『現代語訳 般若心経』

現代語訳 般若心経 (ちくま新書)

 

一条真也です。
『現代語訳 般若心経』玄侑宗久著(ちくま新書)を読みました。アマゾンの内容紹介には、「人はどうしたら苦しみから自由になれるのだろうか。私たちは、生まれ落ち成長するにしたがって、世界を言語によって認識し、概念を動員して理解する。それは、社会で生きる以上不可欠なものかもしれないが、いっぽうで迷いや苦しみの根源でもある。『般若心経』には、そうした合理的知性を超えた、もうひとつの「知」が凝縮されている。大いなる全体性のなかに溶け込んだ「いのち」のよろこびを取り戻すための現代語訳決定版」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
一、「般若心経」(大本)の訳
二、「般若心経」(小本)の訳
三、「般若心経」(小本)の書き下ろし
「般若心経全文」
「般若心経のよみ方」
「絵心経」
「解題」
「あとがき」
「図版クレジット一覧」



「はじめに」の「いのちの全体性へ」では、古代ギリシャ哲学が取り上げられます。霊魂(プシュケ)がある種の「全体性」であれば、むろん理知によって到達できるはずもありません。いかにソクラテスデルフォイの神託どおり賢明であり、その弁明が優れていたとしても、理知的な分析知は必ずや「全「体性」を分断する方向に働きます。「全体性」とは、体験的に観ずるものであって分析するものではないとして、著者は「世尊が提出したのは、理知によらないもう一つの体験的な『知』の様式である。そして世尊はそれを『般若』と呼んだ。これはサンスクリットでは『プラジュニャー』、パーリ語では『パンニャー』と云うが、この『パンニャー』が音写されて『般若』になった」と述べています。



「般若」の捉える「全体性」は、無常に変化しつつ無限の関係性の中にあり、それは絶えざる創造の場です。そこでは、我々の成長に伴って確立されるという自立した「個」も、錯覚であったと自覚されます。そして自立した「個」を措定していたことこそが「迷い」や「苦しみ」の元であったと知るのです。著者は、「おそらく、世に云うお釈迦さまの『悟り』や『目覚め』の内容とは、主にはそういうことではなかったかと、今の私は思っている。『個』の錯覚が元になった自己中心的な世界の眺めは、このもう一つの『知』である『般若』の実現で一変するのである。絶えざる変化と無限の関係性が『縁起』として実感され、あらゆる物質も現象も、『空』という『全体性』に溶け込んだ『個』ならざるものとして感じられる。そのとき人は、『涅槃』と呼ばれる究極の安らぎに到り、また『しあわせ』も感じるのではないだろうか」と述べます。



「瞑想という知」では、『般若心経』という経典は、すべてが理知によって解釈されるはずだという科学主義に対し、「いのち」や「しあわせ」というリアリティーはそうではないのだと、いわば真っ向から挑戦状を突きつけているといいます。仏教の精密かつ哲学的でさえある認識を、含みつつ超える道を示し、理知とは別な「知」の様式を示そうとしたというのです。ブッダは弟子たちの幾つかの質問に沈黙を以て答えたとされ、それは「無記」と呼ばれていますが、著者は「このことの真意もそういうことだった気がする。弟子たちを導こうとしている『目覚め』の体験からすれば、合理的な説明や議論がかえって体験を妨げることがあることを、世尊は熟知していたのだろう。人間がいかに言葉の意味にさらわれ、合理性に絡めとられやすいかを、きっとブッダ老子荘子はつくづくご存じだったのである」と述べています。



老子はすでにブッダと同じ頃、「民に利器多くして、国家滋昏る」(五十七章)と云い、「智慧出でて大偽あり」(十八章)と書きました。人間が合理性を根拠に便利さを追求する本性は、たぶん言葉を使いはじめたとき以来連綿とありつづけ、それによって失われる「いのち」のリアリティーを憂える人々は昔からいたのでしょう。そんな人々が「道(タオ)」や「渾沌」、そして「明」や「般若」を説いたのです。著者は、「とにかく『般若心経』には我々が『いのち』のリアリティーを取り戻す現実的な道が示されている。むろんソクラテスと同様、世尊は一冊の著作も残さなかったから、このお経だって世尊が書いたわけではない。それどころか、これは仏滅後数100年経ってから書かれたフィクションである。しかし、時間が経っていることもフィクションであることも、けっしてそのこと自体が経典の価値を貶めることにはならない。あらゆる人間の著作はフィクションなのだし、物事の『全体性』が常に人間には把握できないものである以上、人は他人の脳に構築された虚構をなぞることで事実の意味を知ることも多い。そしてそのために、「歴史」と呼べるほどの時間を要することも、稀ではないのである」と述べるのでした。



「一、『般若心経』(大本)の訳」の「やがて壊れる」では、サンスクリットパーリ語に共通の言葉であるrūpa(=色)が紹介されます。この言葉には「形あるもの」という他にもう1つ、大切な意味があります。それは「変化するもの」「壊れるもの」という意味です。『阿含経』相応部には、「壊れる(変化する)ゆえに色と呼ばれる」とはっきり書いてあります。つまり世尊は、物質とは「変化するもの」「やがて壊れるもの」と理解されていたのです。著者は、「ですから仏教的なモノの見方をまとめるなら、あらゆる現象は単独で自立した主体(自性)をもたず、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事であり、しかも秩序から無秩序に向かう(壊れる)方向に変化しつつある、ということでしょうか」と述べます。「三法印」と呼ばれるお釈迦さまの言葉に直せば、これは「諸法無我」「諸行無常」という事態です。無限の関係性のなかで生起するから「諸法無我」、絶えざる変化の中で、ですから「諸行無常」です。ちなみに「三法印」の残りの1つは、「涅槃寂静」。「般若波羅蜜多」が実現すれば煩悩の炎も消え、永遠なる安らぎが訪れるのです。



「全体は個の総和ではない」では、「空」の原語は「シューニャ」というのですが、本来は「何もない状態」を意味するほかに、数字の「ゼロ」も意味します。たとえば「407」という数字の真ん中の「ゼロ」が存在する意味をちゃんともつように、「何もない状態」というのも、全く何もかも存在しないと云っているわけではありません。著者は、「全ては時々刻々変化しつづける関係性のなかの出来事、ということですが、簡単にこれを『仮和合(けわごう)』と云うこともありますよね。無数の縁が仮に和合して現象した、という見方です。世尊はそれこそが宇宙(梵)の実相であると徹見され、その全体性を、『空』と表現されたのです。ここで重要なのは、あくまでも『全体』は『個』の集合ではない、ということです。科学は、以前は『個』を集めれば『全体』になる、つまり『全体』は『個』に還元されると前提していたようですが、今やそれが幻想かもしれないことは、科学者自身が感じています」と述べます。「全体」とは、常に部分の総和以上のなにかであり、仏教ではその「全体性」のほうを先に見つめ、そしてそこに溶け込みつつ関係している「個」を認識しました。それゆえ、「色不異空」という見方になるというのです。



「宇宙も変化しつづける」では、シューニャター(空性)という特性を、自分という現象だけでなく宇宙(ブラフマン)にも敷衍されたのが世尊であると指摘します。これはつまり、世尊が宇宙にも実体はないと考えたということです。実体がないといっても、内部では絶えず変化が繰り返されています。そしてその絶えざる変化こそが、宇宙の創造原理です。著者は、「ある意味では、人間も一つの宇宙です。常に無限の関係性のなかで変化しつづけています。この宇宙と人間とを、それぞれ変化せしめる主体として、インド人は『梵(ブラフマン)』と『我(アートマン)』を考えたわけですが、そこに実体があるかどうかについては、じつはいろんな宗教宗派によって、あるいは学派によって考え方が異なります。本当は仏教のなかでも、それを実体視する学派はあるのです」と述べています。しかし、「ブラフマンアートマンも実体ではない」と考えるのが仏教だともいいます。



「固定的な自己はない」では、宇宙の総エネルギー量は常に一定だと、アインシュタインは云いました。著者は、「その観点からすれば、私という五蘊の変化は、宇宙全体にも何らかの影響を与えているはずです。むろん逆も真です。月や太陽、その他の恒星や惑星の影響も、我々には常にあるはずなのです。単純に、一日のうちでの温度や明るさという主に太陽による変化でさえ、私たちの気分と無関係とは云えないはずです。また月の満ち欠けがいのちのリズムに与える影響も、意識できない部分でかなり大きいものなのです。それにしても、なぜに全ては変化しつづけるのでしょう。それは恐らく、全てが『不完全』だからです。私も宇宙も、不完全なままに『縁起』によって変化しつづけているのでしょう」と述べています。

 

「捏造される分析」では、二元論というのはの得意技だといいます。美醜とか善悪、尊卑なども概念です。実相とは関係ない大脳皮質のでっちあげだといいます。著者は、「たえず流動して捉えどころのないものを固定化し、対立価値を置いて比較することですっきり理解しやすい『色』に仕上げるのが、どうも人間脳の仕事ではないでしょうか」と述べます。「再構成される現実」では、ヒトが見聞きする現実というのは、だいたい似たような現象だといいます。火は熱いし、氷は冷たいし、リンゴは赤く、空の雲は白く見えるでしょう。しかしこれは、火や氷やリンゴや雲じしんの独自の在り方なのではなく、私たちの五根との出逢いによって現象しているわけです。そのことは、ハチや鳩やモンシロチョウや犬の世界を考えれば明らかだといいます。彼らは全く別な現実を生きていますから、火や水やリンゴや雲も、全く別な姿を見せていることでしょう。著者は、「同じ種に属するヒトがおよそ類似した現象を知覚できるのは、じつは太古以来の私たちのなかに蓄積された「識」の傾向が、似ているからです」と述べます。



では、マクロの世界を扱う相対性理論に対し、ミクロの世界を厳密に叙述したのが量子力学であると指摘されます。そのような観測の場では、想定される粒子の位置と運動を同時に観測することはできません。観測すれば粒子が姿を現しますが、観測されなければ、たとえ思考上でも、一定の速度とか軌道を定めるのは不可能だと云われます。このような意味で「不確定性原理」を提出したハイゼンベルクは、『部分と全体』(1968)のなかで、「量子力学では、軌道という考え方そのものが存在しない」と云い切っています。著者は、「いわば、これによって物体は、物理的実在なのではなく、観測者とモノとの間の『出来事』ということになったのです」と説明しています。



これはまるで、これまで申し上げてきた仏教的認識への賛意と聞こえます。観測者によって観測結果が違うことも、そこでは普通に起こります。量子力学が記述するのは、今や物理的実在なのではなく、観察や測定の「経験」ということになるのです。こうした認識が仏教的認識に重なるのは、じつは偶然ではありません。「原子物理学と人間の認識」というボーアの論文のなかには、「われわれは仏陀老子がすでに直面した認識論的問題に向かうべきである」と書かれています。自らの思想がいかに東洋に傾斜しているか、またそこを目指すべきだ、という自覚も彼には明確にあったのでしょう。



観客として観察する自分の存在が、観察されるドラマ全体に微妙な影響を及ぼす。つまり役者としての自分も含んで展開するドラマを、観客としての自分はドラマの内側から見ているのだということです。これはまさに、著者が問題にしている「般若」にも大きく関わってきます。つまり世尊が示し、著者も体験したこの「般若」は、あくまでも著者という実践者によって体験された内部からの認識の在り方であり、誰でも同じように実践することでしか到達しえません。つまり認識の結果だけを言葉で示しても、客観的に理解できるようなものではないのです。著者は、「いわば、繋がりあった全体を、その一部である自分が感得するという状況そのものが、『般若波羅蜜多』の実践と云えるでしょう」と述べるのでした。



「『偶然』で片づけない」では、世尊の悟った「縁起」は、因果律共時性を含んだものであったことが指摘されます。ここで思い起こされるのが、20世紀の心理学者であるカール・グスタフユングです。ユングは初め、因果律と目的論で現象世界を捉えようとしました。しかしやがて世尊と同じように、「同時」に注目したのです。そして『易経』や仏教など、東洋思想の影響を大きく受けながら「共時性(Synchronicity:シンクロニシティ)」という概念を20年以上もかけて提出するのです。著者は、「これはまったく世尊に重なる認識と云っていいのではないでしょうか」と述べています。



「最後の落とし穴」では、全ての現象には「自性」というものがなく、「縁起」のなかに発生する流動的事態であることが指摘されます。「諸行無常」で「諸法無我」だからこそ、実相は常に私たちの脳の認識である「色」を超える。そういうことだったと思うとして、著者は「『色』という物質的現象が、いかに本質においては『空』であるか、それはくどいほど申し上げました。だから『色即是空』です。しかしそれでも、本質が『空』であるからこそ物事は変化して関係を持ち得る。しかも、だからこそ『縁起』のなかで『色』として発現できる。それが『空即是色』ですね」と述べています。



だから「空は色に異ならず」。「空性」と「顕現」は別物ではなく、また「色は空に異ならず」。「顕現」を支えているのも「空」なのだといいます。つまり著者は、「空」というのは「いのち」のまま、「色」というのはそれに脳が手心を加えた現象なのだと申し上げてきたつもりです。いや、脳というより、「私」と云うほうが正確ですね。そして手心が加わる結果、「色」から「受」、「想」、「行」、「識」と進むにつれてどんどん人工度が高まります。感覚、表象(知覚)、意志、認識、この順番で、どんどん拵えものになる、ということなのです。それら全てが、結局は自性のない縁起の賜物として理解されなくてはなりません。それが「受・想・行・識も亦復た是くの如し」ということだといいます。



「いのちに直接働きかける」では、香りも熱もまた光も、波動の一種なので、理知では計り知れない効果がいろいろあるといいます。思えば宇宙の星たちを構成する無数の粒子の大部分は人体にも存在しているのですから、同じ粒子どうしの波動の共鳴が、私たちの気づかないいろんな場面で起こっていても不思議ではないとして、著者は「もしかすると、『共時性』という現象そのものにもそれは関わっているのかもしれません。しかしそうした波動のなかでも、音の効果はもっとも顕著で大きいと云えるでしょう。だからこそ仏教は、『なんまいだぶ』という念仏、また『なんみょうほうれんげきょう』というお題目まで考えだしました。むろん、咒文の効果を最も早い時期に採用したのは密教でした。彼らは咒文だけでなく香りや光や熱なども効果的に使っています。それらが直に全体性に繋がるという考え方がはっきりあるのでしょう。たしかに『意味』を超えた音の響きは、意味を捉えようとする大脳皮質を飛び越えて直接『いのち』に働きます」と述べます。

 

最も効果的な咒文は、やはり意味などわからないほうがいいといいます。意味はわからないままに音だけを暗記するのです。そして繰り返し唱え、「響き」の力だけを感じるべきだと思うとして、著者は「神さま(デーヴァ)に捧げる咒文(ヴェーダ)は、選び抜かれた音によって構成されています。全身がその音によって効果的に共鳴し、それによって宇宙との共振を招くと考えられているのだと思います。音が直接「『いのち』に働きかけ、しかも大いなる関係性のなかで理知のスキを突くように私たちの在り方を変えてくれることを、世尊もはっきり認識されていたのでしょう」と述べます。そして、「般若波羅蜜多」というのは、じつは特別な咒文なのです。これは神聖で偉大で、本当に力のある咒文です。著者は、「私は無上のものだと思っていますし、他の咒文は比較にもなりません」と述べています。この呪文を唱えるといつのまにか「私」が消え、「いのち」の本体になりきってしまうというのです。



「全体の最大の快へ」では、19世紀の半ば、ライプツィッヒ大学の物理学科・哲学科の教授であり、医学博士でもあったグスタフ・フェヒナーは「植物の精神生活」をその研究テーマにしましたが、彼は植物のあらゆる活動の究極の目的は、「個体のではなく、全体の最大の快」だと結論したことが紹介されます。これは殆んど、仏教の云う「慈悲」の定義といってもいいとして、著者は「この咒文を唱えつづければ、『空』なる『いのち』そのものになる。そしてそれは、植物たちとも同じ『いのち』なのです。『いのち』の反応のまま、それを味わうことが可能になり、もうそれを『名づけ』で固定化したり『概念』で複雑に増幅するようなこともなくなります」と述べるのでした。



「二、『般若心経』(小本)の訳」では、「およそ物質的現象というのは、すべて自性をもたないのであり、逆に自性がなく縁起するからこそ物質的現象が成り立つ。(人間の眼に観察できる物質的現象であるというのは、そういうことなのである。)同じように、感覚も、表象作用も、意志も、意識・無意識を含めたどんな認識も、それじたいに自性はなく、縁起のうちに無常に生滅している」「『般若波羅蜜多』は、結局『智』と名づけられるものでもなく、『得る』べき何かでもない。『般若波羅蜜多』とは、(本来の『いのち』という実相の発現であるから、)別にあらためて『得る』ものではないのである。『般若波羅蜜多』とは、大いに神秘的な咒文なのであり、それは光輝ある呪文であり、他に比類のない最高の咒文なのだ、と。つまり、この咒文は世の一切の苦悩を取り除くことにおいて、まさしく真実であるし、一点の虚妄もないのである」と書かれています。



「三、『般若心経』(小本)の書き下ろし」の「受け継がれる教え」では、世尊の時代のバラモンたちの最も重要な務めは「」という神々への讃歌を集めた聖典の暗誦だったことが指摘されます。むろんそれ以外に、彼らは「ブラーフマナ」(梵書)、「アーラニヤカ」(森林書)、「ウパニシャッド」(奥義書)と呼ばれる書物群で宗教や祭式、哲学なども学びました。しかし何より彼らに期待されていたのは、国家においても家庭においても、節目節目の儀式を「ヴェーダ」によって立派に遂行することだったのです。「ヴェーダ」は14世紀後半まで文字化されることなく、口から口へ響きそのものとして承けつがれました。著者は、「彼らは『ヴェーダ』の響きと一体化しているがゆえに神聖視されたと云っても間違いではないと思います。いわば個人の気息(アートマン)が、そこではブラフマンの息吹に重なると想われていたのでしょう」と述べます。



当時としてはきわめて合理的だった世尊は、たしかに動物の供犠など強く反対した項目は幾つもあるといいます。しかしけっして、バラモン文化の全てを否定したわけではありません。そのことは、世尊がヴリッジ族の人々に示した七箇条の教えにも明らかです。世尊はその七条目に、内外の宗廟とさまざまな宗教家とを尊敬すべし、と教えています。ここから読み取れるのは、世尊の寛容心ばかりでなく、当時のインドの宗教文化全体への、世尊の肯定的な理解ではないかとして、著者は「少なくとも宗教的な教えはまるまる暗誦するもの、という伝統は、世尊においても脈々と受け継がれていたのです」と述べています。



「宇宙に繋がる」では、自分の声の響きになりきれば、自然に「私」は消えてくれるはずだといいます。要は全体の記憶やその保持が、最終的には「私」によってなされるのではない、ということです。少なくとも、「陀羅尼」を唱えているときの「私」の殻は、少しずつ薄くなっていくはずです。その薄くなった殻を透かして、私たちは「空」という本当の関係性に気づいてゆくのです。声の響きと一体になっているのは、「私」というより「からだ」、いや、「いのち」と云ってもいいでしょう。むろんそれは宇宙という全体と繋がっています。著者は、「思えば世尊が繰り返し説かれたのも、自分で作った『私』という殻がいかに『苦』を生みだすものであるか、ということではなかったでしょうか」と述べるのでした。

般若心経 自由訳』(現代書林)

 

「解題」では、本書について、著者は「空海の『般若心経秘鍵』など、刺激に満ちた論書も多いのだが、ここでは出来るかぎりそうした祖師たちの文章を引用しないようにした。その代わり、本書には生かじりながら科学分野での知見をいろいろと挿入させていただいた。1つには、私自身、そうした研究成果などを見聞きしながら『般若心経』の内容を納得していった経過がある。むろんさまざまな学問分野に、仏教の用意してくれる補助線を用いて理解を深めることも多かった。驚いたことに、仏教が辿り着いた世界認識は、今のところそうした成果とそれほど大きな齟齬をきたさないのである」と述べています。ちなみに、拙著『般若心経 自由訳』(現代書林)は、『般若心経秘鍵』の見方をベースにして書きました。

 

 

2024年5月27日  一条真也