東日本大震災15年

一条真也です。3月11日になりました。
東日本大震災の発生から15年目です。警察庁によると、今年3月1日時点で東日本大震災の死者は前年同期より1人増えて1万5901人、行方不明者は2519人となりました。震災から15年が経過した現在も、宮城・岩手・福島を中心に2500人以上が不明のままです。

2026年3月11日の各紙朝刊



ブログ「東日本大震災八周年追悼式」で紹介したように、2019年3月11日、わたしは東京の国立劇場で開催された内閣府主催の追悼式に参列しました。そのとき、「平成の玉音放送」を思い出しました。東日本大震災の発生当日、当時の天皇陛下(現在の上皇陛下)は皇學館大学の学生ボランティアによる皇居勤労奉仕団が皇居などで奉仕作業を行っておられました。



地震発生による交通マヒで勤労奉仕団が帰路に就くことが出来なくなってしまいましたが、そのことを耳にした陛下の指示により、皇學館大学皇居勤労奉仕団参加者全員を皇居内の施設である窓明館に宿泊させたそうです。当時の天皇皇后両陛下は、地震発生の翌日となる3月12日に地震・津波被害に対するお悔やみと見舞いの気持ちを示し、宮内庁長官を通して菅首相に、災害対策に全力を尽くしている関係者一同の努力を深く労う旨を伝えられました。



2011年3月11日は、日本人にとって決して忘れることのできない日になりました。三陸沖の海底で起こった巨大な地震は、信じられないほどの高さの大津波を引き起こし、東北から関東にかけての太平洋岸の海沿いの街や村々に壊滅的な被害をもたらしました。福島の第一原子力発電所の事故も引き起こしました。


陸上に漂着した船の前で(気仙沼)

 

この国に残る記録の上では、これまでマグニチュード9を超す地震は存在していませんでした。地震と津波にそなえて作られていたさまざまな設備施設のための想定をはるかに上回り、日本に未曾有の損害をもたらしました。じつに、日本列島そのものが歪んで2メートル半も東に押しやられました。


願はくば海に眠れる御霊らよ神の心で子孫をまもれ

 

震災の直後、わたしは足を骨折してしまいました。
ようやく快癒すると、被災地に向かいました。まず気仙沼を訪れたわたしは、海の底に眠る犠牲者の御霊(みたま)に対して心からの祈りを捧げるとともに、「ぜひ、祖霊という神となって、次に津波が来た時は子孫をお守り下さい」との願いを込め、数珠を持って次の歌を詠みました。

 

願はくば
 海に眠れる御霊らよ 

  神の心で
   子孫をまもれ(庸軒)



三陸の海をながめて

 

気仙沼から南三陸に向かいました。途中、三陸線の鉄道線路がブツッと切れていました。わたしは、多くの人命を奪った三陸の海をしばらく眺めました。南三陸町は根こそぎ津波にやられており、一面が廃墟という有様でした。そんな中に、かの防災対策庁舎がありました。津波が来たとき、最後までマイクで住人に避難を呼びかけ続け、自らは犠牲となってしまった女性職員がいた庁舎です。ここは建物の廃墟の前に祭壇が設えられ、花や飲み物やお菓子などが置かれていました。多くの人々がこの場所を訪れました。


防災対策庁舎の前で祈る

 

それにしても、見渡す限り一面が廃墟でした。この場所のみならず、東北一帯で多くの方々が亡くなりました。大地震と大津波で、3・11以降の東北はまさに「黄泉の国」といった印象でした。黄泉の国とは『古事記』に出てくる死後の世界で、いわゆる「あの世」です。神話では、かつて「あの世」と「この世」は自由に行き来できたとされています。それが日本では、7世紀頃にできなくなりました。それまで「あの世」に通じる通路はいたる所にあったようですが、イザナギの愚かな行為によってその通路が断ち切られました。イザナギが亡くなった愛妻イザナミを追って黄泉の国に行きました。そこまでは構わないのですが、彼は黄泉の国で見た妻の醜い姿に恐れをなして、逃げ帰ってきたのです。イザナギの心ない裏切りによって、あの世とこの世をつなぐ通路だったヨモツヒラサカは1000人で押しても動かない巨石でふさがれました。


みちのくのよもつひらさか開きたる
あの日忘るな命尽くまで

 

マグニチュード9の巨大地震は時間と空間を歪めてヨモツヒラサカの巨石を動かし、黄泉の国を再び現出させてしまったのではないか。そのような妄想さえ抱かせる大災害でした。わたしは、「東北でヨモツヒラサカが再び通じた3・11を絶対に忘れず、生存者は命が続く限りおぼえておこう」と願い、数珠を持って次の短歌を詠みました。


みちのくの
 よもつひらさか開きたる 
  あの日忘るな
    命尽くまで(庸軒)



巨大なクジラ缶の前で(石巻)

 

大津波の発生後、しばらくは大量の遺体は発見されず、多くの行方不明者がいました。火葬場も壊れて通常の葬儀をあげることができず、現地では土葬が行われました。海の近くにあった墓も津波の濁流に流されました。葬儀ができない、遺体がない、墓がない、遺品がない、そして、気持ちのやり場がない・・・・・・まさに「ない、ない」尽くしの状況は、今回の災害のダメージがいかに甚大であり、辛うじて助かった被災者の方々の心にも大きなダメージが残されたことを示していました。現地では毎日、「人間の尊厳」が問われました。亡くなられた犠牲者の尊厳と、生き残った被災者の尊厳がともに問われ続けたのです。「葬式は、要らない」という妄言は、大津波とともに流れ去ってしまいました。


京大で「東日本大震災とグリーフケアについて」を報告


わたしは、東日本大震災で愛する人を亡くした人たちのことを考えました。わが社が取り組んできたグリーフケア活動をさらに推進させました。上級心理カウンセラーの資格を多くの社員が取得しました。わたし自身も、さらにグリーフケアについての研究を重ねました。そして、ブログ「『こころの再生』シンポジウム」に書いたように、2012年7月には京都大学で「東日本大震災とグリーフケアについて」を報告する機会も与えていただきました。わたしにとって、まことに貴重な経験となりました。


のこされた あなたへ』(佼成出版社)

愛する人を亡くし、生き残った方々は、これからどう生きるべきなのか・・・・・・そんなことを考えながら、わたしは『のこされた あなたへ』(佼成出版社)を書きました。もちろん、どのような言葉をおかけしたとしても、亡くなった方が生き返ることはありませんし、残された方の悲しみが完全に癒えることもありません。しかし、少しでも悲しみが軽くなるお手伝いができないかと、わたしは心を込めて、ときには涙を流しながら同書を書きました。


「サンデー毎日」2017年3月19日号

 

のこされた あなたへ』で、わたしが一番言いたかったことは何か。それは、残された人は、亡くなった愛する人に必ず再会できるということ。死別はたしかに辛く悲しい体験ですが、その別れは永遠のものではありません。残された人は、また亡くなった人に会えるのです。
風や光や雨や雪や星として会える。
夢で会える。
あの世で会える。
生まれ変わって会える。
そして、月で会える。
世の中には、いろんな信仰があり、いろんな物語がある。しかし、いずれにしても、必ず再会できるのです。
ですから、死別というのは時間差で旅行に出かけるようなものなのです。先に行く人は「では、お先に」と言い、後から行く人は「後から行くから、待っててね」と声をかけるのです。ただ、それだけのことなのです。


石巻の教会の上空に上る月

 

考えてみれば、本当に不思議なことなのですが、世界中の言語における別れの挨拶に「また会いましょう」という再会の約束が込められています。日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうです。英語の「See you again」もそうです。フランス語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様です。
これは、一体どういうことでしょうか?
世界中に住む昔の人間たちは、辛く、さびしい別れに直面するにあたって、再会の希望をもつことでそれに耐えてきたのかもしれません。
でも、こういう見方もできないでしょうか?
二度と会えないという本当の別れなど存在せず、必ずまた再会できるという真理を人類は無意識のうちに知っていたのだと。その無意識が、世界中の別れの挨拶に再会の約束を重ねさせたのだと。そう、別れても、わたしたちは必ず再会できるのです。
「また会えるから」という言葉を合言葉に、愛する人との再会の日を楽しみに、残された方々には生きていただきたいと心から願っています。


石巻の海に上る月

 

言うまでもなく、これからも人間は死に続けます。
多くの地震や津波や台風で、そしてテロや戦争で、世界中の多くの人命が失われることでしょう。また、天災や人災でなくとも、病気や事故などで多くの方々がこの世を続々と卒業されていくでしょう。
愛する人と死に別れることは人間の最大の試練です。しかし、試練の先には再会というご褒美が待っています。
けっして、絶望することはありません。
けっして、あせる必要もありません。
なぜなら、最後には、また会えるのですから。

 

どうしても悲しくて、辛いときは、どうか夜空の月を見上げて下さい。そこには、あなたの愛する人の面影が浮かんでいるはずです。愛する人は、あなたとの再会を楽しみに、気長に待ってくれることでしょう。東日本大震災から15年、多くの死者たちに支えられて、わたしたちは生きていきます。そう、わたしたちは、これからも生きていくのです。ブッダは、満月の夜にあらゆる生きとし生けるものの幸せを願って「慈経」の教えを説きました。「幸せであれ 平穏であれ 安らかであれ」と説きました。



ブログ「宣誓」で紹介した日本映画を一昨日観ました。東日本大震災の被災地を舞台に、震災で家族を失った自衛隊員と少年の交流を描く人間ドラマです。被災地に派遣された自衛隊員・春日三尉(前川泰之)は、自身も津波で妻子を失った悲しみを抱えながらも、避難所支援の任務に当たっていました。そんな中、彼は自分と同じように家族を失い、心を閉ざした少年・吉村和樹と出会う。自衛隊の活動を目の当たりにした和樹は、被災した人々を手助けしようと自ら行動し始めます。共に喪失の痛みを抱えた春日と和樹は、徐々に心を通わせ生きる希望を取り戻していくのでした。

 

東日本大震災では、自衛隊がめざましい活動をしました。過去最大規模の約10万7千人(最大時)を投入し、人命救助、生活支援、原発対応など多岐にわたりました。災害派遣初の「統合任務部隊」を編成し、震災直後から半年以上、2万人近くの救助や3万トン以上の給水支援など、復興の基盤を築く献身的な活動が行われました。主な任務は人命救助(19286名)、遺体収容(9408体)ですが、給水・給食、入浴支援、道路啓開、福島第一原発への放水・支援活動も行っています。本当に頭が下がります。

生活支援小隊はケアの集団だった!

 

映画「宣誓」は、この東日本大震災における自衛隊の生活支援小隊の活動を描いています。「国土と国民を守る」という使命感に燃えた彼らの生きざまから、わたしは腰が抜けるほどの感動をおぼえました。彼らは避難所の人々に「どうしましたか?」「何かお困りのことはありませんか?」と声をかけ、炊き出しを行い、トイレを作り、入浴をさせ、医療のサポートをし、花やぬいぐるみを飾り、遺体を探し、見つかった遺体を弔います。さらには、愛する人を亡くした人に寄り添うのです。それはもう「ケア」のあらゆる分野が集まった「トータル・ライフケア」ともいえる仕事ぶりでした。「史上最大の作戦」とも呼ばれた東日本大震災における自衛隊の災害派遣活動は、その後の日本の自然災害の被災地支援にも大きな影響を与えました。2024年1月1日に発生した能登半島地震のときもそうでした。



映画「宣誓」を一緒に観たサンレー北陸の大谷賢博部長は上級グリーフケア士であり、能登半島地震の被災者でもあります。鑑賞後に彼から届いたLINEには、「この映画を観ながら、能登半島地震のときに出会った自衛隊の方々の姿をずっと思い出していました。避難所に誰よりも早く来てくれた姫路市の部隊、そして仮設浴場を設置してくれた京都市の部隊など。誰かがそばにいるということ。そのことが、不安と恐怖の中でどれほど大きな支えであったか、あらためて思い起こされました。この映画の中で描かれていた被災者の不安や疲労や恐怖は、まるで悲しみとともに生きていく人の姿そのもののように感じられました。それでもその重さを抱えながら、一歩進み、立ち止まり、ときには後ろに戻りながら、また歩いていこうとする姿に人間の根源的な美しさを感じました」と書かれていました。

 

大谷部長からのLINEには、「道路や建物の復旧の速度と、人の心の時間の速度の違いに必要なのは、その人の心の時間に寄り添う営みだということ。急がせることなく、忘れさせることなく、ただそばにいること。悲しみの隣に、静かに座り続けること。声に出して語られる誓いではなく、それぞれの場所で、それぞれの役割を生き続けるという静かな誓い。悲しみのそばに立ち続けること。忘れられそうな亡き人の名前を思い続けること。それが、グリーフケア士としての私の『宣誓』なのだと、この映画があらためて教えてくれました」とも書かれていました。東日本大震災は日本に「グリーフケア」という考え方が広まったきっかけになったとされています。サザンオールスターズの名曲「TSUNAMI」の歌詞のように、震災で深いグリーフを抱えた方々の心の「深い闇に夜明けが来る」ことを心から願っています。

 

*よろしければ、佐久間庸和ブログもお読み下さい!
https://tenkafurei.hatenablog.com/

 

2026年3月11日 一条真也