の黄金時代に育ったが、当時の中流階級の『もてる者』たちはこれらを所有していなかったし、いたとしてもごく一部にすぎない。だが今日わたしたちはこれらを所有し、そのおかげで人間にとって何よりも大切なもの――時間、自由、価値ある経験――をますます多くの人が手にできるようになっている」とも述べます。一方、富裕層のほうはいっそう富裕になったとはいえ、彼らの生活がそれほど大きく改善されたわけではないとして、著者は「ウォーレン・バフェットは人より多くのエアコンを、あるいは高級なエアコンをもっているかもしれないが、歴史的見地からすれば、そのことよりアメリカの低所得者の大半がたとえ1台でもエアコンをもっていることのほうが驚くべきことだ」と述べます。
第一〇章「環境問題は解決できる問題だ」の「環境問題の事実を科学的に認めることが必要」では、1960年代から始まった環境運動は、科学知識(生態学、公衆衛生、地球科学や大気科学)とロマン主義的な自然崇拝がもとになって起こったとして、著者は「この運動は『地球の健康』を人類の課題における永遠の優先事項としたが、このあと見るように現実に成果を上げたことは称賛に値する。これもまた人類の進歩の一形態になるだろう。ただ皮肉なことに、従来の環境運動では、進歩を望むことに――たとえそれが人類の進歩であっても――価値があると認めようとしない声が多い」と述べています。
「半宗教的イデオロギー『グリーニズム』の誤り」では、1970年代から、環境運動の主流は半宗教的なイデオロギー、環境保護主義(グリーニズム)に飛びついたことを指摘し、著者は「この考え方はアル・ゴア、ユナボマー〔工業化を批判して活動していた爆弾テロリスト。終身刑で服役中〕、教皇フランシスコなど、環境を憂慮する実に多彩な顔ぶれの主張を見ることができる。グリーニズムは地球のイメージを『汚れのない無垢な少女が人類の略奪によって汚されている』と捉えるところから始まる」として、「最近では、グリーニズムとは一線を画すアプローチが出てきており、こちらはエコモダニズム、エコプラグマティズム、地球オプティミズム、ブルー・グリーン・ムーブメントまたはターコイズ・ムーブメントといった名称で呼ばれている」と述べます。
「さまざまな面で地球環境は改善されている」では、生息地保護や的を絞った保護努力のおかげで、多くの愛すべき種――アホウドリ、コンドル、マナティー、オリックス、パンダ、サイ、タスマニアデビル、トラなど――が絶滅の淵から戻りつつあることが紹介されます。生態学者のスチュアート・ピムによると、鳥の絶滅のペースは75パーセント減少しました。また、世界全体で進歩したこともあります。1963年に「部分的核実験禁止条約」が結ばれ、大気圏内での核実験が禁止されたことにより、何よりも恐ろしい汚染形態“死の灰”の危険が取り除かれた。このことはまた、世界政府などなくても、世界の国々は地球を保護するための対策に合意できることを証明した。以来、世界は協力して多様な課題に取り組んでいます。
「生活や生産活動の高密度化・脱物質化が重要」では、「脱物質化」が取り上げられます。著者は、「技術の進歩のおかげで、わたしたちは少しのものから多くを得ることができるようになった。アルミ缶の重さはかつて3オンスだったが、今は0.5オンス以下である。携帯電話には何マイルもの電話線と電柱は必要ない。デジタル革命は、原子をビットに置き換えることで、わたしたちの目の前の世界を脱物質化させている」「電話、留守番応答、電話帳、カメラ、ビデオカメラ、テープレコーダー、ラジオ、目覚まし時計、計算機、辞書、ローロデックス〔回転式の名刺ホルダー〕、カレンダー、市街地図、懐中電灯、ファックス、羅針盤。さらにはメトロノームや屋外温度計、水準器の機能まである。これまでバラバラにつくられていた40ほどの消費財を、スマートフォン1つに集約することで、どれだけのプラスチックや金属、紙が節約できているか考えてみてほしい」と述べます。
第一一章「世界はさらに平和になった」の「長期的な戦死率の減少傾向は続いている」では、16世紀から18世紀の近世の黎明期、大国はほぼずっと戦争をしていたと指摘し、著者は「大国同士が戦争になると、2度の世界大戦でもそうだったように、想像を絶するような最悪の被害がもたらされる。戦争犠牲者の大部分は大国同士の戦争で死亡しているほどである。しかし今日では、大国同士の戦争は1つもない。60年以上前に朝鮮半島でアメリカと中国が戦ったのが最後である」と述べます。大国同士の戦争は減少しているが、この減少の陰には相反する2つの流れも隠れているとして、「1つは、第二次世界大戦が終わるまでの450年のあいだに、大国の関わる戦争は期間が短くなり、頻度も少なくなったこと。もう1つは、その一方で軍備が強化され、訓練が徹底され、人員の配備も的確になった結果、ひとたび戦争が起きれば甚大な被害がもたらされるようになったことである。そのせいで2度の世界大戦は、期間こそ短いが恐ろしく破壊的な戦争として終わった。第二次世界大戦の終結後、この2つの流れはようやく1つに収束し、戦争を測る3つの尺度――頻度、期間、被害の大きさ――は揃って減少することになった。そこから世界は『長い平和』の時代に入り、大国間の戦争はなくなっている」と述べます。
平和への移行は、世界的に見ても広い地域で進んでいます。西ヨーロッパでは、血にまみれた戦争の時代が数百年続きましたが、2つの世界大戦を経てそれも終わり、現在は70年以上にわたる平和が続くことを指摘し、著者は「東アジアと東南アジアでは、日本による占領や中国の国共内戦、朝鮮戦争やベトナム戦争によって、20世紀半ばに何百万もの命が奪われた。しかし現在では、深刻な政治的争いはあるものの、国家間の激しい戦闘はほぼない状態である。目下、世界で起きている紛争は主として内戦であり、そのほとんどが西アフリカのナイジェリアから南アジアのパキスタンにまたがる一帯――人口は世界人口の6分の1未満――に集中している」と述べています。
戦争と同じくらい破壊的な暴力に、非武装の一般市民を大量に殺戮するという行為もあります。“ジェノサイド”“デモサイド”“一方的暴力〔ウプサラ紛争データプログラムが定義する組織的暴力の1つ〕”などと呼ばれるものであり、これらは戦争時に発生することも多いようです。歴史学者のフランク・チョークとカート・ヨナソンの「ジェノサイドは歴史上のあらゆる時代、世界中のあらゆる地域で行われてきた」という発言を紹介し、著者は「第二次大戦中には、ヒトラーやスターリン、帝国時代の日本軍のせいで、それから枢軸国側も連合国側も意図的に民間人の居住地域を爆撃したせいで(核兵器も二度使用された)、何千万人もの一般市民が殺害された。最も多いときには年間で10万人当たり約350人という死亡率を記録している」と述べます。戦後のジェノサイドによる死亡率は減少に向かっています。
何が戦争を引き起こすのか。ユネスコ憲章で謳われているように「戦争は人の心のなかで生まれる」のです。著者は、「実際、戦争が回避されているという現実のなかには、たんに戦争の数や戦死者の数が減少したこと以上のものが含まれている。たとえば各国の戦争準備にもその変化は表れていて、この数十年間に多くの国が徴兵制を採用しなくなり、軍備を縮小し、軍事費の対GDP比も総じて減少している。何より大切なのは、戦争に対する『人の心』が変化したことである」と述べます。
では、「人の心」はどのように変化していったのか。著者は、「戦争を否定しようとする考え方は、まず17世紀から18世紀の理性と啓蒙の時代にもたらされた。パスカルやスウィフト、ヴォルテール、サミュエル・ジョンソンといった人々がそうである。平和主義を貫くクエーカー教徒〔17世紀中頃に始まったプロテスタントの一派〕もそうだろう。また啓蒙時代には、カントの有名な『永遠平和のために』をはじめ、どうすれば戦争を減らすことができるのか、あるいは戦争をなくすことができるのかについても、現実的な提案がなされた」と述べています。
「国際的商取引と国益重視が戦争を遠ざけた」では、著者は、戦争を否定する考えが次第に世に広まった事実は、18世紀と19世紀になって大国による戦争が減少したことや休戦がもたらされたことからも認められると述べます。ただしカントらが提唱した国際的な平和構築機関が組織として機能するには、第二次世界大戦の終結を待たなければなりませんでした。多くの啓蒙思想家が「温和な商業」という考え方を提示しました。国と国とが貿易によって結びつけば、戦争をすることに魅力がなくなるという考え方です。また、啓蒙思想は「民主的な政府を作れば、栄光に酔った指導者が国を不毛な戦争に引きずり込もうとするとき、ブレーキの役割を果たしてくれる」という考え方をもたらしました。あるいは「現実政治」〔イデオロギーや理想より、力関係や利害を重視する政治〕の面から衝突が回避される場合もありました。
「戦争を違法とする国際合意の功績は大きい」では、国際秩序の中で何より大きく変化したのは戦争に対する考え方、すなわち「戦争は違法である」という考え方が浸透したことであると指摘し、著者は「これは今や当たり前すぎて評価されることはほとんどない。だが歴史上ほとんどの時代、戦争は違法ではなかった。『力は正義』であり、戦争とは手段を変えた政策の延長で、勝利すれば遠慮なく取り分をもらえた。もしある国が別の国から不当な対応をされたと思えば、その国は宣戦布告し、補償として相手の領土を奪うことができた。相手国を併合しても国際社会に認めてもらえる素地もあった」と述べます。今日ではそんなことは起こりえません。世界の国々は自衛戦争もしくは国連安全保障理事会で承認された軍事行動を除き、戦争はしないという立場をとっています。もしある国が侵略戦争を起こせば、国際社会はそれを非難し、決して黙認したりしないでしょう。国境は不可侵であり、国の領土は保全されているのです。
「ロマン主義的軍国主義の価値観から脱却」では、戦争が減少したのは考え方や政策が変わったからだけではなく、そこには価値観の変化も影響しているとして、著者は「これまでに見てきた平和を築く方法は、ある意味、技術的な手段であり、もし人々の望むものが平和なら、そうした手段を用いれば平和の可能性に傾きやすいというものだった。つまり鍵になるのは、人々の望むものが平和かどうかになるのだが、結論からいうと、少なくともフォークソングが流行り、ウッドストック・フェスティバルに多くの人が集まった1960年代以来、平和にはかけがえのない価値があるという考えをもつことは西洋人の習性となった。軍事介入に踏みきる場合、人々はまず残念だと思い、それでもより大きな暴力を防ぐためにはやむをえないと言い聞かせるようになった」と述べています。
たとえ断続的だろうと、人類は平和に向かって進歩していけるとして、著者は「ジョン・レノンとオノ・ヨーコは世界平和というビジョンのもと、すばらしい歌をつくったが、それはそれとして現実の世界でそんなものを信じるのは甘すぎということらしい。しかし、実は伝染病や飢えや貧困と同じように、戦争もまた人類が克服しようと思えば克服できる問題ではないだろうか」と述べます。そして、「人類はこれまで貿易、民主主義、経済発展、平和維持軍、国際法や国際規範といったものを生みだしてきた。こうしたものを活用すれば、平和な世界を築いていけるはずである」と述べるのでした。
第一二章「世界はいかにして安全になったか」の「『根本原因の解決なしに暴力減少は無理』の嘘」では、高い犯罪率が続いたその何十年かのあいだ、たいていの専門家は「暴力犯罪には対処しようがない」というだけだったとして、著者は「暴力犯罪は暴力的なアメリカ社会と一体化したものなので、人種差別や貧困や格差などの根本にある原因を解決しないかぎり、抑えることはできないとされていた。このタイプの歴史悲観論は〈根本原因論〉と呼んでもいい。それは見かけ上は深遠な考え方で、『社会の病とはすべて根深い道徳的病であり、単純な治療などでは決して病状が和らぐことはない。そんなことをすればかえって病の核心にある壊疽を治癒できなくする』とするものだ。
こうした〈根本原因論〉が問題なのは、現実世界の問題がその想定より単純なことではなく、むしろ逆であることだと指摘し、著者は「典型的な〈根本原因論〉が考える以上に、現実問題は複雑なのである。とりわけ〈根本原因論〉が道徳を基礎に論じられてデータを取り入れていない場合は、現実問題をとらえきれていない。実は現実世界の問題は複雑すぎて、対処するには原因ではなく症状に直接働きかけるのが最善の方法である。そうすれば、病巣のなかで複雑に絡み合う原因をすべて熟知していなくてすむからだ。実際に、何が暴力犯罪という症状を減少させているのかを見ることで、原因に関するさまざまな仮説を検証することができるのだから、やみくもにそれらの仮説が正しいという前提で考えないほうがいい」と述べます。
「事故も殺人も減らせる。その減少にもっと感謝を」では、著者は以下のように述べています。
「人は事故を残酷なものと考えない傾向がある(少なくとも自分が事故に遭わなければ)。そのため、たとえ事故が減って世の中が安全になっても、それを道徳的な勝利だとはみなさない。しかしこれまでに何百万もの命が救われ、もろい人間の体が傷害から守られ、苦しみが大きく減らされたことには、きちんとした理由がある。わたしたちはそのことに感謝すべきではないだろうか。それはまた、何より道徳が問われる行為、殺人についても当てはまる。根本原因を解決しなければ殺人は減らないという、一般的な見解と真っ向から対立する理由で、殺人発生率は急激に下がっている」
そして、安全についての章の最後に、著者は「啓蒙主義というサーガを語るなかで、シートベルトや煙探知機や犯罪多発地域の警察活動の物語が出てくることはあまりない。しかし、こうしたものが実は啓蒙主義の深層にある主題を体現している。誰が生き、誰が死ぬのかは“命の書”には記されていない。それは人間の知識と行動にかかっている。なんといっても、世界への理解は知性の光によってますます深まり、人の命はいっそう貴重になったのだから」と述べるのでした。
第一三章「テロリズムへの過剰反応」の「テロへの恐怖は、世界が安全である証しでもある」では、テロは小規模な暴力なので、戦略目的を達成できる力を持たないこと。そのため、局地的に恐怖と苦痛をもたらすことはあっても、長期的に見れば徐々に治まりつつあることが紹介されます。著者は、「振り返れば、19世紀末から20世紀初めの無政府主義は爆破と暗殺を繰り返したのちに消え、20世紀後半のマルクス主義や分離主義のグループもやはり消えていった。21世紀のISISも将来的にはほぼ確実に消滅するだろう。テロによる死者数をゼロにすることはできないだろうが(とはいえ今もその数は十分に少ない)、覚えておきたいのは、テロに恐怖を覚えることは、社会がどれほど危険になったかを示すものではないということだ。それはむしろ社会がどれほど安全になったかを示している」と述べます。
第一四章「民主化を進歩といえる理由」の「民主化を進歩の証しと見なせるのはなぜか」では、民主主義は絶妙なさじ加減の政治形態と考えられるのではないだろうかとして、著者は「そこで国民が相争う事態を防ぐ程度の力は行使されるが、国民を圧迫するほどの力は行使されない。優れた民主政治は無政府状態の暴力から国民を守り、国民が安全に暮せるようにすると同時に、専制政治の暴力からも国民を守り、国民に自由な生活を保障する。この1点だけでも、民主主義は人類の繁栄に大きく貢献しているといえるだろう。しかし民主主義が人類に貢献している理由はそれだけではない。総じて民主国家は経済成長率が高く、戦争やジェノサイドが少ない。国民は健康を享受し、教育を受ける機会に恵まれ、ほとんど飢饉は起こらない。つまりもし世界が徐々に民主化へと向かっているなら、それは進歩の証しになるということである」と述べています。
「国家による究極の暴力行使、死刑の減少」では、著者は以下のように述べています。「死刑はかつてどの国にもあった。何百もの軽犯罪に適用され、おぞましい公開の見せ物として苦痛と屈辱を与えながら執行された(このことは、イエスが2人の強盗とともに十字架に磔にされたことを思い出せばよくわかる)。しかし啓蒙主義を経て、ヨーロッパの国々は凶悪な犯罪を除き、国民を処刑することをやめた。19世紀半ば、イギリスでは死刑に相当する罪の数を222から4に減少させた。ヨーロッパ各国は処刑するにしても、この恐ろしい習慣をできるだけ人道的に見せかけられる、絞首刑のような処刑法を模索した。やがて第二次世界大戦後、世界人権宣言の採択によって再び人道主義革命の機運が高まると、死刑は各国で次々と廃止された。ヨーロッパで現在も死刑制度が残っているのは、ベラルーシだけである。
第一五章「偏見・差別の減少と平等の権利」の「アメリカでは子どもの虐待やいじめは減少」では、人権の進歩について語るなら、人類のなかで最も弱い存在、子どものことも忘れてはならないとして、著者は「子どもは自分の利益のために闘うことができず、他人の同情心に頼るしかない。しかしこれまでに説明したように、その子どもを取り巻く状況も世界中で改善されている。かつてに比べると、母親を知らない子になったり、5歳の誕生日の前に死んだり、食糧不足で発育不全になることは少なくなかった。ここからは、こうした非人為的な打撃だけでなく、子どもが人為的な打撃も受けずにすむようになってきたことを見ていこう。子どもたちは以前より安全に暮らせるようになり、本当の意味での子ども時代を楽しめるようになっている」と述べます。
第一六章「知識を得て人間は賢くなっている」の「教育は社会を豊かにし、平和で民主的にする」では、教育の効果を調べた研究によると、教育を受けた人々は実際に啓蒙されているとして、著者は「彼らは人種差別や性差別をすることが少なく、外国人嫌悪や同性愛嫌悪、権威主義にも陥りにくい。想像力や独立心、言論の自由に高い価値を置き、投票したり、ボランティア活動に参加したり、政治的意見を表明したりすることが多い。労働組合、政党、宗教団体や地域団体などの市民団体にも積極的に所属する。さらに他の市民を信頼する傾向もある。これは「社会関係資本」と呼ばれるもので、社会を動かす貴重な万能薬の主成分だ。社会関係資本によって人々は相手を信頼することができ、周囲に騙されてばかを見るのではと恐れることなく、自信をもって、契約を結んだり、投資をしたり、法律を遵守したりできるようになる」と述べています。
「教育は世界中に広まりつつあり、男女格差も縮小」では、著者は以下のように述べています。
「教育の拡大は――何よりそれが最初にもたらす識字率の向上は――人類の進歩のなかでも最も大切になってくる。うれしいことに、その他の多くの分野における進歩と同様、教育もまた馴染み深い経過をたどってきた。つまり、啓蒙時代より前はほぼすべての人が悲惨な状態にあったが、その後いくつかの国がそこから脱却し、近年になると残りの国々もそれに追いつくようになり、まもなく教育の恩恵はほぼ世界中に広がりそうなのだ」
第一七章「生活の質と選択の自由」の「労働に費やさなければならない時間が減少」では、かつて人々は定年を心待ちにするどころではなく、むしろ怪我や病気で働けなくなり、救貧院送りになることを恐れていたことが紹介されます。いわゆる「人生の冬につきまとう恐怖」です。アメリカでは1935年に社会保障法が成立し、高齢者は極度の貧困からは保護されるようになりましたが、退職後に貧困に陥ることはよくありました。労働運動や法の整備、労働生産性の向上のおかげで、かつては夢のまた夢だった有給休暇制度が実現されました。さらに「家事や生活維持のためにかかる時間も減少」では、人々が労働から解放された理由は他にもあることが指摘されます。すなわち家電製品の普及である。そのおかげで人は人生の多くの時間を費やしていた家事労働から自由になり、やりたいことをもっと追求できるようになりました。
「家族の時間は増え、遠くの人との交流は便利に」では、電子技術の向上は親密な人間関係を築くうえで、計り知れない恩恵をもたらしてくれているとして、著者は「それは1世紀前のことを思えば、よくわかるだろう。当時はもし身内の誰かが遠い町に引っ越してしまったなら、二度と声を聞くことも、顔を見ることもできない可能性があった。祖父母は孫の顔もその成長も見ることができなかった。あるいは、学業や仕事、戦争によって離ればなれになった恋人たちは、一通の手紙を何十回も読み返し、もし次の手紙がなかなか届かなければ、絶望の底に落とされた。郵便事故なのか、それとも恋人が怒っているのか、浮気しているのか、もしかして死んでしまったのか知りようがなかったからだ(そうした苦しみは、マーヴェレッツやビートルズの『プリーズ・ミスター・ポストマン』や、サイモン&ガーファンクルの『手紙が欲しい』でも歌われている)」と述べています。
やがて電話で遠くにいる相手と直接話せるようになっても、長距離電話のとんでもなく高い料金のせいで、家族や恋人との親交は制限されたとして、著者は「わたしと同世代の皆さんなら覚えがあるだろう。公衆電話が切れる前に新たに25セント硬貨を投入しながら、早口でしゃべるあの気まずさ、遠い家族に電話するときの猛烈なダッシュ(「これ、長距離なんだ!」)、あるいは会話を弾ませながらも、家賃が電話代に消えたと思って沈む気持ち。作家のE・M・フォースターは「ただつながりさえすれば」〔『ハワーズ・エンド』のエピグラフ〕と書いたが、電子技術のおかげで、わたしたちはかつてないほど人とつながっている」と述べます。
写真にかかる費用が大きく低下したことも、技術の進歩からの、暮らしを豊かにしてくれる贈り物だろうとして、著者は「過去の時代、家族の顔を思い出すには――その家族が生きているにせよ、死んでしまったにせよ――記憶に頼るしかなかった。しかしありがたいことに、現代に生きるわたしは、世界の数十億人の人々と同じように、1日に何度も愛する家族の写真を目にすることができる。そしてそのたびに感謝の気持ちが湧いてくる。また写真が手頃な価格になったことで、人生の晴れ舞台を一度だけでなく、何度でも追体験できるようになった。大切な出来事、すばらしい景色、遠い昔の街の光景。老いた人々は若かりし時に、大人は子どもだった時に、子どもは赤ん坊だった時に思いを馳せることができる」と述べます。
自動車をはじめとした移動手段の発達も、人生を豊かにしました。著者は「移動の費用が手頃になったことで、遠い家族や恋人や友人を訪ねやすくなっただけではない。わたしたちは地球という惑星の実に多彩な風景を目にすることができるようになった。この娯楽は、自分たちがやれば『旅』という言葉で称賛し、他人がやれば『物見遊山』といって非難するものだが、人生を価値あるものにしてくれるのは間違いない」とのべます。また、「文化に触れ学ぶことが簡単・便利・安価に」では、「人の心がつくりだしたすばらしい製品の数々は、今や世界中に広まり、多くの人の手に届くようになった。もはやかつてのように、他者と隔絶された田舎の集落で、退屈きわまりない毎日に耐える暮らしへと戻るのは難しいだろう。19世紀後半、世界にはまだインターネットはおろか、ラジオもテレビも映画もレコードなどの録音音楽もなく、大多数の家庭には本や新聞すらなかった。男たちは娯楽を求め、酒場に酒を飲みにいったものだった」と述べます。
現在ではどんな地方に住んでいようと、数百種類のテレビチャンネルや数億のウェブサイトから見たいものを選ぶことができるとして、著者は「しかもそのウェブサイトで、世界中のあらゆる新聞や雑誌の記事(1世紀以上前にさかのぼるアーカイブまである)、版権の切れた世界の名作文学が読めるだけでなく、ブリタニカ百科事典の70倍以上の規模でほぼ同じくらい正確なオンライン事典を参照したり、美術や音楽の古典作品を楽しんだりすることもできる。さらには、ファクトチェックのサイト『スノープス』で噂の真偽を確かめる、『カーンアカデミー』〔無料のオンライン学習サイト〕で数学や科学を学ぶ、『アメリカン・ヘリテージ・ディクショナリー』で語彙を強化する、『スタンフォードで哲学百科事典』で自己を啓発する、世界の偉大な学者、作家、評論家(その多くはだいぶ前にこの世を去っている)の講義を視聴する、といったこともできる」と述べます。
裕福な西洋の都会人の場合は昔から文化に親しんでいましたが、そんな都会人にとってもやはり芸術と書物に触れる機会は、現在、途方もなく増えています。著者は、「その昔、わたしが学生だった頃、映画マニアが古い名作を観るには、地元のミニシアターで上映されるか、深夜テレビで放映されるのを何年も待たないといけなかった(それも上映されるならの話だ)。ところが、今ではオンデマンドでいつでも観ることができる。音楽にしても、何千曲ものなかから好きなものを選び、ジョギングや洗い物をしながら、はたまた自動車登録所の列に並びながら、聴くことができる」と述べます。
そして、著者は以下のように述べるのでした。
「現代が文化的に最高の時代だと考えるのは、わたしたちの絶え間ない創造とどこまでも蓄積される文化的記憶を鑑みた結果である。わたしたちはちょっと指先を動かすだけで、過去の天才の偉業も現代の天才の偉業も手元のツールで見ることができる。しかし過去の時代、人々はそのどちらも手にできなかった。しかも、脈々と受け継がれてきた世界の文化的な財産は、今や富裕層や都市部に住む人々だけでなく、知識の詰まった広大なウェブ空間にアクセスできる人なら誰でも手にすることができる。それはすなわち、今や人類のほとんどが――そしてまもなく全人類が――文化に触れられるということである」
第一八章「幸福感が豊かに比例しない理由」の「主観的な幸福はどのように測られるか」では、幸福感については、太古からの生物学的フィードバック・システムの所産として考えることができると指摘し、著者は「そのフィードバック・システムは、わたしたちが運よく自然環境に適応しながら、うまく成し遂げてきた進歩の足跡をなぞるようにできている。一般にわたしたちが幸せだと感じるのは、健康で快適で安全で食糧があり、社会的なつながりをもち、性的に満たされ、愛されているときである。つまり、幸福感の機能とは環境に適応するための鍵を探すよう、わたしたちを駆りたてることなのだろう。このことは、人は不幸だと感じると状況を改善してくれそうなものを我先に得ようとし、幸せを感じるときには現状を大切にしようとすることからもわかる」と述べます。
「自殺率と不幸度の関係についても誤解が多い」では、殺人が社会の暴力度を測る最も確かな指標であるように、社会の不幸度を知るうえで最も信頼できる指標は自殺なのではないかと思う向きもあるかもしれないとして、著者は「自殺した人は大きな不幸に見舞われていたにちがいなく、だからずっと耐えるよりも、意識を永遠に絶ってしまうことを決心したのだろうという考え方である。それに人の不幸な経験は客観的に数値化できないが、自殺なら件数を集計して客観的な数字を出すこともできるからだ。しかし実は、不幸の度合いを知るには自殺率は案外当てにならない。なぜなら自殺によって悲しみや不安から逃れようとするとき、まさにその悲しみや不安のせいで、その人の判断力は低下しているからだ。そのため生きるか死ぬかの究極の決断であるはずのものが、ただ実行に移しやすいかどうかという俗っぽい事情に左右されることもよく起きる」と述べています。
第一九章「存亡にかかわる脅威を考える」の「科学者が提示する数々の『脅威』は本物か」では、この半世紀のあいだ、現代版黙示録の四騎士といえば「人口過剰、資源の枯渇、環境汚染、核戦争」であり、この4つが人類への大きな脅威だったと紹介し、著者は「だが近年はこの四騎士に加え、これまでとは毛色の違う騎兵団も加わっている。人間の体内で制御不能になって増殖し、人類を食べ尽くしてしまうかもしれないナノマシン〔ウイルス程度の大きさの微小な機械〕。人類を奴隷にしてしまうかもしれないロボット。人類を原材料に変えてしまうかもしれない人工知能〔人工知能は人間をペーパークリップの材料にするかもしれないという説がある〕。それからブルガリア人のティーンエイジャーたち。彼らは自分の寝室にいながら破壊的なウイルスを作成したり、インターネットをダウンさせたりするという」と述べています。
「低確率事象のリスク評価は過大になりがち」では、テクノロジーの傲慢さに対する手厳しいしっぺ返しでクライマックスを迎えるというシナリオは、西洋のフィクションの定番であるとして、著者は「たとえば、プロメテウスの天上の火、パンドラの箱、イカロスの飛行、ファウストの悪魔との取り引き、『魔法使いの弟子』、フランケンシュタインの怪物などがそうだろう。ハリウッドでは、世界の終わりを描いた作品がなんと250本以上も製作されている。作家で科学史研究家のエリック・ゼンシーはこう述べる。「終末思想的な考えには人々を魅了するものがある。もし世界の最後の日々を生きているとすると、自分の行動が、そして自分の命そのものが、歴史的な意味を帯びることになり、少なからぬ感動を生むからだ」と述べます。
「科学技術は人間を災害から守っている」では、そう遠くない将来に実現すると思われるテクノロジーが人類の危機を救ってくれるだろうとして、著者は「小惑星やその他の『大量絶滅を発生させかねない大きさの地球近傍天体』の軌道を追跡し、地球と衝突する軌道上にある天体を特定して、軌道からはじき出すことは技術的には実現可能である。それにより人類が恐竜と同じ滅亡の道をたどるのを防ぐことができるだろう。またNASA(アメリカ航空宇宙局)は巨大火山に高圧で水を注入し、地熱エネルギーに利用するための熱を得る計画を考案しているが、それによりマグマが冷やされ、マグマがまったく火口から噴出しないようにできるだろう。わたしたちの祖先が死をもたらす脅威に対して無力だったことを考えれば、技術は現代を人類史上かつてない危機的な時代にしているのではなく、むしろこれまでで最も安全な時代にしているのではないだろうか」と述べています。
「人工知能は進化しても人間を滅ぼさない」では、存亡に関わる脅威のなかでも、何より人類の未来を脅かしていると思われているのは、おそらく2000年問題の21世紀版に当たるものだろうとして、著者は「つまり『人工知能(AI)が故意に、もしくは何かのはずみでわたしたちを服従させるかもしれない』という脅威である。時には『ロボポカリプス』〔ダニエル・H・ウィルソンの小説『ロボポカリプス』(鎌田三平訳、角川書店)から〕とも呼ばれるこの状況は、映画『ターミネーター』シリーズのスチール写真を見てもよくわかるだろう。2000年問題と同様、一部のインテリはこのロボポカリプスを真に受けている。たとえば、実業家のイーロン・マスクは自身の会社で人工知能を搭載した自動運転車をつくっているにもかかわらず、『AI技術は核よりも危険だ』と発言した。またスティーヴン・ホーキングは、人工知能をもつボイスシンセサイザーを通して、人工知能の進化は『人類の終焉を意味する』と語った。ただし同じインテリでも、人工知能や人間の知能に最も精通する専門家たちはそうした危惧を抱いていない」と述べます。
「AIの暴走も人類への脅威とならない」では、その後、いくらなんでも邪悪なロボットが出現する可能性を真面目に取り上げるのは低俗にすぎると思いはじめたのか、人類滅亡の脅威を監視する人々は、こんどは別のシナリオに注目するようになったことが紹介されます。すなわちAIが人間の価値観から大きく外れた動作をするかもしれないという脅威、「バリュー・アラインメント問題」と呼ばれることもある脅威です。著者は、「『邪悪なAI』の場合、モデルはフランケンシュタインやゴーレムといった怪物だったが、それにならえばこちらのモデルはランプの魔神とミダス王といったところだろう。ランプの魔神は3つの願いを叶えてくれるものの、人は結局最初の2つの願いを取り消すために3つめの願いを使うことになり、ミダス王のほうは触れたものすべてが黄金に変わる力を得るが、食べ物や家族まで黄金に変わってしまうために、その力を授かったことを後悔するようになっている」と述べます。
「核の脅威は本物だが過大に喧伝されている」では、核戦争について、著者は「現在核兵器を所有する国は9カ国で〔米、露、英、仏、中国、イスラエル、インド、パキスタン、北朝鮮〕、世界には1万個以上の核兵器が存在している。そのうちの多くがミサイルや爆撃機に搭載されていて、数時間以内に数千のターゲットに命中させることができる。しかも、どれもとてつもない破壊力をもっている。核爆弾一発で1つの都市を破壊することができ、爆風や熱、放射能、死の灰による被害を合わせると数億人の命を奪うことができる。(中略)もしアメリカとロシアの全面戦争が勃発し、核兵器が使用されれば、数年のあいだに地球の気温は8度下がり、核の冬(少なくとも秋)になるといわれている。そうなればさらに多くの人々が飢餓に追い込まれるだろう。(よく主張されているように)核戦争が文明や人類や地球を破壊するかどうかはさておき、それが想像を絶する恐ろしさであることは間違いない」と述べています。
そもそもマンハッタン計画〔原子爆弾の製造を目的とした第二次世界大戦中のアメリカの極秘計画〕は、ドイツが核兵器を開発しているという恐怖によって生まれたものだったとして、著者は「もしナチスが存在しなければ、ひょっとしたら核兵器も存在しなかったかもしれない。兵器というのは、ちょっと思いついたからとか物理的に可能だからというだけで誕生するものではない。実際、構想だけで日の目を見なかった兵器は山ほどある。たとえば、殺人光線、宇宙空母、農薬散布用飛行機のように都市に毒ガスをまく飛行部隊などがそうである。さらにはこれも実現しなかったが、天候や洪水、地震、津波、オゾン層、小惑星、太陽フレア、ヴァン・アレン帯〔太陽や宇宙線に由来する電子・陽子の軌道が地球の磁場で曲げられてできる上空の放射線帯〕などを兵器として利用しようとする「地球物理学戦争」構想もあった。もし20世紀の歴史が別の道をたどっていたなら、こうした実現しなかった兵器と同じく、核兵器のことも、人々はおかしな考えだと思ったにちがいない」と述べます。
「まずは核の運用法を安全にする必要がある」では、核兵器廃絶への道筋は見えているとして、「もし核弾頭が製造にかかった時間よりも短い時間で解体されつづけ、核保有国が警報即時発射システムを放棄して先制不使用を約束し、世界の国々が戦争を回避する傾向がこれからも続くなら、21世紀の後半には、わたしたちは戦争の相互抑止という目的のためだけに、わずかな数の核兵器を厳重に保管していることになるかもしれない。そしてそれから数十年後には、そのわずかな核兵器さえも役目を終えるかもしれない。そのとき、わたしたちの孫世代の目には核兵器はばかげた道具に映り、一斉に平和の道具に変えられることになるのだろう」と述べるのでした。
第二〇章「進歩は続くと期待できる」の「進歩は自動的にもたらされるものではない」では、著者は以下のように述べています。
「今日、世界では7億人が極度の貧困のなかで生活している。そうした人々の集中する地域では寿命は60歳に満たず、人口のおよそ4分の1が栄養不良である。毎年約100万人の子どもが肺炎で死亡し、50万人が下痢かマラリアで、数十万人が麻疹やAIDS(後天性免疫不全症候群)で死亡している。世界には多くの内戦が発生しており、そのうちの1つは25万人以上の死者を出している。2015年には少なくとも1万人がジェノサイドの犠牲となった。世界人口のおよそ3分の1にあたる20億人以上が、独裁体制のもとで迫害を受け、世界人口のほぼ5分の1が基礎教育さえ受けておらず、6分の1は読み書きができない。さらに毎年、500万人が何らかの事故で命を落とし、40万人以上が殺害されている。世界の約3億人が鬱病で、確率からするとこのうち約80万人が年内に自殺する危険がある」
「将来の進歩をもたらしうる技術の数々」では、医療分野のラボ・オン・チップという技術によって、リキッドバイオプシー(液体生検)が可能になり、一滴の血液や唾液から数百種類の病気を予測できるようになりそうだということが紹介されます。また、グローバル教育も変化していくはずです。すでにスマートフォンにより、世界の知識は百科事典や講演、練習問題やデータセットという形で数十億人の手に届くようになりました。著者は、「現在進行中のこうしたイノベーションは、たんにすばらしいアイデアが並んでいるというだけではない。それは『ニュー・ルネッサンス』もしくは『第二の機械時代』と呼ばれる全般的な歴史的発展の結果生まれたものでもある」と述べます。
産業革命によって始まった第一の機械時代を推進したのはエネルギーでしたが、それに対して第二の機械時代を推進するのは、もう1つの反エントロピー資源、すなわち「情報」であるとして、著者は「わたしたちは情報を大いに活用して、他のあらゆるテクノロジーを進歩させるようになった。またそれと同時に、コンピューターの能力やゲノミクスといった情報技術自体も爆発的に進歩している。それを思えば、近い将来、革新的な技術は必ずや実用化されるだろう。新たな機械時代の未来が明るいと思われるもう1つの理由は、いくつものイノベーションがそれ自体イノベーションが行われるプロセスから生まれるからでもある。その1つめは、発明に必要なプラットフォームの大衆化だろう」と述べます。2つめはテクノフィランソロピスト(技術慈善家)たちの登場です。そして3つめは、スマートフォンやオンライン教育、マイクロファイナンス〔貧困層への小口融資〕を通じて、世界の数十億人の人々が経済力をつけたことです。
第三部「理性、科学、ヒューマニズム」では、人間の思想について、著者は以下のように述べています。
「思想は力をもっている。ホモ・サピエンスはあれこれ知恵を絞って生きる種であり、世の中の仕組みや自分たちの最善の生き方について、始終考えをひねり出しては互いに披露しあってきた。思想の力を示す証拠が必要なら、あの政治哲学者が人類に与えた影響を思い出せばいい。カール・マルクスが何よりも固執したのは既得権益の力で、「いつの時代でも、支配的な思想とは支配階級の思想にほかならない」と述べる。ところが皮肉なことに、彼自身は富を所有することも軍を率いることもなかったにもかかわらず、大英博物館の図書室で書き綴った思想のほうは20世紀の歴史の流れを決め、それ以降にまで影響を与え、何十億人もの人生を捻じ曲げた」
第二三章「ヒューマニズムを改めて擁護する」の冒頭の「ヒューマニズムとは人類の繁栄を最大化すること」を、著者は「科学だけでは人類に進歩をもたらすことはできない」と書きだし、「人類の繁栄――長寿、健康、幸福、自由、知識、愛、豊かな経験など――を最大化するという目標を、ヒューマニズム(人間主義)と呼んでいいだろう(語源に反して「ヒューマニズム」は動物の繁栄を排除するものではないが、本書では人類に視点を置いて考えていく)。ヒューマニズムはわたしたちが知識を活かして“何を”達成すべきかを明らかにしてくれる。ヒューマニズムは「こうである」〔事実命題〕を補う「こうあるべきだ」〔価値命題〕を示してくれる。ヒューマニズムはたんなる達成と真の進歩を区別してくれる」と述べています。
歴史が教えているように、多様な文化が共通の基盤を築く必要に迫られると、その模索はヒューマニズムへと収斂しました。第二次世界大戦のわだかまりが残る中では、国際社会が協力して一連の指針を決めなければならなくなりました。当然のことながら、「イエス・キリストを救い主として受け入れる」とか、「アメリカは光り輝く丘の上の町である」〔ピューリタンの指導者ウィンスロップが新約聖書から引用し、のちにロナルド・レーガンも引用した〕といった宣言に、世界が合意することなど考えられません。そこで1947年に、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)は、国連の世界宣言にどのような諸権利を盛り込むべきかについて、(ジャック・マリタン、マハトマ・ガンディー、オルダス・ハクスリー、ハロルド・ラスキ、クインシー・ライト、ピエール・テイヤール・ド・シャルダン、および著名な儒学者、イスラム世界の知識人などの)世界の識者数十人に意見を求めました。彼らから提案された権利のリストはいずれも驚くほど似通ったものだったといいます。
世界人権宣言――30条からなるヒューマニズム宣言の1つ――は、起草委員会の委員長を務めたエレノア・ルーズベルト〔フランクリン・ルーズベルトの未亡人〕の尽力もあって、2年足らずで草案がまとめられ、プロジェクトはイデオロギー対立の泥沼にはまることなく無事に進行しまし。最初の草案を書いたジョン・ハンフリーは、「どういう原理に基づく宣言なのか」と訊かれたとき、そつなく、「哲学ではないことだけは確かです」と答えたそうです。そしてこの宣言は、1948年12月の国連総会において、「賛成48、反対0、棄権8」で採択されました。この宣言は500の言語に翻訳され、多くの国際法、国際条約、国際組織はもちろん、その後の数十年間に起草された各国の憲法のほとんどにも影響を与えました。著者は、「採択から70周年を迎えた今でも、その内容は古びていない」と述べています。
「啓蒙主義の理念はつねに擁護を必要としている」では、著者は「わたしたちは無情な宇宙に生まれ、生存可能な秩序を維持できる確率が低すぎるという事実により、常に崩壊の危険にさらされている。わたしたちは容赦ない競争のなかで形作られてきた」と述べています。また、人間の本性には、不利な条件のなかで道を切り開く能力が備わっているとして、「わたしたちは思考をフィードバックさせて組み合わせることができ、自分の考えについて自分で考えることができる。わたしたちには言語を習得する本能があり、経験や発想を他者と共有することができる。わたしたちは共感力――他者を哀れみ、想像し、思いやり、同情する力――を備えていて、そのおかげで心に深みをもつ」と述べ、最後に「わたしたちが完璧な世界を手に入れることは決してないし、そんなものを求めるのは危険だと考えるべきだ。だが、わたしたちが人類の繁栄のために知識を使うことをやめないかぎり、人類の向上に限界はない」と述べるのでした。
『ハートフル・ソサエティ』と『心ゆたかな社会』
この上下巻あわせて1000ページ近い大著を読んで、わたしは大きな感動をおぼえました。まず本書は面白いです。こんなど直球のテーマを扱って面白く読ませる著者の筆力に感嘆しました。それから、「人間尊重」というわが社のミッションにも通じる内容でしたし、「何事も陽にとらえる」というわが信条にも合いました。正直に告白するなら、『ハートフル・ソサエティ』(三五館)および『心ゆたかな社会』(現代書林)の類書であると思いました。できるなら、いつの日かスティーブン・ピンカーに会って、人類の未来について語り合ってみたいです。
2022年11月30日 一条真也拝