多摩美文化祭での「葬式ごっこ」に思う

一条真也です。
多摩美大の文化祭で行われた「葬式ごっこ」が大きな話題になっています。わたしも、何人かの知人から感想や意見を求められました。一見くだらないこの出来事の背景には、日本人の「心の闇」があるようです。


「スポーツ報知」2016年11月8日号



「スポーツ報知」が8日の6時28分に配信した記事には「多摩美文化祭で佐野氏『葬式ごっこ』・・・学生喪服、祭壇に『おもてな死』」の見出しで、「多摩美術大(東京都世田谷区)は7日、同大学の複数の学生が白紙撤回となった2020年東京五輪パラリンピック公式エンブレムのデザイナー、佐野研二郎教授(44)の『葬式ごっご』を行っていたと明らかにした。多摩美大は6日の文化祭で行われたことを確認しており、参加した学生から事情を聞いている。『一部は多摩美の学生であることが分かったが、事実関係を調査中』としている。多摩美大によると、外部から『不適切な画像がインターネットに投稿されている』との指摘を受け調べたところ、喪服姿の学生らが佐野氏の遺影を持ち、涙を拭う写真などが投稿されていた。ほかに位牌や棺おけなどもあり、祭壇には『おもてな死』とも書かれていた。佐野氏は多摩美美術学部出身で、五輪・パラリンピックの公式エンブレムを手がけたが、類似性などが指摘され、昨年9月に撤回されている。現在は美術学部統合デザイン学科教授」と書かれています。


佐野研二郎

佐野氏が遺影に!

ニセ僧侶も登場!

棺まで用意する周到ぶり


思い返せば、佐野氏の一件が東京五輪パラリンピックの「ケチ」のつき始めだったわけですが、祭典の重要性を訴え続けているわたしでさえ「もう、東京五輪は無理に開催しなくてもいいのでは?」と思ってしまうほど、その後は迷走を続けています。あれだけの騒動を起こした佐野氏が今でも多摩美大の教授を務めているというのは少々驚きましたが、まあ完全に「過去の人」といった印象ですね。


自死: 現場から見える日本の風景

自死: 現場から見える日本の風景

  • 作者:瀬川正仁
  • 発売日: 2016/05/10
  • メディア: 単行本


今回の「葬式ごっこ」は多摩美大の学生たちの悪ふざけですが、彼らなりの「佐野教授はいらない」という意思表示なのでしょう。しかし、「葬式ごっこ」はいけません。1986年に中学生を死に追いやった「葬式ごっこ」事件を思い出させます。ブログ『自死』で紹介した瀬川正仁氏の著書には、「いじめの誕生」として、以下のように書かれています。
「文部省(現在の文部科学省)が学校における『いじめ』の統計を発表するようになったのは、『現代用語の基礎知識』に『いじめ』という言葉が掲載された翌年、1985年度からだ。きっかけになったのは1986年2月、つまりその年度の終わりに起こった、東京の中野富士見中学の『いじめ自死』事件とされている。当時中学2年生だった鹿川裕史君(13)が、『このままじゃあ、生きジゴクになっちゃうよ』という遺書を残して命を絶った。その後、『葬式ごっこ』を初めとした鹿川君に対するむごい『いじめ』の実態が明らかになったことで、学校における『いじめ』が、日本における重要な社会問題のひとつであるという事実を日本国民全体が共有したのだ」


数珠を持ったまま投票する山本太郎議員


ブログ「葬式ごっこ許すな!」にも書いたように、昨年9月18日、安保法案で揺れる参院本会議で牛歩を続けていた「生活の党と山本太郎となかまたち」の山本太郎共同代表は、壇上で議席を振り向き、安倍晋三首相に向かって焼香するふりを数回繰り返しました。議場は山本氏の一連の行動を批判する激しいヤジに包まれましたが、はっきり言って、これはとんでもない行為です。


安倍首相に向かって合掌する山本太郎議員


生きている人間に対して焼香の仕草をしたわけです。こんなことが学校などで流行したら、どうするのでしょうか。自分の考えにそぐわない者、気に食わない者に対して焼香・合掌のパフォーマンスを行うことが流行したら、どうなりますか。多くの人たちは、かつて自殺者を生み、大きな社会問題にもなった中野富士見中学の「葬式ごっこ」を連想したのではないでしょうか。こういう大人の行為を子どもは真似するのです。いじめを誘発するような愚行を犯した山本太郎には国会議員の資格はありません。


唯葬論

唯葬論


拙著『唯葬論』(三五館)にも書いたように、わたしは、葬儀とは人類の存在基盤であると思っています。約7万年前に死者を埋葬したとされるネアンデルタール人たちは「他界」の観念を知っていたとされます。世界各地の埋葬が行われた遺跡からは、さまざまな事実が明らかになっています。「人類の歴史は墓場から始まった」という言葉がありますが、たしかに埋葬という行為には人類の本質が隠されていると言えるでしょう。それは、古代のピラミッドや古墳を見てもよく理解できます。わたしは人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えます。


葬儀は最も崇高な営みであり、それを茶化すことは絶対に許されません。葬儀は「人間尊重」の儀式ですが、葬式ごっこは「人間尊重」に最も反する愚行なのです。学生たちは、「パフォーマンスやアートとしてやった」と言い張るかもしれません。葬式ごっこは、たしかに卑劣で愚かなパフォーマンスです。しかし、そこに芸術性の欠片もありません。あるのは俗物性と非人間性だけです。実際に、愛する家族や友人を亡くして悲嘆に暮れている人が「葬式ごっこ」の悪ふざけを見たら、どう思うでしょうか?


もちろん、葬式ごっこはアートなどでは絶対にありません。しかし、本物の葬儀はアートであると、わたしは考えます。ブログ「おくりびと」にも書いたように、わたしは、葬儀こそは芸術そのものだと考えています。なぜなら葬儀とは、人間の魂を天国に送る「送儀」にほかならないからです。人間の魂を天国に導く芸術の本質そのものなのです。映画「おくりびと」で描かれた納棺師という存在は、真の意味での芸術家です。そして、送儀=葬儀こそが真の直接芸術になりえるのです。「遊び」には芸術本来の意味がありますが、古代の日本には「遊部(あそびべ)」という職業集団がいました。これは天皇の葬儀に携わる人々でした。つまり、「遊び」と「芸術」と「葬儀」は分かちがたく結びついているのです。「おくりびと」は、葬儀が人間の魂を天国に送る「送儀」であることを宣言した作品です。人間の魂を天国に導くという芸術の本質を実現する「おくりびと」。送儀=葬儀こそが真の直接芸術になりうることを「おくりびと」は示してくれました。わたしは、そのように考えています。


いま、日本では儀式軽視の風潮が強くなっています。
各地の成人式は荒れるし、結婚式を行わないカップルも増えました。葬儀さえもがインターネットで手軽に依頼できるという時代となりました。家族以外の参列を拒否する「家族葬」という葬儀形態がかなり普及しています。この状況から、日本人のモラル・バリアは既に葬儀にはなくなりつつあることは言を待ちません。家族葬であっても宗教者が不在の無宗教が増加しています。また、通夜も告別式も行わずに火葬場に直行する「直葬」も都市部を中心に広がっています。さらには、遺骨を火葬場に捨ててくる「0葬」まで登場しました。


儀式論

儀式論


今回の多摩美大の「葬式ごっこ」事件の背景には、現代日本に蔓延する儀式軽視のムードがあります。要するに、葬儀をはじめとした儀式をバカにしているのです。本日、合計600ページの拙著『儀式論』(弘文堂)が発売されました。同書で、わたしは「儀式の軽視は、日本の文化的衰退につながる」と警鐘を鳴らしました。このような本の出版の前日に、今回のような事件が起こったことに「意味」のようなものを感じてしまいます。「葬式ごっこ」に強い違和感をおぼえられた方は、ぜひ『儀式論』をお読み下さい。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年11月8日 一条真也