社会福祉協議会講演

一条真也です。
10日の10時から、門司社会福祉協議会の講演会に招かれ、話をしてきました。会場は、門司生涯学習センターです。冒頭、同会の八坂和子会長から挨拶がありました。その後、事務局の方から講師紹介を受けました。


門司生涯学習センターの前で

入口に裸婦の銅像がありました

八坂会長の挨拶がありました


思い出ノート』を手にする八坂会長

わたしが講師として登壇しました

みなさん、おはようございます!



それから、講師としてわたしが登壇しました。
わたしは、この日の講演会が「認知症予防のアンチエイジング講座」とされていることに対して、「アンチエイジングというのは『老い』を否定する考え方ですが、これは良くありませんね」と述べました。そして、わたしは「老いと死があってこそ人生!」という話をしました。


講演会のようす

サミュエル・ウルマンの「青春」について



サミュエル・ウルマンの「青春」という詩がありますが、その根底には「青春」「若さ」にこそ価値があり、老いていくことは人生の敗北者であるといった考え方がうかがえます。おそらく「若さ」と「老い」が二元的に対立するものであるという見方に問題があるのでしょう。「若さ」と「老い」は対立するものではなく、またそれぞれ独立したひとつの現象でもなく、人生という大きなフレームのなかでとらえる必要があります。


老いと死があってこそ人生!



理想の人生を過ごすということでは、南宋の朱新仲が「人生の五計」を説きました。それは「生計」「身計」「家計」「老計」「死計」の5つのライフプランです。「生計」とは、いかに天地の大徳を受けて、人生を元気に生きいきと生きるかを考えて生活することです。「身計」とは、いかに身を立てるべきか、世に処すべきか、志を立てるべきかということです。「家計」とは、家庭生活をいかに営むか、夫婦関係や家族関係はどうあるべきか、一家をいかに維持するかを考えて暮らすことです。「老計」とは、いかに年を取るべきかを考えて生きること、「老い」の価値を生かして生きることです。そして、最後の「死計」とは、いかに死ぬかを考えて生きることです。


老年期は実りの秋である!



それからわたしは、「老年期は実りの秋である!」という話をしました。今年の夏は本当に暑かったですね。わたしは50代の前半ですが、若い頃と違って暑さが体にこたえます。昔は夏が好きだったのですが、今では嫌いになりました。四季の中では、秋が好きです。古代中国の思想では人生を四季にたとえ、五行説による色がそれぞれ与えられていました。すなわち、「玄冬」「青春」「朱夏」「白秋」です。
それによると、人生は冬から始まります。まず生まれてから幼少期は未来の見えない暗闇のなかにある。そんな幼少期に相当する季節は「冬」であり、それを表す色は原初の混沌の色、すなわち「玄」です。玄冬の時期を過ぎると大地に埋もれていた種子が芽を出し、山野が青々と茂る春を迎えます。これが「青春」です。この青春の時期を過ごす人を青年といいます。そして青年が中年になると夏という人生の盛りを迎えます。燃える太陽のイメージからか色は「朱」が与えられています。中年期を過ぎると人生は秋、色は「白」が与えられ、高齢期は「白秋」とされるのです。


超高齢社会をどうとらえるか

講演会のようす

人は老いるほど豊かになる

老い」の豊かさを訴えました



こうして歴史をひもといていくと、人類は「いかに老いを豊かにするか」ということを考えてきたといえます。「老後を豊かにし、充実した時間のなかで死を迎える」ということに、人類はその英知を結集してきたわけです。人生80年時代を迎え、超高齢化社会現代日本は、人類の目標とでもいうべき「豊かな老後」の実現を目指す先進国になることができるはずです。その一員として、実りある人生を考えていきたいものです。


終活ブームの背景



それから、わたしは「終活」についての考えを述べました。
これまでの日本では「死」について考えることはタブーでした。でも、よく言われるように「死」を直視することによって「生」も輝きます。その意味では、自らの死を積極的にプランニングし、デザインしていく「終活」が盛んになるのは良いことだと思います。
ところが、その一方で、わたしには気になることもあります。「終活」という言葉には何か明るく前向きなイメージがありますが、わたしは「終活」ブームの背景には「迷惑」というキーワードがあるように思えてなりません。


終活ブームには気になることも・・・

「終活の流れ」について説明しました



「迷惑をかけたくない」という言葉に象徴される希薄な“つながり”。
日本社会では“ひとりぼっち”で生きる人間が増え続けていることも事実。
しかし、いま「面倒なことは、なるべく避けたい」という安易な考えを容認する風潮があることも事実です。こうした社会情勢に影響を受けた「終活」には「無縁化」が背中合わせとなる危険性があることを十分に認識すべきです。この点に関しては、わたしたち一人ひとりが日々の生活の中で自省する必要もあります」


すべての儀式は「卒業式」

終活は人生の卒業準備



いま、世の中は大変な「終活ブーム」です。多数の犠牲者を出した東日本大震災の後、老若男女を問わず、「生が永遠ではないこと」そして必ず訪れる「人生の終焉」というものを考える機会が増えたことが原因とされます。多くの高齢者の方々が、生前から葬儀や墓の準備をされています。


決定版 終活入門

決定版 終活入門

また、「終活」をテーマにしたセミナーやシンポジウムも花ざかりで、わたしも何度も出演させていただきました。さらに、さまざまな雑誌が「終活」を特集しています。ついには日本初の終活専門誌「ソナエ」(産経新聞出版社)まで発刊され、多くの読者を得ています。わたしも同誌で「一条真也の老福論」というエッセイを連載しています。


「終活」から「修活」へ!

これからは「修活」の時代だ!



このようなブームの中で、気になることもあります。それは、「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いことです。特に「終」の字が気に入らないという方に何人も会いました。もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。ならば、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚えてしまいます。死は終わりなどではなく、「命には続きがある」と信じているからです。そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しました。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。
よく考えれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」ではないでしょうか。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活です。そして、人生の集大成としての「修生活動」があります。


「死」はけっして「不幸」ではありません!

死を見つめることは、生を輝かせること



有史以来、「死」は、わたしたち人間にとって最重要テーマでしたし、それは現在も同じです。わたしたちは、どこから来て、どこに行くのか。そして、この世で、わたしたちは何をなし、どう生きるべきなのか。これ以上に重要な問題など存在しません。 なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そして、この自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け容れがたい話はありませんね。これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきました。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようとして努力してきました。「死」こそは人類最大のミステリーです。


「修める」という心構えを持とう!



かつての日本は、たしかに美しい国でした。
しかし、いまの日本人は「礼節」という美徳を置き去りし、人間の尊厳や栄辱の何たるかも忘れているように思えてなりません。
それは、戦後の日本人が「修行」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」という覚悟を忘れてしまったからではないでしょうか。老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。


自分の葬儀を想像する



続いて、誰でもが実行できる究極の「修活」についてもお話しました。
それは、自分自身の理想の葬儀を具体的にイメージすることです。
親戚や友人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かります。参列してほしい人とは日ごろから連絡を取り合い、付き合いのある人には感謝することです。生まれれば死ぬのが人生です。死は人生の総決算。葬儀の想像とは、死を直視して覚悟することです。覚悟してしまえば、生きている実感がわき、心も豊かになります。


人は死なない・・・・・・



自分の葬儀を具体的にイメージするとは、どういうことか?
それは、その本人がこれからの人生を幸せに生きていくための魔法です。わたしは講演会などで「ぜひ、自分の葬義をイメージしてみて下さい」といつも言います。友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像することを提案するのです。そして、「その弔辞の内容を具体的に想像して下さい。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです」と言いました。葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像するといいでしょう。そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」といわれる。自分の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。


思い出ノート』について


思い出ノート ([バラエティ])

思い出ノート ([バラエティ])

いかがですか? その理想のイメージを現実のものにするには、あなたは残りの人生を、そのイメージ通りに生きざるをえないことがおわかりかと思います。これは、まさに「死」から「生」へのフィードバックではないでしょうか。よく言われる「死を見つめてこそ生が輝く」とは、そういうことだと思います。人生最期のセレモニーである「お葬式」を考えることは、その人の人生のフィナーレの幕引きをどうするのか、という本当に大切な問題です。
自分の葬儀を考えることで、人は死を考え、生の大切さを思うのです。
そんなことを『思い出ノート』(現代書林)を示しながら語りました。


日本人の死生観

さまざまな送られ方



さらに、新時代の葬儀についても話しました。
日本の葬儀は、実にその9割以上を仏式葬儀によって占められています。
ところが最近になって、仏式葬儀を旧態依然の形式ととらえ、もっと自由な発想で故人を送りたいという人々が増えています。今のところは従来の告別式が改革の対象になって、「お別れ会」などが定着しつつあります。やがて、通夜や葬儀式にも目が向けられ、故人の「自己表現」や「自己実現」が図られていくに違いありません。


ご清聴ありがとうございました!



みなさん、たいへん興味深い様子で聴いて下さいました。
最後に、わたしは「みなさんも、ご自分の『送られ方』を考えて下さい。そして、ご自分なりの方法で人生を修めていただきたいと思います」と締めくくりました。すると、盛大な拍手を頂戴し、感激しました。


門司港にて

ホテルのテラスにて



講演終了後、わたしは八坂会長のお招きによりプレミア・ホテル門司港(旧・門司港ホテル)で昼食を御馳走になりました。イタリアンランチを取りながら、わたしたちは日本と門司港の未来について大いに語り合いました。
明日も、八坂会長の紹介で門司の赤十字の勉強会で講演をさせていただきます。テーマは今日と同じく、「終活から修活へ」です。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年11月10日 一条真也