平等院

一条真也です。
世界遺産平等院を訪れました。
じつに、10年ぶりの訪問であります。


平等院にやってきました

10年ぶりの訪問でした


公式HPには、以下のように平等院の沿革が記されています。
「永承7年(1052)、時の関白藤原頼通が、父 道長より譲り受けた別業を仏寺に改め、平等院としました。この年は末法初年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。その翌年の天喜元年(1053)には阿弥陀堂鳳凰堂)が落慶し、堂内には、平安時代の最高の仏師定朝によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされています。約1000年前に建立された建造物や仏像が今に伝えられ、世界遺産にも登録されております」


012年9月、平等院鳳凰堂は修理のために内部拝観を停止しました。拝観が再開されたのは2014年4月です。1回50人に制限して実施される鳳凰堂の内部拝観は休日などは最大で約3時間待ちも珍しくないそうです。おかげさまで、今日はほとんど待ち時間がありませんでした。


平等院鳳凰

鳳凰堂の前にて

鳳凰堂を左側から眺める

鳳凰堂を右側から眺める



終戦60周年に思う 月面聖塔は地球の平等院」に書いたように、わたしは2005年8月に平等院を訪れました。今年は終戦70周年ですから、じつに10年ぶりの訪問となりました。平等院は11世紀に藤原氏によって建てられた宗教建築ですが、平安時代における最大のベストセラーであった源信の『往生要集』の記述を参考に、あの世の極楽を三次元に再現したものでした。貴族から末端の民まで、老若男女はみんな平等院を訪れて、水面に浮かぶ鳳凰堂の影にリアルな極楽浄土の夢を見たのです。平等院はもともと、藤原道長の別荘としてつくられたそうですが、その道長はこの世の栄華を極め、それを満月に例えた有名な歌を残しています。


この世をば わが世とぞ思ふ望月の 
      欠けたることも なしと思へば(道長


まさに、平等院こそは日本人の美意識のエキスが凝縮した時代である平安時代に出現した奇跡のバーチャルな極楽でした。「死は最大の平等である」と信じるわたしは、宇治にある「日本人の平等院」を超え、月の下にある地球人類すべての霊魂が帰る「地球人の平等院」を今世紀につくらねばならないと思いました。そして、鳳凰堂の前でこの歌を吟じました。
翌日の3月11日は、東日本大震災の4周年の日です。この日ために震災の犠牲者の方々に対して鎮魂の祈りを捧げ、次の歌を詠みました。


天仰ぎ あの世とぞ思ふ望月は
    すべての人が かへるふるさと(庸軒)



ミュージアム「鳳飛館の前で」

鳳凰堂内の阿弥陀如来像(ポストカードより)

源三位頼政公の墓

頼政公の墓をお参りしました



第二次世界大戦では、310万人の日本人が亡くなりました。
世界ではなんと約5000万人もの人々が亡くなっているのです。その中には、アウシュビッツなどで殺された約600万人のユダヤ人も含まれています。その人々の魂はどこに帰るのか。


10年前、わたしは映画「ヒトラー 最期の12日間」を観て、本当に心の底から哀しくなりました。この映画は戦後最大のタブーであった「人間ヒトラー」を描いたものですが、悪魔の象徴のように思われているヒトラーナチスの人々にも他人への愛情が存在したことを知って、たまらない気持ちになりました。なぜ、家族や同胞を愛する心を持っている者が敵に対しては冷酷になれるのだろう。なぜ、「思いやり」ではなくて「憎しみ」なのだろう。なぜ、同じ地球に住む同じ人間同士なのに、殺し合わねばならないのか?



ホロコーストが行なわれたアウシュビッツの夜空にも、ヒトラーが自殺して陥落したベルリンの夜空にも、真珠湾満州や南京の夜空にも、月が浮かんでいたことでしょう。戦災に遭わなかった金沢にも、ひどい戦災に遭った沖縄にも、原爆が落とされた広島や長崎にも、落ちなかった小倉にも、夜空には月が上り、ただただ慈悲の光を地上に降り注いでいたはずです。 


天仰ぎ あの世とぞ思ふ望月は すべての人がかへるふるさと



サンレーグループでは、月に地球人類の墓標としての「月面聖塔」を建立するムーン・ハートピア・プロジェクトを推進しています。一つの月の下に一つの地球ということで、死者の平和と生者の平和について突き詰めて考えると、月面聖塔こそは「地球の平等院」であることがわかります。サンレーグループは今後も、地球に住む全人類にとっての慰霊や鎮魂の問題をこれからも常にとらえ、かつ具体的に提案していきたいと思います。


*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年3月10日 一条真也