エンディング産業展講演

一条真也です。
東京に来ています。連日さまざまな業界関連の行事に参加していますが、24日の11時から、ブログ「エンディング産業展講演のお知らせ」で紹介した講演を東京ビッグサイトにおいて行いました。

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エンディング産業展の受付前で
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ポスターが貼られた控室で
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講演会場前には長蛇の列が・・・・・・
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超満員になりました!



演題は、「人生の修め方~『終活』の新しいかたち~」です。開場前から講演会場前には長蛇の列ができて、おかげさまで会場は超満員となりました。中に入れない方もいたほどでした。互助会保証の寺坂社長、冠婚葬祭総合研究所の兼松副社長をはじめ、業界関係の方々の姿も見えました。嬉しく、また心強く感じました。

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みなさん、こんにちは!
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ウルマンの「青春」を紹介



冒頭、わたしは「アンチエイジング」という言葉についての異論を唱えました。これは「『老い』を否定する考え方ですが、これは良くありませんね」と述べました。そして、わたしは「老いと死があってこそ人生!」という話をしました。サミュエル・ウルマンの「青春」という詩がありますが、その根底には「青春」「若さ」にこそ価値があり、老いていくことは人生の敗北者であるといった考え方がうかがえます。おそらく「若さ」と「老い」が二元的に対立するものであるという見方に問題があるのでしょう。「若さ」と「老い」は対立するものではなく、またそれぞれ独立したひとつの現象でもなく、人生というフレームの中でとらえる必要があります。

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「人生の五計」を紹介


理想の人生を過ごすということでは、南宋の朱新仲が「人生の五計」を説きました。それは「生計」「身計」「家計」「老計」「死計」の5つのライフプランです。朱新仲は見識のある官吏でしたが、南宋の宰相であった秦檜に憎まれて辺地に流され、その地で悠々と自然を愛し、その地の人々に深く慕われながら人生を送ったといいます。そのときに人間として生きるための人生のグランドデザインとでも呼ぶべき「人生の五計」について考えたのでした。

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老年期は実りの秋である!



それからわたしは、「老年期は実りの秋である!」という話をしました。今年の夏は本当に暑かったですね。わたしは50代の前半ですが、若い頃と違って暑さが体にこたえます。昔は夏が好きだったのですが、今では嫌いになりました。四季の中では、秋が好きです。古代中国の思想では人生を四季にたとえ、五行説による色がそれぞれ与えられていました。すなわち、「玄冬」「青春」「朱夏」「白秋」です。

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インドのライフサイクルについて語る



インドにも「老い」をテーマにしたライフライクルがありました。
ヒンドゥー教の「四住期」という考え方です。これは理想的な人生の過ごし方というべきもので、人間の一生を「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」の4つの段階に分けて考えます。最後の遊行期は、この世へのいっさいの執着を捨て去って、乞食となって巡礼して歩き、永遠の自己との同一化に生きようとしたのです。

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超高齢社会をどうとらえるか



こうして歴史をひもといていくと、人類は「いかに老いを豊かにするか」ということを考えてきたといえます。「老後を豊かにし、充実した時間のなかで死を迎える」ということに、人類はその英知を結集してきたわけです。人生100年時代を迎え、超高齢化社会現代日本は、人類の目標とでもいうべき「豊かな老後」の実現を目指す先進国になることができるはずです。その一員として、実りある人生を考えていきたいものです。

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終活ブームの背景



それから、わたしは「終活」についての考えを述べました。これまでの日本では「死」について考えることはタブーでした。でも、よく言われるように「死」を直視することによって「生」も輝きます。その意味では、自らの死を積極的にプランニングし、デザインしていく「終活」が盛んになるのは良いことだと思います。その一方で、わたしには気になることもあります。「終活」という言葉には何か明るく前向きなイメージがありますが、わたしは「終活」ブームの背景には「迷惑」というキーワードがあるように思えてなりません。

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家族とは互いに迷惑をかけ合うもの!



わたしは大きめの声で、次のように訴えました。
「そもそも、家族とはお互いに迷惑をかけ合うものではないでしょうか。
子どもが親の葬式をあげ、子孫が先祖の墓を守る。
当たり前ではないですか。そもそも“つながり”や“縁”というものは、互いに迷惑をかけ合い、それを許し合うものだったはずです。

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「終活ブーム」について語る



いま、世の中は大変な「終活ブーム」です。
多くの犠牲者を出した東日本大震災の後、老若男女を問わず、「生が永遠ではないこと」そして必ず訪れる「人生の終焉」というものを考える機会が増えたことが原因とされます。多くの高齢者の方々が、生前から葬儀や墓の準備をされています。「終活」をテーマにしたセミナーやシンポジウムも花ざかりで、わたしも何度も出演させていただきました。さらに、さまざまな雑誌が「終活」を特集しています。ついには日本初の終活専門誌まで発刊され、わたしも同誌でコラムを連載しました。現在はWEBで連載しています。

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「終活」から「修活」へ



このようなブームの中で、気になることもあります。それは、「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いことです。特に「終」の字が気に入らないという方に何人も会いました。もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。ならば、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚えてしまいます。死は終わりなどではなく、「命には続きがある」と信じているからです。
そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しました。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。よく考えれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」ではないでしょうか。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活です。そして、人生の集大成としての「修生活動」があります。

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これからは「修活」の時代です!



有史以来、「死」は、わたしたち人間にとって最重要テーマでしたし、それは現在も同じです。わたしたちは、どこから来て、どこに行くのか。そして、この世で、わたしたちは何をなし、どう生きるべきなのか。これ以上に重要な問題など存在しません。 なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そして、この自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け容れがたい話はありませんね。これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきました。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようとして努力してきました。「死」こそは人類最大のミステリーです。

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「修める」という心構え



かつての日本は、たしかに美しい国でした。
しかし、いまの日本人は「礼節」という美徳を置き去りし、人間の尊厳や栄辱の何たるかも忘れているように思えてなりません。それは、戦後の日本人が「修行」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」という覚悟を忘れてしまったからではないでしょうか。老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。

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自分の葬儀を想像してみましょう!



続いて、誰でもが実行できる究極の「修活」についてもお話しました。
それは、自分自身の理想の葬儀を具体的にイメージすることです。
親戚や友人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かります。参列してほしい人とは日ごろから連絡を取り合い、付き合いのある人には感謝することです。生まれれば死ぬのが人生です。死は人生の総決算。葬儀の想像とは、死を直視して覚悟することです。覚悟してしまえば、生きている実感がわき、心も豊かになります。

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入棺体験のすすめ



自分の葬儀を具体的にイメージするとは、どういうことか?
それは、その本人がこれからの人生を幸せに生きていくための魔法です。わたしは講演会などで「ぜひ、自分の葬義をイメージしてみて下さい」といつも言います。友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像することを提案するのです。そして、「その弔辞の内容を具体的に想像して下さい。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです」と言いました。
葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像するといいでしょう。
そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」といわれる。

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死を見つめてこそ生が輝く!



自分の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。その理想のイメージを現実のものにするには、あなたは残りの人生を、そのイメージ通りに生きざるをえないことがおわかりかと思います。これは、まさに「死」から「生」へのフィードバックではないでしょうか。よく言われる「死を見つめてこそ生が輝く」とは、そういうことだと思います。人生最期のセレモニーである「お葬式」を考えることは、その人の人生のフィナーレの幕引きをどうするのか、という本当に大切な問題です。

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究極の「修活」とは?



究極の「修活」とは死生観を確立することではないでしょうか。死なない人はいませんし、死は万人に訪れるものですから、死の不安を乗り越え、死を穏やかに迎えられる死生観を持つことが大事だと思います。一般の人が、そのような死生観を持てるようにするには、どのようにしたらよいでしょうか。わたしがお勧めしているのは、読書と映画鑑賞です。まず読書ですが、わたしは、『死が怖くなくなる読書』(現代書林)という本を上梓しました。自分が死ぬことの「おそれ」と、自分が愛する人が亡くなったときの「悲しみ」が少しずつ溶けて、最後には消えてゆくような本を選んだブックガイドです。

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「修活」としての読書について



例えば、人はガンで余命1年との告知を受けたとすると、「世界でこんなに悲惨な目にあっているのは自分しかいない」とか、「なぜ自分だけが不幸な目にあうのだ」などと考えがちです。しかし、本を読めば、この地上には、自分と同じガンで亡くなった人がたくさんいることや、自分より余命が短かった人がいることも知ります。これまでは、自分こそこの世における最大の悲劇の主人公と考えていても、読書によってそれが誤りであったことを悟ることができます。また、死を前にして、どのように生きたかを書いた本もたくさんあります。さらに、仏教でも、キリスト教などでも良いですが、宗教の本を読むことによって、死に向かっての覚悟や心構えなどが得られます。何もインプットせずに、自分一人の考えで死のことをあれこれ考えても、必ず悪い方向に行ってしまいます。ですから、死の不安を乗り越えるには、死と向き合った過去の先輩たちの言葉に触れることが良いと思います。

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「修活」としての映画鑑賞について



読書ともに映画鑑賞も大切です。わたしは、『死が怖くなくなる読書』の続編として、『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)という本を上梓しました。
長い人類の歴史の中で、死ななかった人間はいませんし、愛する人を亡くした人間も無数にいます。その歴然とした事実を教えてくれる映画、「死」があるから「生」があるという真理に気づかせてくれる映画、死者の視点で発想するヒントを与えてくれる映画などを集めました。わたしは、映画をはじめとした動画撮影技術が生まれた根源には、人間の「不死への憧れ」があると思っています。

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写真と映画の相違



映画と写真を比較しますと、写真は、その瞬間を「封印」するという意味において、「時間を殺す芸術」と呼ばれます。一方、動画は、かけがいのない時間をそのまま「保存」するので「時間をいけどりにする芸術」です。そのことは、わが子の運動会などの様子をビデオカメラで必死に撮影する親たちの姿を見ても良く分かります。
「時間を保存する」ということは、「時間を超越する」ことにつながり、さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じます。写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアなのです。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画がつくられてきたのだと思います。

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映画の本質について



映画で今まで一番多くつくられたのは、「時間を超越する」映画だそうです。時間を超越するタイムトラベルを夢見る背景には、現在はもう存在しない死者に会うという目的があるのではないでしょうか。
わたしは、すべての人間の文化の根底には「死者との交流」という目的があると考えています。そして、映画とは「死者との再会」という人類普遍の願いを実現するメディアでもあると思います。映画を観れば、わたしが大好きなヴィヴィアン・リーやオードリー・へプバーン、グレース・ケリーや、三船敏郎高倉健にも、いつでも好きなときに会えますから・・・。

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「死」の不安を乗り越える



同様のことは、読書にも言えます。わたしは芥川龍之介谷崎潤一郎三島由紀夫などが好きなのですが、既に亡くなっている作家ばかりです。古典というのは、それを書いた人は総て亡くなっている人です。亡くなった人の言葉に触れるというのは、死者と交流しているわけです。読書は交霊術と言っても良いと思うのです。そして、読書でこの世にいない死者の言葉に触れたり、映画で死者の姿を見るということは、自分もいつかあちらの世界に行くのだということを、自然と受け入れていく力があると思います。

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映画鑑賞という臨死体験



映画を観ると、死の不安を乗り越えられるというのは、なぜか。わたしは映画が好きで良く観るのですが、なるべく映画館で観るようにしています。映画館で映画を観るたびに、死ぬのが怖くなる感覚を覚えます。それはどうしてなのか考えてみたのですが、映画館で映画を観るというのは、実は臨死体験であるということを発見しました。どういうことかと言いますと、映画館では、わたしたちは闇の中からスクリーンに映し出された光を見ています。闇とは「死」の世界であり、光とは「生」の世界です。ですから、闇から光を見るというのは、死者が正者の世界をのぞき見るという行為と同じなのです。つまり、映画館に入るたびに、観客は死の世界に足を踏み入れ、臨死体験と言うか、死を疑似体験するのです。ですから、映画をたくさん観て、死の不安を乗り越えていただきたいと思います。

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アップデートする冠婚葬祭
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最後は葬儀の重要性を訴えました



その他にも「死生観」を持つことの大切さを訴え、アップデートする冠婚葬祭について説明し、最後に葬儀の重要性についてお話しました。あっという間に90分が経過し、わたしの講演は終了しましたが、盛大な拍手を頂戴して感激しました。講演後は多くの方々と名刺交換をさせていただきました。おかげさまで拙著を販売する書籍コーナーも大人気で、用意していた本はすべて売り切れました。その後、エンディング産業展の展示ブースを回ってから、会場を後にしました。

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書籍販売コーナー
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書籍コーナーも大人気!
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講演後、エンディング産業展を視察



2018年8月24日 一条真也