盆踊り大会

一条真也です。
3日の北九州も非常に暑かったです。
夜は小倉では「わっしょい百万夏祭り」が行われましたが、八幡では盆踊り大会が開かれました。会場はサンレーグランドホテルの中庭です。地元の方々を中心に700人以上もの方々が集まって、大いに盛り上がりました。

f:id:shins2m:20190803181619j:plainサンレーグランドホテル

f:id:shins2m:20190803181739j:plainサンレーグランドホテルの前で

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浴衣に着替えました

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今年も始まります!

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書籍コーナー

修活読本 人生のすばらしい修め方のすすめ

修活読本 人生のすばらしい修め方のすすめ

 

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おかげさまで大人気でした

 

ブログ「盆踊り大会のお知らせ」で紹介したイベントです。ブログ「コミュニティセンター化に挑む!」ブログ「みんなの紫雲閣ひろば」などでも紹介しましたように、サンレーでは、有縁社会を再生するためのコミュニティセンターの展開を図っています。

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受付周辺のようす

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抽選会のようす

 

夏の風物詩の1つに盆踊りがあります。もともとはお盆の行事の1つとして、ご先祖さまをお向かえするためにはじまったものですが、今ではご先祖さまを意識できる格好の行事となっています。昔は、旧暦の七月十五日に初盆の供養を目的に、地域によっては催されていきました。照明のない昔は、盆踊りはいつも満月の夜に開かれたといいます。太鼓と「口説き」と呼ばれる唄に合わせて踊るもので、櫓を中央に据えて、その周りをみんなが踊ります。地域によっては、初盆の家を回って踊るところもありました。

f:id:shins2m:20190803191125j:plain盆踊りがスタートしました

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祭りだヨ、全員集合!

 

今は先祖供養という色合いよりも、夏祭りの行事の1つになりましたが、老若男女が音楽で心を1つにして踊る様を見ていると、そこには地域社会のつながりを感じます。小袖や浴衣など、日本の伝統衣装に身を包み、一心不乱に手足を動かして踊れば、わたしたちを遠いご先祖さまと結びつけてくれます。まさに、「血縁」と「地縁」を結び直してくれる盆踊りは、わたしたち日本人にとって必要なものだと言えます。


これがサンレーの祭りだよ〜♪

f:id:shins2m:20190803194328j:plain縁日コーナーの「射的」

f:id:shins2m:20190803191805j:plain縁日コーナーの「シュートゲーム」

f:id:shins2m:20190803192342j:plain縁日コーナーの「ヨーヨー釣り」

f:id:shins2m:20190803192359j:plain縁日コーナーの「金魚すくい

f:id:shins2m:20190803194232j:plain屋台コーナー

f:id:shins2m:20190803194258j:plain屋台コーナー

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日が暮れて・・・

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盆踊りのようす

f:id:shins2m:20190803201555j:plainかわいいキッズダンス♪

 

この日の盆踊りでは、元気キッズのパワフルステージ「キッズダンス」などのイベントも行われました。また「縁日コーナー」として、スーパーボールすくい、金魚すくい、射的など。さらに「屋台コーナー」として、フライドポテト、焼きそば、かき氷、唐揚げなどが人気を呼んでいました。

f:id:shins2m:20190803194136j:plainさあ、これから櫓の上へ!

f:id:shins2m:20190803194828j:plainみなさん、こんばんは!

 

この日はサンレーグランドホテルの中庭に櫓が組まれ、わたしは櫓の上で主催者挨拶をしました。浴衣を着て雪駄を履いたわたしは、本当は「雨上がり決死隊の宮迫です!」とか「ロンドンブーツ3号です!」とかのギャグをぶちかましたかったのですが、不謹慎なので止めておきました。(苦笑)まずは、「みなさん、こんばんは!」と言ってから、次のように挨拶しました。
「毎日、お暑うございます。本日は、サンレー盆踊り大会にご来場いただきましてまことにありがとうございます。開催にあたりましては地元大膳地区婦人会の皆様方に大変なご尽力を賜わり感謝申し上げます」

f:id:shins2m:20190803194856j:plain主催者挨拶のようす

 

それから、わたしは以下のように述べました。
「盆踊りは、お盆に帰ってきたご先祖様の霊をお迎えする鎮魂の年中行事ということは皆さんもご存知だと思いますが、昔盆踊りは同時にみんなで集まって踊ることで地域の結びつきを深めたり、また、帰省してきた人との再会の場や、男女の出会いの場としての役割を果たしていました。本来盆踊りは旧暦7月15日の満月の夜に行われていましたので、先祖が見下ろす明るい月明かりの下で、子供たちははしゃぎ、大人たちは様々な思いを胸に踊っていたのです」
f:id:shins2m:20190803194959j:plain「盆踊り」について話しました

 

さらに、わたしは「そんな盆踊りも、地元である大膳地区のようにしっかりとしたコミュニティがあり、婦人会のように志ある方々がいらっしゃる地区を除いては、残念ながら行うところがどんどんと減っています。そんな状況を憂い、この盆踊りを開催させていただきました。この盆踊りが、地域の結びつきを少しでも深め、男女の出会いの場となり、そして結婚にまでつながったりすれば最高だと思います。ぜひ、盆踊りで有縁社会を再生いたしましょう!」と述べました。

f:id:shins2m:20190803203739j:plain大いにお楽しみ下さい!

 

そして最後に、わたしは「ここサンレーグランドホテル北九州紫雲閣)は、今年6月4日に災害時の避難所として北九州市と提携しました。これは、災害時にこのサンレーグランドホテルが避難所となることを北九州市に認められたというものですが、いざという時に普段行ったことがない場所に避難するのは非常に難しいです。なので、我々は常日頃からこういったイベントや、カルチャー教室などを開催して皆様に少しでもこの場所のことを覚えて頂こうと励んでいます。サンレーは、これからも地域の皆様にお役に立てる企業を目指し頑張ってまいりたいと考えております。今後ともお引き立ての程お願いいたします。今宵は盆踊りで大いにお楽しみください」と述べました。

f:id:shins2m:20190803195005j:plainこれがサンレーの祭りだよ、わっしょい!


本当は、挨拶の後で、ブログ「まつり」で紹介した歌をカラオケで歌うというプランもあったのですが、この後はプロの歌手のショーが控えていることもあり、水を差してもいけないという配慮、また、主催者の社長が変に目立つのもおかしいという常識から断念しました。それでも、「これがサンレーの祭りだよ、わっしょい!」と叫んだところ、思いもかけず大きな拍手が起こり、感激しました。最後は「本日は誠にありがとうございました!」と述べて、櫓を降りました。

f:id:shins2m:20190803200945j:plain熱唱する中西奈津子さん

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お楽しみ抽選会の結果発表

f:id:shins2m:20190803203743j:plain盆踊りのようす

f:id:shins2m:20190804004802j:plain盆踊りフィナーレ!

 

主催者挨拶の後は、「New演歌の歌姫」として知られる那珂川仁美さんによる歌謡ショー、豪華賞品が盛りだくさんの「お楽しみ抽選会」、そして盆踊りで大いに盛り上がりました。じつは、もう20年も前に小倉紫雲閣では「大盆踊り大会」を開催し、大きな話題となりました。来年は、ぜひ、小倉でも開催を予定したいですね。ということで、紫雲閣グループは、これからも地域社会で愛されるコミュニティセンターを目指します!

f:id:shins2m:20190803195804j:plain地域社会で愛されるコミュニティセンターを目指します!

 

2018年8月4日 一条真也

『仏教抹殺』

仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか (文春新書)

 

一条真也です。
3日(土)の夜、北九州市八幡西区のサンレーグランドホテルで行われるサンレー主催の「盆踊り大会」に参加し、櫓の上から主催者挨拶いたします。
『仏教抹殺』鵜飼秀徳著(文春新書)を読みました。
「なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」というサブタイトルがついています。著者は、わたしが「仏教界の予見者」と呼ぶジャーナリスト、浄土宗正覚寺副住職で、1974年京都市右京区生まれ。成城大学文芸学部卒業。報知新聞社、日経BP社を経て、2018年1月に独立。一方、僧侶としての顔も持つ。一般社団法人「良いお寺研究会」代表理事東京農業大学非常勤講師。著書にブログ『寺院消滅』ブログ『無葬社会』ブログ『「霊魂」を探して』で紹介した本があります。

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本書の帯

 

本書の帯には破壊された阿修羅像の写真とともに「廃仏毀釈――隠された明治の暗部」「興福寺阿修羅像、五重塔も消滅の危機にあった!」「鍵島、松本、伊勢、東京、奈良、京都など現地徹底取材」と書かれています。

f:id:shins2m:20190626214410j:plain本書の帯の裏 

 

また帯の裏には破壊された地蔵の写真とともに「文化財、歴史史料も灰となった暴挙の実態が明らかに!」「比叡山から上がった‟火の手”」「廃仏のルーツは水戸黄門」「歴史まで破壊した薩摩の廃仏」「すべての寺が消えた村」「青山霊園神仏分離によって造られた」「焚き火にされた天平の仏像」「天皇家菩提寺も消滅 ほか」と書かれています。

 

カバー前そでには、以下のように書かれています。
「明治百五十年でも語られない闇の部分、それが廃仏毀釈だ。神社と寺院を分離する政策が、なぜ史上稀な宗教攻撃、文化財破壊にエスカレートしたのか?日本各地に足を運び、埋もれた歴史を掘り起こす近代史ルポルタージュ

 

また、アマゾン「内容紹介」は以下の通りです。
「文明開化の明治にも光と影がある。その影の部分を象徴するのが「廃仏毀釈」である。もともとは神仏習合状態にあった神社と寺院、神と仏を分離する政策だったのだが、寺院、仏像などの破壊から、暴動にエスカレート。完全に仏教を殲滅してしまった地域もあった。寺に保管されていた記録、史料などが焼かれたことで、その地域の「歴史」も消えてしまったケースすらある。日本史上でも例が少ない大規模な宗教への攻撃、文化財の破壊はなぜ行なわれたのか? 話題作『寺院消滅』などを著し、自らも僧侶である著者が、京都、奈良、鹿児島、宮崎、長野、岐阜、伊勢、東京など日本各地に足を運び、廃仏毀釈の実態に迫った近代史ルポ。百五十年のときを経て、歴史が甦る!」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第一章 廃仏毀釈のはじまり――比叡山、水戸
第二章 維新リーダー藩の明暗――薩摩、長州
第三章 忖度による廃仏――宮崎
第四章 新政府への必死のアピール――松本、苗木
第五章 閉鎖された島での狂乱――壱岐佐渡
第六章 伊勢神宮と仏教の関係――伊勢
第七章 新首都の神仏分離――東京
第八章 破壊された古都――奈良、京都
「結びにかえて」
「参考・引用資料」

 

「はじめに」では、2018年(平成30年)が明治維新から150年目となる記念すべき年であり、同時に「廃仏毀釈150年」でもあることを指摘し、著者は以下のように述べています。
「日本の宗教は、世界の宗教史の中でも特殊な形態を辿ってきた。中世以降江戸時代まで、神道と仏教がごちゃまぜ(混淆宗教)になっていたのである。祈禱もするし、念仏も唱えるし、祓も、雨乞いもする。寺と神社が同じ境内地に共存するのも当たり前。神に祈るべき天皇が出家し、寺の住職を務めた時代も長かった」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「このように、日本では実におおらかな宗教風土が醸成されてきたのだ。しかし、明治維新を迎えたとき、日本の宗教は大きな節目を迎える。新政府は万民を統制するために、強力な精神的支柱が必要と考えた。そこで、王政復古、祭政一致の国づくりを掲げ、純然たる神道国家(天皇中心国家)を目指した。この時、邪魔な存在だったのが神道と混じり合っていた仏教であった。新政府は神と仏を切り分けよ、という法令(神仏分離令)を出し、神社に祀られていた仏像・仏具などを排斥。神社に従事していた僧侶に還俗を迫り、葬式の神葬祭への切り替えなどを命じた。この時点では、新政府が打ち出したのはあくまでも神と仏の分離があり、寺院の破壊を命じたわけではなかった。だが、時の為政者や市民の中から、神仏分離の方針を拡大解釈する者が現れた。そして彼らは、仏教に関連する施設や慣習などを悉く毀していった。これが廃仏毀釈の概要である」

 

それは文化財と歴史の破壊でもあったとして、著者は以下のように述べます。
廃仏毀釈によって日本の寺院は少なくとも半減し、多くの仏像が消えた。哲学者の梅原猛氏は、廃仏毀釈がなければ国宝の数はゆうに3倍はあっただろう、と指摘している。
国の財産が失われただけではない。廃仏毀釈は、日本人の心も毀した。何百年間にもわたって仏餉(仏前に供える米飯)を供え続け、手を合わせ続けた仏にたいし、ある時、日本人は鉄槌を下したのである。僧侶自らが率先して、神職への転職を申し出て、本尊を斧で叩き割った事例も見られた。2001(平成13)年、タリバンバーミヤンの磨崖仏を爆破した映像は記憶に新しい。なんという畏れ知らずの野蛮な行為なのか、と世界中の人々が憤慨した。だが、同様の行為を明治の日本人も行っていたのである」

 

第一章「廃仏毀釈のはじまり――比叡山、水戸」の冒頭では、「神と仏を切り分けた神仏分離令」として、著者は述べます。
「仏と神の切り分けは、1868(慶応4)年3月以降、新政府による法令の布告という形で、矢継ぎ早に実施されていった。1868(明治元)年10月まで断続的に続けられた一連の12の布告の総称を、神仏分離令と呼んでいる」

 

また、「『肉食妻帯』と上知令」として、著者は「新政府は仏教の力を削ぐ必要性はあった。これまで日本は、ムラ社会の見えざるコミュニティの中で仏教を中心とした檀家制度を敷き、寺院は時に怪しげな儀式を通じて人々を惑わす存在にもなっていた。純粋な神道による強い国家づくりを推し進めるためには、悪習であった仏教を徹底的に弱体化せねばならなかった」と述べています。

 

さらには「肉食妻帯」について、こう述べています。
「一般人の中にはいまでも『お坊さんが肉を食べてもいいのか』『結婚してもいいのか』という違和感を抱いている人は少なくないだろう。従来『肉食妻帯』を認めていた浄土真宗を除き、確かに江戸時代までそれらの行為は御法度だった。しかし、明治に入って僧侶の肉食、妻帯などを『国家』が認めるという、新たな局面に入っていく」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「伽藍(寺院の建物)などの物的破壊に加え、僧侶を俗化させる一連の弾圧によって、みるみるうちに仏教は弱体化してゆく。葬式の際にだけ寺を必要とする『葬式仏教』化が加速していくのもこの頃からだ。現在の、仏教者にたいする『金儲け主義』といった批判の源流をたどれば、この明治の神仏分離政策に行き着くだろう。さらに明治維新時の一連の仏教弾圧のなかでも、とくに致命的だったのが上知令であった。上知とは土地の召し上げを意味する」

 

「廃仏のルーツは水戸黄門」として、全国各地で展開された廃仏毀釈の中でも水戸藩廃仏毀釈がもっとも早い時期に実施されたと指摘し、著者は「江戸時代前期にはすでに、藩内寺院の破却や僧侶への還俗命令などに着手していたのである。ただし水戸藩の前期廃仏毀釈の特徴は、民衆運動としての破壊行為ではなく、無秩序に増えすぎた堕落寺院の統廃合にあった。いわば、寺院と僧侶の『リストラ』である」と述べています。

 

この時期の水戸藩廃仏毀釈は、寺社改革とも呼ばれるものでした。著者は以下のように述べます。
「当時、藩内寺院は由々しき問題を抱えていた。1630年ごろ(寛永年間)まで、無秩序に寺院が建立され、僧侶の数も膨れ上がり、正しい信仰が失われていたという。由緒不明の怪しげな寺院が目立ち、治安上の問題も発生した。とくに加持祈禱などの呪術めいた儀式をやる密教系宗派の処遇は、光圀にとって悩みのタネであった。庶民がこうした寺院に集い、迷信や妄言などに惑わされ始めたからである。こうした諸問題の元凶は中世以来、仏教を自由放任にしてきたためであるとして、当時、儒学者の間で仏教批判、神仏習合の否定、神道の復興などが議論されていく。光圀自身、若くして儒学に傾倒していた。当時の儒学界には強い仏教否定の思想が見られる。

 

第二章「維新リーダー藩の明暗――薩摩、長州」では、「鹿児島、宮崎に寺院が少ない理由」として、著者は以下のように述べます。
「全国一、寺院数が少ないのは沖縄県で87カ寺である。沖縄の事情は本土とは異なる。15世紀から1879(明治12)年まで琉球王国という別の国家であったからだ。琉球は1609(慶長14)年、薩摩藩琉球に攻め入ると、その後は薩摩藩支配下となった。琉球では個々の僧侶による仏教の布教が許されず、檀家制度が導入されなかった。寺は王国から俸禄を受給され、官寺としてのみ存在した。沖縄における葬送の担い手は伝統的に、地域における司祭者であるノロや、土着シャーマンであるユタであった。寺院の数が極端に少ないのは、そうした歴史的、慣習的背景がある。
また、鹿児島の隣、宮崎県の寺院数は鹿児島よりも少ない344となっている。現在の宮崎県の一部は、かつて薩摩藩が治めており、廃仏毀釈の影響を多分に受けていた」

 

第三章「忖度による廃仏――宮崎」では、「葬式の半分は神葬祭」として、著者は以下のように述べています。
「ここ日南市を中心に宮崎県南部地方の葬式の約半分が神葬祭形式で実施されるという。宮崎ではそもそも寺がほとんど存在しないので、現在でも神式で葬式をすることが定着しているのだ。火葬場での骨上げや納骨も神職が立ち会う。神道では死は穢れであり、神主が儀式で死体に直接触れることはまずない。だが、宮崎の習俗では神職が、まさに揺りかごから墓場まで面倒を見ているのである」

 

続けて、著者は「葬式の直後に、社殿に上がることは(タブーとされているので)ないですが、宮崎の神葬祭では多くは仏式を踏襲しているのが特徴です。神道では、仏教の年忌法要にあたる式年祭を、一年祭、三年祭と実施し、その後は5の倍数の年でやるのが一般的です。しかし、宮崎では三年祭以降は仏式と同じ七年祭(七回忌)、十三年祭、十七年祭・・・・・・と続き、そして、五十年祭を機に御霊上げ(弔い上げ)となります」という証言を紹介し、通常は寺院でやってきた葬送儀礼が、宮崎では神社に置き換えられていると述べます。

 

第六章「伊勢神宮と仏教の関係――伊勢」では、著者は伊勢神宮について述べます。「神宮は有史以来、地元伊勢のみならず全国から参詣者を集め、発展してきたことは申すまでもない。伊勢信仰の広がりは、神宮での様々な祭祀の際に京都から遣わされた勅使らやお供の人々が、都に戻った際、神宮のことを口伝で広め、憧れを募らせていったことに起因する。御師は自らの邸宅に伊勢参りの客を宿泊させ、神宮の案内人を務めるほか、伊勢礫や御祓大麻(御札)の配布を行った。同時に病気平癒などの祈禱や、自宅での御神楽の奉納などの宗教行為もやった。つまりは、ツアーコンダクターと宗教的職能者としての役割を併せ持った集団でもあった」

 

続いて、「『御師』の廃絶」として、著者は以下のように述べています。
「現在に至る伊勢ブランド構築の最大の立役者が御師であった。幕末期は、当時の人口およそ3000万人に対して、300万人程度が伊勢に参詣したとも伝えられており、ある意味、御師が伊勢の経済を支えていたと言える。
だが、1871(明治4)年、新政府は神仏分離政策の一環として、神宮の改革に伴う御師制度の廃止を通達。当時、神仏分離政策によって、祈禱手掛ける僧侶や修験道の山伏は、神仏の要素が混淆しているとして排除されていた。御師もまた、祈禱や神楽などを手掛ける民間の宗教的職能者であったために、廃絶になったと考えられる。御師の文化はここで途絶えてしまった」

 

続けて、以下のように述べられています。
「現在、伊勢市内には、一軒のみ御師邸が現存し、当時の様子をわずかに伝えている。伊勢市観光振興課によれば、廃仏毀釈後の明治期、伊勢の参拝者は150万人程度で推移していたという。江戸期の300万人から大幅に減少しているのは、御師の消滅との因果関係があったと考えて差し支えないだろう。廃仏政策が、伊勢神宮にまでマイナスの影響を与えてしまったのである」

 

第七章「新首都の神仏分離――東京」では、「芝公園青山霊園神仏分離で造られた」として、著者はこう述べます。
「東京ではそれまで仏式でやっていた葬式を神葬祭に切り替える政策が大々的に実施された。実は、青山霊園廃仏毀釈の産物である。神葬祭の場合は土葬で埋葬するのが通例であったため、広大な敷地を必要とした。そのための墓地として、東京都内に整備されたのが港区にある都立青山霊園だったのである。明治初期には神葬祭用墓地として、青山霊園の他にも雑司ヶ谷、谷中などの9ヵ所の公営霊園が整備された。
しかし、公衆衛生上の問題や、人口の急激な増加による墓地用地の確保などの問題が生じたために、1875(明治8)年には火葬が解禁になった。その後、土葬を伴う神葬祭は激減し、現在でも神葬祭メインでやっている地域は先述の宮崎市や岐阜・東白川村などに限られる」

 

第八章「破壊された古都――奈良、京都」では、「天皇の葬儀は仏式だった」として以下のように述べられています。
「皇室ゆかりの寺の最たる存在が、東山に位置する真言宗泉涌寺派総本山の泉涌寺だ。泉涌寺では、多くの天皇の墓や位牌が祀られており、天皇家菩提寺と位置づけられる。1242(仁治3)年、四条天皇が12歳の若さで崩御する。その際、泉涌寺で葬儀が実施されて以降、ここは『皇室の御寺』と呼ばれるようになった。さらに、南北朝時代の1374(応安7)年に後光厳天皇上皇)が同寺で火葬されたのを皮切りに以降、9代続けて天皇の火葬所となった。江戸時代の歴代天皇後水尾天皇から孝明天皇)、皇后はすべて泉涌寺に埋葬されている。泉涌寺の霊明殿には歴代天皇の位牌である尊牌を安置、朝夕のお勤めの際には同寺の僧侶によって、読経がなされる。各天皇の祥月命日には皇室の代理として、宮内庁京都事務所からの参拝が行われるという」

 

また、天皇の葬儀について以下のように述べられます。
天皇の弔いは、長年、火葬であった。厳密に言えば、中世以降の天皇は、仏式の火葬と神道の建前である土葬が混在する形で弔われていた。第108代の後水尾天皇以降は表向きには火葬、実質は土葬という不思議な形態をとっていた。正式に土葬になるのは、明治天皇の父孝明天皇からである。しかし、孝明天皇の葬式は神仏分離令より前であったために、仏式で行われた」

 

続けて、著者は以下のように述べます。
「それが、完全に神葬祭に切り替わり、また埋葬法も土葬になるのは明治天皇以降である。明治天皇は『幼い頃に過ごした京都に』という遺言をもとに、京都・伏見に陵墓が造られた。明治天皇陵は古代の天皇陵に回帰した巨大な上円下方墳であった。続く大正天皇昭和天皇、そしてその皇后は東京・八王子市の武蔵陵墓地に、やはり巨大な上円下方墳形式で祀られている」

さらに続けて、著者はこう述べるのでした。
「実は今上天皇崩御後は、土葬になる予定であった。ところが、宮内庁は2013年(平成25)年、天皇・皇后の意向を踏まえ、火葬にすることを発表。陵墓の大きさも2割程度縮小するという。天皇陵は、時代時代の宗教事情によって常に変化してきているのだ」
こうした史実から見ても、天皇家は明らかに仏教徒でした。

 

「結びにかえて」では、「四つの要因」として、廃仏希釈の要因は主に①権力者の忖度②富国策のための寺院利用③熱しやすく冷めやすい日本人の民族性④僧侶の堕落となっています。これを踏まえて、著者は述べます。
「江戸時代、寺院の数は人口3000万人に対し、9万カ寺もあった。それが廃仏毀釈によって、わずか数年間で4万5000カ寺にまで半減した。それが現在、7万7000カ寺(人口1億3000万人)にまで戻してきている。厳しい言い方をすれば、復興が叶わなかった寺院は、そもそも社会にとって『不必要な』寺院であったのかもしれない」

 

そういう意味では、「廃仏毀釈によって寺院は人口比で適正数に落ち着いた」とも言えるのではないかとして、著者は述べます。
「一連の調査を終え、私はこうも考える。明治以降も仏教が消滅することなく、今日まで続いてきているのはある意味、廃仏毀釈があったからではないか。これほどまでに多大な犠牲を払ったことは極めて残念なことであるが。これまで幕府によって特権を与えられ、一部では堕落もしていた仏教界が、はからずも綱紀粛正を迫られ、規模が適正化するとともに、社会における仏教の役割が明確化されたという『プラスの側面』も、廃仏毀釈にはあったのではないか、と考えるのだ」


著者の鵜飼秀徳氏と

 

そして最後に、著者はこう述べるのでした。
「いま、日本の各地では都市への人口の流出や核家族化に伴って、寺院が維持できなくなっている。また、死生観の変化によって葬送の希薄化が進んでいる。そこには僧侶の堕落も要素として絡んでいる。実は、『寺が消える』という点においては、かつての廃仏毀釈と、現在の寺院を取り巻く状況とはさほど変わらない。私はとくに都会人によく見られる“僧侶に対する反発”は、「第二の廃仏毀釈」の前兆現象とみている。社会にとって必要とされる寺であるためには、僧侶がどうあるべきか。150年前の惨劇が教えてくれることは決して少なくない」
現在が第二の「廃仏毀釈の時代」であるという見方は卓見ですが、「寺院消滅」や「無葬社会」の具体的解決案のヒントを見つけるのは、なかなか難しいようですね。一般社団法人「良いお寺研究会」代表理事でもある著者の今後の活躍に期待しています。

 

仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか (文春新書)

仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか (文春新書)

 

 

 2019年8月3日 一条真也

『すぐ死ぬんだから』

一条真也です。
125万部の発行部数を誇る「サンデー新聞」の最新号が出ました。同紙に連載中の「ハートフル・ブックス」の第136回が掲載されています。今回は、『すぐ死ぬんだから』内館牧子著(講談社)を取り上げました。

f:id:shins2m:20190731195314j:plainサンデー新聞」2019年8月3日号 

 

「新・終活小説」と謳われた本書は、80歳を間近にした女性主人公をめぐる、外見に関する物語です。忍(おし)ハナは自他共に認めるオシャレな高齢女性で、夫の岩造もそんなハナを自慢にしています。物語前半には、岩造とハナの夫婦の仲の良さがこれでもかというほど描かれています。

 

ある夜、二人は自宅マンションのベランダでビールを飲みながら、「夫婦は半端な縁じゃない」などと語り合っていました。そのとき、ハナには岩造の顔がお婆さんのように見えました。彼女は次のように思います。
「男は年を取るとどんどんお婆さん顔になり、女はどんどんお爺さん顔になる。テレビに出てくる有名人でもだ。私は前からそう思って見ていた。岩造が年を取ったということだろうか。私もお爺さん顔になり始めているのだろうか。悲しすぎる。どんな努力をしても、絶対に阻止する」

 

しかし、ハナがビールのツマミを作って、岩造のもとへ持って行ったところ、岩造の意識はありませんでした。すぐに救急車を呼んで医大の附属病院に連れて行きます。緊急手術に向けて数々の検査が行われましたが、その甲斐なく、岩造は息を引き取りました。死因は硬膜下血腫でした。

 

それから、ハナの記憶は飛びました。気づいたら、岩造の死から3日も経過していて、通夜も葬儀もすべて終わっていたのです。それは逆行性健忘症と呼ばれるものの一種で、あまりにも辛い経験をしたとき、その記憶を脳が忘れてしまうのだそうです。ハナは、岩造が自分のショックを案じ、一番辛い3日間だけ記憶を飛ばしてくれたのだと考えました。そして、「あの人ならやってくれそうだ。私を『自慢』と言い、『ハナと結婚したことが人生で一番の幸せだった』と、晩年まで言い続けた人だ」と思うのでした。

 

夫を失ったことを悲しんでいたハナでしたが、その後、岩造の遺言状が見つかり、そこには思いもよらない岩造の秘密が書かれていました。ここから先はネタバレになるので、詳しいことは書けません。でも、ここから一気に物語は加速して、面白くなっていきます。そして、さまざまな出来事があった後で、覚悟を決めたハナはさらに外見に磨きをかけて輝きを放つのでした。

 

「終活から修活へ」を提言しているわたしはアンチエイジングという考え方が嫌いです。しかし、高齢者が外見に注意を払ってオシャレをすることはそれとは別問題で大切なこと。本書を読んで、そのように思いました。外見も内面も美しいことを心がければ、それは美しい人生につながっていくのでしょう。すべての高齢者に読んでいただきたい名作です。

 

すぐ死ぬんだから

すぐ死ぬんだから

 

 

 

2019年8月3日 一条真也

盆踊り大会のお知らせ

一条真也です。
毎日、嫌になるくらい暑いですね。
ブログ「コミュニティセンター化に挑む!」などでも紹介しましたように、わがサンレーでは、有縁社会を再生するためのコミュニティセンターの展開を図っています。明日の3日(土)には、北九州市八幡西区のサンレーグランドホテルの中庭で、「盆踊り」大会が盛大に開催されます。当日は、昨年同様にわたしも櫓の上から主催者挨拶をさせていただきます。もしかしたら、今年はDVDの完成記念に浴衣姿で「まつり」を熱唱するかもしれません。みなさま、どうぞ、お誘いあわせの上、ご参加下さい!

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ご家族やご友人の皆様とお気軽にご参加ください!

 

屋台コーナー

◎フライドポテト

◎焼きそば

◎かき氷

◎唐揚げなど

 

縁日コーナー

◎スーパーボールすくい

金魚すくい

◎射的など

※内容は急遽変更になる場合がございます。

予めご了承ください。

 

2019年 8/3 [土]

18:30〜20:30 雨天中止

場所/サンレーグランドホテル

 

浴衣でご来場の皆様にフード券プレゼント

※お一人様1枚限り

当日のイベント

元気キッズのパワフルステージ!

キッズダンス

テレビ出演多数!!民謡日本一!

  中西奈津子 歌謡ショー

お楽しみアトラクション

豪華賞品がもりだくさん!

お楽しみ抽選会 当日、受付にて抽選券配布いたします!

サンレーグランドホテル TEL:093−601−1000

北九州市八幡西区大膳1−2−1

f:id:shins2m:20180804190951j:plain昨年の「盆踊り大会」のようす

f:id:shins2m:20190802111535j:plainキッズ・ダンスも大盛り上がり!

f:id:shins2m:20190802113129j:plain櫓の上での主催者挨拶

f:id:shins2m:20190802113148j:plain今年は「まつり」を歌うかも?

 

2019年8月2日 一条真也

ジャニー喜多川さんのグランド・フィナーレ

一条真也です。
8月1日、WEB「ソナエ」に連載している「一条真也の供養論」の第13回目がアップします。タイトルは、「ジャニー喜多川さんのグランド・フィナーレ」です。

f:id:shins2m:20190731091530j:plainジャニー喜多川さんのグランド・フィナーレ

 

7月9日、ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川さんが、解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血のため、東京都内の病院で死去されました。87歳でした。ジャニーさんは6月18日に体調不良を訴え救急搬送されそのまま入院。連日、タレントが見舞いに駆け付けました。救命措置により容態が安定し、一般病棟に移ることができたため、ジャニーズ事務所のタレントたちとの面会がかなったそうです。新旧のジャニーズのヒット曲が流れる病室には、年齢の差を超えて多くのタレントたちが集まり、思い出を語り合いました。危険な状態に陥ったときも、タレントたちがジャニーさんに呼び掛け、体をこするたび危機を脱することができたといいます。

 

ジャニーさんは、僧侶だった父親が布教のために赴いた米国ロサンゼルスで生まれました。1952年、朝鮮戦争で米軍の一員として朝鮮半島に派遣され、除隊後、米大使館軍事顧問団に勤務。62年に最初に発掘したグループ「ジャニーズ」を結成し、ジャニーズ事務所を設立しました。当時は男性アイドルへの目が冷たかった時代でしたが、歌って踊れる男性アイドルにこだわり続け、フォーリーブス郷ひろみ田原俊彦近藤真彦、シブがき隊、少年隊、光GENJI、SMAPTOKIO、V6、嵐など、多くのトップスターを生み出しました。

手掛けたアイドルは主なデビュー組だけで45組、延べ166人。派生グループなどを含めるとこれ以上の数になります。ギネスブックにも掲載された「世界一のアイドルメーカー」として、年間売り上げ1000億円超と言われるアイドル帝国を築き上げました。しかし、お金や名声には全く興味を示さず、男性アイドルのプロデュースのことだけを考え続け、生涯そのスタイルを変えませんでした。

 

ジャニーさんの葬儀ですが、7月12日、渋谷区内にある事務所所有のビルでマスコミをシャットアウトした「家族葬」が行われ、自らがプロデュースした約150人のタレントたちに見送られました。会場は、ジャニーズJr.の少年たちの稽古場で、祭壇や照明、音響などはタレントたちやスタッフが出来る限り自らの手で準備しました。

 

司会はTOKIO国分太一とV6の井ノ原快彦が行うなど、まさに「手作りの会」で、ミラーボールやスクリーンも用意されたそうです。〝稀代の演出家″だったジャニーさんらしく、人生のグランド・フィナーレを飾られたのです。こんな「あの人らしかったね」と言われる葬儀は素敵ですね。ジャニー喜多川さんのご冥福をお祈りいたします。合掌。

 

2019年8月1日 一条真也

『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』

なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか 日本と中韓「道徳格差」の核心 (PHP新書)

 

一条真也です。
7月も終わりですね。東京に来ています。
30日は全互協の正副会長会議、理事会、儀式継創委員会などに出席しましたが、猛暑でグロッキーです。
『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』石平著(PHP新書)を読みました。「日本と中韓『道徳格差』の核心」というサブタイトルがついています。著者は1962年、中国四川省成都生まれ。北京大学哲学部卒業。四川大学哲学部講師を経て、1988年に来日。1995年、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研究機関に勤務ののち、評論活動へ。2007年、日本に帰化する。著書に『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』(PHP新書、第23回山本七平賞受賞)など。 

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本書の帯

本書の帯には、「中国人は儒教に『権力』を求め、日本人は『愛』を求めた」「著者が人生を通じて発見した真理――孔子の心は中国ではなく日本にあった!」と書かれています。また、カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
論語はすなわち儒教のことである――日本人の多くにとっての『常識』であろう。ところが、実はそうではない。子供のころ、祖父の摩訶不思議な『教え』から『論語』に接した著者は、のちに儒教の持つ残酷な側面を知り、強い葛藤を抱く。実際の孔子は「聖人」であったのか? なぜ『論語』は絶対に読むべきなのか? 御用教学・儒教の成立と悪用される孔子朱子学の誕生と儒教原理主義の悲劇など、中国思想史の分析を重ねた果てに著者がたどり着いた答えは、なんと『論語儒教ではない』というものだった。曇りのない目で孔子の言葉に触れ、『論語』を人生に生かすための画期的な書」

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

序章  私の『論語』体験と、私が見た「儒教の残酷さ」

第一章 定説や通念を覆す
    ──孔子とは何者か、『論語』とは何か

第二章 御用教学・儒教の成立と悪用される孔子

第三章 朱子学の誕生と儒教原理主義の悲劇

第四章 朱子学を捨て、『論語』に「愛」を求めた日本

最終章 『論語』はこう読もう

「あとがき」

 

序章「私の『論語』体験と、私が見た『儒教の残酷さ』」では、「まさに偽善と欺瞞以外の何物でもない『残酷さ』」として、夫を亡くした未亡人は自ら命を絶たなければならないというかつての「礼教殺人」の実例を示し、それがいかに非人間的なものであったかを糾弾して、こう述べます。
「明清時代に流行った礼教とは、要するに中国伝統の儒教の発展型であって、新儒教と呼ばれるものである。南宋時代に確立した朱子学が『天理』と『人欲』との対立軸を打ち出し、それを受けて、いわゆる『存天理、滅人欲(天理を存し、人欲を滅ぼす)』という過激なスローガンの下で誕生したのが、すなわち新儒教としての礼教であった。つまり礼教というのは、まさに『存天理、滅人欲』というスローガンの下、『礼』という強制力のある社会規範をもって、人間性と人間的欲望を抑制し圧殺することを基本理念とするものだったのである」

 

また、著者は「『論語』と礼教とのギャップに抱えた葛藤」として、こう述べます。
「『論語』は確かにさまざまな場面で『礼』を語り、『礼』を大事にしている。『貧而楽道、富而好礼』(貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好む)や、『礼與其奢也寧倹、喪與其易也寧戚』(礼は贅沢であるよりは質素であったほうが良い、お葬式は形を整えるよりも心底から悲しむのが良い)などである。
しかし『論語』の語る『礼』は、どう考えても、礼教が人間性や人間的欲望の抑制に使うような厳しい社会規範としての『礼』とは全然違う。『論語』の語る『礼』は要するに、相手のことを心から大事にする意味での『礼』であって、人間関係を穏やかにするための『礼』である。そこには、人間的暖かみはあれ、礼教の唱える人間抑圧の匂いはいっさいない。とにかく後世の礼教の残酷さと冷たさとはまったく違い、『論語』から感じられるのはむしろ優しさと暖かさである。『論語』と礼教との間にはどう考えても、何の共通点もないはずである」

 

 

著者は、「デュルケームと『礼の用は和を貴しと為す』」として、こう述べています。
「私の大学院の修士課程での専攻は社会学である。私の指導教官は、フランスの近代社会学者である、エミール・デュルケームの思想を研究のテーマの1つにしていた。ある日のゼミで、デュルケームの『社会儀礼論』がテーマとなった。その学説を簡単に説明すると、デュルケームは社会統合における儀礼の役割をとりわけ重視し、人々が儀礼を通じて関係を結び、共に儀礼を行うことによって集団的所属意識を確認し、集団としての団結を固めていくものである、との説である」

 

 

 また、著者は以下のようにも述べています。
「確かに『礼之用和為貴』という『論語』の言葉は、あのデュルケームの『社会儀礼論』が言わんとする真髄の部分を、一言で鋭く言い尽くしている気がする。日本の中国思想史研究家の金谷治氏は、この言葉を『礼のはたらきとしては調和が貴いのである』(金谷治訳注『論語岩波文庫)と現代日本語に訳しているが、デュルケームの『社会儀礼論』の本質はまさに、この簡潔な一言に凝縮されているのではないか」

 

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)

 

 

さらに、著者は以下のようにも述べるのでした。
「『礼の用』、すなわち礼の働きはまさに『和為貴』、つまり『和』を大事にして人間関係や社会を調和させることだ。そしてここでの『和』とはすなわち和むことであり、和やかな心であり、親和であり和睦であり、心の暖かさと温もりがその背後にあるはずである。このような『礼の用』の作り出す『和』は、まさに私が自分の保証人の奥様の振る舞いから感じたあの暖かい『和』と同質のものだ」
わたしはこれを読んで、新元号は「令和」ではなく「礼和」なら良かったのにと改めて思いました。

 

著者は「『論語』と儒教はまったく別々のものである」として、こう述べています。
孔子の『論語』と、儒教とを同一視する今までの学術上の定説と歴史上の通念は、まったく間違っている。『論語』と儒教は、その本質においてまったく異なっており、そもそも別々のものでしかない。『論語』はとにかく儒教とは違うのだ。『論語』の精神は『論語』にあって、儒教にあったのではない。『論語』は『論語』であって、儒教儒教なのである、と。そして、『論語』の精神と考えには、われわれにとって普遍的な価値のあるものが多く含まれているから、『論語』は大いに読まれるべきである。しかし、儒教とは単なる過去からの負の遺産であり、廃棄物として捨てておくべきものである、と」


世界をつくった八大聖人』(PHP新書)

 

第一章「定説や通念を覆す──孔子とは何者か、『論語』とは何か」では、「実際の孔子は『聖人』であったか?」として、著者はこう述べます。
孔子に対する共通の称号は『聖人』である。儒教の本場・中国では、孔子は宋の時代に『至聖文宣王』との称号を皇帝から与えられている。明王朝ではそれが『至聖先師』と改称され、清王朝の時代に『大成至聖先師』として定着した。そのいずれも『至聖』という肩書きがメインであって、要するに孔子は単なる聖人ではなく、聖人の道を極めた聖人の中の聖人、という意味合いである。
もちろん、歴代王朝からこのような称号や肩書きを贈られただけでなく、中国を中心とした儒教の世界においては今でも、孔子は普通、『聖人』と見做されている。『孔子=聖人』は常識の中の常識であり、疑うことのできない通念でもある。そして、この『聖人』としての孔子は、儒教における崇拝の対象ともなっているのである」
ちなみに、わたしは『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)で、聖人としての孔子について詳しく書きました。

 

著者は、「作られた『聖人像』を打破すべき」として、以下のように述べています。
「結局、孔子という人間は時々、意地悪くて人の気持ちをわざと弄ぶこともあれば、カンシャクを起こして弟子の自尊心を平気で傷つけることもあった。あるいは、われわれ普通の人間と同じように、怨念や妬みなどのマイナスの感情を持つこともあった。
もちろんそれは孔子の全てではないし、これだけをもって『孔子は駄目な人間だ』と、この歴史上の偉人を貶めるつもりも筆者にはない。ここで言いたいことはただ1つ、要するに孔子は決して『完璧にして理想的な人間』ではないということだ。彼にもさまざまな人間的弱みがあって人格的な欠陥もあり、良くない感情も悪い癖も持っているのだ。もちろん彼は優れた人物であるが、同時に、ときにはわれわれ普通の人間とそんなに変わらない側面を見せることもある。つまり彼は決して、後世の人々が理想化したような『聖人』ではないのである」

 

また、著者は「『論語』は聖典でもなければ経典でもなく、常識論の書だ」として、『論語』について述べています。
「まず確実にいえることの1つは、『論語』は哲学の書ではないということだ。ドイツの大哲学者であるヘーゲルは、『論語』の独訳を読んで『こんな書物のどこが哲学なのか』と失望して、『孔子の名誉のためにも、『論語』は翻訳されないほうがよかった』との名言を残しているが、実はドイツ人あるいは西洋人の基準からでなくても、中国人自身の思想史の基準からしても、たとえば後述の孟子朱子の哲学を基準にして見ても、『論語』はどう考えても『哲学の書』ではない。何しろ、本章において見てきたように、孔子はそもそも哲学者ではないからである。もちろん孔子は聖人でもないから、『論語』という書物は決して、恭しく拝読すべき『聖典』ではない。そして孔子は宗教家ではないから、『論語』はキリスト教の聖書やイスラム教のコーランのような教典でもない」
著者いわく、『論語』は孔子という「常識人」が語る「常識論の書」であるといいます。

 

孟子 (講談社学術文庫)

孟子 (講談社学術文庫)

 

 

第二章「御用教学・儒教の成立と悪用される孔子」では、「『王道』と『礼治』――儒学を打ち立てた孟子荀子」として、著者は以下のように述べています。
「要するに中国思想史上、儒学がその始祖とすべきは戦国時代の孟子であり、決して春秋時代孔子ではない、ということである。孟子よりも半世紀後の戦国時代末期に生まれた荀子もまた、儒学の学問的体系化に貢献した一人である。荀子は趙国の出身であるが、生涯において政治権力に疎まれた孟子とは違って、荀子は各国を遊説する中で、斉の国の襄王や楚の国の春申君などの権力奢に仕えることができ、政治に携わりながら学究の生活を送った」

 

荀子 (講談社学術文庫)

荀子 (講談社学術文庫)

 

 

前漢の第7代皇帝であった武帝の時代に、董仲舒という儒学者が登場し、「天人相関説」や「性三品説」というものを唱えました。中でも「性三品説」は、孟子荀子儒学思想をつまみ食い的に借用しているとして、著者は述べます。
「『上品の性が生まれつきの善』という説は当然、孟子の『性善説』の借用であるが、『下品の性が生まれつきの悪』というのは当然、荀子性悪説を受け継いでいる。そして、『王は民を教化して善へと導く』という説はやはり、孟子の『王道思想』と荀子の『礼治主義』から大きな影響を受けているのであろう」

 

春秋繁露 (中国古典新書)

春秋繁露 (中国古典新書)

 

 

続けて、著者は以下のように述べます。
「そういう意味では、董仲舒の『性三品説』は孟子荀子儒学思想の焼き直しにすぎない。彼の独創性あるいはオリジナル性は、孟子荀子儒学思想のいくつかの要素を借りてきて、皇帝に奉仕するような権力正当化の御用理論、すなわち政治的イデオロギーを再構築した点にある。つまり董仲舒の手によって、学問としての儒学は政治権力を正当化するためのイデオロギーとなり、まさに後世にいう『儒教』になったわけである」

 

「『論語』とは無関係の儒教の成立、そして孔子の神格化」として、著者は述べます。
董仲舒が中核となる前漢儒学者たちは『天人相関説』や『性三品説』を打ち立てて王朝の政治権力と皇帝の権威の正当化に躍起になる一方、『五経』というものを生み出して新しい数学体系の根幹にした。そこで成立したのがすなわち後世にいう『儒教』というものである。そして、この時点から南宋時代における朱子学の登場までの約1300年間、この『五経』が儒教の基本経典として儒教思想の中核的な地位を占めていたのである」
著者いわく、前漢以後の儒教には、本物の「孔子」はもはやいません。前漢以後の儒教には『論語』も生きていません。前漢以後の儒教はただの儒教であって、孔子の『論語』とは何の関係もないというのです。

 

第三章「朱子学の誕生と儒教原理主義の悲劇」では、「心の救済への渇望と仏教の勢力拡大」として、著者は魏晋南北朝時代に外来宗教の仏教が中国に入ってきて、急速に勢力を拡大したことを指摘し、以下のように述べます。
「仏教が中国に伝来したのは、およそ後漢時代であるが、それが本格的に広がり始めたのは五胡十六国時代南北朝時代である。紀元4世紀頃、西域僧の鳩摩羅什などの尽力により仏典が大量に漢訳されたことは、仏教の中国普及を可能にした要因の1つであるが、仏教勢力の拡大を促す、いくつかの歴史的、社会的要因があった。その1つは、後漢末期から長く続いた殺戮と破壊の大乱世の中で、あまりにも多くの苦難を体験した人々が、心の救済を強く求めていたことである。中国伝統の儒教は、権力への奉仕こそを本領とする数字であって、大衆の救済には何の興味もないし、その役割を果たすことができない。そこで、苦しみからの解脱や死後の極楽の世界を説く仏教が現れると、それが人々の心を摑んで離さなかったのは、むしろ当然の成り行きであった」

 

また、「『論語』の憂鬱――『四書』の選定と祭り上げ」として、著者は述べます。
前漢儒教は『五経』を制作するときに孔子の名を悪用しながら、孔子孟子の両方を儒教の最高経典から排除して、いわば『孔孟冷遇』の儒教を打ち立てた。それに対し、前漢以来の儒教を頭から否定したは、逆に孔子孟子を引っ張り出してきて、その空白を埋めようとしたのである。朱熹の立てた道統においては、周の文王・武王・周公から北宋の周敦頤に直結するのはいくらなんでも無理があり、その思想的・歴史的繋ぎ役が必要となってくるのである。朱熹がそのための繋ぎ役として選んだのがすなわち、孔子孟子である。前漢儒学者たちが孔子を散々悪用したのと同様、朱熹はまた、孔子孟子を利用しただけである」
著者は、「結局、孔子と『論語』は誕生してから1500年以上、必要とされるときだけ都合よく利用されてきたわけである。前漢から朱熹までの儒教の歴史は、孔子と『論語』にとっては、散々利用され、悪用された不本意にして憂鬱な歳月だったのであろう」とも述べています。

  

「朱子語類」抄 (講談社学術文庫)

「朱子語類」抄 (講談社学術文庫)

 

 

さらに、「漢民族明王朝において支配的地位を確立」として、著者は以下のように述べています。
朱熹の名声が高まったのはその没後である。彼の学問は徐々に読書人の間で広がっていって、朱熹は『朱子』と呼ばれるようになった。そして1241年、朱熹の死後41年目にして、彼は文宣王廟(孔子廟)に従祀され、朱子学が国家の正統教学であることが示された。しかし、その38年後の1279年には、南宋が元の侵攻によって滅び、中国大陸が蒙古族の建てた元朝によって支配されることとなる。だが、この異民族王朝の下で科挙試験制度が復活されたとき、科挙試験の準拠する儒教経典の解釈に朱子学が採用されることとなった。朱子学はこれで初めて国家的教学としての地位を得たのである。朱子学がさらに支配的地位を固めて一世を風靡したのは、1368年に創建された漢民族中心の明王朝においてである」

 

そして、「『殉節』と『守節』に追い込まれる中国女性の悲哀」として、著者は以下のように述べるのでした。
「要するに朱子学と礼教の世界では、夫の性欲を満足させその後継を生み、そして子供を育てることが『道具』としての女性の役割であるが、夫が亡くなって子供もいないなら、この女性にはもはや生きる価値はない、死ぬ以外にないのである。そして、このような考えに従って『殉節』を遂げた女性は、官府と社会から、場合によっては朝廷から『烈婦(烈女)』だと認められて大いに表彰されるのである。
このように、朱子学と礼教が盛んであった明清時代の中国社会では、夫に先立たれた女性ほど不幸なものはなかった。『守節』して夫の残した子供と家族に奉仕していくか、『殉節』して自らの命を絶つか、この2つの道しか許されない。人間としての権利、女性としての幸せなどはもってのほかであった」

 

第四章「朱子学を捨て、『論語』に『愛』を求めた日本」では、「朱子学を取り入れつつ、完全離脱した日本」として、著者は以下のように述べています。
「戦国時代の乱世に終止符を打って天下統一を果たした徳川家康は、安定した政治的仕組みを作っていくために、儒教を幕府の政治理念として取り入れた。そのとき朱子学が中国・朝鮮を含めた東アジアの世界では支配的地位を占めていたから、幕府の導入した儒教はもはや飛鳥時代に日本に伝来したような伝統的儒学ではなく、時代のトレンドとなった新儒学、すなわち朱子学であった。かくして、朱子学は一時、日本の思想界を支配することになったが、幸いなことに、日本人は朱子学を受け入れながらも、それとペアになっている「礼教」にはまったくの興味を示さなかった」

 

 

また、「『論語』との矛盾に気がついた伊藤仁斎」として、著者は江戸前期の思想家で朱子学に対して最も根本的な批判を展開した伊藤仁斎を取り上げ、こう述べています。
朱子学による儒学古典の曲解や歪曲を一度洗い落として、儒教思想の本来の姿を取り戻すべきだと、仁斎は考えた。そのために彼が開発した独自の学問の方法とは、朱子学による古典の注釈や解釈を無視して、『論語』や『孟子』に書かれている古の言葉をその本来の意味において理解し会得することだった。それがすなわち仁斎の『古義学』というものである」
「仁斎が取り戻そうとした『愛』の原理」として、著者は「仁斎が取り戻そうとした儒学の原点とは何であったか。それは仁斎自身が『最上至極宇宙第一の書』と絶賛する『論語』と、仁斎自身が『論語』から読み取った『愛』の原理である」と述べます。

 

伊藤仁斎「童子問」に学ぶ

伊藤仁斎「童子問」に学ぶ

 

 

「『朱子学の理は残忍酷薄』という痛烈な一撃」として、著者はこう述べます。
「考えてみれば、日本の良き伝統が綿々と受け継がれる京都の町人社会の、その自由闊達な気風と文化的豊かさの中で育った仁斎が、中国流の峻烈な原理主義朱子学から離反したのは、むしろ自然の成り行きであっただろう。『仁斎の造反』によって日本人は、江戸思想史における『脱朱子学』の決定的な一歩を踏み出したのである。その中でも、朱子学の『理』に対する仁斎の批判はまさに正論であって痛快でさえある。朱子学原理主義に対して仁斎が投げつけた『残忍刻薄の心』の一言によって、中国の朱子学と礼教の本質が端的に表現されたのである。仁斎が同時代の中国で流行している『殉節』や『守節』の実態を知っていたかどうかは定かではない。だが、彼のこの一言はある意味では、礼教によって殺されていった何千何万の中国人女性の心を代弁していると思う。伊藤仁斎は偉大である」

 

「あとがき」では、著者はこう述べています。
「『論語』が語るのは「愛」であり、思いやりの『恕』であり、温もりのある『礼節』であった。だが、後世の儒教や礼教はもっぱら、『大義名分』たるイデオロギーによって、人間の真情としての『愛』や『恕』を殺そうとし、実際にそれらを見事に殺した。前漢から南宋期までの千数百年は董仲舒流の儒教が中国社会を支配し、元朝から清末までの六百数十年間は朱子学と礼教が支配したわけだが、その間の中国は、まさに『悪の教学』の毒によって冒されているかのごとき異様な社会となっていた。また、本場の中国よりも『朱子学中毒』となった朝鮮半島李朝500年もやはり、窒息しそうな病的時代であったといってよいだろう」

 

非人間的な儒教が発展した中韓とまったく違ったのが日本であるとして、著者は以下のように述べています。
「日本人は古代から『論語』を読んできたが、江戸時代になって朱子学を『官学』として受け入れて以降も、『論語』は重んじつつ、しかし礼教には最初からほぼ一顧だにしなかった。そして、江戸時代の代表的な儒学者たちは、最初は朱子学から出発しておきながらも、やがて朱子学を打ち捨て『真の儒学』を求めていったのである。とりわけ、京都の『町の儒学者』である伊藤仁斎がたどり着いたものこそ、『論語』であった。彼は『論語』のなかに人間の『愛』を再発見し、『論語』を『宇宙第一の書』として推奨したのである」

 

 

そして最後に、著者は「おそらく仁斎の推奨の功もあったのだろう。江戸時代から現在に至るまで、儒教のいわゆる『四書五経』のうち、日本で一番広く読まれて、日本人に一番親しまれてきたのは『論語』であった」と述べるのでした。この『論語』に最も親しんだのが日本人であるのは同感ですが、日本が儒教の神髄を理解しているかというと疑問です。というのも、儒教は何よりも葬礼を重んじますが、日本では「葬式は、要らない」などという妄言が流布し、家族葬直葬など、葬儀の簡略化が進む一方だからです。この点、中国や韓国のほうがまだ葬礼を重んじていると言えるでしょう。本書の内容は、ブログ『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』で紹介したケント・ギルバート氏のベストセラー著書の内容にも通じていますが、わたしは同書の書評でも同じことを書きました。

世界一わかりやすい「論語」の授業』(PHP文庫)

 

わたしは大学の客員教授として「孔子研究」の授業を担当してきました。これまで多くの日本人学生をはじめ、中国人留学生や韓国人留学生たちにも『論語』を教えるという得難い機会を与えられましたが、その授業内容をまとめた本が『世界一わかりやすい「論語」の授業』(PHP文庫)です。また、現代日本の子どもたちのために江戸時代の寺小屋の『論語』教本のアップデートを目指して作ったのが『はじめての論語』(三冬社)です。ともに多くの方々から読まれています。

はじめての論語』(三冬社)

 

最後に、本書のテーマとも通じるのですが、わたしには『徹底比較!日中韓 しきたりとマナー〜冠婚葬祭からビジネスまで』(祥伝社黄金文庫)という監修書があります。この本には、東アジアの平和への強い願いが込められています。もともと、日本も中国も韓国も儒教文化圏です。孔子の説いた「礼」の精神は中国で生まれ、朝鮮半島を経て、日本へと伝わってきたのです。しかしながら、ケント・ギルバート氏や石平氏も言うように、現在の中国および韓国には「礼」の精神が感じられません。

徹底比較!日中韓しきたりとマナー』(祥伝社黄金文庫

 

中国や韓国は、日本にとっての隣国です。隣国というのは、好き嫌いに関わらず、無関係ではいられません。まさに人間も同じで、いくら嫌いな隣人でも会えば挨拶をするものです。それは、人間としての基本でもあります。この人間としての基本が広い意味での「礼」です。「礼」からは、さまざまな「しきたり」が派生しました。それぞれの国の「しきたり」を知ることは、その国の文化を知ることです。そして、互いの文化の違いと共通点を知ることは、その国の国民の「こころ」を知ることにほかなりません。わたしは、冠婚葬祭や年中行事に代表される「しきたり」を知ることによって、日中韓の相互理解、国際親善、そして世界平和につながることを心から願っています。なにしろ、孔子が説いた「礼」とは究極の平和思想なのですから・・・。

 

 

2019年7月31日 一条真也

『大人のための儒教塾』

大人のための儒教塾 (中公新書ラクレ)

 

一条真也です。
29日、全互連の理事会に出席するために東京に来ました。ものすごく暑くて、グロッキーです。東京のビジネスマンはネクタイはおろか上着も着ていない人が多いですが、さすがに冠婚葬祭互助会の保守本流である全互連の理事会では、スーツにネクタイ着用の社長さんが何人もいました。
『大人のための儒教塾』加地伸行著(中公新書ラクレ)を読みました。著者の加地先生から送っていただいた本です。加地先生は儒教研究の第一人者で、わたしが日頃から敬愛している方です。よく、長電話でいろいろと教えていただいています。1936年大阪生まれ。京都大学文学部卒。大阪大学名誉教授。文学博士。専攻は中国哲学史。第24回正論大賞受賞。主な著書に、『沈黙の宗教――儒教』(ちくま学芸文庫)、『論語 全訳注』(講談社学術文庫)、『論語 ビギナーズクラシックス』(角川ソフィア文庫)、『儒教とは何か』(中公新書)、『加地伸行著作集』(全三巻、研文出版)などがあります。

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本書の帯

 

本書の帯には著者の近影とともに、「儒教は、日本人にとってじつは身近だった!」「碩学によるやさしくてためになる儒教入門書」「人生百年時代、よりよく生きるために、あなたを支える知恵とヒントの再発見」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「儒教に学び、儒教を生かす――」として、以下のように書かれています。
儒教といえば、四角四面、堅苦しいイメージ。それは江戸時代以来、倫理道徳を強調した朱子学の影響にほかならない。しかし、儒教には、私たちに身近なもう一つの側面がある。たとえば、お墓、位牌、仏壇、そしてお盆やお彼岸といった先祖供養・・・・・・。これらは本来の仏教ではなく、儒教に由来するものだ。儒教の歴史と展開を辿り、家族のあり方、冠婚葬祭、老後や死の迎え方など、日本人に深く根ざす、儒教のほんとうの姿をやさしく説く」

 

さらにアマゾンの「内容紹介」に、こう書かれています。
「古来、農耕民族として生きてきた日本人には、祖先を敬い、互いを尊重し、助け合うという文化が根付いていた。じつは、そのあり方は、儒教の思想と深く親和してきた。江戸時代の朱子学が倫理道徳を強く押し出したため、とかく、四角四面、堅苦しく受けとめられ、誤解も多い。本書は、儒教を歴史的に繙きながら、家族のあり方や冠婚葬祭、死の迎え方、祖先との向き合い方、老後の備えなど、儒教に学び、儒教を生かす、知恵とヒントをやさしく解説する」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに――まず入塾テスト」

第一章 儒教はこうして生まれた

1 農耕の発達と家族主義の誕生

2 家族主義と個人主義

3 近代国家における重要語

第二章 儒教はすぐそばに

1 儒教のイメージ

2 儒教家族主義の柱

3 血縁共同体

4 冠婚葬祭

第三章 儒教の深さ――宗教性

 1 儒教と仏教と

2 死をめぐって

3 死後どうなるのか

4 生命の連続

5 儒教の成り立ち

第四章 儒教の強さ――道徳性

1 道徳と法と

2 儒教道徳の規準

3 徳目

4 朱子学陽明学

5 科挙制度

第五章 現代人と儒教と――人生百年時代の生きる知恵

 1 近代日本における儒教

2 お悩みへの処方箋

「あとがき」

「親族関係表」

 

儒教とは何か 増補版 (中公新書)

儒教とは何か 増補版 (中公新書)

 

 

第一章「儒教はこうして生まれた」の2「家族主義と個人主義と」で、農耕に由来する日本人の家族主義と狩猟に由来する西洋人の個人主義とを比較した後、著者は「日本人には狩猟的感覚はない」として、以下のように述べます。
「私の言いたいのは、こういうことです。人間の考えかたは、古い家族主義から新しい個人主義に変革されつつある、それが、現代である、という考えかたに同意できないのです。そうではなくて、人類にとって、狩猟における個人能力重視感覚と、農耕における集団行動重視感覚とは、並行して存続し続けてきており、前者から個人主義、後者から祖先祭祀を通じての家族主義がそれぞれ生まれてきたのであって、〈古い家族主義から新しい個人主義へ〉という順序で発展するという意見には賛同しないというのが、私の見解です」

 

沈黙の宗教――儒教 (ちくま学芸文庫)

沈黙の宗教――儒教 (ちくま学芸文庫)

 

 

第二章「儒教はすぐそばに」の1「儒教のイメージ」では、儒教倫理学・道徳論として見る一般論に対して、著者は「儒教すなわち倫理道徳なのか?」として述べています。
儒教倫理学・道徳論としてしか見ない見かたでいいのでしょうか。私は、儒教をそのような狭い見かたで捉えていません。もし倫理・道徳だけとしましたら、それは時代によっては、無力になってしまうのではないでしょうか。例えば、今日の個人主義全盛の時代に在って、いわゆる儒教道徳をそのまま持ってきても、果たして説得力があるのでしょうか。個人主義の時代に、例えば儒教倫理の中心中の中心、孝倫理をどのように位置づけることができるのでしょうか。十年一日のごとく、昔ながらに儒教を倫理としてだけで解釈する人は、きちんと位置づけできるのですか。
できません。その大きな理由は、儒教を倫理一本で考えるからできないのです。そうではなくて、儒教には宗教性があるとし、その宗教性と倫理性との二本柱が儒教を支えているという考えかたに転換すれば、個人主義全盛の時代に在っても、儒教家族主義を再建することは可能です」

 

2「儒教家族主義の柱」では、「御本尊を拝まない人々」として、著者は以下のように述べています。
「日本人は宗教を前にすると、なにがなんだか分からない、という姿となります。正直ですね、日本人は。それでは、さらに意地悪な質問をします。あなたは仏教徒ということですが、朝のお仏壇での御挨拶は、どなたに対してなさっているのですか。この質問に対して、驚くべきことに、たいていの人は、亡き父母とか、御先祖様とかと答えます。とりわけ、家族の中で最近亡くなった方がありますと、その方の冥福を祈ると言います。
それはおかしいですよ。仏壇を前にして礼拝し御挨拶をすべきお相手は、本尊様ですよ。その御挨拶が終わってからはじめて、亡き親族の方々に御挨拶するのが本当です。あえて申しますと、仏教徒であるならば、お葬式のとき、御遺体に対して拝礼するのではなくて、式場に安置されている御本尊(略式では、真言宗なら南無大師遍照金剛、真宗系なら南無阿弥陀仏とある法軸が本尊代理)に対してまず拝礼するのが筋です。そのあと、御遺体への挨拶です。しかし、葬儀参列者は本尊(代理としての法軸)には眼もくれず、御遺体を納めた棺ばかりに拝礼しています。それは、本尊第一の仏教方式ではありません。因みに、ベッド上の遺体を『屍』、棺に納められた死者を『柩』と言います」

 

また、著者は「仏壇は仏教と儒教のミックス」として以下のように述べています。
「もし住居にお仏壇があるとしましたら、仏教徒なら、朝の御挨拶は、もちろん御本尊に対して行ないますが、その後で、本尊の下段に並んでいる親族の位牌に対して御挨拶をするのがふつうです。これは、実は、仏教と儒教とのミックスなのです。本尊に対して礼拝するのは仏教です。本尊の下段の位牌に対して礼拝するのは儒教なのです。そのように仏教と儒教とがミックスされたものが日本の仏壇なのです。それを逆に言いますと、家にお仏壇があり、本尊と位牌とを安置しますと、仏教と儒教との両方の礼拝が果たせるのです。この、位牌への礼拝、すなわち自分の祖先を祭ること、これが儒教の根本なのです」

 

「唯心論か唯物論か」として、著者はこうも述べています。
儒教では、祖先をお祭りいたします。これは、儒教の柱です。大きな太い柱です。一族が団結する家族主義(一族主義)におきまして、人間の集団でありますから、なにか精神的な支えが必要です。ここが、人間が他の動物と違うところです。動物の世界では、集団のボスは、力の強いものがなります。集団を結んでいるものは、共有食物とか、血縁(それも母子中心の)とかといったもので、目には見えない精神的なものは、ありません。しかし、人間は異なります。精神的なものを求めます」

 

また、著者は以下のようにも述べています。
存在論の中に、この世の存在物の究極は、精神か物質か、という問題がありました。精神第一とするのが唯心論、物質第一とするのが唯物論です。人間の歴史において、なんと唯心論がずっと優勢でした。それは、宗教が大きな力を持っていたことと深い関係がありました。しかし、現代となり、宗教が後退し、商工業が前進してきますと、人々の考えが、唯物論に傾いてきていました。とりわけ、第二次世界大戦後がそうでした。しかも、この唯物論は、共産主義の哲学的根拠となっていたものですから、60年も前のころ、共産主義思想が共産党社会党(現在の社民党)などの政治運動の中で、すくなくとも知識人層の中で、相当の力を持っていました。その唯物論の証明的根拠となったのが、近代科学でした。近代科学の発展が唯物論の後押しとなったこともあり、共産主義は、大学において相当に広がっていました。ところが、分らぬものです。その共産主義が蹌踉めく2つの大きなできごとがありました。1つは、共産主義に基づき革命を成しとげ政権を握ったソ連が、共産主義的行政に失敗し崩壊したことです」

 

さらに、著者は以下のように述べます。
「いま1つは、共産主義の根拠であった近代科学です。その発展である現代自然科学は、究極のところ、物理学では〈不可思議〉とか、生物学では〈生命の神秘〉といったことばでしか説明できなくなってきました。宇宙論も将来の地球はブラックボックスに吸収されておしまいという虚無論になってきています。つまり、自然科学が唯物論の根拠となるどころか、〈物質〉ひいては〈物〉に対して、逆に否定の根拠となりかねなくなってきたのです。物質・物体こそ元始などという古典的唯物論では、説得力がなくなってきているのです。すると、結局は、人間は古来の唯心論的なものに近づいてゆくのではありますまいか。いや、唯心論などという哲学用語を使わずとも、われわれ一般人が使うことば、すなわち〈精神的なもの〉を人間は求めているという素直な気持になるのが、自然です」

 

そして、「精神的根拠としての祖先祭祀」として、著者は以下のように述べるのでした。
「現代の国民国家となる以前における、その集団とは、家族・一族です。この家族・一族に共通するもので、かつ敬意を払うもの、と言えば、祖先です。すなわち、家族・一族においては、その祖先が精神的根拠となるのです。もちろん、それは世界各地の人間集団において共通の感情でした(ただし後で説明しますがインドは除きます)。ヨーロッパもそうだったのです。クーランジュ著『古代都市』に詳しく書かれています。しかし、後に一神教キリスト教がヨーロッパの精神世界の頂上となってから、崇むべきは、ヤーベ(エホバ)というお名前のキリスト教の神お一人方だけとなり、祖先祭祀は否定され、なくなってゆきました」

 

続けて、祖先祭祀について以下のように述べています。
「祖先を祭るとは、祖先の霊魂を呼び降し子孫と出会うことです。この霊魂を呼ぶ〈降神〉は、シャマニズムと呼ばれる宗教形態の1つですが、それを行なう特殊霊能者(シャマン)は世界各地にいました。今も韓国や日本の沖縄にはたくさんいます。日本の東北にも、わずかですが、恐山近くにイタコと呼ばれるシャマンがいます。しかし、ヨーロッパキリスト教社会では、シャマンは捕えられ、宗教裁判の上、魔女として焼き殺されてゆきました。そのため、ヨーロッパでは、表だっての祖先祭祀も消えていってしまいました。インドには祖先祭祀はもともとありません。しかし、東北アジア地域すなわち中国・韓国・台湾・ベトナム北部、そして日本においては、今も祖先祭祀は続いています。これからも続くでしょう。この祖先祭祀という感覚、実行、集会、これが家族をつないでいるのです」

 

著者いわく、儒教は家族主義ということの表現でもあります。家族が互いに助け合って生きるという生き方が「家族主義」です。「〈無償の愛〉で結ばれる共同体」として、著者は以下のように述べています。
「共同体としての家族・一族は、祖先を祭ることによって、精神的に結ばれています。祖先は、言わば、その家族・一族にとっての神と言っていいでしょう。守り神でもあるわけです。ですから、家族・一族にとっての重要な出来事があるときは、祖先の前で、それを儀式として祈りつつ行なうのです。それは、祖先に対する報告であり、今後の御加護への請願であり、祖先への誓約であり、さまざまな家族・一族における重要事を祖先と一体化しつつ行なうわけです。そのさまざまな行事の中心となるものが、冠昏喪祭なのです」

 

 

4「冠婚葬祭」の1「冠昏(婚)」では、「儀式の行なわれる場」として、著者は以下のように述べています。
「家族・一族は、祖先を精神的中心として団結します。その団結は口先だけではありません。人生における重要な重大なできごとがあるときに、呼びかけを通じて家族・一族が集まり、そのできごとに関わる儀式に参列し、喜んだり悲しんだり、気持を同じくするわけです。人の一生、その人生のできごとは、もちろんいろいろあるのですが、個別的なことは別として、共通するものがあります。それが、冠昏(婚)喪(葬)祭なのです」

 

また、「名と字と」として、著者は述べます。
「一族の儀式に関わる最初はなんでしょうか。もちろん、それは出生です。生命の誕生は、一族の大きなよろこびです。しかし、なにしろ生まれたばかりの赤ちゃんには、一族のことなんか分りません。まして、一族の団結とか、祖先のことなんて分りません。そこで、幼少年期を経て、心身ともに一人前になったところから、一族入りということになっていったのです。言わば、誕生という自然的出生を経て、幼少期にさまざまなことを学び、身体も成長して一人の人間として生きてゆくという社会的出生を一族が祝うという儀式だったのです。儒教では、その儀式を冠礼と言います。その立場は、いま述べましたように、社会人としてのスタートです。『人の人たるゆえんは、礼儀なり』(人間が人間と言える根本は、礼儀を身につけることである)ということばがそれを表わしています(『礼記』冠義)」
冠礼のとき、親が本名を与えますが、親につけていただいた名は冠礼後はタブーとして隠し、一族の親しい人や大変お世話になった人などが「字(あざな)」という新しい名前を与えます。この字とともに、人は人生を歩んでいくことになります。

 

さらに、「夕方に行なわれるから『昏礼』」として、著者は以下のように述べています。
「結婚に至るまでのこと、すなわち婚約、結納といったことは省略しまして、結婚当日、すなわち婚礼は、新婦が新郎の家へ行き、すなわち輿入れし、婚礼が行なわれます。この輿入れは、夕方で、その夜に婚礼という順序です。陽(新郎の家)のところへ、いきなり陰(新婦)が行くのではなくて、さきほどの割合理論に従い、真っ昼間の新郎の陽の家に行くのではなくて、夕方という陰がしだいに多くなってきている時間帯に乗って、すなわち、しだいに夜となり陰が増える新郎の家に行くのが自然であるというわけです。ですから夕方を表わす『昏』字を使って、そのことを表現して昏礼と言うのです」

 

そして、著者は以下のように述べるのでした。
「婚儀はもちろん、その前に行なわれる礼式行事、例えば納采という礼。今風に言えば、ほぼ結納に当たりますが、それらの諸儀式のとき、その家の主人は、すべて廟(祖先を祭るみたまや)で待ち、花嫁側の使者を門外に迎え、廟に導きそのことばを拝聴しました。それほど、昏(婚)礼は重要なものであったのです。それは、一族として花嫁を迎えるということでした。新郎新婦二人の幸せのみならず、一族の幸せとしてです。それは、家族共同体・一族共同体全体の慶事であったということです」
ちなみに、「婚姻」の「婚」は男性、「姻」は女性を意味します。

 

2「喪(葬)祭」では、「『喪』の中心は土葬」として、著者は以下のように述べています。
儒教では、死者が出た場合、時間を追ってさまざまな儀式を行ないます。その儀式が終わるまでのすべての儀式をひっくるめて、「喪儀」と言います。その間、喪に服すわけです。その諸儀式の中で、最も中心となるのは、故人の遺体を埋葬するときです。別れです。蓋棺ということばがあります。遺体を納めた棺に蓋をしましたら、もうそれで故人と再び会うことはありません。なぜなら、蓋棺したあと、土中に埋葬するからです。儒教では、土葬が正式です。ただし、発生的には風葬(野ざらししてからの土葬)です」

 

また、著者は以下のようにも述べています。
「葬儀において、この〈土葬〉が最中心でありましたので、日本では、いつのころからか、『喪儀』を『葬儀』と表現するようになり、今日では書き取りの正解も『葬儀』です。『冠昏喪祭』も『冠婚葬祭』と書くようになりました」
「太古では、野原に遺体を野ざらしにして、白骨化したころ、残骨を集めて土に納めていたところから生まれたのが「葬」字です。すなわち、遺体をすぐに土葬するのは、ずっと後になってからの方式だったのですが、それと本来の野ざらし後の葬りとがごちゃまぜになっていったのです」

 

さらに、「祖先へのお供え」として、著者は述べます。
「『祭』字の『又』は手を表わしています。『月』は肉ですよ、筋が入っています。『示』の『丁』は机です。その机の上に、お供え物がありますと『亍』です。そのお供えを両手で供えている姿が『示』です。要するに、神や祖先の霊など神聖な対象にお供えをしている形です。ですから、『祭』というのは、人間と神聖なものとの出会いということです。その神聖なものには、いろいろあります。山や森、太陽・月・星といった物体的なもののほかに、目には見えない精霊、神霊などたくさんありました。そういう霊的なものを祭ったわけです」

 

そして、「席次のルール」として、著者は述べるのでした。
「子よりも親が先に亡くなるのが順当です。ところが逆さまとなりましたので、逆縁と称し、親は子の葬儀には参列しません。当然、喪服も着ず、平服です。もちろん、出棺後も家に残ります。死は年齢順ですのに、親よりも先に亡くなるというのは、大いなる〈不孝〉となります。しかし、そういう逆縁のときの慣習も近ごろは伝わらず、親が事故死した子の葬儀を行なっているテレビ映像を見て、私は違和感を覚えました。そういうときは、当事者である親ではなく、近親のしかるべき人が喪主を務めるべきでしょう」

 

決定版 年中行事入門

決定版 年中行事入門

 

 

3「盂蘭盆など年中行事」では、「農民暦が年中行事のルーツ」として、著者は以下のように述べています。
「盂秋の月すなわち8月(今日の陽暦の9、10月あたり)になると、収穫した新しい穀物が天子に献上されます。すると『天子、新しき(新穀)を嘗む(味わう)』ことになりますが、『先ず寝廟(祖先を祭る廟)に薦む(お供えする)』とあります。『新しきを嘗む』すなわち『嘗新』ということばから、日本では新嘗祭という行事となり、明治以後、11月23日をその日に充てました。それを現代では『勤労感謝の日』として国家の祝日としています。もちろん、皇室におかれては、皇居での儀式をしておられます。これは重要な祭日で、天皇は、即位後の最初の新嘗祭を特に大嘗祭と名づけるほどです。この大嘗祭は、人々の上、最高位に在ることを示すものであり、天皇一代において一回限りの最重要な大祭です。こうした儀式や祭祀に続いて、さまざまな儀式や祭祀が加わってゆき、いわゆる年中行事が生まれてゆきました」

 

知ってビックリ!日本三大宗教のご利益―神道&仏教&儒教 (だいわ文庫)

知ってビックリ!日本三大宗教のご利益―神道&仏教&儒教 (だいわ文庫)

 

 

第三章「儒教の深さ――宗教性」の1「儒教と仏教と」では、かつての儒教と仏教の対立の歴史を紹介しながら、著者は「鬼神をめぐる論争」として以下のように述べています。
「現代では、儒教と仏教とが、日本ではそこに神道も入れて、三者が論難し合う時代ではありません。かつて中国では、道教(中国で生まれた宗教)と儒教・仏教の合わせて三教がおたがい自分の勝れていることを主張する〈三教論争〉というものがあり、思想史上のテーマでありました。それは、三教それぞれが、自己の現実的優勢(経済的利益も含め)を得たいという大きな欲望があったからです。
けれども、『星移ること、幾度の秋ぞ』――現代に至っては、三教(日本では神道儒教・仏教、中国では儒教・仏教・道教)ともに、いわゆる社会的政治的勢力からは遠いところにいますので、これからは、欲得抜きで冷静に話し合える環境にあると言えましょう。自分が上だ、お前は下だ、などという愚劣な三教論争ではなく、人々の幸せをどのようにすれば実現できるのか、という〈幸福論〉を人々に提供する大目的を志すべきです」

 

2「死をめぐって」では、儒教書である『孝経』を紹介しながら、著者は以下のように述べています。
「死者との永遠の別離に慟哭する、惨めな、暗く、そして脆弱な人間存在は、親しき愛する人の死する瞬間には、無限に底知れぬ無力感に埋没する。しかし、悲痛に“哀しむ”ことによって、“哀しみ”の根源が、死者と死者を送る者とのいのちの連続であることを知る。血と血の極限的な現在時におけるいのちの連続の確認を、死者によって生きている現実的自己の確認を、生きている現実的自己によって死のリアリティの確認を行なうのである。
人はすべて血の鎖に繋がれている宿命を背負いながら、否、背負うことによって、死と対決しなければならぬ。しかし、その対決を血の鎖を信じることによって宥和させる可能性を『孝』、本来的『孝』が有しているのではないか。〈喪親章〉全篇はこのような意味であるかと思われる。そこには、一種の孔子的伝統を継承する解脱、支那的解脱の一面を見ることができよう」

 

また、「宗教とは何か」として、著者はこう述べます。
儒教は宗教ではないと断言する人、そういう人は、私から見れば〈骨董的人物〉ですが、こう質問すればすぐ化けの皮が剥がれます。すなわち『あなたの言うその宗教の概念とは、どういうものですか』と尋ねてみることです。ほとんどの人は、自分の頭で考えていませんから、転ばすのは簡単です。例えば、こう言う人がいます。『崇める対象、その教典、集会場所』の3者がそろっていること、と。なるほど。キリスト教ですと『ヤーベ(崇める最高神)・イエス(神の子)、聖書、教会』の3点、仏教ですと『本尊(各種あります)、仏典、寺院』の3点です。
しかし、そういうことなら、儒教もそろっていますよ。『祖先(祖霊)、儒教文献(特に13種)、廟のある本家(祠壇のある家屋)』です。3点セットなんていうチャチな概念規定では子どもだまし程度。大人相手の議論になりませんよ」

 

また、宗教について、著者はこうも述べます。
「宗教と言われているものができる仕事において、他の分野ででもできるものを引き算していったのです。例えば、病気を治療する。これは医学が担当できますから、宗教から除きます。天文現象について述べる。これは天文学が担当できますので、宗教から除きます。というふうにして他の分野からでもできるものを除いてゆきますと、それしか担当できないものが、ただ1つだけ残りました。それは〈死〉です。医学や生理学は、死以前までは語れますが、死および死後については無力です。しかし、〈宗教は死および死後の説明ができる〉のです。この役割は宗教以外、できません。そこで私は、こう定義しました。「宗教とは、死および死後の説明者である」と」

 

3「死後どうなるのか」では、「遺体処理の方法から死を説明」として、著者は以下のように述べています。
「人間は、他の生物と異なり、〈死〉について、感じ、考え、その恐怖・不安から必死になって死後の説明を求め、自分が納得できる説明を信じ、そこに依って安心して生きてきました。全世界の人々がそうでした。もちろん、大半の人々は、その人が属している血縁共同体の立場に従い、その説明を受け入れてきました」
「〈遺体の処理〉すなわち葬についての行為がまず存在していて、そこから生まれた〈死および死後の説明〉すなわち宗教が、後には逆に葬についての儀式を指導するようになったというのが私の考えです」

 

4「生命の連続」では、「〈孝〉の三要素」として、著者は以下のように述べています。
儒教では、(1)祖先祭祀、(2)親への敬愛、(3)子孫の存在の3者をもって孝とするのです。つまり、孝は3つの要素で成り立っているのです。自分の親に対するものだけではありません。これは、儒教における考えかたの基本の中の基本です」
儒教の孝は、祖先(過去)・父母(現在)・子孫(未来)の3者を貫く在りかたという個別具体的な、難しく言えば実存的な把握なのです。それを分りやすく言えば、祖先の生命が、自分において存在しており、その連続してきた生命を次の世代に託してゆく、ということです。それは〈生命の連続〉ということです」
「結婚していない、あるいは結婚して子がいなくとも、甥や姪を愛することです。甥や姪は、子族すなわち自分の子なのです。それが儒教の論理なのです」

 

5「儒教の成り立ち」では、「神と人とをつなぐ者」として、著者は以下のように述べています。
「雨乞いもそうです。条件が2つあります。1つは、連日の日照りが極限いっぱいになっていること。この極限に意味があります。すなわち、次は雨となる日が近づいているというわけです。もう1つは、雨乞い場所が決っていることです。雨乞いは、どこででも行なうものではありません。特定場所です。どんなところかと言いますと、里山近くではあるものの、周囲の山は切り立ったようなところです。言わば、コップ状のところです。そのコップ状の底に当たるところが、雨乞い儀式の場です。その場所で、火を焚きます。すさまじい火勢の中、シャマンが雨乞いの儀式をします。
すると、火の熱によって、上昇気流が生じ、コップ状の地勢ですので、すぐさま上昇し、急に高いところにまで届き、その辺りを攪拌(かきまわす)、つまり、人為的に高空の気流に急な変化を与えるのです。すなわち、暖かい空気が上昇しますと水蒸気が生まれて雲となり、雲の中の水滴が雨となって降るという、ごく当たり前の、今では小学生も知っている気候理論に従っての雨乞いなのです。しかも日照りが続き、次は雨しかない状況です。こうした雨乞いも、巫覡の大きな仕事でした。何と言っても、農業(食糧生産)第一の時代だったのですから」

 

また、「文字を操る『儒』」として、著者は述べます。
「一言で言えば、当時の巫覡は知識人でした。文字を知っているというのは、とても重要なことでした。同時に、祭文の読上、読誦とともに行なう儀式は、礼法へと発展してゆきます。彼ら彼女らはその礼法も学びよく知っていました。そういった宗教的、儀礼的、知識的技術集団を指して、儒と称しました。だいたいこの『儒』字自体が古代的なものを残しています。すなわち『儒』の上部は『雨』です。下部『而』は、頭髪を切って髻のない人の形で、それに人偏を付けています。『雨を需め、需つ』の意で、雨乞いする姿を表わしています(白川静『常用字解』)」

 

第四章「儒教の強さ――道徳性」の2「儒教道徳の規準」では、著者は以下のように述べています。
「沖縄では、今も儒教儀式が生きています。ただし、七七忌(いわゆる四十九日)について記しており、そのあたりは明治以後の日本仏教の影響も。沖縄は、江戸時代は尚氏一族が支配した琉球王朝であり儒教体制でありました。もちろん、江戸幕府の寺請制度の及ぶ地域ではなかったので、日本仏教による寺院主導の葬儀はなく、儒教方式に依る葬儀が今も行なわれています。
ここで注意していただきたいことがあります。江戸時代から現代に至る葬儀の方式は、仏式です。しかし、これは、儒教式に基づく葬儀よりもずっと新しいものなのです。逆に、沖縄の儒教的葬儀のほうが東北アジアの主流なのです。そこを誤って、沖縄の葬儀を地方の一習俗のように捉えている人がいます。儒教を知らないのでそんなことを言うのでしょう」

 

孔子 (角川ソフィア文庫)

孔子 (角川ソフィア文庫)

 

 

また、「孔子による儒思想の創造」として、著者は以下のように述べています。
「儒集団は、この下流の礼の中から生まれてきたものですから、上流の礼はよく分りませんでした。という辺りから、儒集団の社会的地位が下落し、あえて言えば、むしろ差別された集団となっていったようです。もしそのままでしたら、その後、生き延びることは生き延びたでしょうが、おそらくシャマンとして、つまりは、俗に言う〈拝み屋さん〉として生き延びるぐらいのことだったでしょう。
ところが、1人の天才が登場したのです。孔子です。前述しましたように、孔子は母の属する儒集団で生まれ育ちました。後に、農民の父のもとで育ちます。孔子の武器は、儒集団が使っていた文字を習得していたこと、儒集団の下級礼ができたことです。この孔子は、20代後半、事情はよく分りませんが、ともあれ都へ留学し、上級礼を学びました。すなわち、上級礼も下級礼も孔子はできるようになったのです。これを生かし、つまりは〈武器〉とし、自力で儒の考え、立場、方法等を再編成し、文字に対して新しい解釈を加えて、儒思想を創造していったのです」

 

第五章「現代人と儒教と――人生百年時代の生きる知恵」1「近代日本における儒教」では、著者は「家族主義のやさしさ」として以下のように述べます。
儒教では、天国も地獄もありません。常に、あなたの命はあなたの御祖先とつながって生きています。そこに、一族主義が入ってきます。日本では、父の兄弟姉妹、母の兄弟姉妹には、『父』(伯父・叔父)『母』(伯母・叔母)という字が使われます。つまり、自分にとっての父母の代は、すべて父族、母族なのです。逆に、父族、母族から見れば、下の世代(甥・姪)は、全部子族。自分のいとこは従兄・従姉・・・・・・ではないですか。これはすごいことです」

 

2「お悩みへの処方箋」では、「お墓と仏壇をどうする?」として、著者は以下のように述べます。
「ご先祖さまや自分の墓はどうなっていくのか、これは現代人の大きな悩みです。
しかし、お墓の問題は簡単に解決できます。あなたが土地付きの家をもっていたら、その敷地内に、自分の亡き親族のお墓を建ててしまえばいいのです。しかし法律が禁じている、と思われるかもしれません。その理由は、地目が墓地でなければ埋葬してはいけないことになっているからです。では、敷地の一角を墓地に地目変更しようと思っても、時間が掛かります。しかしその必要はないんです。石碑に例えば、『加地家之墓』と書いた瞬間に、墓地関係の法律に全部引っかかります。ところが、『加地家記念(あるいは祈念)碑』としたら、全然関係ありません。誰も文句は言えません。黙っておれば、そこに遺骨を納めてまったく構いません。お骨が家の中にあるか、外の碑の下にあるかの違いだけです。地目は宅地のままです。自宅がマンションだったら、マンション入居者で話しあって一角に記念碑を建てればすむことです。いかがでしょうか」

 

また、「形式より気持が大事」として、著者は述べます。
「容れ物の問題ではなくて、自分たちが儀式を行なうかどうかの気持、心のほうが大事なのです。日本人はお墓がなきゃいかん、お仏壇がなきゃいかんと言いますが、普段はお祭りしないでほったらかしにしているのに、そういうことを言うのはおかしいです。形式に堕しているのです。はやりの散骨や樹木葬にするくらいなら、亡くなった後、自分の家のゴミ箱に捨ててもいいのではないですか。インドでは、ガンジス川に遺体を流しますが、事実はゴミ箱に捨てるようなものです。散骨と言って業者にお金をとられるのもばかばかしいです。もし散骨したければ、自分たちでお骨を海に撒いたらいいではないですか」

 

さらに、著者は以下のように述べるのでした。
「先人たちがどれだけ苦労して、死の恐怖と戦ってきたか。その表われが、木主(位牌)でありお墓であり招魂復魄(魂を招き魄を復どす)の儀式です。死は恐くないという人なら、お墓もお葬式も、年忌法要もなくていいと思います。その人の人生観です。でも、そんな人は滅多にいません。生命の連続という観念から言えば、過去のものであっても遺体・遺骨を鄭重に扱うというのは、礼儀です。これが儒教の本質です。あとは技術的な問題です。庭に記念(祈念)碑を建てて、遺骨を納める、あるいは上下2箱に分れた仏壇を手作りしてその下の箱にお骨を入れてお墓としての意味合いを持たせる、というのも1つの方法なのです。こうして魂魄を安置するのは、オーソドックスな儒教の方式です」

 

「あとがき」では、本書を書いた目的が説明されています。
「(1)儒教に対する真の理解をしてほしいこと。(2)そして儒教的行為(祖先を祭ることに始まり、肉親の葬儀に参列することなど)をきちんと実践してほしいこと。(3)そのためには儒教と日本仏教との関係をよく理解してほしいこと。等々です。
本書によって、ぜひ十分な理解をしていただきたいことは、死は怖くないという死生観――それは儒教の死生観ですが、それを十分に理解くださり、明日からの社会生活、また家庭生活において活かしてくださり、明るく生きていっていただけることを心から願っております。儒教こそ日本人に適した明るく生きがいを与える思想であることを、ぜひ御理解くださいますように」

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加地伸行先生と

 

本書を読んで、儒教は「死を説明する」という宗教の最大の目的を果たしているということを再認識しました。儒教が発明したさまざまな儀式を行なっていくうちに家族の絆は強くなり、人は死の恐怖さえ乗り越えることができるのではないでしょうか。儒教研究の第一人者によって書かれた本書には、「人生百年時代」を迎えた日本の高齢者にとって有意義なメッセージが満載でした。

 

大人のための儒教塾 (中公新書ラクレ)

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 2019年7月30日 一条真也