葬祭責任者会議(加地伸行講演)

一条真也です。
15日の12時半から、わたしはリーガロイヤルホテル小倉に行って、小倉ロータリークラブの例会に参加しました。この日はガバナー公式訪問でしたので、ネクタイ着用で記念写真撮影にも収まりました。


佐久間会長と加地先生

小倉紫雲閣の大ホールのようす

 

その後、リーガロイヤルホテル小倉から 小倉紫雲閣へ。この日、サンレーグループの全国葬祭責任者会議が開催されました。今回は、特別講師として、大阪大学名誉教授で中国哲学者である加地伸行先生をお招きしました。最初に加地先生の貴賓室にお通しし、 サンレーグループ佐久間進会長に紹介しました。佐久間会長はかねがね加地先生とお会いしたかったそうで、大いに話の花が咲きました。

安倍元首相の死を悼んで黙祷しました

黙祷のようす

黙祷後、わたしが挨拶しました


故人の死を悼みました

 

サンレーグループの全国葬祭責任者会議は13時45分から開始されましたが、14時40分、小倉紫雲閣の大ホールで、今月8日に逝去された安倍晋三元首相の死を悼んで、1分間の黙祷を行いました。その後、わたしが登壇し、「安倍元首相が凶弾に倒れました。謹んで、御冥福をお祈りいたします。犯人の背景にあった宗教問題にも心が痛みますが、憲政史上最長の政権を続けた偉大な政治家があんなにあっけなく世を去るとは、わたしもショックでした。12日には家族葬ながらも通夜が、13日には葬儀が行われ、友人代表として麻生太郎氏が弔辞を読まれました。その内容は感動的なものでした。混乱と悲嘆の中にあった遺族や国民も、まず弔い、悼むことで心はひとまず落ち着きました。葬儀の重要性というものを思い知らされたように思います。

国葬が決まって良かったです!


安倍元首相の戒名には「紫雲」が!

 

秋に安倍元首相の国葬日本武道館で開かれることが決まったようで、本当に良かったです。やはり、偉大な政治家には家族葬よりも国葬がふさわしい。わたしの結婚披露宴にご参列いただいたり、生前は大変お世話になった安倍元首相ですが、その戒名に「紫雲」の文字が入っていることを知り、改めて御縁を感じた次第です」と述べました。それから「今日は、わが国の儒教研究の第一人者である加地伸行先生にお越しいただきました。ぜひ、しっかり加地先生のお話しを聴いて下さい。儒教を倫理道徳だと思っている人もいるようですが、儒教ほど宗教らしい宗教はありません。なぜなら、宗教の核心は、死者をどう弔うかということにありますが、儒教ほど葬儀を重んじている宗教はないからです。世界中の宗教で、最も葬儀を重視しているのが儒教なのです。それでは、加地先生、よろしくお願いいたします!」と言って降壇しました。

盛大な拍手の中、加地先生が登壇


講演する加地先生

 

それから、盛大な拍手の中を登壇された加地先生の講演が開始。わたしが加地先生にお会いするのは、ブログ「加地伸行先生と対談しました」に書いた昨年7月7日の対談以来です。加地先生はわが国を代表する儒教研究の第一人者ですが、講演の演題は「論語と冠婚葬祭」でした。冒頭、加地先生は「いま、社長さんから『儒教ほど葬儀を重んじている宗教はない』とのお話がありましたが、それが今日の私の話の結論です。このまま降壇して帰ってもいいくらいです」と言われました。それから、質問として、加地先生は参加者に「私は仏教徒である」「私は仏教徒かなあ」「仏教以外の宗教である」「宗教なんて、宗教否定・無関心」の4択のうち1つを選ぶように言われました。そして、日本仏教のうち80%は儒教、10%は道教、10%はインド仏教で構成されていると述べられました。

寺院と仏教について語られました

 

まずは、寺院についての話から始まりました。明治時代以前、宗教者は役人でした。どういう意味かというと、江戸時代には就職するには保証人が必要であり、どこに住んでいるかとどの寺の信者であり属している証明が必要でした。その証明がないと就職できず、従って寺は官庁のような力を持っていました。また、それは200年以上続きそのため寺は権力を持っているのが当たり前という意識が根付いていきました。その後明治4年の戸籍法により証明は必要でなくなり、それにより寺院は権力を失っていくことになりました。仏教については、インドから中国に仏教が伝わった時、中国は「六道輪廻」という考えを受け入れませんでした。そのため中国ではもともとあった儒教の考えを織り込んで中国における仏典を作っていき、その時にたくさんの儒教の影響を受けた偽のお経が大量に中国で作られ、親孝行などの儒教の考えを基本として作られた仏教は日本に伝わり日本の仏教となっていきました。それはインドの仏典には葬儀はなく、インドには先祖供養はないが中国や日本にはあるということから明らかなことです。また日本仏教は政治的な思惑もあり広まっていきましたが、その広まっていったのは中国でつくられた偽のお経を基本とし、それは儒教の教えでした。これが日本仏教のうち80%は儒教、10%は道教、10%はインド仏教で構成されているということです。


わたしも拝聴しました

 

「宗教と死について」は、加地先生が大学3回生の時に母親を亡くされ、「死」の問題について考えていき、「宗教にとって大事なものは何か?」「宗教とは何か?」という疑問から多くの文献などを調べ、研究者として「宗教は死ならびに死後についての説明者である」という概念に達したことを述べられました。人間として最大の問題である「死」「死後」を扱っているのは宗教であり、例えば医者は「死」までを扱うが、「死後」まで説明するのは宗教だけです。キリスト教の天国の話やインドの仏教の六道や地獄の話もありました。キリスト教イスラム教は土葬としますが、その理由として日中は太陽光がきつい環境の為、死後は安らかに眠るため土葬にしている。そしてキリスト教イスラム教は死ぬと神のもとに召されるという考え方です。現在日本では火葬がほとんどだが、本来日本も土葬である。ただし、意味合いとして、キリスト教イスラム教の土葬がしたら終わりという考えと違い日本では再び会うための場所=お墓を作り冠婚葬祭の「祭」を行っていくという違いがあるというのです。


家族主義について語る加地先生

 

「一族主義と個人主義について」は、中国や日本の職業の95%はつい最近まで農業であり、一族が生活の為、集中して暮らしていました。そもそも、農業は共同で行う作業であり農繁期は本家の周りに住んでいる信頼できる血のつながった一族が集まって共同で作業を行い、生活の為の農業を支えていきました。一族主義では働けなくなった年取った老人たちの面倒を見るのは一族でありこれはいわば社会保障というものでした。ただし、日本は今まさに、それが崩壊しています。その理由としてヨーロッパから入ってきた個人主義が台頭してきたことであり、この個人主義の意味を間違って取り入れていったこともその原因となります。ヨーロッパの個人主義は能力がある者が独立していろいろなことをやっていくことです。ヨーロッパは狩猟民族であり、個人の能力主義が中心であり、個人の能力があれば給料を得ることが出来る仕組みでした。日本は体力がある者も無い者も共同で農業を行った農耕民族であり、一族主義は給料目当てでなく、一緒に暮らしていけるというものでしたが、明治維新個人主義が一族主義より優れたものと勘違いし取り入れられ、一族主義は崩壊していきました。個人主義はいわば利己主義です。現代の日本の教育は利己主義者の製造機関となったおり、現実の家族も夫婦と子供での家族が主となっています。


熱心に聴く人びと

 

儒教はどう考えたか」では、死は怖いものであるが、自分は自分の父母の体をいただいてここにいる。自分の両親は祖父母から。自分の肉体は祖先から脈々続いているものであり、すなわち己は祖先です。一族の血がつながっていけば生命は繋がっていくと考えました。「子どもがいない場合はどうなるか?」として、自分の父方は父族といい、母方は母族といい、自分からいて甥姪は子族といいます。だから、甥姪は子として扱ってよいもので、これが儒教の家族主義ということです。故に血のつながったものが集団で団結していこうというようになっていくのです。「儒教での葬儀について」では、家族葬は家族が中心となって血がつながっている者同士が団結して行います。必ず家族が集まり参加する。これは大事なこと。また親しい友人があれば参加してもらうのです。


現代の葬儀業界へ提言する加地先生

 

「喪服について」では、儒教の葬儀では皆が喪服を着ません。関係が遠くなれば着るものは増えていくが、亡くなった方に一番近い方は、例えば親が亡くなった場合、子どもは裸足で上に着るものは白色の着物を重ねて帯をしません。一番悲しみを表す姿です。親族のみが喪服を着ますが、それ以外の参列者などが喪服を着ることはしません。最も悲しんでいるのは親族であり、それと同じ姿は僭越な行為です。血族でないものは平服でよいのです。台湾で参列した時、参列者の大半は平服であり、伝統的な儒教的な葬儀でした。日本はみんな同じ姿です。「焼香について」では、儒教で焼香するのは2人のみで、1人は喪主であり、1人は主婦です。ここで女性が出てくる理由は、一族主義の中では皆血がつながっているが、一族の中に血がつながっていない人がいます。よそから入ってきたお嫁さんです。“婦“とはよそから入ってきた人のことでそのリーダーを主婦というとのことでした。そして日本の葬儀も、このようにしていけば参列しやすいのではとの考えを示されました。


熱心にメモを取る人びと

 

葬儀で最も困ることは、家族葬といって全く周囲に知らせないことです。後から遺された方への負担がとても大きくなります。いつ弔問に来るかもわからず、とても負担が大きい。葬儀を行うことで一度で終わることが出来る。葬儀を広く行うことはある意味では合理的なこと。今はそれがほとんどなくなっている。皆さんには、親しかった人には声をかけるということをやってもらって欲しいです。葬儀は死生観を表すもの。肉体は滅びます。しかし「想い」というものは続いていく。「想い」をどう表すか、それは冠婚葬祭の「祭」です。一周忌、三回忌と続けていく。儒教ではおめでたいことは手前で、悲しいことは遠ざけるという原則がある。三回忌の数え方は人が実際に亡くなられた時の1日前が亡くなられた日とします。すると満2年と1日となり3年の弔いは三回忌となる。この三回忌などの考え方はまさに儒教です。

儒教とは何か?

 

さらに加地先生は、以下のように述べられました。
葬儀について、儒教はものすごく詳しく説いています。皆さんにお願いしたいのは「ぜひ、儒教を勉強して下さい」ということです。儒教は3000年続いてきました。それは儒教が人の気持ち、現実的な気持ちに合うような形で作られているからです。儒教という方式の葬儀をやっていっていただきたいと思います。最後に、加地先生は「なぜ、儒教は倫理道徳というイメージで見られるのか?」について話されました。南宋の時代、朱子という人が生まれ、亡くなった後に南宋は元に滅ばされました。朱子には国が滅ぼされるのではという強い想いがあり、国家を残すために家族は大事なものですが、国家はより大事という考えから、国家を守るための倫理道徳という考えを生み出しました。そこで儒教は大きく変容し倫理道徳を中心とし、のちにそれを受け止めたのが江戸幕府です。江戸幕府にとっては国の安定が第一という考えから塾を作って全国から人を集め国家が第一、家族はその次という教えを全国に広めていきました。そのため日本では朱子が解釈するような儒教が認識されていきました。そこで儒教といえば倫理道徳というイメージが誤解され今日に至っています。加地先生の講演が終了すると、会場が割れんばかりの盛大な拍手が起きました。


最初は、もちろん一同礼!


わたしが社長訓示をしました

 

それから、10分間の休憩を経て、わたしが1時間話しました。最初に一同礼をした後で登壇したわたしは、宗教学者島田裕巳氏の最新刊『葬式消滅』の内容を紹介しながら、その疑問点を指摘し、反論していきました。同書のアマゾンの内容紹介には、「自然葬、海洋葬を実際に行ない、葬送の自由を進めてきた著者が、現在、そしてこれからの葬儀のカタチを紹介。直葬などの登場でお葬式はますます簡素で小さくなってきました。見送る遺族はお骨を持ち帰らないという葬儀もいよいよ出現。高額な戒名も不要、お墓も不要となってきた新しい時代のお見送りの作法や供養の方法などこれからの時代を見据えた情報を宗教学者が教えます」と書かれています。

『葬式消滅』を持って

 

わたしは、2010年に、島田氏のベストセラー『葬式は、要らない』への反論書として『葬式は必要!』を書き、5年後の2015年には島田氏の『0葬』への反論書として『永遠葬』を執筆しました。さらに、その1年後、島田氏と対談し、その内容をまとめた『葬式に迷う日本人』(三五館)を出版しました。宗教哲学者の鎌田東二先生をはじめ、何人からの方々から『葬式消滅』に対抗して今度は『葬式復活』を書いてほしい」と言われましたが、わたしとしては、加地先生との対談本である『論語と冠婚葬祭』が島田氏への最終回答であると考えています。

論語と冠婚葬祭』を持って

 

『葬式消滅』の第一章「葬式が消滅していく」の「葬式の基本は死者を悼んで遺体を処理すること」では、葬式の基本は遺体を処理することにあるとして、著者である島田氏は「生き物のなかで、葬式をするのは人間だけです。他の動物は、たとえ人間に近い類人猿であっても、仲間が亡くなったときに、葬式をすることはありません。遺体は亡くなった場所に放置されるだけです。人間と他の動物とは違うところはさまざまにありますが、仲間の遺体を埋葬するかどうかということは重要なポイントのひとつです。そこには、何より衛生観念の発達ということが影響しています」と述べています。その通りですね。


仏教に与えた儒教の影響について

熱心に聴く人びと

「輪廻転生から浄土教信仰、そして葬式の完成」では、仏教の中から浄土という考え方が生まれながらも、極楽浄土に生まれ変わるという信仰が強調されるようになったのは仏教が中国に取り入れられて以降であることが指摘されます。仏教を取り入れた中国人たちは、輪廻転生が繰り返されるという考え方を受け容れませんでした。それは仏教の核心にあるものを否定したことになります。中国で仏教は大きく変容したとして、著者は「その変容のなかから浄土教信仰が生まれるのですが、そこには、中国の土着の宗教である儒教が影響を与えました。儒教では、孝の観念を強調します。親孝行の孝です。子どもは親のために尽くさなければならないというわけです。したがって、親が亡くなったときには、喪に服すことになります。その期間はかなりの長さに及びます。喪の期間に生活を慎むことで、善を積み、それが先祖の霊を慰めることに通じるというわけです」と述べています。これも、その通りです。


「葬式仏教」の確立について

 

仏教は儒教の「孝」の考え方を取り入れて、追善供養というやり方を編み出しました。追善供養の代表が、故人の命日に行われる年忌法要です。その際には法事を行い、先祖の供養を任せている菩提寺に布施をします。これによって、亡くなった先祖は極楽往生を果たすことができるとされました。著者は、「こうした考え方が日本にも浸透することで、『葬式仏教』の体制が確立されることとなりました。法要がくり返されることで、先祖は極楽往生を果たすことができるとされました。一方、法要で布施をする子孫の方は、徳を積んだことになり、それは自分が死んで極楽往生を果たす際には、意味を持つと考えられるようになりました。そして、寺の方は、安定的な収入源を確保することが可能になりました。檀家が追善供養をくり返してくれれば、そのたびに布施が収入として入ってくるからです。先祖も子孫も、そして寺も、これで満足できる。そのような体制が確立されたことで、仏教は庶民の間にも深く浸透していきました」と述べます。


寺請制度について

 

「永く残り続ける寺と檀家の関係」では、こうした体制は近世になり、村社会が生まれることで成立したとし、そこには江戸時代に生まれた寺請制度の強い影響があったと指摘します。寺請制度は、最初はキリシタンを禁制としたことで生まれましたが、やがて全体に広げられ、どの家も地域の菩提寺の檀家になることが強制されました。その寺請制度は明治に時代が変わることによっては言師されます。しかし、寺と檀家との関係は継続されました。先祖のすみやかな成仏を実現するのは、法要をくり返す必要があるという考え方がすでに浸透してしまっていたからです。しかし、時代は変わったとして、著者は「追善供養ということについてさえ、次第にすたれてきています。一周忌はやったけれど、次の年にまわってくる三回忌はやらなかった。そんな家も増えています。直送で葬式を済ませたなら、そこで僧侶との縁も結ばれませんから、その後に年忌法要を営むという発想自体が生まれません」と述べます。


曹洞宗が日本の葬式をつくった!

 

「仏教の葬式はどのように変化したのか?」では、道元の開いた曹洞宗南北朝時代から室町時代にかけて異常とも思えるほどの発展を遂げ、葬式にも関与するようになったことを紹介します。曹洞宗の「禅苑清規」には禅宗の僧侶の葬式をどのように行うかという方法が記されており、それは「尊宿遷化(そんしゅくせんげ)」と「亡僧(ぼうそう)」の2つに分けられていました。尊宿というのは禅寺の住職のことです。一方で、亡僧とは、いまだに修行を続けていて、僧侶にはなっていない雲水のことです。これらの葬式について記した「禅苑清規」は、儒教の儀式について記した「儀礼」や「開元礼」をもとにしたものでした。

日本の葬式の本質は儒教である!

 

島田氏は「したがって、そのままだと仏教の儀式にはならず、儒教の儀式になってしまうので、それぞれの場面で、仏法の道理について述べた法語を読むことになります。故人の戒名を記した位牌も、儒教の影響を受けて成立したものです。曹洞宗の葬式を作り上げる上で、儒教の影響はとても大きいのです。それも、仏教には葬式のやり方がなかったからで、儒教から借りてくるしかなかったのです」と述べます。これは、まさに『論語と冠婚葬祭』の内容と一致しています。そう、日本の葬式の本質とは仏教ではなく、儒教なのです!


日本人の死生観の変容について

 

曹洞宗の開拓した葬式のやり方は、他の宗派にも取り入れられていきました。同じ禅宗である臨済宗をはじめ、天台宗真言宗、浄土宗などです。しかし、浄土真宗日蓮宗は取り入れませんでした。浄土真宗日蓮宗は「戒名」という言葉も使わず、「法名」や「法号」と言います。葬式が死者の供養のために行われるようになったのであれば、それは信仰上大きな意味を持ったことになります。ところが、そうではなく、宗派の経営のために導入されたと指摘し、著者は「ほかの宗派がそれを採用したのも、葬式を担うことが、金銭を稼ぎ出す手段としてもっとも有効だと判断されたからでしょう。浄土真宗でも日蓮宗でも、形式は異なりますが、葬式を担ってきたという点ではおなじです」と述べ、さらには「葬式が消滅にむかってきたのも、結局は、葬式がもともとビジネスとしてはじまったからではないでしょうか。そして、ビジネスとしての価値がなくなれば、それは自然とすたれていくことになるのです」と述べるのでした。

小倉紫雲閣について

熱心に聴く人びと

 

第三章「お弔いが葬儀社異存になった理由」の「かつて葬送とはどんなものだったのか」では、日本の葬式の歴史のエポック・エーキング的な出来事となったセレモニーホールの誕生について言及します。そこで、なんと島田氏は小倉紫雲閣を「日本最初のセレモニーホール」と認めているのです。大変嬉しいことですが、島田氏は「セレモニーホールは、家族にとっては馴染のない場所で、そのときはじめて足を踏み入れたかもしれません。慣れない場所で慣れないことをするというのは相当なプレッシャーです。それに、参列者に失礼になってはいけないというプレッシャーもかかります。現在では、そのあたりの感覚は相当に薄れてきましたが、以前は、葬式では世間体ということがやかましく言われました」とも述べています。小倉紫雲閣はセレモニーホールの原点でありながら、災害避難所などを含めたコミュニティーホールとしての革新性を併せ持っています。けっして「馴染のない」「そのときはじめて足を踏み入れた」場所にはするつもりはありません。わが社は、これからも冠婚葬祭互助会の「初期設定」を大切にしつつ、「アップデート」を図っていく所存です。

仏教の根本は「悟り」なのか?

 

最後に、著者は以下のように述べるのでした。
「仏教の根本は、悟りということにあります。釈迦の伝説では、釈迦は究極の悟りに達したとされています。その悟りがいかなるものか、釈迦自身は語っていません。釈迦が直接悟りについて語った経典は残されてないのです。しかし、その後の仏教は、釈迦の悟りがいかなるものであったかを、さまざまな形で探求していくことになりました。その成果が、各種の仏典に記されていったのです。悟りの探求は、完成したわけではありません。究極の答えが見出されたわけではないのです。それは、新たな探求に意味があるということです。これからの仏教は、ふたたび釈迦の悟りとは何かを問うものになっていくのではないでしょうか。もし仏教が、そちらにむかうのだとしたら、それは、仏教と葬式の関係が切れた成果なのかもしれないのです」


仏教と日本仏教は別の宗教である!

 

この最後の言葉は意見まともな意見であるように思えますが、よく考えると、やはり突っ込み所が多いです。仏教の話においても発祥の地であるインドや中国のもともともっていた教えから異なるという点から結論に展開していきますが、視点として日本における場合にはそこで作り上げられていった日本式仏教があり、それがインドと異なるということで日本式の葬式が不必要という論理は乱暴です。日本人の「こころ」は仏教、儒教、そして神道の三本柱から成り立っていますが、日本における仏教の教えは本来の仏教のそれとは少し違っています。インドで生まれ、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わってきた仏教は、聖徳太子を開祖とする「日本仏教」という一つの宗教と見るべきだと、わたしは考えています。

コミュニティセンターについて

 

風土や風習というものは社会によって必要とされたからこそ生まれてくるものであって、それぞれの意味や役割があります。寺院などを例にすると、本書でも指摘されているように「お布施」や「戒名」といった部分での問題は確かにあると感じます。しかし、「だから寺院はいらない」という極論でなく、寺院が果たしてきた役割にもスポットを当てていくのが大切でしょう。寺院とは、現在でいう地域の「コミュニティセンター」であり、そこに集うことで共同体の中で生きていけるという場所でもありました。寺院で行われる葬式も共同体にとって重要なことであり、さまざまな意味を持っています。物質的な部分で遺体への対応、これは公衆衛生的なことも含まれ、それだけでなく社会に存在する関わりへの対応も行われてきました。


最後は、もちろん一同礼!

 

そして、ここには悲嘆への対応としてグリーフケアの役割もあります。本書の中で「追善供養はいらない」とも記されていましたが、グリーフケアにおいては追善供養ももちろん重要な意味を持っています。現在、グリーフケアの舞台は寺院からセレモニーホールに移行していく流れにありますが、わたしたち冠婚葬祭互助会の役割と使命は非常に大きいと言えます。最後に、わたしは「今日は加地先生の素晴らしいお話もお聴きしました。この学びを糧として、利他の精神に基づく高い志を抱いて頑張りましょう!」と言って降壇しました。


佐久間会長、加地先生と

 

18時からは松柏園ホテルの茶室で、加地先生、内海準二さん(『葬式は必要!』『永遠葬』『論語と冠婚葬祭』の編集者!)、 サンレーグループ佐久間進会長、そして小生の4人で会食しました。佐久会長はかねがね加地先生とお会いしたかったそうで、大いに話の花が咲きました。折しも、この日から小倉祇園が3年ぶりに再開されましたが、まことに楽しく、かつ有意義な一夜となりました。加地先生は、この日の講演を振り返って、「熱心にメモを取る聴講者ばかりで驚きました。学ぶ心に富んだ素晴らしい会社で、これからも必ず発展されることでしょう」との有難い言葉を頂戴しました。

 

 

2022年7月15日 一条真也