『マザー・テレサ 愛のこころ最後の祈り』

新装版 マザー・テレサ 愛のこころ最後の祈り


一条真也です。
『新装版 マザー・テレサ 愛のこころ最後の祈りベッキー・ベネネイト編集、アンセルモ・マタイス/奥谷俊介翻訳(主婦の友社)を再読しました。


「生誕100年記念」「待望の復刊!」と書かれた本書の帯



1910年生まれのマザー・テレサは2010年に「生誕100周年」を迎えましたが、それを記念して復刊されたマザー・テレサの名言集です。旧版は1997年に刊行されています。本書のブルーの帯には、「生誕100年記念」「待望の復刊!」「今、この時代だからこそ、心をとらえてはなさない宝物のようなマザー・テレサの言葉」と書かれています。



本書は、「訳者まえがき」、第一部「思想」、第二部「逸話」、第三部「祈り」という構成になっています。「訳者まえがき」の冒頭で、スペイン生まれで上智大学の副学長を務め、現在は同大学の名誉教授であるアンセルモ・マタイス氏が次のように述べています。
「1997年9月5日、マザー・テレサは天に召された。享年、87歳。
異教徒にもかかわらず、インドで国葬になり、世界じゅうが弔意を表したことを思えば、キリスト教のシスターというだけではなく、宗教や民族をこえた大きな人物であったことがわかる。大きな敬意をいだかせながら、自然にマザーと呼べる親しみがあった。あれほど、マザーの名にふさわしい人は、そう多くはいないだろう。マザー・テレサのマザーは、修道院長としての称号というよりも、世界の『お母ちゃん』としての愛称だったのだ」



マタイス氏は、マザー・テレサ人間性について、次のように述べています。
「だれに対しても態度は同じだった。いや、社会から見捨てられた無力な人であればあるほど、イエスが身をやつした姿だとしてかばい、より多くの愛を注ぐのだった。最も貧しい人こそイエスその人なのだ、というキリスト教の信仰が、だれよりも深く顕現されていた」



「訳者まえがき」の最後には、マザー・テレサが語った言葉について、マタイス氏は次のように述べています。
「マザーの生の言葉が、わたしたちを強くひきつけるのは、マザーその人自身に迫力があったからにほかならない。真実の迫力である。本物であれば、言葉にレトリックなどなくても、人をひきつける磁力が備わるのだ。知行合一というか、その言葉のすべてが現実の行動に裏打ちされている。それが力の源だ。
人工妊娠中絶に反対するときは、ただ神の愛の理想や倫理から説教するだけではない。『その子どもをわたしにください』と言って、実際に、そのとおり子どもを引きとって育てている。そこにこそ、本物の力が宿るのである」


それでは、本書で語られているマザー・テレサの名言の中から、特にわたしの心に強く残った10の言葉を紹介したいと思います。以下の通りです。




ほんのちょっとしたほほえみがどれだけ役に立つのか、その力ははかりしれません。




世界にはたくさんの苦しみがあります。ほんとうに、とてもたくさん。物質的な苦しみは、飢餓や家のない苦しみをはじめ、さまざまな病気などからもたらされます。しかし、最も大きな苦しみは、やはり孤独です。愛されていないと感じること、だれひとり友がいないということなのです。どんな人間にとっても最もひどい病は、自分がだれにも必要とされていない存在だと感じることです。それを、ますますわたしは実感するようになりました。




きのうは去りました。あすはまだ来ていません。わたしたちにはただ、きょうがあるのみ、さあ、始めましょう。




聖ボナベントゥラによれば、喜びが人間に与えられたのは、神を喜ぶことができるようにするためなのだそうです。永遠の幸福と、神から授かるすべての恵みを喜ぶことができるようにするためなのです。このようにして、人は隣人の繁栄を喜ぶこともできるようになります。他人の苦しみに同情するより、隣人の成功を喜ぶほうがむずかしいのです。そしてまた、喜びが感じられないような空虚なものごとに関しては、不満を感じるようにもなるでしょう。



 
黙想とはなんでしょうか? イエスのいのちを、わたしたちの中に体現させることです。わたしは、このように理解しています。つまり、イエスを愛すること――イエスのいのちをわたしたちの生活の中に示し、イエスのいのちの中に、わたしたちのいのちをあらわすことです。それが黙想なのです。ものごとを理解するには、清らかな心をもたなければなりません。ねたみ、怒り、争い、特に無慈悲な心をなくさなければならないのです。




愛されていないと感じることは、とても恐ろしい病気です。あらゆる病気の人のために、多くの薬と治療法がありますが、愛されていないと感じる病気にとっては、親切な手や、また、惜しみない心が与えられなければ、どんな治療方法もありえないと思います。




大きなことをできる人たちはたくさんいます。でも、小さなことをしようとする人は、ほんのひと握りしかいないのです。




「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたもお互いに愛しあいなさい」というイエスの言葉は、わたしたちの光となるだけではなく、わたしたちの自我を焼きつくす炎でもあるはずです。愛が存続するためには、犠牲、特に自己犠牲によってはぐくまなければならないのです。




多くの人たちが、ひとかけらのパンさえなくて死んでいきます。さらに多くの人たちが、ほんの少しの愛さえ得られずに死にます。
苦しむあなたに、わたしはしばしば思いをはせます。わたしたちは、自分たちの苦しみを神にささげています。しかし、あなたの大きな苦しみの前では、わたしの小さな苦しみなどとるに足りません。だからこそ、わたしは、そんなにも深く苦しまれるあなたに仕えることによって、この身をいけにえとしてささげようと思うのです。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2014年4月21日 一条真也