五稜郭タワー

一条真也です。
生まれて初めて訪れた函館で、五稜郭タワーに上りました。
107メートルのタワーは、観光都市・函館のランドマークです!


五稜郭タワーを背に

五稜郭タワーにやってきました!

五稜郭タワーの入口で

「日本のタワー」の一覧がありました



公式HPには以下のように書かれています。
五稜郭タワーは、五稜郭築城100年を記念して昭和39年(1964年)年12月に初代タワー(高さ60m)が建造されました。旧タワーは市民や観光客 の皆様の目を通して、41年間に渡り親しまれてきましたが、新タワー完成によりその使命を新タワーに託し、平成18年(2006年)年6月に解体されました。平成18年(2006年)4月1日にオープンした新タワー(2代目)は高さ107m(避雷針郄)」


歴史のロマンを感じます

エレベーターで展望台へ

展望台から見た函館の街

展望台にて



また、公式HPには以下のようにも書かれています。
「展望台から見はるかす函館山津軽海峡、横津連峰の山並み、そして特別史跡五稜郭の大地に輝く星形の眺望がご覧いただけます。
展望台には、五稜郭の歴史が学べる展示スペース『五稜郭歴史回廊』や強化ガラスの床で下が見える『シースルーフロア』、『売店』、『カフェスタンド』などがあります。新タワーでは建物自体が五稜郭に対するこだわりを表現しています。展望台は五角形、塔体の断面も星形を採用、徹底して五稜郭と星形をモチーフにしています」


展望台から見た五稜郭

五稜郭に想いを馳せる



五稜郭タワーの展望台からは、五稜郭がよく見えました。
「日本100名城」というものがあります。これは、財団法人日本城郭協会が設立40周年の記念事業の一環として、2006年4月6日の「城の日」に認定したものです。なんでも、観光地としての知名度文化財や歴史上の重要性、復元の正確性などを基準にして、歴史や建築の専門家などが審査の上で選定したものだとか。ちなみに北海道では、今回訪れた五稜郭のほか、根室半島チャシ跡群(根室市)と松前城松前町)が認定されています。すべて国の史跡に指定されていますが、五稜郭は「国の特別史跡」です。日本史上、重要な存在である五稜郭は西洋式城郭であり、その全貌を俯瞰するために五稜郭タワーがあるのです。


久々に自撮り棒を見ました

素晴らしい眺めでした

土方歳三銅像から肩を揉まれる



さて、五稜郭を語るには、築城当時の時代背景を知る必要があります。
ご存知のとおり、嘉永6年(1853)のアメリカ合衆国からペリー艦隊が来航、いわゆる『黒船来航』ですが、その翌年に「日米和親条約」が締結され、伊豆の下田と蝦夷地の箱館(江戸時代までは「函館」は「箱館」と表記されていました)が「開港場」となるのです。
五稜郭についても、公式HPでは、
五稜郭の歴史」として、以下のような詳細な説明が掲載されています。
「開港を前にした徳川幕府は、開港場となる箱館での外国との交渉や蝦夷地の防衛などを担当する『箱館奉行』を配置したが、その役所や役宅が密集した市街地にあることや港に近く寒気が厳しいなどの生活環境、並びに上陸した外国人による市街地の遊歩に伴い役所が見透かされるといった幕府の威厳の問題、そして港に至近の位置のため艦船からの標的になりやすいといった防衛上の危機感などの理由から、役所、役宅ともに内陸の平坦地へ移転させることとなった。移転に際しては、四方に土塁を巡らした中に役所を建設し、附近の河川から水流を引き込み、周囲を水堀で囲む形態が計画された」


五稜郭物語」

歴史を人形で再現



「当時、箱館には、幕府による蝦夷巡検に同行し、その後、箱館奉行支配下となった『蘭学者』武田斐三郎が在勤していたが、幕府は、移転計画にある役所の外郭施設である土塁の設計を武田に命じた。武田は箱館に入港していたフランス軍艦の軍人からの情報・教授をもとに、ヨーロッパで発達した『城郭都市』をモデルとした土塁を設計した。これは、近世ヨーロッパに於いて銃や大砲などの火器の発達に対抗するために考案された土木技術で、武田は、フランス軍人からの助言に従い、さらに独自の工夫も加えたものである。
安政4年(1857)に着工した築造工事は、堀・石垣などの土木工事、附近の河川から水流を引き込むための治水工事、土塁内への役所や附属施設の建築、土塁北側一帯への役宅の建築などが進められ、ほぼ工事が完成した元治元年(1864)、箱館山の山麓市街地にある旧役所が移転し、『箱館御役所』として蝦夷地の政治を担う場所となった。現在、一般的に使われている『五稜郭』という呼称は、近世ヨーロッパ式城郭に特徴的な構造である『稜堡』が五か所設置されている五稜星形の平面形状からの通称であり、また、当時の築造場所の地名『柳野』から『柳野城』という別称もあった」


1階にも土方歳三銅像がありました

かなりのイケメンです!

もちろん銅像の真似をしましたとも!



黒船来航を契機に日本は明治維新へと歴史の大きな転換を迎えることになりますが、ここ五稜郭を舞台として新政府軍と旧幕府軍が激戦を繰り広げます。いわゆる「箱館戦争」ですね。新撰組副隊長であった土方歳三も、この戦いに参戦し戦死しています。
この箱館戦争について、ウィキペディア「五稜郭」では次のように説明しています。
大政奉還の後、新政府により箱館府が設置されると、五稜郭は、1868年(慶応4年)閏4月に箱館奉行・杉浦誠から箱館府知事・清水谷公考に引き渡され、箱館府が引き続き政庁として使用した。同年10月21日に榎本武揚率いる旧幕府軍が鷲ノ木(現在の森町)に上陸。箱館府は迎撃したものの各地で敗北、10月25日に清水谷知事が箱館から青森へ逃走し、10月26日に松岡四郎次郎隊が無人となった五稜郭を占領した。当時の五稜郭大鳥圭介によれば『胸壁上には二十四斤砲備えたれども、射的の用には供し難し』『築造未だ全備せず、有事の時は防御の用に供し難き』という状態であったが、旧幕府軍は冬の間に、堤を修復し大砲を設置、濠外の堤や門外の胸壁を構築するなどの工事を行い、翌1869年(明治2年)3月に完成させた。同年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃の際には、五稜郭に備え付けた大砲で七重浜および箱館港方面に砲撃を行っている。しかし新政府軍に箱館市街を制圧され、翌12日以降、甲鉄が箱館港内から五稜郭に向けて艦砲射撃を行うと、奉行所に命中した砲弾により古屋佐久左衛門らが死傷。また、新政府軍は各所に陣地を築き大砲を並べ五稜郭を砲撃したため、旧幕府軍は夜も屋内で寝られず、石垣や堤を盾にして畳を敷き屏風を立てて凌ぐ有様であった。その後、5月15日に弁天台場が降伏、16日には千代ヶ岱陣屋が陥落し、新政府軍から五稜郭へ総攻撃開始が通知され、衆議により5月18日に榎本らが降伏して五稜郭は新政府軍に引き渡された」


銅像を真似る

銅像に学ぶ

銅像を真似る

銅像に学ぶ



ブログ「姫路城再訪」で紹介した名城の改修工事、松江城の国宝指定など、いま日本は城ブームに沸いています。しかし、ブログ「熊本城」で紹介した名城は今回の熊本地震で甚大な被害を受け、観光収入が大幅にダウンしました。一説には500億円もの修復費用がかかるとも言われていますから、まさにダブル・パンチです。日本三大名城ともいわれる熊本城は地元の方々の「誇り」であるだけに、一日も早い復興を祈らずにはおれません。


函館戦争供養塔にて



いま、各地の城において「熊本城復興支援」のために義援金を募る募金箱が置かれ始めているそうです。まさに城同士の「相互扶助」活動ですが、災害を契機に「人と人のつながり」が強くなるような気がします。
「相互扶助」を根本理念とする互助会もかくあるべし! 業界団体の保守本流である全互連会長として、熊本地震で被災された皆様に対して可能な限りの支援をしなければならない。五稜郭タワーから遥か彼方の熊本の方角を見つめながら、そんなことを考えました。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年5月13日 一条真也