「ハリー・ポッター展」

一条真也です。
金沢で目覚めたわたしは、二日酔いの頭を抱えながら朝食を取りました。朝食後は迎えの車に乗り込んで小松空港に直行、そこからANAで東京に飛びました。東京で大事なランチ・ミーティングの約束があったからです。


雨の六本木ヒルズを訪れました

ハリー・ポッター展」入口の看板



打ち合わせの場所が六本木ヒルズでしたので、終了後に森タワーの52階にある「森アーツセンターギャラリー」に向かいました。ここを訪れたのは、ブログ「ミュシャ展」で紹介した展覧会以来です。ここで、いま、話題の「ハリー・ポッター展」が開催されているのです。


映画「ハリー・ポッター」シリーズといえば、知らない人はいないでしょう。シリーズの全作品が、世界中で爆発的なヒットを記録しました。原作はイギリスの女流流作家J・K・ローリングによるファンタジー小説です。1990年代のイギリスを舞台に、魔法使いの少年ハリー・ポッターの活躍を描いています。物語には、ハリーの学校生活や、ハリーの両親を殺害した張本人でもある強大な闇の魔法使いヴォルデモートとの因縁と戦いが描かれています。


ハリー・ポッターと賢者の石』、『ハリー・ポッターと秘密の部屋』、『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』、『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』、『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』、『ハリー・ポッターと謎のプリンス』、『ハリー・ポッターと死の秘宝』の全7巻が刊行され、それぞれ1巻で1年が経過しています。


ハリー・ポッター」シリーズのDVD



7つの物語はいずれも映画化され、世界中で大ブームを起こしました。わたしも初期の3作を長女と映画館で観て、残り4作はDVDで観賞しました。その世界観を忠実に再現した「ハリー・ポッター展」が、2013年6月22日から9月16日まで,森アーツセンターギャラリーで開催されているのです。この展覧会は、事前に日時指定のチケットを予約しなければならず、しかもローソン・チケットでしか予約できないというので、非常に困惑しました。わたしはカードをなるべく作らない方針なのですが、仕方なく「Pontaカード」とかいう、タヌキの絵が入ったカードを作らされてしまいました。うーむ、ローソンよ、なかなかやるな!



さて展覧会の内容ですが、映画の撮影で実際に使われた本物の衣装や小道具をはじめ、 ハリーの丸メガネや魔法使いの杖などが展示されています。その展示品の数は、なんと数百点だそうです。出口の先にはショップもあり、展覧会の公式ガイドをはじめ、ハリーの眼鏡、キーホルダー、魔法菓子などを求めました。


魔法の世界を満喫しました

戦利品の数々を見よ!



そしてこの展覧会の特徴は、実際に触れて遊ぶことができる体験型であることです。 クィディッチのコーナーでボールをゴールに投げ込んだり、 ハグリッドの部屋で巨大な椅子に座ったり、子どもたちは大喜びです。 まるで、ホグワーツ魔法魔術学校に体験入学したかのような気分が味わえるのです。 来年、大阪のユニバーサル・スタジオ・ジャパンハリー・ポッターのアトラクションがオープンするそうですが、この展覧会のイメージが基本コンセプトとなるのでしょうか?


キングス・クロス駅のホームで

ホグワーツへのプラットフォーム



ブログ「ファンタジーの旅」に書いたように、わたしはかつてロンドンを訪れ、ハリー・ポッターゆかりの場所を回りました。キングス・クロス駅のホームにあるというホグワーツ魔法魔術学校へのプラットフォーム、ホグワーツのモデルとなったクライスト・チャーチにも行きました。ここは、かの『不思議の国のアリス』を書いたルイス・キャロルことチャールズ・ドジソンが数学の教授として勤務していたことでも有名です。改めて、イギリスがファンタジー王国であることを痛感します。


クライスト・チャーチは「ホグワーツ」のモデル


21世紀におけるファンタジー界の大事件といえば、なんといっても『ハリー・ポッター』シリーズの登場です。この全世界で3億冊以上も読まれたという新時代のファンタジーはすでに古典の風格さえあり、島田裕巳氏のように「現代の聖書」と呼ぶ人さえいます。



この作品が歴史的ベストセラーになった原因について、わたしも色々と考えましたが、最大の要因として「ホグワーツ魔法魔術学校」の存在があると思います。このシリーズが歴史的ベストセラーになった最大の要因として「ホグワーツ魔法魔術学校」の存在があると思います。魔女や魔法使いになるために教育を受けなければならないという設定は説得力があります。



このシリーズが現れるまで、ファンタジー文学に登場する人物はふつうの人間と魔女・魔法使いとに二分されていました。作者のローリングは、ふつうの人間でもいくばくかの才能があり、良い教育を受けることができれば、魔女や魔法使いになれるという設定を考案しました。まるで、スポーツ選手や芸術家になるのと同じように。これこそ、ファンタジー文学にとって大きな躍進でした。しっかりした教育を受けていない、あるいは訓練を怠った魔女・魔法使いは、ただの人間にすぎません。



じつは、わたしは常々、接客サービス業に携わる人間とは「魔法使い」をめざすべきだと言っています。サン=テグジュペリの『星の王子さま』には、「本当に大切なものは、目には見えない」という言葉が出てきます。本当に大切なものとは、思いやり・感謝・感動・癒し、といった「こころ」の働きだと思います。そして、接客サービス業とは、挨拶・お辞儀・笑顔・愛語などの魔法によって、それを目に見える形にできる仕事ではないかと思うのです。



もちろん、それらのホスピタリティ・スキルを身につけるのには教育と自らの訓練が必要になります。『星の王子さま』で示された「本当に大切なもの」が、『ハリー・ポッター』の方法論で目に見える形になったわけです。
この最終巻を読めば、これまでに張られていた伏線から主要人物のその後まで、すべてが明らかになります。21世紀において、魔法について書かれた本が世界中で読まれたこと自体が、最大の魔法ではないかと思います。



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2013年6月26日 一条真也

『自殺の9割は他殺である』

自殺の9割は他殺である 2万体の死体を検死した監察医の最後の提言


一条真也です。
『自殺の9割は他殺である』上野正彦著(KANZEN)を読みました。
非常にショッキングなタイトルです。ブログ『強いられる死』で紹介した本よりも、さらに強烈な印象を受けます。最初は、自殺と見せかけた暴力団などによる殺人事件の話かなと思いましたが、読んでみて、それは誤解だとわかりました。



大ベストセラー『死体は語る』で有名な著者は、監察医として2万体の検死を行ってきた人です。監察医の仕事とは、一言も言葉を発しない死体の声を聴くこと。そして、その死に隠された真相を解き明かしていくこと。
著者は、いじめで自殺する子どもたちの姿に心を痛めます。
「自我の確立のない子どもが果たして自殺するであろうか」との疑問を抱く著者は、ついには「自殺は他殺である」との結論に至ります。
本書には、弱者が疎外され、孤立していく社会の闇、警察や学校、教師の怠慢、自己中心的な考えになっていく若者たちの姿が描き出されています。
日本を代表する監察医による最後のメッセージが本書なのです。


本書は、以下のような構成になっています。
はじめに「死体は語っている」
序章
第1章:子どもは決して“自殺”しない
    1.いじめられっ子の自殺  
    2.遊び感覚のいじめっ子
    3.学校・教育委員会の対応
    4.警察の対応
    5.いじめと自殺の因果関係
    6.いじめと社会
第2章:自殺はどうしてなくならないのか?
    1.ストレス社会の日本
    2.社会に殺された人々
    3.老人の自殺
第3章:「自殺は他殺だ」と私が言い続ける理由
    1.言葉の暴力
    2.自殺の現実
第4章:死の真相を突き止めるtまえに・・・
    1.監察医の仕事
    2.ある殺人事件の鑑定
    3.自殺と他殺の見分け方
    4.検視制度の見直し
終章



序章で、著者は次のように「死」の定義を述べます。
「一般的に死というのは、脳、心臓、肺の機能が永久に停止した状態を指す。これは、事故であろうが、病気であろうが、自殺であろうがすべて同じことで、死亡した人はどのような死に方であれ、最終的には心臓も脳も肺も麻痺している。つまり、心臓麻痺というのは死の結果であって、これを死因とするのは明らかに間違いなのだ」
そして、「死の原因を正しく究明する」ことこそは、犯罪を見逃さずに死者の人権を守るという意味でも、生きている人間に貢献する社会医学の意味でも、非常に大切なことだと述べるのです。



著者は、近年、問題となっている「いじめ自殺」に注目します。
いじめられた子が死を選んだのはたしかに本人自身の行動ですが、実際は「現在の苦しみから逃げたい」ために自ら命を絶ったのであり、自殺というよりもその子は周囲の環境に追い詰められたわけです。著者は言います。
「いじめ自殺は自己責任で死んだのではない。いじめの加害者たちによって追い詰められ、殺されたのだ。自殺だから俺たちは関係ないと、他人事で済まされてはたまらない。厳しい言い方かもしれないが、そのような表現をして、周囲の人々にも理解を求めないと自殺の予防にはつながらないと考える」
わたしは、非常に全うな考え方だと思います。



本書の中には、遺体解剖のようすも以下のように具体的に書かれています。
「解剖の所要時間は1時間ほど。思ったより短いと思われるかもしれないが、これはあまり時間をかけすぎると、火葬場の締め切りに間に合わないなどの諸事情に配慮したものだ。そのため、解剖には正確さとともに、スピーディーさも求められる。ただし、午後4時を過ぎて搬入された死体は、摂氏零度に保たれた監察医務院の遺体安置所に保管され、翌日の解剖に回される。
身元不明の死体も同様の場所に保管されるが、1週間経っても引き取り手がない場合は、身元不詳として死亡地の区長名で引き取られ、火葬される」



監察医の仕事を30年間も務めた著者は、終章で次のように書いています。
「監察医は、もの言わぬ死者の声を正確に聞き取る死者の通訳のような存在であり、死者の声を聞き、社会に訴えてその人の人権を擁護していく。私にとってすばらしい仕事であった」
これほど死と密接に関わりながらも、自身は死をナッシングであり、無であると考えてずっと仕事をしてきたそうです。
しかし、あるとき取材で訪れた新聞記者から「先生ほど死者の人権を守ってきた人はおられません。もし先生が亡くなったとき先生にお世話になった多くの人たちが、あの世で花束を持って出迎えてくれるはずですよ」と言ったそうです。
それまで、霊とか、あの世とかをまったく考えたことがなかった著者は、それを聞いてびっくりしました。その記者の一言がきっかけで、著者はあの世の存在を考えるようになりました。そして、最後に「私は死に対しての恐怖や寂しさというようなものは一切なくなり、反対に世話した人たちとの再会を楽しみに、あの世とやらに行ってみたいという気持ちになってきた」といのです。
わたしは、これを読んで非常に感動しました。これは別に監察医でなくとも、利他の精神で生きてきた人すべてに共通することだと思います。
わたしも、死んだときに、あの世で死者たちが花束を持って出迎えてくれるような人生を送りたいと心から思います。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2013年6月26日 一条真也