正月と日本人のこころのDNA

一条真也です。
5日からは仕事始めで、朝から会議ラッシュです。
いよいよ、2016年がスタートしたことを実感します。
ところで、 日本経済新聞電子版の「ライフ」に連載中の「一条真也の人生の修め方」の連載第22回目となるコラムがアップされました。今回のタイトルは、「正月と日本人のこころのDNA」です。



日本経済新聞電子版「ライフ」トップページ



トップ画面には、「正月と日本人のこころのDNA」がイラスト入りで紹介されています。みなさんは、この正月、初詣に行かれましたか? 新年になると、明治神宮だけでも元日に300万人以上の参拝人が集まります。世界のどんな教会や寺院でも1日に数百万人も押しかけるという話は聞いたことがありません。そのありえない現象が日本中の神社で見られ、正月の風物詩となっているのです。日本人は誰が命令するのでもないけれど、元日になるとインプットされたデータが作動するように、「出てきなさい」という呼びかけがあるごとく神社へ参拝します。受験勉強で忙しいはずの受験生でさえ、こぞってお参りします。わたしは、ここに日本人の「こころのDNA」を見るような気がします。



正月と日本人のこころのDNA



まさに、神道とは日本人の「こころ」の主柱であると言えるでしょう。
しかし、日本人の「こころ」の柱は他にも存在します。仏教と儒教です。神道、仏教、儒教の三本柱が混ざり合っているところが日本人の「こころ」の最大の特徴であると言えるでしょう。そして、それをプロデュースした人物こそ、かの聖徳太子でした。聖徳太子こそは、宗教における大いなる編集者だったのです。儒教によって社会制度の調停をはかり、仏教によって人心の内的平安を実現する。すなわち社会の部分を儒教で、心の部分を仏教で、そして自然と人間の循環調停を神道が担う。三つの宗教がそれぞれ平和分担するという「和」の宗教国家構想を聖徳太子は説きました。いわば、神と仏を共生させるという離れ業をやったわけです。
 


聖徳太子がプロデュ―スした神仏儒共生の「こころ」は、「冠婚葬祭」という目に見える「かたち」になりました。わたしたちは血縁、地縁といったさまざまな「縁」に支えられて生きています。そして、「縁」という目に見えないものを実体化して見えるようにするものこそ冠婚葬祭です。結婚式や葬儀、七五三や成人式や法事・法要のときほど、縁というものが強く意識されることはありません。冠婚葬祭が行われるとき、「縁」という抽象的概念が実体化され、可視化されるのではないでしょうか。わたしは、今年も冠婚葬祭によって日本人を幸せにしたいと願っています。



おかげさまで1位になりました!



なお、第23回目のアップは1月19日(火)で、タイトルは「なぜ葬儀は必要なのか」です。昨年の師走、「東京赤坂ロータリークラブ」で卓話を行いました。わたしは簡単な自己紹介をした後、まず「0葬」について話しました。通夜も告別式も行わずに、遺体を火葬場に直行させ焼却する「直葬」をさらに進め、遺体を焼いた後、遺灰を持ち帰らず捨てるのが「0葬」です。わたしは宗教学者島田裕巳氏が書いた『0葬――あっさり死ぬ』(集英社)に対して、『永遠葬――想いは続く』(現代書林)を書きました。「永遠」こそが葬儀の最大のコンセプトであり、「0葬」に対抗する意味で「永遠葬」と名づけたのです。次回は、そんな話を書きます。どうぞ、お楽しみに!



次回も、どうぞお楽しみに!



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年1月5日 一条真也