コンパッションとは何か? 

一条真也です。
17日、早朝から松柏園ホテルの顕斎殿で恒例の月次祭を行いました。わが社は「礼の社」ですので、何よりも儀式を重んじるのです。新型コロナウイルスの新規感染者もずいぶん減少してきましたが、全員マスクを着けてソーシャルディスタンスを十分に配慮しました。

最初は、もちろん一同礼!

月次祭のようす

ソーシャルディスタンスを取って

玉串奉奠する佐久間会長

玉串奉奠し、拝礼しました

最後は、もちろん一同礼!

 

皇産霊神社の瀬津神職によって神事が執り行われましたが、祭主であるサンレーグループ佐久間進会長に続いて、わたしが玉串奉奠を行いました。一同、会社の発展と社員の健康・幸福、それに新型コロナウイルスの感染拡大が終息することを祈念しました。わたしと一緒に参加者たちも二礼二拍手一礼しました。儀式によって「かたち」を合わせると、「こころ」が1つになる気がします。

天道塾でも一同礼!

今日は、わたしが先に登壇しました

 

その後、天道塾が開かれました。いつもなら佐久間会長が先に登壇して訓話をするのですが、今日はわたしが午前中の飛行機で北陸へ飛ばなければならないため、わたしが先に講話をすることになりました。パンジー不織布マスクを着けたわたしは、自分にとって最大のヒーローであったアントニオ猪木さんが逝去されたことに言及し、故人の御冥福をお祈りしました。猪木さんの通夜・告別式ですが、戒名、祭壇、遺影、赤い闘魂タオル、BGM、出棺、猪木コール・・・まさに「アントニオ猪木さんらしい」素晴らしいお別れだったと述べました。さらに、猪木さんは、日本人の死生観にも大きな影響を与えたように思います。難病の「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」と闘い、その様子を公開することでファンのみならず一般の人々にも元気を届けました。わたしは、猪木さんから大いなる元気をいただきました。

マスクを外しました

 

その猪木さんは生前、その行動の真意とも言える「死についての考え」を「東京スポーツ」紙のインタビュー取材で独白していました。ブログ「おくりびと」で紹介した大ヒット日本映画を引き合いに「これからは『死と向かい合う』っていう、そういうことへのメッセージを送らないといけないと思っています。『おくりびと』って、一時期はやったと思うんだけど、いわば『おくられびと』というね」と、決意表明ともとれる言葉を口にしました。猪木さんは、「死というだけでマイナスイメージになってしまうでしょ。『猪木さん、まだまだ頑張ってください』とかいう人もいる。だけど、そういうことじゃなくて、社会や身近なものに対して何かができればね」と死を目前にするからこそ成し遂げられることがあることを説いたのです。

映画「おくりびと」について


ちなみに、本日、映画「おくりびと」の原案者である作家・青木新門さんの「お別れ会」が富山で開かれます。わたしは、この講話を終えたら、すぐ福岡空港に向かって北陸に飛び、青木さんのお別れ会に参列する予定です。映画「おくりびと」といえば、第32回日本アカデミー賞最優秀作品賞、第81回米アカデミー賞外国語映画賞を受賞してから、ずいぶん時間が立ちましたが、あの興奮は今でも憶えています。日本映画初の快挙でした。ブログ『納棺夫日記』で紹介した青木さんの著書を原案とした映画「おくりびと」が公開されたことは葬祭業界においても非常に大きな出来事でした。映画の中での美しい所作と儀式は、お客様が望む葬儀の在るべき姿を映画というメディアで表現してくれました。ご遺族が大切にしている方をこうも優しく大事に扱ってくれるということはグリーフケアの上でも大切なことでした。『納棺夫日記』と「おくりびと」のおかげで葬祭スタッフに対する社会的地位も変わったのではないかと感じるところもあります。何よりも、自分の仕事へのプライドを彼らに与えてくれました。

映画「アイ・アムまきもと」について

 

続いて、「おくりびと」以来の葬儀映画の名作として、ブログ「アイ・アムまきもと」で紹介した日本映画の話題を取り上げました。ブログ「おみおくりの作法」で紹介した2013年のイギリス・イタリア合作映画を原作とした作品です。全互協が協賛しており、わが社もたくさんチケットを買わせていただきました。映画「アイ・アムまきもと」の最大のテーマは「葬儀とはいったい誰のものなのか」という問いです。死者のためか、残された者のためか。「おみおくりの作法」で、ジョン・メイの上司は「死者の想いなどというものはないのだから、葬儀は残されたものが悲しみを癒すためのもの」と断言します。「アイ・アムまきもと」でも、牧本の上司は「人は死んだら、それで終わり。何も残らないの!」と言い放ちます。わたしは、多くの著書で述べてきたように、葬儀とは死者の「たましい」ためのものであり、同時に残された愛する人を亡くした人の「こころ」ためのものであると思います。


「コンパッション」について


熱心に聴く人びと

続いて、ブログ「大正大学公開講義」で紹介した宗教学者島薗進先生の講義で初めて知った「コンパッション都市」について話しました。それは、「老、病、死、喪失を受けとめ、支え合うコミュニティ」であり、一言でいえば「悲しみをともにする共同体」です。その概念は、1986年の「健康づくりのためのオタワ憲章」(WHO)の原則を取り上げ、それを人生最終段階ケアに適用し、共同体の責任としたものです。この共同体モデルでは、死にゆく人と非公式の介護者が社会的ネットワークの中心に置かれているという図を見ることができます。都市としては「コンパッション都市」と呼ばれますが、まさに互助会が創造すべきコミュニティのモデルであると思います。英語の「コンパッション」を直訳すると「思いやり」ですが、わたしが多くの著書で述べてきたように、思いやりは「仁」「慈悲」「隣人愛」「利他」「ケア」に通じます。「ハートフル」と「グリーフケア」の間をつなぐ概念も「コンパッション」だと気づきました。

 

「コンパッション都市」とは何か?

 

最近、米国バーモント大学臨床教授(パブリックヘルス、エンドオブライフケア)で医療社会学者のアラン・ケレハーの著書『コンパッション都市』が慶應義塾出版会から翻訳出版されましたが、その冒頭には「生命を脅かす病気、高齢、グリーフ・死別とともに生きる市民がいます。また家庭でケアを担う市民がいます。そんな境遇にあるすべての市民を手助けし、支援するために組織される地域コミュニティ、それがコンパッション都市・コミュニティです。『コンパッション』(compassion)という用語は、たんなる好意や気遣いの感情以上のことを意味します。この用語の中心には、互恵性(reciprocity)と具体的行動(action)という考え方があります」と書かれています。


互助共生社会の実現を目指して

 

「互恵」とは「互助」ということでもあり、互助共生社会の実現のために具体的行動を続けるわが社にとって、「コンパッション」はドンピシャリのキーワードであると思います。現在、「SDGs」が時代のキーワードになっていますが、これは2030年で終わります。その後、「ウェルビーイング(wellbeing)という言葉が主流になると言われていますが、わが社ではすでに40年も前から使っていた言葉です。「ウェルビーイング」は健康についての包括的概念ですが、じつは決定的に欠けているものがあります。それは「死」や「死別」や「グリーフ」です。これらを含んだ上での健康でなければ意味はなく、まさにそういった考え方が「コンパッション」なのです。つまり、「ウェルビーイング」を超えるものが「コンパッション」であると言えます。


コンパション都市をつくる者は?


熱心に聴く人びと

 

ケレハーの著書『コンパッション都市』には、「人の最大の試練といえる瞬間や経験に際して互いにケアすること、なかでも生命を脅かす病気や致死的な病気、慢性障害、老化による虚弱、グリーフと死別、長期間にわたるケアに伴う試練や負担を抱える人たちをケアすることを公的に奨励し、促進し、支援し、賞賛する」のがコンパッション都市であると書かれています。そして、主体となるのは、地方自治体、葬儀会社、グリーフや緩和ケアに携わる組織であるとも書かれています。さらには、コンパッション都市実現のための具体的行動案として、「移動型の死への準備教室」「ご近所見守りパトロール」「コンパッション関連書の読書クラブ」「死を描いた映画の上映会」などが挙げられています。わが社の活動そのものではないですか!


コンパッショナリー・カンパニーへ!

 

大正大学での島薗進先生の特別講義の後、質疑応答の時間がありました。わたしは、挙手して「わが社は、日本の政令指定都市で最も高齢化の進む北九州市グリーフケア活動などもやっていますが、これがコンパッション都市の原型のように思いますが、いかがでしょうか?」と質問させていただいたところ、島薗先生は「北九州市にはホームレス支援の奥田知志さんもいらっしゃいますし、まさに隣人愛や慈悲の共同体のモデルだと思います。サンレーさんには大いに期待しています!」と言っていただき、恐縮いたしました。これからのサンレーは、「コンパッショナリー・カンパニー」を目指しますが、「ミッショナリー」から「アンビショナリー」、そして、「コンパッショナリー」へ。最後に、「わが社が目指す企業コンセプトのアップデートの歴史はまるで大河ドラマのようです! それでは、富山に行ってきます!」と言ってから降壇しました。

 

2022年10月17日 一条真也