『葬式に迷う日本人』に反響続々!

一条真也です。
この記事は、当ブログ1800本目の記事となります。
今日は、三島由紀夫の命日である「憂国忌」ですね。
ブログ『葬式に迷う日本人』で紹介した新刊がおかげさまで好評です。
ベストセラーを連発する宗教学者島田裕巳氏との「葬儀」をテーマにした共著ですが、何人かの方々には、版元の三五館さんより献本していただきました。丁重な御礼の手紙や葉書やメールをたくさん頂戴しました。


稲葉俊郎氏のブログ「吾」より



また、さまざまな方のブログやツイッタ―、フェイスブックなどでも同書を紹介して下さっています。感謝の気持ちでいっぱいです!
未来医師イナバ」こと東大病院の稲葉俊郎先生も、ご自身のブログ「」に「一条真也、島田裕巳『葬式に迷う日本人』」という記事を書いて下さいました。超多忙な身なのに、本当にありがとうございます!



冒頭に、稲葉先生は以下のように書かれています。
「今回の対談者である一条さんも島田さんも、<現代の死の現場>に問題を感じているという点で興味関心は一致しています。
ただ、その対応や解決先が違うだけなのです。共有している問題は同じ。そうした共通の土台を同じにできるからこそ、冠婚葬祭を営む一条さん(佐久間さん)と、宗教学者である島田さんとの対談が成立したのでした。 対話か、ただの井戸端話に終わるかは、同じ問いを共有しているか、ということに尽きると思います。表面上の相違点ではなく、底に流れる共通点に気づけるか、という点にあると思います。多くの議論は、そうした対話の土俵に立つことすらなく、つむじ風のように終わることがあり残念に思います。本書のように入り口が同じで出口(結論)がまったく異なる異色の対話は極めて貴重なものだと思いました」



また、稲葉先生は以下のようにも書かれています。
「島田さんと一条さんが抱える問題点は同じだと思いました。
ただ、その解決を図る手段として、二人の方向は大きく別の方向を向いています。だからこそ、一人一人が自分のこととして死のことをもう一度考え直す時代に来ているのだとも思いました。安易に答えを求めるのではなくて、自分なりに考えてみること。
今までは共通の神話や物語が強く存在していましたが、表面上は、そのつながりが失われてしまいました。ただ、人はそうした強い根っこがないと、ちょっとしたことで大きく揺らいでしまう存在です。私たちの存在を強く支えて基礎づけるものは、先人たちが死に対してどのように語り、どのように対応してきたのか、、、その総体だと思います。歴史や文化を受け継ぎながら、現代ならではの形を創造し続けることが求められていると思います」



そして最後に、稲葉先生は以下のように締めくくって下さいました。
「一条さんも島田さんも、ご自身の人生体験全てを込めて言葉を発しているようなすごみがありました。死の問題は、あくまでも人任せにするものではなく、自分自身の中で受け止め、発酵させていき、自分の言葉で語るべきもの。死というものを今一度自分の頭で考え直すために、とてもいい機会を頂ける本でした。生や死に関することを、歴史的な視点でもっと知りたいし、もっと自分なりの考えを深めていきたいと思わせてくれる本でした。『当たり前』と勝手に思い込んでいることも、実は不確かなことばかり。だからこそ読書は楽しい。日々、自分が生まれ変わるようなものです」
医師としてつねに「生」と「死」の最前線に立っている稲葉先生だからこそ、その言葉には重みがあります。いつも達意の書評には唸らせられますが、次は『儀式論』(弘文堂)を読んで下さっているそうです。
また、深みのある感想を楽しみにしています!




谷口正和「発想の画帖」より



次に、マーケティング・プランナーの谷口正和氏が、ブログ「発想の画帖」の「葬式に迷う日本人」という11月1日の記事で紹介して下さいました。
「生き方と死に方を分けて考えずに、死生観を従来の葬儀を超えて次なる生き方を表現していくという意味合いで、死者の魂と遺族の心にどういう認識を提示できるかということが論点。当面葬儀は消えていく流れの中で生まれ直していくだろう。生きることへのサヨナラの告げ方を改めて考える時代である」


青木新門新門日記」より



また、ブログ『納棺夫日記』ブログ『それからの納棺夫日記』で紹介した本を書かれた作家の青木新門氏。氏のブログ「新門日記」の10月25日の記事には以下のように書かれています。
一条真也氏と島田裕巳氏の葬儀は要る、要らないの対決本『葬式に迷う日本人』を読み終えた。想定していた通り、有見と無見のぶつかり合いであった。仏教でいう<有見>とは、すべての存在は永遠に常住であり不滅であり、人は死んでも我(アートマン)という実態が永遠に続いて不滅であるという見解。<無見>とは、一切の存在は虚無であり、断絶するものであり、人の一生もこの世限りのものであるという見解。『葬式は要らない』とする島田氏の見解は<無見>の立場での発言であり、一条氏の「葬式は要る」との見解は<有見>の立場での発言であった。立っている地点が違うからいくら話し合ってもかみ合うはずはない」



また、青木氏は以下のようにも述べています。
「この本を読んでいるうちに、社会全体の価値観の変化も含めた環境の激変が、葬式のあり方を変えざるを得なくなったということだと思った。そして『葬式が要るとか、要らないとか』といった問題など、関係者は深刻かもしれないが、社会全体の大きな流れの中の一事案に過ぎない。それより大事なことは、このままの生き方でいいのだろうか、現代の生・老・病・死の四苦を取り除いて安心して生きる道を模索すべきではないだろうか。人間中心のグローバル化した市場経済の物質文明社会の中で、葬式が要るとか、要らないとか、いくら論議していても、そんな行き方の検討などお構いなしに時代の主流は、すべてを呑み込んで無明の生死海へと流れてゆくことだろう」



さらに青木氏は以下のようにも述べています。
「お二人とも自力では解決できない問題を『こうあるべきだ』と自己主張しておられる。『前に生まれんものは後を導き、後に生まれん者は前を訪へ、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す』と、親鸞道綽の言葉を『教行信証』の後書きに引用している。前に生まれんものとは、ここでは浄土へ生まれた者はという意味である。仏になった死者が残った人たちを導くのである。如来の回向によって、すなわち他力によって安心の世界へ導かれるのである。そのことに報恩感謝して、その光が射してくる行き先を目指して残った人も順次訪れなさい。それが連続無窮に続くことを願ってやまないと言っているのである。まさに〈法〉の継承であり〈いのちのバトンタッチ〉である。ここに葬送のあるべき姿の原風景があると私は思っている。行き先が定まれば自ずと行き方は定まる」



そして、青木氏は以下のように述べるのでした。
「〈光蝕かぶるものは〉とか〈前に生まれんものは〉といった世界は〈信〉なくばわからない世界である。島田氏とは無縁の世界と言っていい。なぜなら人間と自然を分けて自然を対象化して視る思考、すなわち近代西洋思想に裏打ちされた科学的思考の学者だからである。そうでなければ学者としての社会的地位は抹殺されてしまう。永遠とか霊性とかいったものは今日の我国の学会はうさんくさい非科学的なものとして受け入れないのである。だから無見の視座にスタンスを置いて現代葬儀を現象学的に解説するのが限界なのである。
また、有見の一条氏の『葬式は要る』の根拠は人類は昔からやってきたという事例をあげての説明だったが、その説得力は弱かった。それより一条氏の不利な点は自らが葬祭業をやっているため『葬式は要る』と力説すればするほど、我田引水的にみられることであった。 しかし、お二人とも、よく勉強をしておられ、本音で語られていて、今日の葬儀のおかれた現状やその要因などを知るにはこれ以上の本はないといっていいだろう」



以上、青木氏の言いたいことはわかりますが、氏が親鸞の説く浄土真宗的発想の枠から出ておられないことがよくわかりました。それはあくまでも信仰の世界であり、「普遍」の問題を論ずる地平にはありません。わたしの葬式必要論の根拠は「人類は昔から葬儀を行ってきた」ということだけではありません。グリーフケアとしての機能をはじめ、葬儀の役割をさまざまなに説いたつもりですが、残念ながら青木氏の目には入らなかったようですね。
ブログ「『永遠葬』に反響続々!」で紹介したように、昨年上梓した拙著『永遠葬』(現代書林)を青木氏に献本させていただいたところ、氏はご自身のブログ「新門日記」の記事に以下のように書いています。
「私も島田祐巳氏が『葬式は、要らない』(を出した時、当時本願寺の教学研究所の所長をしておられた浅井成海師と対談形式で『葬式は要る』と題して出版する計画があった。ところが企画したPHP出版と打ち合わせていたら浅井氏が末期癌で急逝され、出版の話はたち切れとなってしまった」
一時は『葬式は要る』を書かれようとした青木氏が、島田氏とわたしの共著に対して、「お二人とも自力では解決できない問題を『こうあるべきだ』と自己主張しておられる」と他人事のように述べられたのは残念でした。



わたしとも島田氏とも、さらには青木氏とも面識のある「バク転神道ソングライター」こと宗教哲学者の鎌田東二先生は、『葬式に迷う日本人』について、「両者の立場の違いが鮮明で、両方ともによくわかります。島田さんは時代の意識と行為の変化を、一条さんはそのからの突破を説いているので、議論は平行線ですが、両論併記は読者には必要だと思います。青木新門さんの感想も、それはそれで、独自の思想的・信仰的一読者の納得のできるものです」という内容のメールを下さいました。
ここで鎌田先生は「独自の思想的・信仰的一読者」と書かれていますが、まったく同感です。わたしは、制度疲労をしている浄土真宗に代表される日本仏教をそのまま肯定することは無責任であると思います。浄土真宗の僧侶の現状を見ても、このままでいいはずがありません。そのへんは、青木氏もよくおわかりではないかと思います。ブログ「青木新門氏にお会いしました」で書いた青木氏との会食時の会話でそれを感じました。それを真宗王国で葬祭業をしている会社の顧問をしておられるからといって筆舌を緩めるのはいかがなものでしょうか。わたしは冠婚葬祭会社の経営者ですが、いくら「我田引水」と思われても、葬式に迷う日本人のために偽わらざる本心を述べたつもりです。わたしは浄土真宗の教義には理解できない部分が多々あります。ぜひ、青木氏に直々に教えていただきたいものです。


佐藤修CWSコモンズにようこそ」より



続いて、「サロンの達人」こと佐藤修さんです。HP「CWSコモンズにようこそ」の「ブック」コーナーに書いて下さいました。
最初に、佐藤さんは以下のように述べられています。
「『葬式は、要らない』『0葬』などで知られる『葬儀不要論者』の島田裕巳さんと、 『葬式は必要!』『永遠葬』を書いた『葬儀必要論者』の一条真也さんが、往復書簡と対談で真正面から論争し、これからの葬儀にあり方を話し合った、とても刺激的な本です。
2人とも、頭だけで考えている人ではありません。いずれも、自らの問題として、真剣にこの問題に取り組んでいる人たちです。私は、これまで島田さんの主張には、耳を傾ける気にさえなっていなかったのですが、この対談を読んで、島田さんがなぜそう考えるようになったかが少しわかったような気がします。同時に、一条さんの思いの理解も少し深まったような気がします。異論をぶつけ合うということの大切さを、改めて感じました。おふたりの真摯な取り組みに敬服します。ちなみに、私は、一条さんと同じく、葬儀や墓に大きな意義を感じています」



しかし、佐藤さんは以下のようにも書かれています。
「ただ、読んでみて感ずるのは、ふたりの意識の大きなずれです。島田さんは、現状を客観的に受け容れながら、そのなかでの最適解を求めようとしています。つまり、関心が現在にある。
一方、一条さんは、現状を批判的に受け止め、何とかそれを変えていこうという姿勢を強く感じます。関心は未来にあると言ってもいいでしょう。時間軸をそろえると、意外と違いは小さいのかもしれません。
視点もやや違います。島田さんは死者の視点、一条さんは残された人の視点に、重点を置いています。もちろん、2人とも、その双方への視野はしっかりとお持ちですが」



さらに、佐藤さんは以下のように書かれています。
「ただ、あきらかに違う点があります。島田さんは『生きている人が死んでいる人に縛られるのっておかしい』と言い、一条さんは、『生きている人間は死者に支えられている』と考えていることです。もっともこれも、もう少し議論を深めれば、つながってくるような気もします。それに、『縛られる』と『支えられる』も、コインの裏表かもしれません。
妻を見送った私は、一条さんの言葉が、心にひびきます。私の人生がまさにそうだからです。『私たちは、死者とともに生きている』という言葉も、私にはとても実感できます。
ただ、島田さんが言うように、死者に縛られている人もいるでしょう」



そして、「迷惑」についてのわたしの発言を引きながら、佐藤さんは以下のように述べられるのでした。
「私は、たくさんの人に迷惑をかけながら生きています。これからもそうでしょう。しかし、同時にたくさんの人たちからも『迷惑』をもらっています。それが私の人生を豊かにしているような気がします。そういう生き方をしているせいか、自分の葬儀のことを考えたことはありません。でも、私の葬儀が家族や友人知人に『迷惑』と同時に、きっと何かの『お役立ち』にもなるのではないかと思っています。そういう生き方でありたいと思っているのです。
『お葬式』をテーマにした話し合いですが、私たちの生き方や死生観に大きな示唆を与えてくれる本ですので、ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思います。そして、自らの生き方を、ちょっと考えてもらうのも、いいのではないかと思います」
佐藤さんの書評には大変勇気づけられました。
本当に、ありがとうございました。


不識庵の面影」より



そして、「一条本」の書評といえば、この人を忘れてはなりません。
不識庵さんが、自身のブログ「不識庵の面影」の記事「葬式に迷う日本人(島田裕巳&一条真也共著)」において、次のように書いています。
「思えば、島田氏が『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)を刊行されてから、既に6年が経過しています。島田氏の同書を通読すれば、島田氏の葬儀観はタイトルとは異なり、葬儀そのものを否定していないことは明白です。しかし、この扇情的なタイトルに目をつけた多くのマスメディアは、興味本位に『葬式不要論』を『流行』として取り上げ、有史以来『葬式という儀式』が担ってきた本質的な意義を熟慮せず、安易な選択を国民に紹介するという大罪を犯し続けています。民意は安きに流れるものとはいえ、この情報操作に対して敢然と立ちあがったのが、一条真也氏であることは周知の事実。『葬式は、要らない』の刊行から間髪入れず、一条氏の『葬式は必要!』(双葉新書)が上梓されたのは記憶に新しいところ。しかし、この警告、啓蒙の書をもってしても世の流れは変えがたく、『家族葬』『直葬』は増加の一途を辿っています」



続けて、不識庵さんは以下のように書いています。
「この安易な風潮を助長するかの如く、2014年に島田氏は『0葬』(集英社)を刊行。前回同様、一条氏は『0葬』に対する反論として『永遠葬』(現代書林)を上梓されます。
一条氏は『永遠葬』で『初期設定を再認識しながら、時代の変化に応じてアップデートさせることで葬儀という儀式は永遠に続く』『葬式仏教の本質はグリーフケア・システムにこそあり』『葬儀は人類の存在基盤であり、儀式は人間の本能である』という論陣を張ります。 
その上で大著『唯葬論』(三五館)において悠久の歴史観から「葬儀とは何ぞや」を学術的視点で提示され、満を持して島田氏との『直接対決』に備えます。まず、お互いの『葬儀』についての主張を論じる往復書簡を経て、NHK討論以来の論戦が繰り広げられます。その対談内容が本書に収録されているのですが、その結末や如何に!」



さらに不識庵さんは以下のように書いています。
「一条氏は島田氏の主張を真摯に傾聴。その上で、島田氏の論旨とご自身の主張の相違点を丁寧に整理しながら、宗教学者としての島田氏の学問的立脚点に焦点を絞っていき、本質的な部分での意見統一を模索されています。『今後の葬儀のあるべき姿』を描いていく対談は読み応え十分です。蛇足ですが、両者の『葬儀観』についての決定的な相違点は『使命感あるやなしや』にあることは言を待ちません」
そして不識庵さんは、「本書を契機に『葬儀とは何か』『親が亡くなったら、どう送るか』『自分の葬儀や墓はどうするか』など、一個人として『死』について真摯に向き合うことで死生観を涵養していくことには大きな意義があるはず」と締めくくるのでした。最後に、不識庵さんは「葬式に迷うことなく日の本を 世界に恥じぬ国となすべし」という道歌を詠まれています。わたしはこれを読んで非常に感激しました。歌も素晴らしい!
不識庵さん、あなたこそ同志です。本当にありがとうございました。
そして、これからも末永くよろしくお願いいたします!


サンレー社員からの読後レポートの一部



そして、同志といえば、なんといってもサンレー社員のみなさんです。
わたしが社長を務めるサンレーでは、同書を紫雲閣スタッフおよび営業スタッフ、約600名に配布し、感想を書いたレポートを集めました。
10月31日、集められた膨大なレポートを、残らずわたしは読みました。現場ならではの発想、お客様の立場からの意見、思いもよらぬアイデアなども書かれており、非常に参考になりました。それぞれ、「この本の内容をどう業務に活かすか」ということについても書かれており、サンレーにとっては大変な知的財産になると思います。深い思索が綴られたレポートの数々を読んで、わたしは、わが社の社員を心から誇りに思いました。


葬式に迷う日本人

葬式に迷う日本人

*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年11月25日 一条真也