一条真也です。
全互協の創立45周年事業「中欧における冠婚葬祭事情視察研修2018」に参加しています。9日の朝、朝食を済ませた後、ヒルトン・ブダペストを9時に出発し、ブダペスト市内を視察観光しました。最初にマーチャーシェ聖堂、漁夫の砦、ゲッレールトの丘、英雄広場などを視察しました。
マーチャーシェ聖堂
マーチャーシェ聖堂の前で
マーチャーシェ聖堂の中
マーチャーシェ聖堂の中で
ブダペストはハンガリーの首都であり、同国最大の都市です。
「ブダペスト」として1つの市でドナウ川の両岸を占めるようになったのは1873年11月17日に西岸のブダとオーブダ、東岸のペストが合併してからです。ドナウ川河畔に位置し、ハンガリーの政治、文化、商業、産業、交通の一大中心都市として知られます。
漁夫の砦
漁夫の砦にて
漁夫の砦からドナウ川を望む
ドナウ川
ブダペストは東・中央ヨーロッパでは最大、欧州連合の市域人口では8番目に大きな都市です。2011年の国勢調査によるブダペストの人口は174万人、ピークだった1989年の210万人より減少していますが、これは、ブダペスト周辺部の郊外化によるものです。ブダペスト都市圏(通勤圏)の人口は330万人です。
ゲッレールトの丘からドナウ川を望む
ゲッレールトの丘にて
素晴らしい眺めです
こんなツーショットが実現しました
Wipkipedia「ブタペスト」には以下のように書かれています。
「ブダペストの歴史の始まりはローマ帝国のアクインクムとしてで、もともとはケルト人の集落であった。アクインクムは古代ローマの低パンノニア属州の首府となっている。マジャル人がブダペスト周辺にやって来たのは9世紀頃である。最初の集落は1241年から1242年にかけてモンゴルの襲来(en) により略奪された」
英雄広場
英雄広場にて
英雄広場にて
ランチを取ったレストラン
レストランを訪れたVIPの面々
ランチのメインは仔牛料理でした
「15世紀に町が再建されるとブダペストはルネサンス期の人文主義者文化の中心となった。続いてモハーチの戦いが起こり、オスマン帝国による150年間の支配が続き、18世紀、19世紀に新しい時代に入ると町は発展し繁栄する。ブダペストは1873年にドナウ川を挟んだ都市の合併が行われると、世界都市となる。また、1848年から1918年の第一次世界大戦勃発まで列強に含まれたオーストリア=ハンガリー帝国のウィーンに続く第二の首都であった」(Wipkipedia「ブタペスト」)
ブダペストの霊園にて
ブダペストの霊園にて
火葬場のホール
この絵はいったい・・・・・・?
「1920年のトリアノン条約によりハンガリーは国土の72%を失い、ハンガリーの文化や経済をブダペストがすべてを占めるようになった。ブダペストはその大きさや人口で圧倒的に優位に立ち、ハンガリーの他の都市を小さく見せていた。ブダペストはハンガリー革命(1948年)や1919年のハンガリー評議会共和国、1944年のパンツァーファウスト作戦、1945年のブダペスト包囲戦、1956年のハンガリー動乱など数々の歴史的な舞台の場でもあった」(Wipkipedia「ブタペスト」)
ブダペストの市街
昼下がりのドナウ川
ブダペストの広場
ブダペストのオペラハウス
「ブダペストはヨーロッパでも最も美しい街の一つで、ドナウ川河岸を含め世界遺産が広がりブダ城やアンドラーシ通り、英雄広場は良く知られている。ブダペスト地下鉄1号線Millenniumi Földalatti Vasútはロンドン地下鉄に次いで世界で2番目に古い地下鉄である。ブダペストの他のハイライトはセーチェーニ温泉を含めた80の温泉で世界でも最大の地下熱水系統がある。世界で3番目に大きなシナゴーグであるドハーニ街シナゴーグや国会議事堂などもブダペストの見所である。ブダペストの観光客数は年間270万人に上り、ロンドンにある民間調査機関ユーロモニターによればブダペストは世界で37番目に旅行者が多い観光地であるとされている」
(Wipkipedia「ブタペスト」)
2018年4月10日 一条真也拝