一条真也です。
ネットフリックスのオリジナルドラマ「私のトナカイちゃん」を観ました。ブログ「視線」を読んだ映画通の方が、「ストーカーといえば、Netflix『私のトナカイちゃん』も凄まじかったですよ」と教えてくれたのです。全7話で、各話30分。1話を観始めると面白く、一気に全話鑑賞しました。確かに凄まじく、後を引く作品でした。
「私のトナカイちゃん」は、ストーカーの恐怖を描いたスリラーであり、ヒューマンドラマ。リチャード・ガッドが監督と主演を務めています。2024年エミー賞はドラマ部門18冠の「SHOGUN 将軍」旋風が吹き荒れましたが、リミテッド部門を賑わせたのが「私のトナカイちゃん」でした。ネットフリックスの上半期の視聴数だけで8800万と大ヒット、エミー賞を大いに席巻しました。
イギリスのコメディアンであるリチャード・ガッドが自身の体験を元に舞台劇を作り、自ら本作の脚本、製作を担当しました。ストーカーに狙われるドニーを見事に演じて、エミー賞では作品、脚本に主演男優賞と3冠に輝きました。ドニ―のストーカーであるマーサを演じたジェシカ・ガニングも助演女優賞。そして、自身もトランスジェンダーというナバ・マウが、妖艶さと知性を漂わせるテリー役で、助演女優賞の候補となりました。出演者たちは、いずれも今後の大活躍が期待されています。
この「私のトナカイちゃん」というドラマが単なるストーカーものに終わっていないのは、視聴者が被害者であるはずのドニーに共感しづらいのです。反対に、加害者であるはずのマーサに共感してしまう部分さえあります。それだけ、ドニーは優柔不断で思わせぶりで、「こんな男のどこがいいのか?」と思ってしまいます。彼はコメディアンなのですが、そのパフォーマンスは素人以下で、まったく面白くありません。一方、彼をつけ回すマーサの方は頭の回転も速く、お笑いのセンスもあります。キレると手がつけられませんが、普段は陽気でおしゃべりな中年女性といった感じで憎めません。可愛くさえ思えてきます。
ただ、いったんストーカーと化したマーサはきわめて危険な存在です。マーサの大柄な風貌は、スティーブン・キング原作でロブ・ライナー監督のアメリカ映画「ミザリー」(1990年)に登場する女性を連想しました。雪山で事故に遭遇したベストセラー作家のポール・シェルダン(ジェームス・カーン)を助け出した熱狂的な女性愛読者ミザリー(キャシー・ベイツ)。身動きの取れない作家は彼女のロッジで看護を受けますが、次第に彼女の狂気が浮かび上がってきます。主演のキャシー・ベイツはアカデミー主演女優賞を受賞。ポールの小説タイトルであり、小説内のヒロイン名「ミザリー(Misery)」とは、直訳で「哀れ・惨めさ・悲嘆」を意味しています。
「ミザリー」のように危ないファン心理をついた作品の中では、主人公とファンの間に作品という媒体を通して、恐怖シーンを始めとしたストーリーを展開させてある所がポイントです。その原点ともいうべき映画が、クリント・イーストウッドが監督と主演を務めた「恐怖のメロディ」(1971年)ですね。カリフォルニア、モントレーの地方局でDJをしている男(クリント・イーストウッド)の前に、いつも「ミスティ」をリクエストしてくる女性(ジェシカ・ウォーター)が現れる。だが、出来心から一夜を共にして以来、女の態度が常軌を逸してくるのでした。「恐怖のメロディ」は現在94歳のイーストウッドの監督デビュー作ですが、この作品に登場する「ミスティ(Misty)」は、ジャズ・ピアニストのエロール・ガーナーによって1954年に作曲されたバラードです。
そして、ストーカー映画といえば、エイドリアン・ライン監督によるアメリカ映画「危険な情事」(1987年)を忘れるわけにはいきません。第60回アカデミー賞において6部門にノミネートされたスリラーです。ニューヨークで弁護士を勤めるダン(マイケル・ダグラス)は、妻のベス(アン・アーチャー)と娘のエレン(エレン・ハミルトン・ラッツェン)と平和な日々を過ごしていました。ある金曜日、ダンは、妻同席で出席した出版社のパーティで、新入りの編集者アレックス(グレン・クローズ)と知り合います。その翌日、妻子が所用で実家に帰っている間に、ダンは訴訟の相談に乗るため出版社に出向き、アレックスと再会しますが、2人はそのまま週末を共に過ごします。ダンにとっては一夜の遊びでしたが、アレックスはそれを運命の出会いと思い込み、ダンにつきまとい始めます。
「真夜中のメロディ」も、「危険な女児」も、男にとって一夜だけの情事のつもりが、女にとってはそうではなかった恐怖を描いています。男を独占したいがための女の常軌を逸した行動は、やがて殺意を伴うものに変わって行き、最後には悲惨な結末が待っています。「私のトナカイちゃん」は、そういった映画のように「一夜だけの情事のつもりが・・・」という浮気のツケを払うといった類の話ではありません。第一、ドニーは独身ですが、マーサはとても抱きたくなるようなタイプの女性ではないのです。売れないお笑い芸人であるドニーが、自分が働いているパブに入ってきた大柄な女性の打ちひしがれた様子に同情し、紅茶をごちそうしたのがすべての始まりでした。その後、半年以上にわたってドニーはストーカー被害を受けますが、その間も彼女にダイエットコーrラを無償で提供しています。これはいけません。これでは、マーサが「ドニーは自分に気がある」と思っても仕方ないでしょう。
さて、「私のトナカイちゃん」はリチャード・ガッドの実体験に基づいていることになっていますが、このドラマでストーカーとして描かれた実在の女性が、自身がこの作品で不正確に描かれ、ネットフリックスとドラマのクリエイターによって名誉を傷つけられたとして、訴訟を起こそうとしています。このドラマで女性ストーカーとして描かれるフィオナ・ハーヴェイは、2013年にロンドンのバーで、リチャード・ガッドに出会い、その後、彼に数万通ものメールや手紙を送りつけ、執拗にストーカー行為を行ったとされています。ガッドはストーカーの身元を明かしていませんでした。ハーヴェイによれば、ドラマのファンによってすぐにマーサのモデルは彼女と特定され、名誉を傷つけられたと主張しています。「私のトナカイちゃん」は、ガッドが10年以上前にストーカー被害を受けた経験を基にしたドラマです。彼をストーキングした女性は、ドラマの中で逮捕・起訴され、9カ月の実刑判決を受けたと描かれていますが、これも事実とは異なると、ハーヴェイは主張しています。これはもう「藪の中」ですね。
「私のトナカイちゃん」は実話なのか、フィクションなのか。当事者でないわたしには知る由もありませんが、訴訟騒動にまでなったという事実を知って、わたしは悲しくなりました。そもそも、「私のトナカイちゃん」の物語は、可哀そうな女性に同情した主人公のコンパッションから始まったのです。それは最終話の最後で、ドニーが1軒のパブに立ち寄るシーンでも繰り返されます。マーサを刑務所送りにした後ろめたさに泣き崩れたドニーは酒を注文するも、持ち合わせがないことに気づきます。そのとき、ドニーに同情したバーテンは、「代金はいいよ」と奢ってくれるのです。そこにも、コンパッションがありました。コンパッションの発動は、相手が男性とか女性とか関係ないのです。奇しくも、このドラマには男性による男性への性加害やトランスジェンダーの人物なども登場します。「人に優しくするのに、男も女も関係ない」のかもしれません。その意味で、ドニーのコンパッションをマーサが誤解したことが不幸だったのでしょう。
コンパッションといえば、わたしは CSHWのハートフル・サイクルというものを提唱しています。Compassion(思いやり)⇒Smile(笑顔)⇒Happy(幸せ)⇒Well-being(持続的幸福)を意味しています。コンパッションから始まったものは本来はウェルビーイングに至るはずなのですが、「私のトナカイちゃん」に登場するマーサのようなストーカーの場合はどうなのでしょうか? わたしは、ストーキングという行為には「持続性」があることに注目し、好きな相手を追いかけ回す行為がウェルビーイングの変種というか奇形というべきものであるのではないかと思いました。ストーキングとは歪んだウェルビーイングであり、この場合の CSHWはストーカーにとっては ハートフル・サイクルでも被害者からするとハートレス・サイクルになるのでしょう。なお、この「 CSHW」は、『心ゆたかな言葉』(オリーブの木)で詳しく紹介しています。ご参考までに。
2025年1月9日 一条真也拝