『プロレス入門Ⅱ』

プロレス入門IIースーパースター、レジェンドたちの136の物語

 

一条真也です。
北海道地震の犠牲者は35人になりました。
犠牲者の方々の御冥福を心よりお祈りいたします。
『プロレス入門Ⅱ』斎藤文彦著(ビジネス社)を読みました。
本書はブログ『プロレス入門』で紹介した本の続編です。前作のサブタイトルは「神がみと伝説の男たちのヒストリー」でしたが、本書のサブタイトルは「スーパースター、レジェンドたちの136の物語」です。ブログ『ブルーザー・ブロディ 30年目の帰還』で紹介した本を今年発表した著者は、1962年東京生まれのプロレス・ライターです。以前、「週刊プロレス」でコラムを書いていました。奥様(事実婚)は精神科医香山リカ氏だそうです。これは初めて知りました。

 
プロレス入門

プロレス入門

 

 

150年にわたる日米プロレス史を紐解いた『プロレス入門 歴史編』といえる前作の装丁は真っ赤でしたが、プロレスラーたちへのインタビュー集である本書は鮮やかな青一色となっています。赤は「燃える闘魂」、青は「闘いの大海原」を連想しますね。そう、わたしは昭和の新日本プロレスを愛する者であり、筋金入りの「猪木信者」であります。猪木さん、車椅子に乗って北朝鮮を訪れていましたね。どうか、偉大な燃える闘魂」の晩節を汚してほしくないものです。



本書の帯

 

やはり青の帯には「プロレス史『人物編』」として、ジャイアント馬場アントニオ猪木ハルク・ホーガン、スタン・ハンセン、ベイダー、武藤敬司三沢光晴前田日明藤波辰爾小橋建太鈴木みのる、髙山善廣、TAJIRI、ブレット・ハートサブゥークリス・ジェリコブル中野ニック・ボックウィンクルスティーブ・ウィリアムスクリス・ベンワーダスティ・ローデス、ロディ・バイパー、ジミー・スヌーカ・・・・・・といったプロレスラーたちの名前が並び、「伝説のレスラーの生きざま、生の言葉を大公開!!」と書かれています。



本書の帯の裏

 

また帯の裏には、以下のように書かれています。
アントニオ猪木はどうなってるんだ?
スーツを脱いでタイツとシューズをはく気はあるのか?」
――ハルク・ホーガン
「プロレスにはこういう“欠点”があるんだけど、
それでも結婚してくれますか、という感覚」
――武藤敬司
「そんなものにトライして、
レスラーが負けて帰ってくるのはイヤだな
――“ストーンコールド”スティーブ・オースチン
三沢光晴、彼こそはベストレスラー。
日本のプロレス史の中で間違いなくベストレスラーだろう」
――ベイダー
「馬場さんが『休め』といって、ぼくが『休みません』と。
押問答じゃないですけど、そんな感じになった」
――小橋建太
「レスラーはみんな、リングのなかでいっしょに歴史を作っているんだ」
――ニック・ボックウィンクル
「痛くないのって聞かれるけど、もちろん痛いですよ。
でも、そこでやめちゃうとお客さんが楽しくないでしょ」
――ハヤブサ


 

本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「はじめに」
第1章 ボーイズはボーイズ Boys Will Be Boys
    〈日本人レスラー編〉 
第2章 ボーイズはボーイズ Boys Will Be Boys
    〈外国人レスラー編〉
第3章 ガールズはガールズ Girls Will Be Girls
    〈女子プロレス編〉
第4章 トリビュート Tribute〈天に召されたスーパースターたち〉
「おわりに」
「人物索引」


 

本書は、なんと700ページ以上あります。
膨大な数のプロレスラーへのインタビューや追悼記事などが掲載されており、それらが書かれた時期もバラバラです。本書の全貌を紹介するのは到底不可能ですので、「プロレスとは何か」というテーマに触れられているレスラーの発言、いわばプロレスの本質論を以下にピックアップしたいと思います。



「オレも子どもを持つ親なんだけど、ガキってさ、観だしたらすぐにプロレスに興味持っちゃうよ。格闘技の番組とかみせても、子どもたちは興味を示さない。でも、プロレスには食いついてくる。プロレスってバラエティに富んでるでしょ。技術論だけでやってないでしょ。そのへんもプロレスの潜在力なのかな」――武藤敬司


「いまこのプロレスというビジネスでなにがいちばん困ることかといったらね、勝ち負けがどうでもいいものになってることだよ。昔はね、勝ち負けのリスクがすごくあったよ。もしかしたらね、オレが中邑真輔からベルトを獲った試合はね、最近の(試合の)なかではその勝ち負けのリスクという部分がすごく注目された試合だったのかもしれない。そこがファンの心をくすぐったのかもしれない。あれー、どっちが勝つんだろうって」――武藤敬司



「(総合格闘技、プロ格闘技というジャンルが誕生して、それが大ブームになった)その影響は大きかったと思いますよ、オレも。だけど、プロレスってね、こう考えればいいんじゃないかと思うんです。・・・・・・ずっと恋愛しててね、(プロレスには)ほんとうはこういう“欠点”があるんだけど、それでも結婚してくれますか、という感覚。生い立ちはこうですけれど、そういうのをわかったうえで、結婚してくれますかって。それで結ばれたふたりの愛って、ものすごく強いと思う」――武藤敬司


「シュートファイトで負けたレスラーは、レスラーとしての人気も落ちるよ。これははっきりしている。きのうもファンとしゃべる機会があったんだけど、シュート・ファイトも観るし、プロレスも観るといっていた。オレもそのへんはどうなっているのか知っておきたかった。シュート・ファイトが人気があるならそれはそれでいい。でも、プロレスはずっとつづくよ。Always gonna be around.プロレスのほうがベターに決まってるじゃないか」――ストーンコールド

 

アンドレ・ザ・ジャイアントがいた。アブドーラ・ザ・ブッチャーがいた。ヘイスタック・カルホーンがいた。わたしのようにマスクをかぶった正体不明の男がいた。観客はなにを求めていたのか。それはミスティーク mystique (神秘性)だ。レスリングとは、そういう不思議なクオリティー=質を現実のものとして観客に提供する芸術なのです」――マスクド・スーパースター

 




「MMA(ミックスト・マーシャルアーツ)は好きになれない。バーのケンカのようなものをそのまま観客に提供しているだけのショー。レスリングがショーだというのなら、MMAもジャスト・アナザー・ショーだ」――マスクド・スーパースター



「MMAはケージ(金網)を使うのに、試合中に金網そのものを攻撃に利用する選手はいない。生きるか死ぬかの闘いであるならば、なんでもありの競技であるならば、そこにある金網を“凶器”として巧みに操る選手がひとりくらいいてもいいはずなのに、なぜかそういうシーンはない。それはルールで認められていない、というのは説明としては不十分でしょう。レスリングにも金網マッチはありますが、金網は対戦相手の顔面をこすりつけるために使われます」――マスクド・スーパースター

 「シリアスでハードなレスリングをみせてもお客さんがまったく集まらないこともあれば、こんな茶番みたいなことをやったらイカンというような試合にワーッと人が群がったり、ベビーフェイスとしてやっていたときは鳴かず飛ばずだった選手が、ヒールに転向したとたん人気者になってしまったりね。まったくもって、プロレスは気まぐれな生き物なのだ。わたしほどのベテランになっても、飼い慣らすのは容易なことではない」――ニック・ボックウィンクル


「この難解さがプロフェッショナル・レスリングのおもしろさだ。だから、いったんプロレスという職業を選んだ者は、もう抜け出すことができないのだ。一種のドラッグのようなものだね。プロレスラーは傑出したアスリートであると同時に、エンターテイナーでなければならないし、またリングを降りれば一流のビジネスマンでなkればならない。このうちひとつでも欠けていたら、トップの座には立てない」――ニック・ボックウィンクル

 「オレたちだって、殴られりゃあ痛いし、リングの上じゃあイイ格好ばかりもできない。強いていえば、お金をたくさんもらえることくらいかな。アメリカン・スタイルがどうの、日本のスタイルがどうのなんていう人たちがよくいるけど、オレにいわせれば、アホかっちゅうの。オレらレスラーが体張って、いいレスリングをやれば、お客さんは喜ぶってことよ。プロなんだから、お客に喜んでもらえないファイトをしてたんじゃ通用しない」――上田馬之助


 

それでは、著者自身の考える「プロレス」とは?
「おわりに」で、以下のように書いています。
「プロレスとはいったいなんなのか。いささか大げさな表現になってしまうが、プロレスとは、肉体と精神のボーダーレスな領域、プロレスラーとプロレスファンだけがたどり着く言語を必要としないコミュニケーション領域なのではないだろうか――。だからこそ、プロレスというものをもっとよく知り、もっともっと理解を深めていくためには、プロレスのヘリテージ heritage (文化的遺産、歴史と伝統)について学ぶことが重要なのだ、とぼくは考える」


 

それにしても、歴史編・人物編の2冊が揃って前代未聞の「プロレス入門」が誕生しました。正直言って、本書は『プロレス入門』というタイトルよりも、『プロレス問答』とか『プロレスラー入門』などとしたほうがふさわしかった気もしますけど・・・・・・。
最後に出てくるエピソードの1つですが、ジミー・スヌーカジョー山中内田裕也が六本木のイタリアン料理店「チャールストン・アンド・サン」で意気投合し、深夜に「観客論」について語り合ったという話が良かったですね。

 

プロレス入門IIースーパースター、レジェンドたちの136の物語

プロレス入門IIースーパースター、レジェンドたちの136の物語

 

 

2018年9月8日 一条真也

「SUNNY 強い気持ち・強い愛」

一条真也です。
はてなブログに移転して、最初の映画記事です。
想定外の事態で法令試験を来月受けることになり、ここのところ勉強をしています。他人が1年半かけてする勉強を約1ヵ月で仕上げなければなりません。
毎日、字の小さい法律書と首っ引きなので、たいそう疲れます。「このままでは心が悲鳴を上げてしまう」と思い、強い気持ちを得るために日本映画「SUNNY 強い気持ち・強い愛」を観ました。

 

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『サニー 永遠の仲間たち』を、『モテキ』シリーズや『バクマン。』などの大根仁監督がリメイクした人間ドラマ。舞台を韓国から日本に移し、仲の良かったコギャルたちの22年後の姿を、1990年代の音楽やファッションを交えて描く。40歳の主人公とその高校生時代を『アンフェア』シリーズなどの篠原涼子と『ちはやふる』シリーズなどの広瀬すずが演じるほか、小池栄子ともさかりえ渡辺直美池田エライザ板谷由夏らが出演する」

 

ヤフー映画の「あらすじ」には、こう書かれています。
「夫と高校生の娘と暮らす40歳の専業主婦、阿部奈美(篠原涼子)は、日々の生活に空しさを感じていた。一方、独身で39歳の社長・伊藤芹香は、ガンで余命1か月を宣告されてしまう。およそ22年ぶりに再会した芹香にもう一度みんなに会いたいと告げられた奈美は、ある事件が原因で音信不通になった仲良しグループ“SUNNY(サニー)”のメンバーを捜そうとする」

 

わたしの自宅のPCには、なぜか「広瀬すず」と名乗る人物がつぶやいたツイートがよく送られてきます。彼女のフォロワーになった覚えはないし、わたしはツイッタ―というものが基本的に嫌いなので、誰のツイートもフォローしていないのですが、まあ「広瀬すずなら可愛いから、このままでいいか」ということで、彼女のつぶやきをいつも読まされています。最近は、この「SUNNY 強い気持ち・強い愛」の話題がよく出てきます。この映画を観て感動したという人の感想をリツイートしたものが多いのですが、それらを読んでいるうちに「そんなに泣ける映画なの?」ということで、映画館に足を運びました。

 

観終わった感想は、「ああ、面白かった!」、そして「泣けたあ!」です。わたしは6回泣きました。この映画、想像を遥かに超えた感動作でした。
韓国のヒット映画のリメイクということで、「安易な商業主義ではないか」と最初は思ったのですが、日本の90年代の仇花ともいえるコギャル文化に置き換えたところはナイスでした。茶髪にガングロ、ルーズソックスのコギャルを改めて見ると、「こりゃ無敵だな」と思ってしまいますね。個人的には苦手ですが・・・・・・。

 

それに、この映画にはオザケン安室奈美恵などの90年代ヒットソングがふんだんに盛り込まれているので、当時オリジナルを熱く支持した人たちは感涙モノだったのではないでしょうか。わたしの場合は、22年前の1996年といえばすでに33歳でしたので、大人の1人として90年代後半の文化は遠巻きに見ていました。これが広末涼子が主演した「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」の時代背景のようにもう少し前の90年代の初期であれば、わたしのハートにもヒットしたでしょう。

 

役者たちの演技は、どれも素晴らしかったです。
広瀬すずをはじめ、篠原涼子小池栄子ともさかりえ渡辺直美板谷由夏・・・みんな良かったです。女子高生・広瀬すずが22年の歳月を経て、専業主婦・篠原涼子に成長する。最初は無理があるかなとも思いましたが、どうしてどうして、映画では見事に2人で同一人物を演じていました。ともに演技力があるがゆえでしょうが、ちょっと雰囲気も似ていると思いました。自分の高校生時代を広瀬すずが演じると知ったとき、篠原涼子は「広瀬すず似の整形して下さい」などと発言して笑いを取っていましたが、彼女の若い頃も非常にチャーミングでした。 

 

篠原涼子の高校生時代を演じた広瀬すずだけでなく、小池栄子ともさかりえ渡辺直美板谷由夏らの高校生時代役の子たちもよく雰囲気が似ていました。「よくぞ、これだけ似たのを集めたなあ」という感じですが、高校生役の女優は、ブログ「ルームロンダリング」で紹介した映画に主演した池田エライザ広瀬すずを除いて、ほとんど無名に近いです(違っていたら、ごめんなさい)。池田エライザは高校時代と現在の二役をクールに演じていましたが、広瀬すず篠原涼子のコンビは圧倒的な知名度と人気があるわけで、この広瀬・篠原の2人の「格」のバランスが取れていることも良かったですね。

 

それにしても、広瀬すずは、あいかわらず可愛いですね。明星チャルメラのCMで黒ネコに扮し、「チャルメニャー!」と言う姿もチョー可愛い!
わたしは、ブログ「海街diary」で紹介した映画で初めて彼女を見たのですが、整った顔立ちの中に凛とした「強さ」のようなものを感じさせました。彼女が中学の同級生と自転車に相乗りして桜が咲き乱れるトンネルの下を走ったり、鎌倉の海岸を歩いたりする場面はとても絵画的な情景で、広瀬すずは日本人ではなくフランス人女優のようでした。彼女が誰かに似ていると思って、しばらく考えてみたのですが、「あ、ソフィー・マルソーだ!」と気づきました。広瀬すずは、「ラ・ブーム」でデビューしたときの可憐なソフィー・マルソーの雰囲気を感じさせてくれたのです。 

 

すると、「SUNNY 強い気持ち・強い愛」では、広瀬すず三浦春馬演じる大学生からクラブで後からヘッドフォンを付けられ、耳に甘いラブソングが流れてくるというシーンがありました。これは「ラ・ブーム」でソフィー・マルソーがダンスパーティーでイケメンの男の子からされたこととまったく同じです。このシーンを観て、わたしはちょっと驚きました。大根仁監督も「広瀬すずは日本のソフィー・マルソーだ!」と思っていたのでしょうか。それとも、もしかして、わたしのブログを読まれ、「広瀬すずソフィー・マルソー」説を知ったのでしょうか? 
もしそうだとしたら、すごく嬉しいですね!

死ぬまでにやっておきたい50のこと』(イースト・プレス

 

さて、「SUNNY 強い気持ち・強い愛」では、板谷由夏演じる伊藤芹香が末期がんに冒され、余命1ヵ月とわかったときに、「昔の仲間に会いたい」と思います。わたしは、拙著『死ぬまでにやっておきたい50のこと』(イースト・プレス)の内容を連想しました。同書では、死ぬまでにやっておきたいことを50個考えることを提案しています。死の直前、人は必ず「なぜ、あれをやっておかなかったのか」と後悔します。さまざまな方々の葬儀のお世話をさせていただくたびに耳にする故人や遺族の後悔の念・・・・・・。そのエピソードを共有していけば、すべての人々の人生が、いまよりもっと充実したものになるのではないかと考えました。

 

あなたにあえてよかった

あなたにあえてよかった

 

 

死ぬまでにやっておきたい50のこと』の41番目の項目に「お世話になった人に会いに行く」というものがあります。ブログ『あなたにあえてよかった』で紹介した本では、著者の大浦静子さんは最愛の娘さんである郁代さんをがんのために34歳の若さで亡くされました。この本はその郁代さんが生まれたときから亡くなるまでの「いのち」の記録です。郁代さんは余命半年を宣告されたときにお別れの旅を始められました。病身にもかかわらず、国内で30人、海外で30人のお友だちに会い続けられたそうです。それは延命治療をしないという選択の結果でした。2007年の日本テレビ系列の「24時間テレビ 愛は地球を救う」で取り上げられました。

 

「24時間テレビ 愛は地球を救う」では、再現ドラマがオープニングで放映されました。がんが進行するなか、郁代さんは友だちと笑顔で再会し、そして「また会いに来るからね」と別れの言葉を残していきます。そのときに日本武道館でクラシック歌手の秋川雅史さんが「千の風になって」を歌い上げたのでした。
郁代さんの最期の言葉は「これまで(の人生)完璧だった」でした。静子さんは、「自分にとって良いことも、嫌なこともあったのに、世界を全肯定したような言葉に聞こえました。死を前にして賜った、命の讃歌でした」と書かれています。わたしは、たとえ34年の生涯だったとしても、心から家族と愛し合うことができた郁代さんとご両親は幸せだったのではないかと思います。わたしは幸い、そんなつらい別れを経験したことはありません。でも死を意識したとき、懐かしい人、お世話になった人、ともに時代を生きてきた人たちに別れを告げたいと思います。 

葬式は必要!』(双葉新書

 

そして、お別れのセレモニーといえば、なんといっても葬儀です。この「SUNNY 強い気持ち・強い愛」の最後に登場する葬儀のシーンは素晴らしく感動的で、これまでの日本映画の歴史の中でも葬儀シーンではナンバーワンではないかと思います。ネタバレにならないように気をつけて書きますが、血縁も地縁も希薄化する無縁社会の中で、高校時代のかけがえのない出会いによって「縁」を得て「絆」を強めた仲間が集い、心から故人を大切に思って見送ってあげる・・・・・・改めて、葬儀とは「縁」と「絆」を見える化するセレモニーなのだなと思いました。
かつて、わたしは、『葬式は必要!』(双葉新書)を書きましたが、誰がなんと言おうが、やはり葬式は必要です! 

 

その素晴らしい葬儀を取り仕切った私立探偵を演じたのがリリー・フランキーだというのも嬉しかったですね。わたしは彼と同い年なのですが、正直これまで良い印象を持っていませんでした。というのも、彼の大ベストセラー『東京タワー』の中で葬儀や互助会を一方的に批判していたからです。
ブログ「万引き家族」で紹介した映画で演じた役では、お世話になった老婆が亡くなっても葬式もあげずに年金を不正受給していたことも気に入りませんでした。でも、そんな彼がスクリーンの中で最高の葬儀を見せてくれたのです。嬉しいじゃありませんか。わたしは、一発でリリー・フランキーが大好きになりました。


サンデー毎日」2017年7月30日号

 

「SUNNY 強い気持ち・強い愛」に素晴らしい葬儀のシーンが登場したのは、オリジナルが韓国映画だったからかもしれません。韓国では儒教が盛んです。儒教は何よりも葬礼を重んじますが、日本では、家族葬直葬など、葬儀の簡略化が進む一方です。この点では、葬礼を重んじる韓国のほうに孔子の思想は生きていると言えます。この映画についても、「韓国映画が原作なら観たくない」などと言い放つ嫌韓派もいますが、葬儀で故人を弔うという「人の道」に日本も韓国もありません。そういうヘイト・ピープルこそ、この映画を観てほしいですね。というわけで、はてなブログに移転して最初の映画記事が無事にUPできて良かったです。

 

2018年9月8日 一条真也拝  

営業責任者会議

 一条真也です。
北海道・厚真町で起きた震度7地震により、これまでに16人が死亡、300人以上が負傷しています。心よりお悔み、お見舞いを申し上げます。
6日、ブログ「小倉西RC卓話」で紹介したイベントの後、わたしは会場のステーションホテル小倉からサンレー本社に戻りました。同日の午後からサンレーグループ全国営業責任者会議が開催され、16時半から社長訓話でした。f:id:shins2m:20180906163519j:plain
最初はもちろん一同礼!

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最初に、営業優績者の表彰をしました

f:id:shins2m:20180906164019j:plain社長訓示をしました

f:id:shins2m:20180906164727j:plainとんねるずのハラスメント芸について

 

訓話に先立って、営業部門の各種表彰を行いました。わたしは感謝の念を込めて、表彰状や金一封を表彰の対象者の方々にお渡ししました。
表彰式が終わると、わたしは60分ほどの社長訓話をしました。
わたしはまず、ブログ「アップデートする冠婚葬祭」で紹介したダイエー凋落、紅白歌合戦の視聴率低下の背景にあった時代の変化について話しました。それから、ネットで読んだ「とんねるずがここまで時代錯誤になったワケ」という記事の内容を紹介し、そこから冠婚葬祭業が学ぶことを考えてみました。

f:id:shins2m:20180906164738j:plain保毛尾田保毛男はアウトです!

 

フジテレビ「とんねるずのみなさんのおかげでした」30周年記念のスペシャル番組で石橋貴明扮する「保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)」が登場。これが物議を醸し、最終的にフジテレビの宮内正喜社長が謝罪するに至りました。LGBTをはじめ、性的マイノリティへの理解が進みつつある昨今、こうした差別的な表現は許せません。互助会営業の世界もLGBTと無関係ではいられず、正しい対応に努めたいものです。

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パワハラもヤンキー文化も終わりです!

 

また、とんねるずは「パワハラ芸」がウリでしたが、これも今の時代には合いません。同様に、日大のアメフト部とか日本ボクシング連盟の一連の問題から、「体育会」的な体質というものに国民が強い嫌悪感を示しているという風潮があります。これまで日本の結婚披露宴では、「パワハラ」や「体育会」を連想させる暴露ネタなどが流行していた時期もありました。大手の商社でも、若手男性社員が全裸になる余興などが伝統だったそうです。良識ある親族の眉をひそめさせていたものですが、ヤンキー文化が完全に終わりつつある今、このへんの問題についても考える必要があることは言うまでもありません。

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ブロックチェーン」とは何か?

 

それから、社会全体の変化について語りました。
あと半年で「平成」が終わります。日本のみならず、世界全体が猛烈なスピードで変化していますが、その中心にあるのがWebの世界です。金融とテクノロジーを掛け合わせたものを「フィンテック」といいますが、その代表例がビットコインなどの「仮想通貨」です。その「仮想通貨」が通貨として機能し、サービスが成り立つ上で非常に重要な技術と言われているのが「ブロックチェーン」です。 

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互助会営業も根本的に変わる!

 

ブロックチェーンは分散して管理されるので、ビットコインを利用しているあらゆるユーザーのコンピューターに保存されます。銀行のような特定の管理機関がないため、権限が一箇所に集中することはありません。そのためシステム障害に強く、かつ低コストで金融サービスが運用できると期待されているそうです。このようなシステムが本当に普及すれば、銀行そのものの存続も危うくなるわけで、時代の変化の凄まじさを痛感します。わたしたち冠婚葬祭互助会の営業も根本的に変わることが予想されます。

f:id:shins2m:20180906170615j:plainWeb3.0革命とは?

 

ブロックチェーン技術の浸透によって、Webは「3.0」にシフトする可能性があります。これまでの流れを俯瞰すると、以下のようになります。
■Web1.0(1995~2005)ホームページの時代
■Web2.0(2005~2018)SNSの時代
■Web3.0(2018~)ブロックチェーンの時代
  Web3.0には、以下のような特徴があります。
(1)非中央集権、分散的
(2)データは企業ではなく、ユーザーが保有
(3)相互運用性がある
(4)ボーダーレス
(5)不正侵入やデータ漏洩の劇的な減少
(6)サーバーダウンなし

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社会はどのように変わるか?

 

インターネット人口は世界で40億人近いとされています。
膨大な量のデータが、Amazon、Facebook、Twitterといった巨大怪獣のようなIT企業が管理する中央集権型のサーバーに蓄積されていきました。個人情報は極めて価値が高い資産であったわけですが、Web3.0革命によって、権力と情報は、現代の巨大怪獣たちに集中させるのではなく、データの持ち主の手に戻っていくことになるでしょう。

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「仏教3.0」「神道3.0」とは?

 

この「Web3.0革命」は一種の進化論といえますが、形骸化が叫ばれている日本仏教にこの視点を持ち込んだのがブログ『アップデートする仏教』で紹介した本を書いた藤田一照氏と山下良道氏です。
それによれば、以下のように説かれています。
■仏教1.0

(檀家制度に支えられた葬式仏教として形骸化していった日本の大乗仏教

■仏教2.0

(瞑想修行の実践的プログラムと実修を具体的に提示した上座仏教)

■仏教3.0

(上座仏教による批判的吟味を踏まえて仏教本来の瞑想修行を取り戻した大乗仏教

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宗教の世界も激変する!

 

そして、宗教哲学者の鎌田東二氏は、ブログ『天河大辨財天社の宇宙』で紹介した柿坂神酒之佑氏との共著で次のような三種神道を示しています。
神道1.0

天皇制を頂点とした律令体制以降の神社神道や近代のいわゆる国家神道

神道2.0

天皇制以前から存在していた神祇信仰や自然崇拝を中核とした自然神道古神道

神道3.0

(自然神道を核とし国家神道を内在的に批判突破した神神習合や神仏習合修験道をも内包する生態智神道

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冠婚葬祭1.0とは?

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冠婚葬祭2.0とは?

f:id:shins2m:20180906173113j:plain冠婚葬祭3.0とは?

 

わたしは「仏教3.0」や「神道4.0」だけでなく「冠婚葬祭3.0」についても考えるべき時期が来ていると思います。「寺院消滅」や「神社消滅」が叫ばれている昨今ですが、制度疲労を迎えているのは、けっして日本仏教や神道だけではないのです。とりあえず、次のように考えてみました。

■冠婚葬祭1.0
(戦前の村落共同体に代表される旧・有縁社会の冠婚葬祭)

■冠婚葬祭2.0
(戦後の経済成長を背景とした互助会の発展期における華美な冠婚葬祭)

■冠婚葬祭3.0
無縁社会を乗り越えた新・有縁社会の冠婚葬祭)

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無縁・無婚・無葬社会を乗り越えろ!

 

無縁社会は、無婚社会や無葬社会を招きました。
いま、七五三も成人式も結婚式も、そして葬儀も大きな曲がり角に来ています。現状の冠婚葬祭が日本人のニーズに合っていない部分もあり、またニーズに合わせすぎて初期設定から大きく逸脱し、「縁」や「絆」を強化し、不安定な「こころ」を安定させる儀式としての機能を果たしていない部分もあります。いま、儀式文化の初期設定に戻りつつ、アップデートの実現が求められています。「冠婚葬祭3.0」、さらには「冠婚葬祭4.0」の誕生が待たれているのです。

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懇親会でカンパ~イ!

 

社長訓話が終わった後は、松柏園の「長浜」で懇親会が開かれました。
最初に佐久間会長が挨拶し、「営業のみなさんはよく頑張っていますが、もう少しだけ高い目標を持って前進していただきたい」と述べました。続いて、わたしも挨拶しましたが、「体育会=パワハラの時代は完全に終わりです。わが社のミッションは『人間尊重』です。パワハラもセクハラもないハートフルな職場づくりに努めましょう!」と呼びかけました。それから、東常務の音頭で乾杯しました。

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懇親会のようす

 

各地から参集したみなさんは、お酒や料理を楽しみながら会話の花を咲かせました。最後は、玉中取締役による中締めの挨拶でした。玉中取締役は、 サンレー・オリジナルの「末広がりの五本締め」で締めました。これをやると、みんなの心が本当にひとつになる気がします。その後も、松柏園のラウンジで二次会を開催。わが社のコンパは和気あいあいと続いたのであります。

 

 

2018年9月7日 一条真也

小倉西RC卓話

一条真也です。
甚大な被害を残した台風21号に続いて、北海道で震度7地震が発生し、驚きました。被害に遭われた方々には、心よりお見舞いを申し上げます。
6日の13時から小倉西ロータリークラブで卓話を行いました。会場はステーションホテル小倉で、演題は、「人生の修め方」です。同クラブにわが社の松田取締役が在籍している御縁から、今回の卓話をお引き受けすることになりました。

f:id:shins2m:20180906125254j:plain卓話者として紹介されました

f:id:shins2m:20180906125408j:plainみなさん、こんにちは!

f:id:shins2m:20180906125637j:plain卓話のようす

f:id:shins2m:20180906130002j:plain老いと死があってこそ人生!

 

冒頭、わたしは「アンチエイジング」という言葉についての異論を唱えました。これは「『老い』を否定する考え方ですが、これは良くありませんね」と述べました。そして、わたしは「老いと死があってこそ人生!」という話をしました。サミュエル・ウルマンの「青春」という詩がありますが、その根底には「青春」「若さ」にこそ価値があり、老いていくことは人生の敗北者であるといった考え方がうかがえます。おそらく「若さ」と「老い」が二元的に対立するものであるという見方に問題があるのでしょう。「若さ」と「老い」は対立するものではなく、またそれぞれ独立したひとつの現象でもなく、人生というフレームの中でとらえる必要があります。

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「人生の五計」を紹介

 

理想の人生を過ごすということでは、南宋の朱新仲が「人生の五計」を説きました。それは「生計」「身計」「家計」「老計」「死計」の5つのライフプランです。朱新仲は見識のある官吏でしたが、南宋の宰相であった秦檜に憎まれて辺地に流され、その地で悠々と自然を愛し、その地の人々に深く慕われながら人生を送ったといいます。そのときに人間として生きるための人生のグランドデザインとでも呼ぶべき「人生の五計」について考えたのでした。

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老年期は実りの秋である!

 

それから、「老年期は実りの秋である!」という話をしました。今年の夏は本当に暑かったですね。わたしは55歳になりましたが、若い頃と違って暑さが体にこたえます。昔は夏が好きだったのですが、今では嫌いになりました。四季の中では、秋が好きです。古代中国の思想では人生を四季にたとえ、五行説による色がそれぞれ与えられていました。すなわち、「玄冬」「青春」「朱夏」「白秋」です。

f:id:shins2m:20180906130447j:plain超高齢社会をどうとらえるか

 

こうして歴史をひもといていくと、人類は「いかに老いを豊かにするか」ということを考えてきたといえます。「老後を豊かにし、充実した時間のなかで死を迎える」ということに、人類はその英知を結集してきたわけです。人生100年時代を迎え、超高齢化社会現代日本は、人類の目標とでもいうべき「豊かな老後」の実現を目指す先進国になることができるはず。その一員として、実りある人生を考えていきたいものです。

f:id:shins2m:20180906132407j:plain「迷惑」は建前、「面倒」が本音

 

それから、「終活」についての考えを述べました。
これまでの日本では「死」について考えることはタブーでした。でも、よく言われるように「死」を直視することによって「生」も輝きます。その意味では、自らの死を積極的にプランニングし、デザインしていく「終活」が盛んになるのは良いことだと思います。その一方で、わたしには気になることもあります。「終活」という言葉には何か明るく前向きなイメージがありますが、わたしは「終活」ブームの背景には「迷惑」というキーワードがあるように思えてなりません

f:id:shins2m:20180906132805j:plain「終活」から「修活」へ

 

 いま、世の中は大変な「終活ブーム」です。ブームの中で、気になることもあります。それは、「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いことです。特に「終」の字が気に入らないという方に何人も会いました。もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。ならば、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚えてしまいます。死は終わりなどではなく、「命には続きがある」と信じているからです。

f:id:shins2m:20180906133112j:plainこれからは「修活」の時代です!

 

そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しました。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。よく考えれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」ではないでしょうか。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活です。そして、人生の集大成としての「修生活動」があります。

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「修める」という心構え

 

かつての日本は、たしかに美しい国でした。しかし、いまの日本人は「礼節」という美徳を置き去りし、人間の尊厳や栄辱の何たるかも忘れているように思えてなりません。それは、戦後の日本人が「修行」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」という覚悟を忘れてしまったからではないでしょうか。
老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。

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自分の葬儀を想像してみましょう!

 

続いて、誰でもが実行できる究極の「修活」についてもお話しました。
それは、自分自身の理想の葬儀を具体的にイメージすることです。親戚や友人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かります。参列してほしい人とは日ごろから連絡を取り合い、付き合いのある人には感謝することです。生まれれば死ぬのが人生です。死は人生の総決算。葬儀の想像とは、死を直視して覚悟することです。覚悟してしまえば、生きている実感がわき、心も豊かになります。

f:id:shins2m:20180906133230j:plain卓話後、鶴田会長から謝辞を頂戴しました

 

究極の「修活」とは死生観を確立することではないでしょうか。
死なない人はいませんし、死は万人に訪れるものですから、死の不安を乗り越え、死を穏やかに迎えられる死生観を持つことが大事だと思います。そんな話をしているうちに終了時間となったので、わたしは「ご清聴、ありがとうございました」と言って卓話を終えました。すると、盛大な拍手を頂戴して感激いたしました。
卓話後は、鶴田会長から丁重な謝辞を頂戴しました。謝礼も渡されましたが、そのままニコニコBOXに寄附させていただきました。小倉西ロータリークラブには、わたしの知り合いもたくさんいて、良い思い出となりました。
はてなブログ」にも無事に写真が貼りついて、ひと安心であります。

 

2018年9月6日 一条真也

『ゴング格闘技ベストセレクション1986-2017』

 

ゴング格闘技ベストセレクション 1986-2017


一条真也です。
ゴング格闘技ベストセレクション 1986-2017』ゴング格闘技・編(イースト・プレス)を読みました。格闘技専門誌「ゴング格闘技」は1986年に創刊されました。それから31年で通算300号を達成。長期連載した「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」が第43回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するなど、格闘技を題材に多くの著名作品、著者を輩出しました。本書は同誌の過去の記事やインタビューの名作セレクションで557ページもありますが、非常に面白かったです。


本書の帯


帯には「格闘技にすべてを――『ゴング格闘技』三十一年の取材史。」「『木村政彦vsエリオ・グレイシー』『VTJ前夜の中井祐樹』を含む、“ゴン格”珠玉のノンフィクション&インタビュー傑作選」と書かれています。



本書の帯の裏


帯の裏には、以下のように書かれています。
「格闘技専門誌『ゴング格闘技』31年のクロニクル。柔道、柔術バーリトゥード、MMA、空手、キックボクシング・・・・・・格闘技はどこからきて、どこへ向かうのか。時代を動かした格闘家たちの肉声に迫る!」


本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
第1章 柔道と柔術
第2章 ヴァーリトゥード・ジャパン
第3章 日本総合格闘技
2017 PLAYBACK! Japan MMA
《コラム》UFCありき――と、させなかった夜明け前の歩み
第4章 MMA、世界の頂
2017 PLAYBACK! Overseas MMA
《コラム》UFCから始まったMMAの25年
第5章 空手とは何か
第6章 立ち技格闘技の挑戦
2017 PLAYBACK! Striking
《コラム》カラテの伝播とキック・K-1の誕生

 

第1章「柔道と柔術」の「木村政彦エリオ・グレイシーマラカナンスタジアムの戦い」では、1951年10月23日に柔道史上最強とされる“鬼の木村”こと木村政彦がブラジルのマラカナンスタジアムグレイシー柔術エリオ・グレイシーと戦ったエピソードが綴られています。筆者の増田俊也氏は、ネット上にアップされた木村の試合前の表情について以下のように述べています。
「当時は今とは比べものにならないほどブラジルは遠かったであろう。しかし、地球の裏側に来てさえ、木村はこの地上に自分より強い生き物がいるなどとは露ほども思っていないのである。たしかに、柔道がまだ実戦性を持ち、総合格闘技のなかったこの時代、木村が世界最強だった可能性は非常に高い。このときの木村の表情や所作が、私にはそれぞれの地で生態系の頂点に立つライオンやホッキョクグマ、シベリアトラなどに見えてしかたがない。目の前に美味そうな肉があればそれを食らい、美しい雌が目につけば躊躇なくのしかかる。怖いものなど何もないのだ」



増田氏は「木村、ヒクソンと戦わば」として、木村政彦とエリオの息子である“400戦無敗”の柔術ヒクソン・グレイシーがお互いに全盛期に激突していたらどうなったかという興味深いシミュレーションを行います。増田氏から意見を求められたブラジリアン柔術家の植松直哉氏は以下のように述べています。
ヒクソン柔術の試合をそんなに多く見ていないので断言はできないですけれども、ネット上にアップされてるヒーガン・マチャドとやった試合を見るかぎり、ああいうミスをするのであれば、木村先生の抑え込みが非常に強烈なので・・・・・・。エリオとヒクソンの技術の系統は同じだと思うんです。となると、木村先生が普通に勝つのではないかと思います。木村先生はただの寝技の強い柔道家ではないですからね。キムラロック(腕がらみ)という絶対の極め技を持ってますから、そこに強みがあります。ただ時間はかかると思います。エリオよりヒクソンの方がフィジカルが強いので」

 

 

また、異種格闘技戦に対する植松氏の以下の意見には納得しました。
「よく異種格闘技戦のことをバスケットボールとサッカーとどちらが強いかというのと同じだという批判をする人がいますけど、僕は違うと思うんです。球技とは違うんですよ、格闘技は。ルールを削っていけば柔道対柔術、柔道対空手、柔術対ボクシングというのは論じられるわけですね」
「これをスポーツとして興行としてやったら違うと思うんですけど、こうしてどちらが強いかという果し合いでやったら、決闘だと思うんですよね。そのために必要最低限のお互いのルールを決めているだけであって、やはり武道を名乗る以上、柔道もブラジリアン柔術も実戦という想定だけは忘れてはいけないと思います」

 

  

柳澤健氏が書いた「講道館史観を越えて――光の柔道、影の柔術」も興味深い内容でした。柳澤氏は、20世紀初頭に大人気を博した探偵小説の主人公であるシャーロック・ホームズとアルセーヌ・ルパンの名前を出して、以下のように述べます。
「ホームズもルパンも、実は柔術の使い手でした。1903年にコナン・ドイルが発表した『空き家の冒険』は、宿敵モリアーティ教授と共にスイスのライヘンバッハの滝に落下して死んだはずのホームズが『自分は日本のバリツを使って危地を脱したのだが、手下に復讐されるのを恐れて潜伏していた』と、親友ワトソンに説明するシーンから始まります」
バリツとは柔術のことで、柳澤氏は「1906年にモーリス・ルブランが発表した『アルセーヌ・ルパンの脱獄』には、逮捕しようと襲いかかってきたガニマール警部を、ルパンが日本の柔術をつかって撃退するシーンが登場します」と書いています。


 

なぜ、当時のヨーロッパで柔術がそれほど有名だったのでしょうか?
それは、1人の日本人柔術家が前田光世以前に異種格闘技戦を行ない、大評判を詠んだからでした。その男の名は谷幸雄天神真楊流柔術家で、身長は160センチに満たず、体重は60キロもありませんでした。そんな彼が演芸場で「誰の挑戦でも受ける。私を打ち破ったものには大金を差し上げる。ただし柔道着を着ること」と言ったのです。黄色い顔をした小男の挑戦に、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの母国であるイギリスの人々は大笑いして「賞金はもらった!」と、我先に名乗りを上げました。しかし、谷幸雄を打ち負かした者は1人もいなかったのです。


 

谷幸雄は生涯に数千試合を戦い、大金持ちになりました。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンのライト級王者であるジミー・メラーにも勝利しました。柳澤氏は、以下のように書いています。
「小さな日本人が、雲をつくような大男をギブアップさせ、失神KOに追い込んだこと、そして失神させた相手に活を入れ、蘇らせた事実は『日本人は一度死んだ相手を蘇えらせることができるのか!』とイギリス人を仰天させました。
かくしてスモール・タニと、活殺自在の神秘的な格闘技『ジュウジツ』の名は英国中に轟き、たちまちのうちにドーバー海峡を超え、ルパンの作者モーリス・ルブランの耳に達したのです」


 

谷幸雄のフォロワーは数知れないとして、柳澤氏は以下のように述べます。
「谷のすぐ後に渡英したRAKUこと上西貞一も英国で有名になりました。不遷流の伝説的柔術家・田辺又右衛門の弟子にあたる三宅多留次は、谷幸雄と戦って完勝した後、アメリカに渡ってプロレスラーとなり、ハワイで沖識名に技を教えました。つまり力道山は三宅の孫弟子にあたります。
堤宝山流の東勝熊はニューヨークでプロレスラーのジョージ・ボスナーと戦って敗れました。有名なアド・サンテルは、ボスナーの弟子筋にあたります。
これらの柔術家の他に、前田光世、伊藤徳五郎、佐竹信四郎、大野秋太郎のいわゆる『キューバの四天王』、アド・サンテルとの試合中に大金持ちの未亡人に見初められて結婚した太田節三、靖国神社アド・サンテルと戦った後、アメリカ西海岸に渡った庄司彦雄らの柔道家たちがいます」


 

続けて、柳澤氏は以下のように述べるのでした。
「その他、数知れない無名の柔術・柔道家たちが見ず知らずのボクサーやレスラーとリアルファイトを行ない、少数の『プロレス』を行ないました。日本には、彼ら柔術・柔道家が自らの血と汗と涙と痛みで作り出した『異種格闘技戦』の伝統が存在するのです。その伝統があるからこそ、私たちはアントニオ猪木を愛し、UWFを愛し、グレイシー柔術を愛し、PRIDEを愛し、総合格闘技を愛するのです。さらに言えば、殴り倒しての勝利よりも、関節技や絞めの勝利に、ロマンを強く感じる傾向にあるのもそのためでしょう」


 

かつて、講道館柔道に実力で立ち向かった柔術家がいました。
不遷流四世・田辺又右衛門です。彼は恐るべき寝技の使い手であり、講道館の猛者たちを得意の十字締めで次々と締め落とし、あるいは必殺の足搦みで靭帯損傷に追い込みました。その結果、加納治五郎は足搦みを禁じ手にしてしまったのです。柳澤氏は述べます。
「柔道においては、立ち技と寝技は車の両輪などと言われますが、講道館は、現在に至るまでずっと寝技を忌避し、蔑視し続けてきました。その原点は田辺又右衛門にあると言って良いでしょう。
その結果、講道館柔道は寝技に対して、致命的な『盲点』を持つようになります。神永昭夫はヘーシンクに抑え込まれ、岡野功はサンボの選手に巴投げから腕ひしぎ十字固めで敗れました。戦後最強の柔道家である山下泰裕でさえ、蟹挟みで重症を負った経験を持っています。日本最強の寝技師と言われた加藤博剛が、ブラジルの柔術家フラビオ・カントの前に手も足も出ないまま、腕ひしぎ十字固めで完敗したのは記憶に新しいところです」

 

最強の柔術家といえば、ヒクソン・グレイシーです。
「2013年11月20日。ヒクソン・グレイシーは、闘いに赴く息子クロンの魂を思い、涙した。」で、堀内勇氏はヒクソンへのインタビューの最後に、「日本の読者や柔術愛好家たちにメッセージを」と呼びかけ、以下のようなヒクソンの言葉を引き出しています。
柔術を愛する者たちはみんな、練習を続けるべきだよ。柔術というのは単なる競技ではないんだ。自分を見つめ、問題に出会ってその解決を探せるようになるのが柔術なんだ。そのことを経験して、自分自身に関する知識を得ることで人は成長する。仕事でも、家庭でも、友人関係においてもね。私は読者のみなさんに、マーシャルアーツを通じてこのような心の成長を体験し、より良い人間となっていただきたいと思っているよ」


 

ヒクソンに果敢に挑んで敗れた日本人格闘家に修斗ウェルター級王者だった中井祐樹がいます。「バーリトゥード・ジャパン・オープン95」で、「打倒ヒクソン」に燃える修斗が日本の格闘技界の最後の切り札として出場させたのが、中井祐樹でした。ところが、中井のトーナメント1回戦の相手は「第1回UFC」で準優勝し、「喧嘩屋」の異名をとるオランダの巨漢空手家、ジェラルド・ゴルドーでした。ゴルドーが198cm・100kgなのに対し、中井は170cm・70kgしかありませんでした。マスコミは「危険だ」といって騒ぎましたが、激闘の末に中井は4ラウンドにヒールホールドでゴルドーに一本勝ちしました。しかし、この試合中にゴルドーサミングを受け、右眼を失明したのです。じつに凄惨な試合でした。

 

第2章「バーリトウード・ジャパン」の「VTJ前夜の中井祐樹。」で、増田俊也氏は、伝説のVTJ95について、次のように書いています。
「この大会が、本当の意味で日本のMMA(総合格闘技)の嚆矢となった。神風を起こしたのは、たしかにグレイシー一族でありUFCであった。しかし、神風が吹くだけでは大きな波がおこるだけで、その波を乗りこなせるサーファーがいなければ、波はただ岸にぶつかり砕けて消えるだけだ。神風が起こした大波を、右眼失明によるプロライセンス剥奪という死刑宣告と引き替えに乗りこなした中井祐樹がいたからこそ、日本に総合格闘技が根付き得た。それだけは格闘技ファンは絶対に忘れてはいけない」


 

1994年に「バーリトゥード・ジャパン・オープン94」が開催され、ヒクソン・グレイシーが優勝を飾りました。当時はプロレス全盛時代で、修斗の真剣勝負興行は世間に認知されていませんでした。その頃、海外ではノールール(バーリトゥード)の大会「第1回UFC」が開催されました。優勝したのはホイス・グレイシーという無名の柔術の選手でした。ホイスはその後もUFCの連覇を続けますが、「実は僕より10倍強い兄がいる」と語った発言に、修斗を主宰する佐山聡が注目しました。佐山は、ホイスの兄でグレイシー一族最強のヒクソン・グレイシーを日本に招いて、日本初のノールール(バーリトゥード)の格闘技大会を開くことを決定したのです。 

 

 

第3章「日本総合格闘技」の「佐山聡修斗のすべてを語る。『修斗が打倒すべきは自分たちの姿、今の自分たちに満足しないことです』」というインタビュー記事で、熊久保英幸氏は「TBSの修斗のドキュメントで、広島の夏合宿を取材しているときもすごい緊張感があって、竹刀を持っている佐山さんは、とても怖かったです」と言います。それに対して、佐山は次のように答えるのでした。
「あれは合宿では当然です。あれはアドレナリンを上げる練習だったんですよ。今だから全部・・・・・・これを言ったら次の合宿で方法を変えるしかないんですけど、合宿のときはいかにアドレナリンを上げていくか、というのが僕の課題なんです」

続けて、佐山聡は以下のように述べます。
「あの場面ではキックミットを蹴らせるんですよね。そして、『キミの100%の力で5発蹴ってみて』と言って、選手は思い切り蹴っているんですが、100%の力じゃないんです。そこで僕が豹変するわけです。竹刀も輪っかを上げておいて、ぶらんぶらんにしていて音だけが出て痛くないようにして『お前、俺が言ったようになんでできないんだあ』って思い切り叩くんです。その後のビンタも音が出るように殴るんですよ。それを続けると10分でも100%の力が出るんですよ。これがアドレナリンなんです。これを体に染み込ませるんです」



ホイス・グレイシーがUFC1で優勝したときの衝撃は、日本格闘技界を一変させました。
そのとき、佐山は「マウントの取り方に衝撃を受けましたね」と語っています。「ホイスが登場したときに立ち技の打撃はいらないんだ、という風潮がありましたね」という熊久保氏の発言に対して、佐山は次のように答えます。
「それは僕にはまったくないです。柔術の方が全然有利と言われていますが、実際には互角なんです。総合格闘技には総合格闘技の打撃があるんですよ。それと修斗の理想としては、街の中で誰と戦ったとしても対処ができるように、すべてを持っていたほうがいいと思うんです。それが撲のいう打・投・極、あるいは戦いを修めるということなんです。ただ単に総合格闘技バーリトゥードに勝ちなさい、というのではなく、打・投・極が回転してすべてが揃って修斗です。寄り集まって揃ったのが修斗ではないんです」

 

第5章「空手とは何か」の「極真超人録 大山倍達総裁が語る極限への挑戦。」では、有名な山籠もりの間、「何を考え暮していたのか」という熊久保氏の質問に対して、大山倍達が以下のように答えています。
「“俺は昭和の宮本武蔵になるんだ、誰にも負けない”ということを考えていたね。私は自分自身が大きくないことを知っていた。1メートル73センチしか無くて、体重も80キロちょっとしかなかったから。でも、俺はこの小さい体で世界を征服してやろうじゃないか、と思った。それには強さしかない、と。学問ができるわけでもなければ、科学者になれるわけでもなく、他の人のように知識が豊富でもない。頼れるのは自分の身1つ、すなわち自分の肉体、これしかない。
それには、超人的な記録を作るほかに道は無い。では、超人的な記録とは何か、と。超人的な記録とは、人に出来ないことをやるということだよ。人に出来ないことをやるには、それくらいのことをしなければいけないのか? そんなことを毎日考えていて、一発で牛が倒れるくらいになってやればいいじゃないか、と思ったんだね」

 

第6章「立ち技格闘技の挑戦」の「黒崎健時、魂のメッセージ 闘将の遺産。」は、大山倍達の高弟の1人で“格闘技の鬼”と怖れられた黒崎健時へのインタビュー記事です。1964年2月、「打倒ムエタイ」の命を大山倍達より受けた黒崎健時中村忠、藤平昭雄(後の大沢昇)の3人はバンコックに降り立ち、ムエタイ選手と戦いました。中村と藤平の2人は無名選手を相手に勝利したものの、黒崎は元タイ国ウェルター級チャンピオンのラウィー・デーチャーチャイに一矢も報いることができず、刀折れ矢尽きる形で、1ラウンドで、12歳年下のタイ人の軍門に下ります。黒崎にとっては生まれて初めてのグローブマッチでしたが、完敗でした。

 

そのときの屈辱が、後に黒崎をキックボクシングの名伯楽とし、キック史上最強の日本人選手である藤原敏男を育てたわけですが、黒崎は以下のように語っています。
「人間には強い時期もあれば、弱い時期もあるのだ。完全無欠の格闘家など、この世にひとりもいない。
それでなくても、私は今まで“伝説の人”として語られ過ぎたきらいがある。世の中には、あまりにも伝説の人が多すぎる。伝説が1人歩きして、本来の姿が何倍にも膨れあがってしまっているのだ。周りの人間が作りあげた偶像に、本人もその気になっている。私はそのような愚か者にだけはなりたくないのだ。もちろん私に敬意を表してくれるのはうれしいが、みじめな敗北があったからこそ、私は『格闘技の鬼』に徹することができたのだ。私は最初から『鬼』だったわけでもない。そのことを分かって欲しいのだ。格闘技の原点は『強さ』ではない。強くなりたいというあくなき探究心である」

 

この他、本書には高島学氏による格闘技史についてのコラムが掲載されていますが、複雑な格闘技の変遷をうまくまとめて整理しており、とても参考になりました。
「UFCありき――と、させなかった夜明け前の歩み」の冒頭、「日本のMMAの歴史は、1992年11月12日に始まったわけではない」として、高島氏は以下のように書いています。
「世界的規模でいえば、MMAの歴史はUFCから始まったことは間違いない。ただし、国単位で見ると米国をはじめ世界中の国のほとんどが打撃と組み技&寝技が合体したコンバットスポーツをUFCで知ったのとは違い、日本にはそこに通じる格闘技、武道&武術文化が存在していた。それはバーリトゥードの母国であるブラジル、コンバットサンボが存在したロシアなどと同様に非常に稀なケースである。さらに我々の国にはプロレスという――殴って、投げて、極める動きがリング上で繰り広げられるエンターテインメントが、しっかりと根付いていた。日本の格闘技界は1993年11月12日の時点で、総合的な格闘技や全局面を想定した武道、さもなくば武術の血が連綿と受け継がれ、プロレスという衣服を纏っていたのである」

 

「UFCから始まったMMAの25年」では、高島氏はUFCが誕生するのに必要だったピースを以下のように紹介します。
「近年、戦争と紛争の影響で大きな被害を受けた、イラクの古代遺跡バビロン。その壁画に残る紀元前3000年頃に2人の男性が組み合うレスリングのような徒手格闘技。同じく紀元前1600年頃に古代ギリシャで生まれたパンクラチオン。西暦495年に建立された嵩山少林寺で伝えられてきた武術。時が流れ1584年にシャム王国で国技となったムエタイ。18世紀に朝鮮の村祭りで行なわれていたテッキョン。松村宗昆、武田惚角、本部朝基らが鍛錬し、伝播した術。それら全てがMMAには散りばめられて、絡み合っているといっても過言ではない」


このコラムの最後に、高島氏は以下のように述べるのでした。
「技術的な側面で現代のMMAを俯瞰して眺めると、依然としてスクランブル&打撃という絶対的な幹が存在するものの、ファイター達は枝葉の部分でアドバンテージを得るために、さまざまな格闘技の要素を取り入れ、戦いの幅がさらに広がっている。
時には幹自体がボクシングやレスリングではなく、空手やテコンドー、散打という個性的なファイターも見られるようになってきた。この25年間には格闘技、武道、武術の叡智と経験値が詰まっている。世界中に土着格闘術が見られるように格闘技は文化だ。その文化と経済がシンクロした今、MMAはどのような発展をしていくのか。僅か25年、されど25年――これからの25年は果たして・・・・・・」


ゴング格闘技ベストセレクション 1986-2017

ゴング格闘技ベストセレクション 1986-2017



2018年9月6日 一条真也

『添野義二 極真鎮魂歌』

添野義二 極真鎮魂歌: 大山倍達外伝


一条真也です。
『添野義二 極真鎮魂歌』小島一志著(新潮社)を読みました。
大山倍達外伝」というサブタイトルがついています。著者は栃木県生まれ。早稲田大学商学部卒業。株式会社夢現舎(オフィス Mugen)代表取締役。「月刊空手道」「月刊武道空手」元編集長。講道館柔道、極真会館空手道などの有段者です。


本書の帯


本書は、ブログ『大山倍達正伝』ブログ『大山倍達の遺言』ブログ『芦原英幸正伝』で紹介したノンフィクションの続編ともいえる内容です。本書とあわせて、「極真空手四部作」と呼んでもいいでしょう。本書の帯には、「“極真の猛虎”が死ぬ前にどうしても書き残しておきたかったこと――。」と書かれています。基本的に添野義二氏の語りと小島一志氏の説明が交互に掲載されています。


本書の帯の裏


本書の「目次」は以下のようになっています。
「はじめに」
 序章 別れ
第一章 大山倍達との出逢い
第二章 キックボクシング参戦
第三章 第一回全日本大会と梶原一騎
第四章 世界大会と武道館問題、そして少林寺襲撃事件
第五章 幻のクーデター計画
第六章 映画を巡る大山と梶原の確執
第七章 「プロ空手」への渇望と挫折
第八章 ウィリーの暴走劇とプロレスへの接近
第九章 ウィリー猪木戦、地に堕ちた極真との決別
 終章 されど、いまだ道半ば
「おわりに」
「参考資料・文献」


著者の小島氏ですが、ネットなどで見ると何かと毀誉褒貶の激しい人物のようです。しかし、その筆力は大したもので、本書は抜群に面白かったです。500ページ近い大冊ながら一晩で一気に読了しました。師・大山倍達の素顔から、笹川良一との対立の真相、統一教会勝共連合との関係、少林寺拳法との全面戦争、第一回全日本選手権梶原一騎極真空手の真の関係、そして熊殺しウィリー・ウイリアムスの世界大会暴走反則やアントニオ猪木との格闘技戦まで・・・・・・大山倍達の「鉄砲玉」として極真空手のさまざまな事件で体を張り続けた歴史の生き証人が、すべてを明かした回顧録です。わたしも初めて知った事実が多く、驚愕の連続でした。


本書の主人公である添野義二とは、いかなる人物か。
1949年生まれの空手家(士道館九段)・キックボクサーであり、世界空手道連盟士道館館長・キックボクシング「そえのジム」会長。極真会館出身で、「城西の虎」「極真の猛虎」などの異名を持ち、ライバルの山崎照朝と共に「極真の龍虎」と呼ばれていました。自らが立ち上げた士道館の名は、添野氏が尊敬する土方歳三の「士道に背くまじきこと」という言葉に由来します。

 

「はじめに」で、著者の小島氏は「生前、大山は極真会館を離れた元弟子を徹底的に罵倒した。特に芦原英幸と添野義二の二人は、まるで重罪を犯した罪人のような扱い方だった」と書いています。
罵倒される理由がまったく理不尽なものであると思った添野は、当然ながら大山倍達に対して憤りを感じていましたが、それが格段に強くなったきっかけは梶原一騎の死であったそうです。梶原は大山と並んで、添野にとっての最大の師といっていい存在だったそうですが、序章「別れ」には以下のように書かれています。
「梶原先生は劇症膵臓炎という過酷で厳しい病魔と闘った末、1987年1月21日、五十余年の人生に幕を下ろした。梶原先生といえば、大山館長にとっても計り知れない恩人であることは誰もが認めるだろう。一時は互いを『義兄弟』と呼び合い、極真会館の栄華は梶原先生なしには百パーセントありえなかった」


続いて、本書には以下のように書かれています。
「梶原先生の葬儀には出版関係者はもちろん、多くの格闘技関係者が列をなした。だがそこに大山倍達の姿は最後までなかった。人間にとって社会で生きる以上、最も大切なことは『義』ではないだろうか。であるならば人生の大きな節目にあたる冠婚葬祭において『義』を外す行為は許されない。なのに、大山館長は梶原先生の死に対し、なんら追悼の『義』を果たしていない。私は思った。この人は十年前と何も変わっていないのだ。利用する価値があればすり寄って、価値がなくなれば簡単に捨てる。その人間の最後を看取ることに興味さえないのだ」
この一文を読んで、わたしは添野氏に大いに共感しました。

 

空手バカ一代」の異名で知られる大山倍達とはいかなる人物だったのか。

第一章「大山倍達との出逢い」では、「大山倍達とのふれあい」として、添野氏の言葉が以下のように述べられています。
大山倍達というと誰もが『最強の空手家』と言い、『牛を殺した』とか『熊と戦った』などという話題になる。だが大山館長と実際に拳を交えた経験を持つ人間はそう多くないに違いない。アメリカ遠征の武勇伝は大山館長の著書や劇画でも知られるが、アメリカではたとえ空手普及が目的であったとしても、活躍した舞台はほとんどがプロレスだった事実が明らかになりつつある(『大山倍達正伝』)。プロレスを貶めるつもりはない。私自身ものちにプロレスの世界と関わりを持つことになるわけで、空手とプロレスに強さの優劣をつけること自体が間違っている。『マラソン競歩』『テニスとバドミントン』を比べるようなものである。その意味で空手家・大山倍達と実際に組手で戦った人間は決して多くないということである。幸いにも私は大山館長が『実戦家』として現役を退く前に入門した」


それでは、大山倍達は本当は弱かったのか。そんな疑問を添野氏はきっぱりと否定し、さらに以下のように述べています。
「現在、『極真空手』または極真会館の亜流団体を名乗る人たちの多くが大山館長との組手について肯定的に語らない。いわく『技云々より、とにかく打たれ強さでは誰もかなわない』とか、『大山館長が組手で蹴りを出すのを見たことがない』といった具合である。それは大間違いだと私は断言しておきたい。たとえ私が白帯だろうが茶帯だろうが、毎日のように稽古していればその人間の力量というものが自ずと見えてくる。私が大山館長に手合せをお願いしたとき、ふと気づいたら館長が実際よりも三倍も五倍も大きく、まるで大仏のように見えた。突きを出しても小指で弾かれる。蹴りを繰り出しても膝で返される。たしか大山館長が四十を過ぎた頃だった。我々門下生が束になって攻めても、全員ノバされていたに違いない。大山館長の組手の実力に対して懐疑的な人は、私のような経験がない『新参者』だと言っておく」


第二章「キックボクシング参戦」では、1960年代の後半にキックボクシング・ブームが起こったとき、極真会館も参戦したようすが描かれています。1967年、TBSテレビ系列で「キックボクシング」放映が開始され、沢村忠が最強のスターとして脚光を浴びます。
しかし、それを苦々しく思った大山倍達は以下のように語ったそうです。
「あんな沢村なんて、ちょっと寸止めの学生空手をかじっただけの男じゃないか。学生空手チャンピオンなんて売り文句は根も葉もないウソだし、山口(剛玄)先生の道場で剛柔流の真似ごとをしたたけの男がなんで連戦連勝なの。何が“真空飛び膝蹴り”なの。みんな八百長よ」


さらに大山倍達は「あのね、私もタイでムエタイと戦ったり稽古もしたから分かるのよ。沢村たち日本人選手の相手をして負け役を演じているのは、ほとんどムエタイを知らないタイの留学生たちなのよ。それでもムエタイはタイの国技だから、負け役の選手たちも本気でやったら沢村なんて一発で吹き飛んでしまうよ」と語りました。そして、1964年に極真空手黒崎健時中村忠、藤平昭雄の3人をタイに派遣し、ムエタイと戦わせたのです。中村と藤平の2人は勝ちましたが、強豪選手を相手にした黒崎は負けました。しかし、その黒崎がその後、目白ジム会長として藤原敏男や島三雄といった日本キック界に残る名選手たちを育てていくことになります。

 

プロ用の「極真ジム」を作った大山倍達は、キックボクシングだけでなく、プロ空手にも進出しようとします。このあたりについては、添野氏が以下のように述べています。
極真会館はアマチュアの空手団体であり、極真ジムはプロのキックボクサーを養成する機関だというのが大山館長の理屈だった。かつて木村政彦先生がはじめた『プロ柔道』への憧憬が大山館長を『プロ空手』創設に突き動かしていたのは明白だった。ムエタイ、キックボクシングがそのままプロ空手を体現するものだと大山館長が考えていたかどうか、今となっては分からない。しかしキックボクシングへの積極的な接近から、それがプロ空手への第一歩であると館長が思っていたことは間違いないだろう」


大山倍達の理想は、ある意味で後のK-1で実現したのかもしれません。
しかし、1990年代後半、全盛期のK-1に極真空手のトップ選手たちが次々に挑戦しました。ところが、彼らの成績は期待を大きく裏切り、敗戦が相次ぐ結果となりました。添野氏は以下のように述べています。
「たとえ空手のチャンピオンクラスといえども、K-1のリングで強豪クラスと戦うとなれば、最短でも1年間のトレーニングが必要になる。(中略)ウィリー・ウィリアムスがプロレスのリングに上がろうと決心したとき、彼は2年近くキックボクシングルールのトレーニングに打ち込んだ。『鬼の黒崎』と異名を取った黒崎師範のもと、藤原敏男さんと同様の特訓を繰り返した。同時に空手の稽古を怠ることもなかった。ウィリーに比べると、いかにフィリオのK-1参戦が杜撰な計画のもとに行なわれたのか?・・・・・・極真OBの一人として、いまも怒りが収まらない」

空手バカ一代(1) (講談社漫画文庫)

空手バカ一代(1) (講談社漫画文庫)


第三章「第一回全日本大会と梶原一騎」では、大山倍達および極真会館の巨大なファンタジーを生んだ漫画『空手バカ一代』について言及されます。実際の大山倍達は『空手バカ一代』の中で八面六臂の活躍をする「大山倍達」とはまったくの別人だったと指摘した上で、添野氏は述べます。
「もちろん、梶原先生は大山館長に媚びたわけではない。
『ヒーローものはヒーローらしく描くのが基本、ヒーローが普通の人間だったら、面白くも何ともない』
それは梶原先生自身が何度も私に言った言葉だ。何よりも作品としての質を重んじ、商業的成功を収めるための手段ということだ。特に漫画や劇画の世界では、人間離れした能力を持つヒーローの存在が不可欠であり、大山館長を描く以前、力道山沢村忠を主人公にした作品も書いてきたが、いずれもスーパーマンのように描かれていた。力道山人間性に病的な欠陥があったし、沢村忠八百長選手に過ぎないことを梶原先生は当然、知っていた。
『大山さんも劇画の世界では〈ゴッドハンド〉と呼ぶように、神様でいいんだ』
梶原先生はよく笑っていた。プロの物書きとして梶原先生は割り切っていたのである。梶原先生の手法や姿勢について誰が文句を言えよう」



梶原一騎には真樹日佐夫という弟がいました。
ともに大山倍達の「義兄弟」となりましたが、決裂後は極真関係者から罵倒されることになります。小島氏は「梶原も真樹も、ともに外見が異様過ぎた。決して偏見ではなく、彼らの姿を初めて見た人は、その百パーセントが『ヤクザ』『暴力団員』と疑ったはずだ。この二人のギャングスタイルが極真関係者を過剰に刺激した」と指摘し、さらに次のように述べています。
「大山と梶原の関係を、『両雄並び立たず』と表現する者が多い。だが、1980年前後の『空気』を吸った私にとって、それは穿ち過ぎとしか言えない。全ては梶原が生んだ『空手バカ一代』が原点であり、その帰結でもある。『空手バカ一代』は現実の実在する人物を挿入し、それを『虚構』でありながらも『実話』として描いた。その結果、原作者である梶原が『現実』の主導権を掌中にした。何故なら、読者のほとんどは梶原が描く『虚構』を『現実』として受け取るからだ。主人公であるはずの大山倍達は、必然的に梶原が描く『虚構』のなかで『役者』を演じなければならなくなる。強烈な自我を持つ大山に、それは堪え難いことだった。その不満の噴出が、梶原との軋轢を生んだ。私はそう理解する」

四角いジャングル 1

四角いジャングル 1


空手バカ一代』の連載を終了させた後、梶原一騎は『四角いジャングル』の連載を開始します。第四章「世界大会と武道館問題、そして少林寺襲撃事件」では、添野氏は以下のように述べています。
「『四角いジャングル』によって、舞台は極真会館を中心にしながらもキックボクシングやプロレスなど、広く格闘技界をカバーするようになった。このことからも『空手バカ一代』と異なり、『四角いジャングル』のシナリオは梶原先生主導に変わっていったことが分かるだろう。極真空手に関するエピソードは多いものの、大山館長の出番は極端に減っていった。
ただ、これだけは絶対に忘れてはならない。『空手バカ一代』『四角いジャングル』ともに、劇画内の私たちは実物でなくフィクションだということだ。それは十分に理解しているのだが、その虚実の間に私たちは戸惑った。本当の自分と劇画のなかの自分は、どこからどこまでが同じなのか? どこからどこまでが違うのか? それとも劇画の添野義二は何もかも虚像なのか? 本人でさえ混乱することがしばしばだった。芦原先輩はよく、『本物はアシハラ。漫画はアシワラ。どっかにちゃんとした一線を引いておけばいいんよ』と笑っていたが、実際は私同様、随分迷っていたに違いない。一歩間違えば『やらせ』や『仕掛け』と受け取られてしまいかねない極真内の出来事も、梶原先生の『魔法』によって摩訶不思議な現実味を帯びることになった。私はジャングルに迷い込んだような気持ちだった」



第四章「世界大会と武道館問題、そして少林寺襲撃事件」では、1975年11月、さまざまな問題を抱えながらも、極真の第一回世界大会が大成功のうちに幕を閉じたことが紹介されます。前々年の10月からNET系列で「空手バカ一代」のテレビアニメも定期放映されており、「極真空手ブーム」は最盛期を迎えていたのです。しかし、その裏では、虚飾のヒーローを演出したり、それゆえに八百長試合さえ仕掛けるという闇の面があったといいます。添野氏は以下のように述べています。
「私は真剣勝負であるべき極真空手のなかに、八百長臭い仕掛けなど断じてあってはならないと思っている。敵的に多くの試合をこなし、観客を沸かせることが求められる『プロ格闘技』ならば多くの場合、何らかの仕掛けが行なわれる。そうでなければ選手たちの身体が保たないからだ。要するに『プロ格闘技』はエンターテインメントである。キックボクシングであれば、観客はKO勝ちを期待するし、大相撲でも大技を要求する。それに応じるには、俗に『八百長』と呼ばれる約束行為が不可欠にならざるを得ない。それが『プロ格闘技』の宿命なのだ」


続けて、添野氏は極真空手について述べるのでした。
「しかし極真空手はプロではない。プロかアマチュアかの問題以前に、極真空手は断じて『武道空手』でなければならないし、また『実戦空手』として追求するべきものでなければならない。たとえ競技化することでルールに規制が入ろうとも、基本的な姿勢さえ押さえておくならば、大山館長が言うように極真空手は永遠に最強であり続けることができる、と私は信じていた。
にもかかわらず、大山館長は第一回世界大会において外国選手への下段蹴りを封印するという『八百長』を命じたのだ。そして大山館長の意を受けて、大山兄弟と中村師範はそれを実行に移した。彼らにはそれしか道がなかったのだ。私には、彼らの苦悩が痛いほどよく分かった」

大山倍達正伝

大山倍達正伝


小島氏も著書『大山倍達正伝』の内容を引きながら、こう述べています。
「『空手バカ一代』の原点は1955年2月、『京都新聞』に連載された大山自身によるエッセイ『手刀十年』と、その前後の『オール讀物』や『週刊サンケイ』の大山倍達特集のなかで語った大山の言葉にある。
大山は稀代の虚言家であるだけでなく、とてつもない発想力を持った構成作家でもあった。その天才的なアイデアマンぶりは、梶原を凌ぐと言ってもいいだろう。単身アメリカに渡り、プロレスのリングやサーカスの舞台に上がりながら、決してプロレスラーに転身すること無く『空手家』として幾つもの伝説を築いて帰国した。その点に関しては相撲の力道山、柔道の木村政彦遠藤幸吉らでも遥かに及ばない特異なエンターテインメント能力を有する人物だった。そんな大山の演出力が現れたのが、第五回全日本大会の富樫宜資であり、第一回世界大会のウイリアム・オリバーだった。もちろん、パリ大会で敗退した全日本空手道連盟日本選手団に対する記者会見もそれらの一環である」



第八章「ウィリーの暴走劇とプロレスへの接近」では、極真がついに決定的な八百長に手を染める場面がリアルに描かれています。1979年11月23日に開催された第二回世界大会において、優勝候補の筆頭とされたウィリー・ウィリアムスが三瓶啓二を相手に謎の反則負けとなります。ウィリーはアントニオ猪木との異種格闘技戦が予定されていました。添野氏は以下のように述べています。
「ウィリーは八百長試合を演じ、それに私は加担し、大会は実力で三瓶を下した中村誠が優勝。本家日本の威信は守られ、前大会同様、大山館長は腹を切らずに済んだ。閉会式、そしてレセプションパーティーと行事が続くなか、大山館長は終始満面の笑顔を見せていた。私は耐えに耐えた。しかし、帰りの車のなか、私はひとり泣いた。叫ぶように、声が嗄れるまで私は大声で泣き叫んだ。私は思った。〈俺の信じる極真空手は終わった。俺が師と仰いだ大山倍達は最低最悪の詐欺師なのだ〉」


「熊殺し」の異名を持つウィリーについて、小島氏は次のように述べます。
「あのときのウィリー・ウィリアムスは強かった。
極真会館ではナンバー・ワンであった。他流試合や異種格闘技を含めても、圧倒的な強さを誇る空手家である。地上最強の空手家である。極真空手の歴史を繙いても、彼に勝る外国人選手は皆無だったと私は確信している。古くはハワード・コリンズ、アデミール・コスタ、のちのフランシスコ・フィリオ、アレハンドロ。ナバロ・・・・・・。彼らは『試合場』では確かに強かった。技術的完成度も高かった。しかし彼らには、ウィリーが漂わせる『野生の気高さ』がなかった。ウィリー・ウィリアムスは『試合』を目指すアスリートではない。闘うことを宿命づけられた猛獣なのだ。いかなる状況でも、ウィリーが負けることは想像出来ない」



そして、1980年2月27日、蔵前国技館アントニオ猪木とウィリー・ウィリアムスの異種格闘技戦が行われました。「プロレスvs空手」の世紀の一戦と話題になった試合ですが、正直言って、わたしは当時、猪木の対戦相手がウィリーということに少し不満を持っていました。というのも、ウィリーには空手界最強の証がなかったからです。これまでの猪木の異種格闘技戦の相手でいえば、ルスカには柔道オリンピック金メダリスト、アリにはプロボクシング世界ヘビー級チャンピオンという実績がありました。彼は間違いなく柔道やボクシングを代表する選手でしたが、ウィリーにはそのような実績がなかった。そこが猪木信者だったわたしには不満だったのです。でも、本書を読んで、ウィリーは最強の空手家であり、大山倍達八百長さえさせなければ、確実に世界王者となっていたことを知りました。


その猪木vsウィリー戦ですが、試合そのものよりもセコンド同士の乱闘が大きな話題になりました。新日本プロレスの選手と添野氏率いる空手勢が揉み合い、リング下に落ちたとき、猪木はウィリーのセコンドから暴行を受けたなどと伝えられました。実際はどうだったのでしょうか。第九章「ウィリー猪木戦、地に堕ちた極真との決別」で、添野氏が当時を振り返ります。
「また場外乱闘だ。私はドサクサに紛れて猪木に近付いた。二人のすぐ近くに(大山)茂師範と黒崎師範がいた。リング下では、猪木の腕十字固めがウィリーの右腕を捉えていた。私は猪木に向かって渾身の蹴りを放とうとした。そのとき誰かが、私の後ろ衿を引っ張った異様なチカラに私は驚いた。振り向くと、それは黒崎師範だった。
黒崎師範は首を横に振りながら言った。
『極まってねえよ。ウィリーの腕には余裕がある。二人の試合に他のもんは手を出すな。半可もんのレスラーが何をしてくるか分からん。ヤツらを見張っててくれ』
戸惑う私に茂師範が言った。
『大丈夫だ。猪木はビビってるよ。ウィリーを潰すなんて度胸はサラサラないよ。ここは俺たちが守っている。お前は新間を探せ』
今度こそドクターストップだという。
場内アナウンサーは、猪木はウィリーの膝蹴りで肋骨を骨折し、ウィリーは猪木の腕十字固めで肘関節を痛めたと言った」
猪木vsアリ戦の真相について書かれた本は多いですが、本書は猪木vsウィリー戦の真相について書かれた貴重な文献であると言えるでしょう。

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この試合の後、添野氏は極真サイドから徹底的に排除されるようになり、試合の半年後にはなんと逮捕されました。「この逮捕劇の黒幕が大山館長であることは最初から分かっていた」という添野氏は次のように述べます。
「私を排除する決定的な理由は、半年前のウィリーと猪木戦での私の行動にある。猪木と新間を再起不能にせよ、梶原と黒崎を殺せ・・・・・・そんな館長の命令を反故にしたしたからである。そしてそれは、大山倍達という人間の本性を私が知ってしまったことを意味する。どうしても隠しておかなければならない『素顔』、武道家つまり『昭和の宮本武蔵』としての『虚像』を守るため、私は邪魔な存在だった。
いつもの館長らしいやり方だった。自分は決して表に出ない。弟子たちを使って私に対する悪い噂を流させる。疑心暗鬼に陥る支部長たちをさらに煽る。ちょうどこの時期、梶原先生への攻撃も激しさを増していた。わざわざ支部長たちを動かし、全国の支部長たちに梶原兄弟との絶縁を促す嘆願書を書かせ、あくまでも支部長たちが梶原先生と極真会館・大山館長の付き合いに反対だというカタチにする。つまりは弟子たちによる館長への『直訴』だが、こんなものは極真会館という大山倍達の独裁体制にあって何の意味もない。『直訴』に意味を持たせるのも、無視するのも館長のさじ加減ひとつなのだ」



本書の冒頭で、著者は「大山倍達に対する憤りが大きくなったのは、恩人である梶原一騎の葬儀に顔を出さなかったからだ」と述べました。では、大山倍達自身の葬儀はどうだったのでしょうか。添野氏は述べます。
「とにかく通夜の運営は信じられないほど杜撰だった。ちゃんとした葬儀屋に委託していたのかとさえ、私は疑った。香典を持っていったが、香典返しもない。香典がなくなったという噂もその場で流れるほど、とにかく、こんなだらしのない通夜を私は知らない。未亡人の智弥子夫人はまるで惚けたように笑っているし、彼女を守るべき三人の娘の姿はどこにもなかった」
梶原一騎の葬儀と大山倍達の葬儀・・・・・・。
この二つの葬儀に関するくだりを読んで、わたしは2つのことを思いました。


社葬の経営人類学

社葬の経営人類学

  • メディア: 単行本


まず、いくら確執があったとはいえ、恩人の葬儀に顔を出さないのは武道家の風上にも置けないということ。武道とは「礼に始まり、礼に終わる」もの。その礼の最たる場面こそ葬儀です。大山倍達の出自は今では有名ですが、儒教の盛んな朝鮮半島の出身者ならば、葬儀に最大の価値を置くはず。
それから、極真会館の創設者であった大山倍達の葬儀が香典返しも出さず、香典泥棒も現れるほどの杜撰なものであったと知り、その後の極真分裂騒動の原因はここに在ったのではないかと思いました。ブログ『社葬の経営人類学』で紹介した本に詳しく書かれていますが、会社や団体の長の葬儀というのは故人の後継者を万人に示す場であり、それがいいかげんに行なわれたということは、その後の組織に未来はありません。

芦原英幸正伝

芦原英幸正伝


「ケンカ十段」芦原英幸と「極真の猛虎」添野義二は、ともに梶原一騎から気に入られ、『空手バカ一代』の中でヒーローとして描かれました。そのことに嫉妬した大山倍達から憎まれ、排除された彼らは、師である大山を恨みます。本書にも彼らの大山批判の発言がたくさん紹介されていますが、終章「されど、いまだ道半ば」で添野氏は以下のように述べています。
「結局、私も芦原先輩も大山倍達という『大仏』の『手の平』で飛び回る『孫悟空』のようなものなのかもしれない。どんなに不満を言おうが、いかに批判しようが、悪態をつこうが、唾を吐こうが、全て自分に跳ね返ってくるのだ。逃れようとももがいても、大山館長の『手の平』から解放されることはない。私にとっても大山館長は永遠の『師』であり『親』であり、『仏』なのだ」


大山倍達の遺言

大山倍達の遺言


そして、添野氏は以下のように述べるのでした。
「私は大山館長が荼毘に付された後、智弥子夫人から手の平に載るくらいのお骨を分骨して頂いた。以来、私は大山館長のお骨を肌身離さず生きてきた。事情を知らない大山倍達ファンは、この作品を読んで何度も怒り、私を憎んだに違いない。私はそんな怒りや罵倒を喜んで受けとめたい。何故ならそれらの感情は、大山館長に対する私情や憧れの表れだからだ。私は毎日毎日、ぶつぶつとひねくれながら大山館長に甘えている、出来損ないの『ヤンチャ坊主』なのだ」
往年の極真空手に憧れたわたしとしては、本書の内容は非常にショッキングなものでした。そして、大山倍達の「虚像」と「実像」のあまりの乖離ぶりに虚しさを感じましたが、最後の添野氏の発言で救われた気がしました。


添野義二 極真鎮魂歌: 大山倍達外伝

添野義二 極真鎮魂歌: 大山倍達外伝

 

2018年9月5日 一条真也

『木村政彦外伝』

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一条真也です。
木村政彦外伝』増田俊成著(イースト・プレス)を読みました。 ブログ『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』で紹介した不世出の柔道家の人生を描いた大河ノンフィクションの外伝で、待望の出版です。『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』は上下2段組で700ページもある大冊でしたが、一気に1日で読了しました。本書も上下2段組で720ページあるのですが、先月18日発売という、わたしの最も多忙な時期に発売されました。8月20日に上京して、浜松町の書店で本書を求めたのですが、それから5日間というもの、読書の時間など取れない地獄のハード・スケジュールが待っていました。持ち歩くにしても厚くて重い・・・・・・ああ、恨めしい! 盆の前に発売してくれれば、お盆休みにゆっくり読めたのに!


外伝も720ページのボリューム!

 

 

著者は1965年生まれの小説家です。北海道大学中退。北大柔道部で高専柔道の流れを汲む寝技中心の七帝柔道を経験。四年生の最後の試合を終えて部を引退後、新聞記者に。2006年、『シャトゥーン ヒグマの森』で第5回「このミステリーがすごい!」大賞優秀賞を受賞。12年、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』で第43回大宅壮一ノンフィクション賞、第11回新潮ドキュメント賞をダブル受賞。17年『北海タイムス物語』で第2回北海道ゆかりの本大賞を受賞しています。


本書の帯

 

 

本書のカバー表紙には、柔道着を着た若き日の木村政彦の雄姿の写真が使われています。また帯には、「『木村政彦 生誕百周年記念』刊行」「もうひとつの『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』」「大宅賞新潮ドキュメント賞ダブル受賞作の外伝」と書かれています。 帯の背には「木村政彦とは何か?」「柔道とは何か?」とあります。


本書の帯の裏

 

 

帯の裏には「『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』は本書によって『完全版』となる――13年連続日本一、天覧試合を制覇し、エリオ・グレイシーを極めた日本柔道史上『最強』の男は、なぜ力道山に敗れたのか? 大反響を呼んだ『ゴング格闘技』連載から、単行本『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』には収録されなかった“幻の原稿”群が初めて書籍化。そして著者・増田俊也が格闘家、作家、表現者たちとの対談で『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を問う」と書かれています。

鬼の柔道―猛烈修行の記録 (1969年)
 


さらにカバー前そでには、以下のように書かれています。 「ほんとうの実戦では、突く、蹴る、それから投げるものである。これは私が世界各国をまわり、他流試合をした結果はっきりわかった。だから、講道館柔道にとらわれることなく、実戦に役立つ技をとりいれることも大いに必要ではないかと考えるのである。――木村政彦の言葉。『鬼の柔道』より」

 

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
プロローグ「遥かなる」
第1章 史上「最強」は誰だ?
第2章 証言・木村政彦力道山の時代
第3章 柔道とは何か?
第4章 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
第5章 男の星座たちに捧ぐ

【完全収録】 2008-2011『ゴング格闘技』連載
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」全写真&キャプション
「あとがき」

 

 プロローグで、著者は以下のように書いています。 「この本は、かつてプロレスという巨大ビジネスの化物によって潰されたリアルファイターたちの魂を背負い、世間に対して筆による真剣勝負を挑み、それに勝つのではなく、やがて味方につけてしまった『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』のメイキングオブである。ベストセラーが出ると同時に副読本が出されることがあるが、これはそういった類いの本ではなく、後世に残すために編まれた『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の完全コンプリートだ」


プロローグの最後には、「分厚くて内容の濃いこの本を3日や4日で読み切ることはできない。読者は毎夜この書を持ってベッドに潜りこみ、しかし、1時間2時間するうちに昼の仕事に疲れ果てて眠ってしまうだろう。胸にこの書を開いて抱いたまま――。その夜あなたは必ず夢を見る。遥かなる過去の夢を」と書かれていますが、わたしは本書を1日で読みました。どうも、すみません。

 

第1章「史上『最強』は誰だ?」では、柔道史上の四大強豪として、著者は木村政彦アントン・ヘーシンク、ウイレム・ルスカ、そして山下泰裕の名前を挙げます。そして、ヘーシンクとルスカは木村にかなわないが、山下だけは実際に戦ってみないとわからないとした上で、「木村政彦山下泰裕には、大きな共通点が2つある。 1つはもちろん火の国熊本出身であること。そしてもう1つは、絶対的な師を持っていたことである。木村にとっての牛島辰熊にあたるのが、山下にとっての佐藤宣践(1974年全日本選手権優勝、1973年ローザンヌ世界選手権軽重量級優勝)であった」と述べています。

f:id:shins2m:20121105200020j:plain道家山下泰裕氏と

 

 

山下泰裕氏といえば、なんといっても「史上最強の柔道家」として知られます。1984年のロサンゼルス五輪で無差別級の金メダルに輝いたのみならず、引退から逆算して203連勝、また外国人選手には生涯無敗という大記録を打ち立てました。85年に引退されましたが、偉大な業績に対して国民栄誉賞も受賞されています。とにかく当時、27歳で国民栄誉賞を受賞したという事実は、あまりにも偉大であると言えるでしょう。


ブログ『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』にも書きましたが、わたしは柔道こそ最強の格闘技であると信じています。ですから、最強の柔道家である山下泰裕氏こそは最強の格闘家であったと本気で思います。「世界最強の男」と呼ばれたヒョードルも、あるいはヒクソン・グレイシーも、全盛期の山下氏の前では数分と立っていられなかったでしょう。 わたしと会ったときも、山下氏は「ルスカが猪木さんにプロレス・スタイルで敗れたとき、柔道の名誉挽回のために猪木さんと闘おうと本気で考えていました」と真剣な顔で語ってくれました。その後、山下氏は新日本プロレスにスカウトされる騒ぎとなりますが、猪木・山下戦、ぜひ見たかったですね! もちろん、木村・山下戦も!
著者は「木村政彦vs山下泰裕、もし戦わば<立技篇>」「木村政彦vs山下泰裕、もし戦わば<寝技篇>」として、両雄の比較論を詳細に展開します。

 

第2章「証言・木村政彦力道山の時代」の冒頭には「ヒクソン・グレイシー×増田俊也木村政彦切腹すべきだったのか』」という興味深い対談が置かれています。そこで著者は、最強の柔道家として知られた木村政彦力道山とプロレスの試合を行い、力道山のブック破りで惨敗を喫したことに言及し、「木村政彦の心情についてどう思うか?」とヒクソンに問いかけます。ヒクソンは次のように答えました。 「彼はべつに負けたこと自体を悔しくてどうのこうのではないと私は思います。私が思うに、キムラが何を一番悔しかったかというと、そういうフェイクのなかで裏切られてこういう結果になったことだと思います。リアルファイトの試合だったらそんなに悔しくなかったはず。そういうことだと思います。本当のチャンピオンというのは、負けていちいち落ち込むよりも、また頑張ってまた勝とういうことになると思う。この試合は100%の実力を出せたような状況ではない。要は裏切られてこうなった。だから、負けたことによりも自分自身を許せないと思いますね。自分をこういうことにさらさせたということが」

 

かつて、ヒクソンの父であるエリオ・グレイシー木村政彦にリアルファイトで敗れました。その木村政彦はプロレスというフェイクの舞台で力道山にリアルファイトを仕掛けられ、敗れました。けっしてフェイクの舞台に上がることがなかったヒクソンは次のように述べます。 「ロッカールームを出て試合会場に向かって歩いているときには、もう選手というのは本当に死ぬか勝つかということを考えて出なければいけない。キムラは、かつて(柔道の現役時代)はそんな考え方で出ていたと思うが、それとはまた全然異なる世界に行ったから、相手が本気できたときに本気で返すという考え方がすぐに出てこなかったのだと思う。戦争に行って、相手が偽物の刀と偽物の銃弾を使ってくるということを、信じちゃいけない」

 

ヒクソンとの対談に関連して、著者は柔術のルーツについて、以下のように興味深いことを述べています。 「嘉納治五郎は最後まで『古流柔術、柔道は日本古来の武道であって外国の影響を受けたものではない』と言い続けたが、そんなことはありえない。晩年が軍事国家へと邁進した時代だったためそう言ったのであろう(昭和13年没) 古流柔術は中国大陸の格闘技の影響を大きく受けている。だからその古流柔術を受け継ぐかたちでできた講道館柔道ももちろん中国の影響を受けている。 その中国武術を持ち込んだうちの1人が、明の末期、30代で日本に渡り、1627年に尾張藩徳川義直に拝謁し、以後尾張に居を定めた陳元贇(ちんげんぴん)だ」

老子 (講談社学術文庫)

老子 (講談社学術文庫)

 


わたしもその名を初めて知りましたが、陳元贇が日本の格闘技界に持ち込んだのは技術だけではなかったとして、著者は以下のように述べます。 「かつてあった日本古来の武芸・相撲などの格闘技術に老荘の思想を付与したのだ。その思想性こそが、『柔』という一文字に現れている。 老子は柔らかくて弱いものを堅くて強いものより上だとした。勝つことを第一義としない。むしろ負けないことこそを説いた。柔らかに生きることこそが最も大切なことだと。まさにグレイシー柔術の思想は、この老荘の思想をそのまま継いでいる。そしてそれはヒクソンのなかにも脈々と息づいていて、今回出した著書で彼が私たちに伝えたかったのもそれひとつだと言ってもいい」

 

著者は、古流柔術講道館柔道、ブラジリアン柔術は技術論以前に、同じ源をもつひとつの「思想」であると喝破します。そして、「技術体系が打撃中心であるとか投打中心であるとか寝技中心であるとか、そういった流派別の違いはあるが、思想性でまったく同じものなのだ。いや、私は空手や現代のMMAまですべてその貫くところは同じだと思っている。なぜならばその原点はすべて陳元贇の伝えた柔に嘉納治五郎乱取り(スパーリング)中心の稽古という偉大なる“発明”を加えて、世界中に柔道家たちが散らばる格闘技史におけるビッグバンが起きた結果、できたものだからだ」と述べるのでした。

流血の魔術最強の演技―すべてのプロレスはショーである

流血の魔術最強の演技―すべてのプロレスはショーである



続く「ミスター高橋×増田俊也『プロレス側から見た力道山vs木村政彦』」も非常に興味深い対談でした。新日本プロレスのレフェリーだったミスター高橋氏は、プロレスの秘密を暴露した書『流血の魔術 最強の演技―すべてのプロレスはショーである』の著者として知られます。 「昭和の巌流島決戦」と呼ばれた力道山vs木村政彦戦について、高橋氏は次のように鋭い指摘をしています。 「レフェリーがハロルド登喜さんじゃなくてもう少ししっかりした、しっかりしたという言い方は自分でもって自負しているようでおかしいんですけども、もし俺がやっていたら、木村先生が倒された時点でもってストップは絶対かけないよなと思って。力道山のほうを冷静にさせて、木村先生の意識が回復するのを待って、もう一度試合を続行させただろうなと思います」



高橋氏は、ハロルド登喜には常に力道山に給料をもらっているんだというような思いがすごくあり、怒らせてはいけないとか、自分の立場を考えてしまったのではないかと推測します。そして、次のように述べます。 「レスラーにものを言えないレフェリー、まずいですよね。レフェリーという立場はものすごく重要で、ただ単にワン・ツー・スリーを数えてればいいという問題じゃないんですよ。僕だって猪木さんの試合は随分裁きましたけれども、もちろん僕の勤めてる会社の社長であり、給料をもらってる立場ですけれども、それは別にして、やっぱり猪木さんと対等に口をきけるだけのものを持っていなかったら、リングの中で飲まれてしまって、登喜さんと同じような結果を出してしまうかもしれませんね」


高橋氏は、もし自分が力道山vs木村戦を裁いていたら、ハロルド登喜のように試合を終わらせなかったとして、「きちんと登喜さんが木村先生を立たせて試合を再開させたらどうなったかと、いろいろ僕は想像を膨らませたりしたんですけどね、多分、あのまんま木村先生のほうも『力道山が切れたんだったら、上等だ、わかったよ』と木村先生もそのつもりでセメントを仕掛けていったら、で、寝技へ入ったら、ちょっと力道山はどうにもならなかったんじゃないですかね。僕はそう思いましたね」



高橋氏は、力道山のセメントの実力について語っています。
「一緒に仕事していた人たちから聞くと、いわゆるレスリングのセメントは全くできないよと。まあ、今流に言うサブミッションなんか何も知らないよと。確かにそうだと思います。関節技なんかおそらく使えないでしょう」
「後のカール・ゴッチが教えるような指導って受けてませんしね。相撲からいきなりもうプロレスのショーを教わちゃったわけでしょ。そうするとやっぱり、俗に言うセメントというのはほとんどやっていないわけですよね」
遠藤幸吉さんなんかも言ってましたね、力道山は寝技が全くできなかったっていう話は。(ユセフ・)トルコさんもそういうことを仰ってましたね」
「木村先生はセメントがものすごかった、強かったようですから。木村先生ならずとも、例えばもう亡くなった、国際プロレスを作った吉原(功)さん、あの人にも力道山は寝技では全く歯が立たなかったようですね」



高橋氏の話を受けて、著者は「遠藤幸吉さんが言われていたんですけど、あのときは力道山も木村先生も二人ともプロレスを知らなかったんだと。プロレスをやるなら、最初から最後までプロレスをやりなさいと。喧嘩なら最初から最後まで喧嘩でやりなさいと。二人ともプロレスが何かまだよくわかってなかったからグチャグチャになってしまったと」と述べますが、わたしもこれが巌流島決戦の真相であったと思います。 著者はまた、「トップレスラーであり、半分プロモーターも兼ねていて、さらに団体のオーナーでもあった力道山に周囲も逆らえなかったっていうのが・・・・・・」と言いますが、それを受けて高橋氏は「誰も逆らえないですよ。その立場が一番強いですから、あんな強い立場のチャンピオンって、ちょっといませんから」と述べるのでした。



さらには「新日本時代に、あれに似た試合、KOまでいった試合はないと思いますが、実際に片方が暴走してしまった、それで高橋さんが裁いておられて困ったことってありましたか」という著者の質問に対して、高橋氏は1983年の第1回IWGP決勝でのアントニオ猪木vsハルク・ホーガン戦を挙げます。猪木が舌まで出して失神した演技をした試合です。それを聞いた著者は「あれは“KOされたふり”ですから木村先生と力道山の試合とは真逆になりますが、周りを慌てさせたという点では似ていますね」と述べます。 あれが一番焦った試合だったという高橋氏は、「猪木さんというのはすごいですね。ホーガンを騙し、レフェリーを騙し、マスコミまで騙して、一般紙がもうプロレスを扱わなくなっていた時代に掲載させてしまったんですから」とも語っています。「朝日新聞」をはじめよした一般紙は試合中の事故として、猪木の失神→病院送りを報道したのです。
後味の悪い力道山vs木村戦の後はプロレス人気が下火になりましたが、猪木vsホーガン戦の後はプロレスが世間から大いに最注目されました。恐るべし、猪木!



本書『木村政彦外伝』には、著者の柔道愛が横溢しています。 第3章「柔道とは何か?」の「古賀の兄と呼ばれた柔道家」の冒頭に置かれた「黒船ヘーシンクは日本人が送り込んだ刺客だった」という項が非常に興味深かったです。柔道について、著者は次のように述べています。 「いま柔道といわれている競技は、実は講道館という町道場が始めたひとつの流派でしかない。正式名は日本伝講道館柔道。これがスタンダードとなり、世界に広がった。 しかし、第二次世界大戦が終わるまで、日本にはこの講道館柔道と拮抗する2つの大勢力があった。ひとつは大日本武徳会。もうひとつは七帝国大学柔道連盟が主宰する高専柔道だ。この2つの“流派”は講道館創始者嘉納治五郎を悩ませるほど巨大化していた」


戦後、武徳会は連合軍最高司令官総司令部(GHQ)による「軍国主義的である」との名目で解散させられました。学制改革旧制高校が消滅したことによって、高専柔道も消えてしまいました。著者は「講道館はその後、『柔道は武道ではなくスポーツである』とGHQに“嘘”を言ってまで生き残った。いわば戦後の講道館の独占状態は、武徳会解散と高専柔道の消滅という“漁夫の利”から得たものだったのである」と述べています。 1949年5月、全日本柔道連盟全柔連)が結成され、講道館の三代目館長である嘉納履正が会長に就任。講道館はその勢力を盤石なものとし、武徳会に所属していた柔道家たちも講道館に鞍替えするしかなくなりました。



しかし一部の武徳会の柔道家は、講道館におもねることを潔しとせず、海外に活路を求めました。彼らは南北アメリカ大陸やヨーロッパ大陸に渡りましたが、その1人に道上伯という猛者がいました。
著者は、以下のように書いています。
「ヘーシンクはこの道上に鍛えられて実力を伸ばした選手だった。また、やはり武徳会出身で、柔道史上最強を謳われる木村政彦を最後に破った阿部謙四郎もヘーシンクに稽古をつけていた。強くなって当然であった。道上や阿部らの頭には『打倒講道館』という強いモチベーションがあった。ヘーシンクは武徳会の生き残りたちが日本に送り込んだ刺客だったのである。道上らは、戦後の日本柔道の弱点に気付いていた。寝技だ。だからヘーシンクの寝技を徹底的に鍛えた」


木村政彦のなかで生きた高専柔道」では、「柔道は格闘技なのだ。相手を制する術なのだ」として、著者は「競技スポーツとして試合を目指して稽古することは悪くない。しかし、護身性という発想だけは絶対に忘れてはいけない。柔道はそういうものではない――そういった言葉は、文科省が“武道”という定義づけの難しい言葉で中学校授業必修化を言ったいま、すでに通用しない。少なくとも武道という言葉の中には護身性という概念が含まれていることは間違いないからだ」と述べ、さらに「武道は、武技、武術などから発生した我が国固有の文化」という文部科学省の公式見解を紹介します。



続いて、著者は格闘家としての木村政彦について、以下のようにきわめて興味深い推測を行っています。
木村政彦が、当時としても大柄ではない170センチの身長で大外刈りを主武器として選んでその技を磨き上げたのは、もしかしたら“投げた後”まで考えていたのではないか。大外で一本取れずに終わても、背負い投げなどと違って相手に背中に回られる危険が少ないのが大外刈りである。そして大内刈りや小内刈りのように投げたあと相手のガードの中に入ってしまわない数少ない技が大外である。相手を後頭部から叩きつけて失神させることを目的としていた木村のことだ。充分に考えられる。そういう意味で、まさに木村政彦は格闘技の申し子であった。実戦柔道の申し子であった」

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか



第5章「男の星座たちに捧ぐ」では、「大宅壮一ノンフィクション賞受賞 増田俊也『天覧試合を語る』」で、2012年に『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』で第43回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したときの著者のコメントが印象的でした。
「格闘技とプロレスはずっと、呪いあっていた。呪われれば呪い返す、その連鎖にあった。呪いは何も生み出さない。人を動かすほんとうの原動力は愛だけです。本が出た後、まったく知らない人が書いたブログを読んでとても嬉しかった。そこには、『木村は言い訳を繰り返して生き続けた。でも、木村の勝ちだ。理由は、死後20年も経って、こんな熱烈なラブレターを送ってもらえる人間がいるだろうか。それをもらっただけでも木村は生きた価値があった』というようなことが書かれていました」



中井祐樹×増田俊也『七帝柔道、修斗、VTJ・・・・・・そして木村政彦の末裔として』」では、ゴルドーの反則で失明の大怪我を負った格闘家の中井祐樹氏が、力道山vs木村政彦戦について語った次の言葉が心に残りました。
「たぶん、自分が(バーリトゥード・ジャパン・オープン95のジェラルド・ゴルドー戦で)目をやられた時のことと少し似ているのかなと、勝手に思いましたね。比べるレベルにないような人だったとは思っているんですけど。僕がよく人から言われるのは『恨んでないのか』ということなんです。僕は“喧嘩”でそれをやられているけど、勝負としては勝たせてもらって、自分としてはスッキリしているところもあるんですね。ただ、長いこと自分がやりたかったことができなくなったという状態で、ケースは違うけど、それにちょっと似ているのかなと」

VTJ前夜の中井祐樹

VTJ前夜の中井祐樹



中井氏は北大柔道部で著者の後輩にあたるのですが、両者の絆は非常に強いです。ブログ『VTJ前夜の中井祐樹』で紹介した本では、著者は中井vsゴルドー戦、中井vsヒクソン戦の舞台裏に迫っています。著者のこれまでの仕事を見ると、木村政彦中井祐樹の2人こそ、心からリスペクトする格闘家であることがよくわかります。木村政彦はすでにこの世の人ではありませんが、前作同様に、本書『木村政彦外伝』も故人の荒ぶる魂を鎮める「鎮魂の書」となっていると感じました。



木村政彦 外伝

木村政彦 外伝

 

 

2018年9月3日 一条真也