姫路城再訪

一条真也です。
姫路に来ています。今日はこの地で全互連の中部ブロック研修会が開催されるのです。早めに姫路入りしたわたしは、「天下の名城」として知られる姫路城を訪れました。2日の姫路は雲ひとつない好天です!
ブログ「姫路城」に書いたように、わたしは2012年6月に姫路城を訪れています。しかし、ちょうど大天守保存修理中ということもあり、白亜の大天守の雄姿を観ることができなかったのです。


早朝、姫路城を訪れました

素晴らしい好天に恵まれました

雲ひとつない好天でした

史蹟姫路城



ようやく昨年3月に5年半に及ぶ「平成の大修理」を終えた姫路城ですが、通称の「白鷺城」をもじって「白すぎ城」と揶揄された報道は記憶に新しいところ。しかし、何といっても国宝にして世界文化遺産の名城です。
昨年12月9日付の神戸新聞NEXTには「姫路城の入城者数、日本一に 熊本城の記録抜く」という見出しで次のような記事が掲載されています。
世界文化遺産・国宝姫路城(兵庫県姫路市)の2015年度の入城者数が9日、222万人を突破し、日本の城郭の年間入城者数で過去最多を記録した。これまでの最多は、熊本城(熊本市)が08年度に記録した221万9517人だった。姫路城は約5年半にわたる『平成の大修理』を3月下旬に終え、かつての輝きを取り戻した。「白鷺(しらさぎ)城」をもじり“白すぎ城”などと話題になり、国内外から観光客が殺到。本年度は、市の想定より約1カ月早く7月に100万人を達成し、11月に200万人を超えた。来年3月末までに250万人を見込む。
市によると、姫路城のこれまでの最多は、『昭和の大修理』直後の1964年度の174万人。天守が国宝5城(姫路、松本、彦根、犬山、松江)では最も多かったが、熊本城や名古屋城大阪城などに大きく離されていた。市姫路城管理事務所などは10日から、城大手門や大手前通りに、新記録達成を祝う横断幕やのぼりを設置する。(三島大一郎)」


「白すぎ城」と呼ばれているとか

世界遺産姫路城

国宝姫路城

官兵衛ゆかりの石垣



「白すぎ城」の見頃について、2015年10月24日付の日経WEST「見頃は適度に汚れた半年後あたりか」という記事によれば、「昭和39年の大天守も白さが際立っていた。大天守が解体修理された「昭和の大修理」(31〜39年)が終了し、今の大天守のように光り輝いていたという。だが、当時を知る市民からは『(工事終了から)1〜2年後の姫路城が一番美しい』とよく聞かされた。雨露にさらされ、適度に“汚れた”姿が風情と風格を高めるからだとか・・・。その光景は、42年に公開された映画『007は二度死ぬ』で確認できる」とのことです。
なるほど・・・わたしは運よく見頃に訪れることになりますね。


本当に美しい!

世界遺産姫路城」の案内板

いざ、天守閣へ!

長い階段を上がって・・・



姫路城公式HPには次のようなイントロダクションが掲載されています。
「国宝姫路城は平成5年12月、奈良の法隆寺とともに、日本で初の世界文化遺産となりました。シラサギが羽を広げたような優美な姿から『白鷺城』の愛称で親しまれる姫路城。白漆喰総塗籠造りの鮮やかな白の城壁や5層7階の大天守と東、西、乾の小天守が渡櫓で連結された連立式天守が特徴です。今、私たちが目にしている姫路城の大天守は、慶長14(1609)年に建築されたもの。400年以上が経過した現在でも、その美しい姿を残しています」


天守閣が近づいてきます

頭上注意!



慶長14年といえば、なんと大坂夏の陣の前に建築された大天守ということです。徳川家康が見聞したかどうかは寡聞にして知りませんが、その歴史の古さ、威容から日本随一といっても過言ではないでしょう。
周知のとおり、天下人であった信長の安土城、秀吉の大坂城、家康の江戸城天守は現存していません。


天守閣入口で



ちなみに、姫路城が世界遺産に登録された理由は主に2つあります。
1つは、その美的完成度が我が国の木造建築の最高の位置にあり、世界的にも他に類のない優れたものであること。
もう1つは、17世紀初頭の城郭建築の最盛期に、天守群を中心に、櫓、門、土塀等の建造物や石垣、堀などの土木建築物が良好に保存され、防御に工夫した日本独自の城郭の構造を最もよく示した城であること。


天守閣内にあるジオラマ



また、公式HPでは、姫路城が「日本一の名城」たる理由として次の3点を挙げています。
1.巧妙な螺旋式縄張
お城の要塞としての機能性は、縄張(設計、構成、仕組み)のよしあしで決まります。姫路城の縄張は、抵抗(防御)線が3重の螺旋形になった複雑巧妙なもの。これは江戸城と姫路城にしか類例のない形式です。


天守閣内のようす



2.美しい連立式天守
5重6階(地下1階を含めて7階)の大天守と3つの小天守が渡櫓(わたりやぐら)でつながり、幾重にも重なる屋根、千鳥破風(はふ)や唐(から)破風が、白漆喰総塗籠造(しろしっくいそうぬりごめつくり)の外装と相まって、華やかな構成美をつくっています。


急な階段を上って・・・



3.昔を伝える「不戦・不焼の城」
姫路城はその400年の歴史の中で、戦にまみえることなく、近代の戦災に遭うこともなかった、たぐいまれな城です。その結果天守や櫓、門などの保存状態が非常によいうえ、ほかに類例のない遺構も多く、極めて貴重な文化遺産となっています。


天守の最上階で

望遠鏡で姫路城下を覗く



とまあ、専門的な解説はともかく、百聞は一見に如かず。
もう、これは「凄い」の一言ですね。まるで江戸時代にタイムスリップしたような空間とでもいえばいいでしょうか。
また、「姫路城大発見アプリ」なる専用アプリによる解説イメージが導入されています。
城内では、AR(拡張現実感)やCG(コンピューターグラフィックス)を活用した新たな展示・解説が愉しめます。専用アプリをダウンロードして、城内のスポットでスマートフォンタブレット端末をかざすと、動画や写真と共に詳しい解説が現れるのです。
いや〜これはたまりませんね。大天守をはじめ建築物が数多く残っていて見応え十分にもかかわらず、さらに入場者(入城者?)を楽しませようというエンターテインメントは感動ものです。


長壁(刑部)神社

神社に参拝しました



さて、ここで姫路城の歴史について公式HPを参考にしながら概観しておきましょう。姫山の地に初めて砦が築かれたのは1333年、赤松氏の時代といわれています。以来、13氏・48代が城主を務め、戦火に遭うことなく今日に至っています。応仁の乱を経て、赤松氏の一族であるの小寺氏、その重臣の黒田氏が城を預かることになります。NHK大河ドラマ軍師官兵衛」で全国に名をはせた黒田官兵衛も城主を務めた時期もありますたが、官兵衛は西国統治の重要拠点として豊臣秀吉(当時は羽柴姓)に姫路城を秀吉に献上しています。慶長5年(1600)の関が原の戦の後、池田輝政が城主となり、その後、本多忠政が拡張していき、今日のような全容が整ったのは戦乱の世が落着いた1617年頃といわれます。
その後、松平家、榊原家、酒井家が治め、明治維新を迎えます。


天守の最上階

急な階段を下って・・・

天守閣を満喫しました

天守閣を出ると、良い眺め・・・



「姫路」の名の由来についても、公式HPで次のように紹介しています。
「『姫路』の名は、播磨国風土記に出てくる『日女道丘』からきています。神代の昔、大汝命(おおなむちのみこと)は、その子火明命(ほあかりのみこと)があまりに乱暴者なので、海へ出た際、捨ててしまおうと島に置き去りにして船出。ところが、船が出てゆくのに気づいた火明命は大変怒り、風波を起こして船を難破させてしまいました。
その時、船や積み荷などが流れ着いた場所に『船丘』『犬丘』『筥(はこ)丘』『琴丘』など14丘の名が付けられましたが、その一つ、蚕子(ひめこ)の流れ着いたところが『日女道丘(ひめじおか)』で、現在姫路城のある『姫山』であるとされています。『蚕子』は古語で『ひめじ』といいました。
地名としての『姫路』という呼び方は、江戸時代初期、池田輝政が姫路城を築き、城下町を整備した当時の文献に見られます」


この角度から見ても美しい!

お菊井戸

扇の勾配

人は石垣、人は城・・・



地名に歴史ありですね。やはり冠婚葬祭に従事するものとしては「いにしえ」に想いを馳せながら今日を考えることが大事ではないでしょうか。
この姫路城には「榊原騒動」「棟梁・桜井源兵衛の死」「お菊井戸」「姥が石」「宮本武蔵の妖怪退治」「お夏・清十郎」など、さまざまな伝承が残っているのも魅力のひとつかもしれません。


出口にて・・・

「天下統一」のガチャポンがありました



出口を出ると売店があり、「天下統一」のガチャポンが売られていました。「天下一」の名城を眺めながら、「天下統一」そして「天下泰平」を実現した徳川家康同様、「天下布礼」の実現こそが、わが悲願であることを再認識した次第であります。


素晴らしい名城でした!



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年3月2日 一条真也