一条真也です。
「月刊フューネラルビジネス」2024年12月号はグリーフケア特集ですが、ブログ「重要性高まる『グリーフケア』」で紹介した、グリーフケア資格認定制度を運営する一般財団法人 冠婚葬祭文化振興財団の理事長としてのわがコメント記事が掲載されています。同誌には、サンレー北陸の大谷賢博部長のレポートも4ページにわたって掲載。これは、自分の記事よりも嬉しいですね!
「フューネラルビジネス」2024年12月号より
記事は、「被災者、上級グリーフケア士として 遭遇・体験した能登半島地震」「大谷賢博 氏[(株)サンレー(北陸)紫雲閣事業部部長]」として、こう書かれています。
帰省中に起こった
令和6年 能登半島地震
正月に石川県羽咋郡志賀町にある実家に帰省し、久しぶりに両親と弟と一緒に正月番組を見ながらくつろいでいたところ、突然強い揺れが発生しました。しばらくして揺れが収まったので、家族で外へ出ようかと話し合っていた矢先に、今度はさらに強烈な揺れに襲われ、立っていることもできずに玄関の床に這いつくばるのが精いっぱいでした。激しい横揺れと大きな軋み音で、このままでは家が倒壊して下敷きになると思い、何とか弟と一緒に両親を玄関の外まで引きずり出しました。それが最大震度7を観測し、建物倒壊、津波被害による多くの犠牲者が出た「令和6年 能登半島地震」の発生の瞬間でした。
地震後すぐに大津波警報が発令され、近隣の方々と高台にある墓地まで避難。そこで目にしたのはすべて倒壊して重なり合った墓石でした。混乱のなかで近所の人たちとこれからどうするかを 話し合っているうちに夜になり、気温も下がってきたので、今度は皆で車に乗り合わせて国道沿いの山に移動しました。そのときに見上げた夜空にはいままで見たこともないきれいな星空が輝いており、「神様のいたずらではないか」と思いました。 車中で過ごしながら考えたことは、「いまここにいる自分の役割とは何か?」ということでした。 地震発生後すぐに、弊社社長( サンレー佐久間庸和社長)から安否確認があり、無事であることを伝えると「いくらでも会社を休んで、皆さんの命と心を守ってあげてください!」という言葉をもらいました。私はその言葉で被災地にとどまる覚悟のスイッチが入ったように思います。 両親や地域の高齢者の不安感情にどのように寄り添うか、そしてあの状況のなかでも自分自身の「感情プロセスの観察」として感情メモを記録していたことは、上級グリーフケア士として訓練を受けていたからだと後になって気づきました。
グリーフケア士とは、一般財団法人 冠婚葬祭文化振興財団の資格制度です。私はグリーフケア資格研修ファシリテーター養成課程を受講し、2022年4月に上級グリーフケア士の資格を取得しておりました。
避難生活で実感した
“供養” は人間の本能
地震発生から一夜明けてから津波警報が解除されました。私は被災者ではありますが、上級グリーフケア士としての活動をすべきと考え、自宅近辺に戻り、世帯ごとの安否確認を行ないました。まだ余震が続いているため建物に入るのは危険であったため、まずは駐車場で椅子やストーブを並べて簡易避難所として過ごしました。その後、地域の集会所が安全であることを確認し、そこを自主避難所として開設することにし、何とか高齢者を建物の中に入れることができました。そうすると自分の心にも余裕ができ、小さな崖崩れの発生 箇所を補修したり、バケツに雨水を溜めて生活用水の確保をし、室内にアンテナ配線でテレビを設置するなど、少しでも皆の心が落ち着ける環境整備に取り組みました。 避難生活でのグリーフケア活動としては、感情プロセスを知ることが重要な要素でしたが、それは葬儀に従事する者がご遺族の感情プロセスを知ることと同じであると思いました。
地震発生から数日後に、壊れた自分の家の中で立ち尽くす父親の横に、私も無言で立ち尽くすしかなかったこと、毎日夢を見ているような感覚に陥り、ときにはこの現実を認めたくないという否認、そして、自分の心を最も多く支配した「神に対する怒り」など、自分ではまったくコントロールできない強烈な怒りを人生ではじめて経験しました。
「フューネラルビジネス」2024年12月号より
また、空き巣被害、偽自衛官、悪徳工事業者、偽ボランティアによるデマや実際の被害報告が耳に入ってきて、人々が混乱に陥りパニックになっていく様子、さらには震災から1週間経って、皆があまり喋らなくなる抑うつ症状になりました。道路が復旧し両親と一緒に必要物資の買い物や大型銭湯に長時間かけて行った際に、被災していない人たちの笑顔を見て「ここは被災者が来る場所ではない」という疎外感。上級グリーフケア士として被災者の心のケアを行ないたいという思いはあるものの、私自身が実は身も心も疲れ切っていることに気づく瞬間もたくさんありました。そんな状態のなかでも、自分が回復しグリーフケア活動を実践していくきっかけが、昨年1月10日に亡くなった祖母の一周忌法要でした。当初は、地震により法要をキャンセルしておりましたが、命日が近づくにつれて「何とかお参りだけでもできないか」という思いが強く損壊が少なかった玄関の下駄箱の上に仏具と法名を置いて、住職にお経をあげてもらいました。「供養をする」という行為によって心が安らいでいく感情の流れに、まさに「“供養”は人間の本能」だと気づかされ、それと同時に、被災地には「祈る場所」が必要であるということも実感しました。
グリーフケア士として
被災者の心境を傾聴
さらに私を奮い立たせたのは、支援物資の運搬や給水、道路補修や各避難所のパトロール、仮設入浴場の設置を行なってくれた自衛隊員や、警察、消防、D ディーパットPAT(災害派遣精神科医療チーム)、JジェイマットMAT(日本医師会災害医療チーム)、日本赤十字社などの各方面のスペシャリストの存在でした。特にDPATが避難所に訪問して、避難者に1人ずつ声をかけ傾聴していく姿を見て激しく心が揺さぶられました。それによって自分自身の辛さや苦しみ以上に、「悲しみを抱えた方に寄り添う」という力がいただけました。
そのときから被災者の感情の動きに敏感になっていったように思います。たとえば安否不明者がまだ323人もいるのに、新聞の地震記事に「復興」や「再建」という言葉がふえてきたことに怒りを覚える人たち。生まれ育った家の一部や、大切な思い出のある品を「瓦礫」や「災害ゴミ」と呼ばれることに苦しむ人たち。どれだけ憔悴していても、電話の相手には必ず「元気や」と言う人たち。 震度7でも損傷しなかった頑丈な自宅にいる人たちが大きな余震が来たときに老朽化した自主避難 所に集まってきたときは、人は「安全な建物」よりも「誰かといる安心」を必要としているのだと 気づかされました。
「フューネラルビジネス」2024年12月号より
避難所では「少人数で語れる場所」が必要であるとも思いました。避難所にはたくさんの人たち がいるので、心の中にある本当の悲しみを吐露するのはむずかしいのです。なぜなら、皆が同じ境遇でたいへんだから「自分だけが弱音を吐くわけにはいかない」という心理がはたらくからです。 そこで、日中避難所で少人数になるタイミングを見計らって、1人ひとりの現在の心境などを傾聴することをはじめました。 最初の数日間は誰もが胸の内を語ることはしてくれず簡単ではないなと思いましたが、あるときにそれぞれの人が避難所に持ってきている「大切なもの」があることに気づきました。それは家族写真や親の遺品、孫からのプレゼントなどでした。 その大切なものに言葉でふれていくことが、語りのきっかけとなりました。その人の心の中にうごめいている何かが現われてきて、その何かを丁寧 に聴いていく。そうすることによって、その人が自分で言葉にできない感情を言語化していく。これはまさに上級グリーフケア士の養成講座で学ん だことが、実践として活かされた瞬間でした。
Survivor‘s Guilt
Wounded Healer
「ケア者のケア」を感じる瞬間も幾度かありま した。私の感情プロセスをグループLINEで常に発信し、静かに受け止めてくれた上級グリーフケア士の仲間たち。避難所生活を終了し、家族(妻 と子ども)と一緒に外食をし、本屋に行っただけで避難所の人たちに申し訳ない気持ちでいっぱいになったことをLINEで共有したときに、それは「Survivor's Guilt(生き残った者が抱く罪悪感) といって、とてもデリケートで高貴な感覚です」 と伝えてくれた上智大学グリーフケア研究所の客員研究員である伊藤高章先生。仕事に復帰して間もない頃に、葬儀を終えたご遺族からグリーフケアの依頼があり、被災した自分がケアを対応したことに対して「Wounded Healer(傷ついた癒し手) という尊い実践」と伝えてくれた上智大学グリーフケア研究所の客員研究員である粟津賢太先生。 そのような「高貴」「尊い」という言葉を聞いて、 自分が抱えている感情や自分が実践していることがいかに大切な営みであるのだとわかり、張り詰めていた心がフッと軽くなりました。これがまさにケアを実践する人をケアするということなのだと思いました。 そして、佐久間庸和社長が「一条真也の新ハートフル・ブログ」で「能登半島からのLINE」と いうタイトルで、被災地の状況を発信しつづけてくれたことは、ケアを実践している私のみならず、被災者にとっても多きな力を与えてくれました。
「フューネラルビジネス」2024年12月号より
悲しみも怒りも愛の表現形であり、亡くなった人との別れが辛く悲しいのは、愛しいからであり、その人を愛するゆえの喪失感に対する怒り、悲しみであったりします。それはけっして人との別れの喪失だけではなく、何十年も住んでいた家が倒壊したり、その土地を離れなければならない現実であったり、喪失の形は人それぞれです。ある時期から「がんばろう能登」という励ましの言葉が合言葉のように叫ばれていましたが、深い悲しみを抱えている人にとっては「頑張って元気になること」が、その人との「関係を結び直す条件」だと聞こえます。
新聞やテレビから「復興」や「再建」という言葉があふれてきて、明るく元気に前に進もうと努力している人たちばかりの姿がテレビで映し出されるようになり、「みんなで手を取り合って前に進んでいます」という新聞記事も多くなりました。そのほうが世の中に受け入れやすいからだろうと思います。しかし現実には、多くの被災者がどうしていいかわからず途方に暮れており、毎日何も進まず自分の無力さに悔しい思いをしている人たちのほうが圧倒的に多いのです。それなのに報道はどうして辛く悲しい現実を伝えようとしないのか。悲しみから目を背けようとする社会とは、生きることを大切にしていない社会ではないかと思います。その現実がいまの日本社会にグリーフケアが必要である理由でもあります。その後、私は仮設住宅に入居することができましたが、家は全壊判定をされて公費解体を余儀なくされました。それにもかかわらず、解体が決定している家に通い続けて、壊れた箇所を修理する父親を見たときは胸が張り裂けそうでした。私も一緒に苦しもうと思い、何も言わず黙って修理を手伝いました。
被災地にはさまざまな問題がありますが、ケアの視点から考えれば、生きている人たちの問題だけを話し合っても何も解決しません。ご遺族の苦しみは、自分たちの将来の生活の不安だけにあるのではなく、亡くなってしまった家族のことが忘れ去られて語られているところにあるのではないでしょうか。死者のことを語ることなく、被災地を復興しようとするのでは何も進展しません。
支援しようとする人たちが、「自分たちが被災者に何を援助できるか」ということではなく、「自分たちが被災者から何を与えられているか」と考えることが、これから大切になってくると思います。悲しみを抱えながらも歩いていくことができるようになること。いまの世の中で、グリーフケア士の社会的役割はとても大きいのです。
今回の能登半島地震での被災体験により、私には「DGCT」(Disaster Grief Care Team・災害派遣グリーフケアチーム)を立ち上げたいという夢が出てきました。グリーフケア士が被災地に入り、辛く苦しい感情を抱えている人たちを長期的に支援していきたいと思います。どんな困難な道のりであろうとも、実現に向けてこれからも歩んでいきます。
金沢紫雲閣で大谷部長と
なお、同記事に掲載された大谷部長のプロフィールには、「1972年生まれ。石川県出身。1994年に(株)サンレー入社。グリーフケア資格研修ファシリテーター養成課程(一般財団法人 冠婚葬祭文化振興財団)を受講し、2022年4月に上級グリーフケア士の資格を取得。グループ本社(北九州)ですでに活動している遺族の会「月あかりの会」を北陸でも立ち上げ、責任者として携わる。現在は合同慰霊祭、個別グリーフケア対応、少人数での死生観カフェ等でグリーフケア活動を行なっている。24年1月に実家の能登半島にて被災し、避難所で生活をしながら被災者のグリーフケア活動を実践した」と書かれています。大谷部長は日本初の上級グリーフケア士の1人ですが、このたびの貴重な体験をふまえ、日本初の災害社会支援士を目指すことになりました。DGCTを立ち上げたいという彼の夢を会社としても全力でサポートしたいと思います。
地震発生直後に大谷部長と交わしたLINE
2024年11月27日 一条真也拝