「ウエスト・サイド・ストーリー」

一条真也です。
11日から公開されている映画「ウエスト・サイド・ストーリー」を観ました。第94回アカデミー賞では、作品賞を含む7部門でノミネートされています。本作は1961年版のリメイクですが、オリジナルの「ウエスト・サイド物語」は、1962年のアカデミー賞で11部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、助演男優賞など10部門を受賞。60年ぶりに生まれ変わったわけですが、時代を超えて、数々の名曲と熱情的なダンスが輝いていました。


ヤフー映画の「解説」には、「1961年に映画化もされたブロードウェイミュージカルを、スティーヴン・スピルバーグ監督が映画化。1950年代のアメリカ・ニューヨークを舞台に、移民系の二つのグループが抗争を繰り広げる中で芽生える恋を描く。脚本と振付は、共にトニー賞受賞歴のあるトニー・クシュナージャスティン・ペックが担当。主人公を『ベイビー・ドライバー』などのアンセル・エルゴート、ヒロインをオーディションで選出されたレイチェル・ゼグラーが演じるほか、1961年版でオスカーを受賞したリタ・モレノらが出演する」とあります。

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ヤフー映画の「あらすじ」は、「1950年代のニューヨーク・マンハッタンのウエスト・サイド。貧困や差別による社会への不満を抱えた若者たちは同胞の仲間たちとグループを作り、それぞれに敵対し合っていた。ある日、ポーランド系移民の『ジェッツ』の元リーダーであるトニー(アンセル・エルゴート)と、対立するプエルトリコ系移民の『シャークス』のリーダーの妹マリア(レイチェル・ゼグラー)が出会い、一瞬で恋に落ちる。その禁断の恋は、多くの人々の運命を変えていく」となっています。


「ウエスト・サイド・ストーリー」は、もともと、ブロードウェイ・ミュージカルです。アーサー・ローレンツ脚本、レナード・バーンスタイン音楽、スティーヴン・ソンドハイム歌詞、原案ジェローム・ロビンズで、1957年に初演。シェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」の舞台をニューヨークに置き換え、当時の社会的背景を織り込みつつ、ポーランドアメリカ人とプエルトリコアメリカ人との2つの異なる少年非行グループの抗争の犠牲となる若い男女の2日間の恋と死までを描いています。この舞台を現地で鑑賞したジャニー喜多川が感動し、歌って踊る4人組の少年グループ「ジャニーズ」を結成し、そこからジャニーズ事務所の歴史が始まったことは有名です。


その大人気ブロードウェィ・ミュージカルが1961年に映画化されて大ヒット、全世界のミュージカル、映画ファンを虜にしました。日本でも多くの人々がこの映画に感動しましたが、作家の三島由紀夫石原慎太郎の対談にもこの映画の話題が登場することから、昭和の二大作家も鑑賞したようですね。アメリカでは、1946年生まれのスティーヴン・スピルバーグに多大な影響を与えました。オハイオ州シンシナティウクライナユダヤ人の家庭に生まれ、アリゾナ州に育ったスピルバーグは、1961年の公開当時は15歳。スピルバーグ少年にとって後のキャリアに繋がる個人的最高傑作となりました。幼少期はオリジナル・ブロードウェイ版のレコード盤を擦り切れるほど聴き、家族がうんざりするほど歌い続いていたといいます。


幼少期からの「ウエスト・サイド・ストーリー」への思い入れの強さから、スピルバーグ監督は今回のリメイク版の脚本を完成させるために数年の月日を費やし、歌やダンスはもちろん、衣装やセット、台詞のひとつひとつにも徹底してこだわりました。そして、ついに、ミュージカル史上に残る名作「ウエスト・サイド・ストーリー」を完全映画化したのです。彼クラスの巨匠であればこそ、最高のスタッフとキャスト、そして莫大な制作費が集まったわけですが、1950年代ニューヨークの町並みが最新の映像技術で見事に再現されたのには目を見張りました。今から60年前に作曲された名曲たちも、現在のクリアなデジタル技術で生まれ変わりました。


ミュージカル映画のヒット作は映画の興行収入と比例してサウンドトラックもチャートを圧巻します。1961年版の「ウエスト・サイド・ストーリー」からは、「トゥナイト」、「アメリカ」、「マンボ」、「クール」、「マリア」など、ストーリーの重要なシーンを彩った楽曲が人気を博し、サウンドトラックも空前のヒットを記録しました。今回も、最新の米ビルボード・アルバム・チャート“Billboard 200”では、首位を走るディズニーのミュージカル映画「ミラベルと魔法だらけの家」と並んで、「ウエスト・サイド・ストーリー」から「秘密のブルーノ」もソング・チャート“Hot 100”でNo.1を獲得し、シングル・アルバムの両チャートを制したことは記憶に新しいですね。あの有名なトニーとマリアが愛を育む有名なバルコニーシーンも感動的に仕上がっています。


ただ、1961年版と比べて、今回は違和感もありました。その最たるものは、マリアを演じた女優です。前作はナタリー・ウッドが可憐なマリアを演じましたが、今回はレイチェル・ゼグラーでした。これは個人的な意見なので突っ込まないでほしいのですが、「ナタリー・ウッドのマリアの方が華があったなあ」と正直言って思います。レイチェル・ゼグラーの母方の祖母はコロンビア出身ということで、プエルトリコアメリカ人のマリア役にはふさわしかったのだと思います。彼女は、ディズニーの実写版「白雪姫」でもヒロインの白雪姫役に抜擢されました。多様性の時代にふさわしいプリンセスにするため、ディズニーはこれまでアングロサクソン系の俳優が演じていた白雪姫にラテン系のルーツを持つ彼女を抜擢したそうです。「多様性の時代」もいいですが、「映画には、とにかく美人女優が必要!」と考えているわたしにとっては、少なくともマリア役にはナタリー・ウッドの方がしっくりきました。


もっと根本的な違和感を述べると、マリア役だけでなく、「ウエスト・サイド・ストーリー」という物語そのものに「華」がないように感じました。ダンスシーンは情熱的でとにかく圧巻なのですが、躍っている場所が汚いのです。粉塵だらけの工事現場とか、塩だらけの倉庫とか、ダンスのステージにはふさわしくない場所が多いです。唯一まともなのがダンスパーティーの開かれている体育館というのでは、楽しくありません。考えてみれば、貧しい人々が暮らす街が舞台なわけですから仕方ないのでしょうが、「ザッツ・エンターテインメント」に登場するような豪華絢爛なミュージカル映画を好むわたしとしては、もっと「華」が欲しいのです。しかし、今回の「ウエスト・サイド・ストーリー」の集団でのダンスシーンは、前作にはないダンサーに接近したカメラワークが素晴らしいと感じました。躍る1人1人の躍動感が間近に伝わり、全体の協調性と相まって、より迫力を増しています。


ちなみに、「ウエスト・サイド・ストーリー」でトニーがドラッグストアで踊るシーンは、ブログ「イン・ザ・ハイツ」で紹介した昨年公開のミュージカル映画に受け継がれていましたね。「イン・ザ・ハイツ」もブロードウェイ・ミュージカルの映画化で、ニューヨークの片隅にある街、ワシントン・ハイツが舞台です。祖国を離れてそこに暮らす人々が、ストリートに繰り出しては歌とダンスに興じるシーンが展開されますが、明らかに「ウエスト・サイド・ストーリー」へのオマージュ的作品でした。「ウエスト・サイド・ストーリー」では、マリアとトニーがマンハッタンのアパートの非常階段で「トゥナイト」を歌います。「イン・ザ・ハイツ」にも同じような非常階段が登場しますが、若い男女がアパートの壁面も縦横無尽に自由に歩き回りながら歌うシーンが印象的でした。


ミュージカル映画といえば、わたしはブログ「ラ・ラ・ランド」で紹介した2016年公開のミュージカル映画が大のお気に入りです。やはり、ミュージカルはオシャレな服を着て、オシャレな場所で踊る作品がいいです。2016年に公開された「ラ・ラ・ランド」は、俳優志望とピアニストの恋愛を描いたミュージカル映画で、脚本・監督はデミアン・チャゼル、主演はライアン・ゴズリングエマ・ストーンが務めました。第89回アカデミー賞では「イヴの総て」(1950年)、「タイタニック」(1997年)に並ぶ史上最多14ノミネートを受け、監督賞、主演女優賞(エマ・ストーン)、撮影賞、作曲賞 、歌曲賞、美術賞の6部門を受賞した名作です。今回の「ウエスト・サイド・ストーリー」ですが、この「ラ・ラ・ランド」の存在がなければ、もっと話題にもなっていたでしょうし、ヒットしたことだろうと思います。ミュージカル映画の歴史に1961年の「ウエスト・サイド・ストーリー」以前・以後があったように、2016年の「ラ・ラ・ランド」以前・以後もあるのです。



さて、「ウエスト・サイド・ストーリー」という物語は、シェイクスピアの名作戯曲「ロミオとジュリエット」を基にしています。対立する立場にある男女が惹かれ合い、「好きになってはいけない」という状況に置かれるところが共通しているわけです。親や周囲から交反対されるといった障壁があると、若い2人の相手への想いはさらに燃え上がってしまいます。簡単には手が届かない存在だからこそ、その情熱は大きくなり、なんとしても結ばれたいと強く願います。このような「禁断の愛」を心理学では「ロミオとジュリエット効果」と呼びます。前作の「ウエスト・サイド・ストーリー」が公開された7年後、イタリア映画「ロミオとジュリエット」がオリビア・ハッセー主演で公開され、世界中で大ヒットしました。


1996年には、バズ・ラーマン監督によるアメリカ映画「ロミオ+ジュリエット」が公開。レオナルド・ディカプリオクレア・デインズが主演しました。この映画については、「映画を愛する美女」こと映画ブロガーのアキさんのブログ「映画が好き」に「『ロミオ+ジュリエット』水槽シーンのディカプリオがとにかく美しい!」という素晴らしい記事があります。アキさんは、「映画史に残るほどの美しさと伝説になっているのが、ロミオ(レオナルド・ディカプリオ)とジュリエット(クレア・ディーンズ)が初めて出会う水槽のシーンです。色鮮やかな水槽、初々しさが残るディカプリオ、愛に溢れるBGMなど、そのシーンを織り成す全てが幻想的な美しさです。公開当時も水槽シーンの完成度は評判になっていましたが、20年以上経った今でも色褪せることなくその美しさにうっとり見惚れてしまいます」と書かれています。

愛する人を亡くした人へ』(現代書林)

 

ロミオとジュリエット」のように「禁断の愛」を描いたラブストーリーは数多く、映画においても名作揃いです。これらの映画には、ある1つの共通項があります。すべての作品が、「愛」だけでなく「死」というテーマも持っていることです。考えてみれば、古今東西の感動の名作は、すべて「愛」と「死」をテーマにした作品であることに気づきます。もちろん、トニーの悲劇的な死で終わる「ウエスト・サイド・ストーリー」もそうです。拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)にも書きましたが、「愛」はもちろん人間にとって最も価値のあるものです。ただ「愛」をただ「愛」として語り、描くだけではその本来の姿は決して見えてきません。そこに登場するのが、人類最大のテーマである「死」です。「死」の存在があってはじめて、「愛」はその輪郭を明らかにし、強い輝きを放つのではないでしょうか。「死」があってこそ、「愛」が光るのです。そこに感動が生まれるのです。

f:id:shins2m:20220213004224j:plain死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)

 

逆に、「愛」の存在があって、はじめて人間は自らの「死」を直視できるとも言えます。拙著『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)で紹介しましたが、ラ・ロシュフーコーという人が「太陽と死は直視できない」と有名な言葉を残しています。たしかに太陽も死もそのまま見つめることはできません。しかし、サングラスをかければ太陽を見ることはできます。同じように「死」という直視できないものを見るためのサングラスこそ「愛」ではないでしょうか。誰だって死ぬのは怖いし、自分の死をストレートに考えることは困難です。しかし、愛する恋人、愛する妻や夫、愛するわが子、愛するわが孫の存在があったとしたらどうでしょうか。人は心から愛するものがあってはじめて、自らの死を乗り越え、永遠の時間の中で生きることができるのです。いずれにせよ、「愛」も「死」も、それぞれそのままでは見つめることができず、お互いの存在があってこそ、初めて見つめることが可能になります。



そして、「愛」の終着点は「結婚」です。「ウエスト・サイド・ストーリー」のマリアとトニーも将来の結婚を夢見ていました。結婚は最高の平和である。これは、わが持論であり、サンレーグループのスローガンです。わたしは、いつもこの言葉を結婚する若い二人に贈っています。実際、結婚ほど平和な出来事はありません。「戦争」という言葉の反対語は「平和」ではなく、「結婚」ではないでしょうか。オードリー・ヘプバーン主演で映画化もされたトルストイの名作『戦争と平和』の影響で、「戦争」と「平和」がそれぞれ反対語であると思っている人がほとんどでしょう。でも、「平和」という語を『広辞苑』などの辞書で引くと、意味は「戦争がなくて世が安穏であること」となっています。平和とは、戦争がない状態、つまり非戦状態のことなのです。しかし、戦争というのは状態である前に、何よりもインパクトのある出来事です。単なる非戦状態である「平和」を「戦争」ほど強烈な出来事の反対概念に持ってくるのは、どうも弱い感じがします。

結魂論〜なぜ人は結婚するのか』(成甲書房)

 

また、「結婚」の反対は「離婚」と思われていますが、これも離婚というのは単に法的な夫婦関係が解消されただけのことです。「結婚」は戦争同様、非常にインパクトのある出来事です。戦争も結婚も共通しているのは、別にしなければしなくてもよいのに、好き好んでわざわざ行なう点です。だから、戦争も結婚も「出来事」であり、「事件」なわけです。拙著『結魂論〜なぜ人は結婚するのか』(成甲書房)にも書きましたが、もともと、結婚は男女の結びつきだけではありません。太陽と月の結婚、火と水の結婚、東と西の結婚など、神秘主義における大きなモチーフとなっています。結婚には、異なるものと結びつく途方もなく巨大な力が働いているのです。それは、陰と陽を司る「宇宙の力」と呼ぶべきものです。同様に、戦争が起こるときにも、異なるものを破壊しようとする宇宙の力が働いています。つまり、「結婚」とは友好の王で、「戦争」とは敵対の王なのです。


人と人とがいがみ合う、それが発展すれば喧嘩になり、それぞれ仲間を集めて抗争となり(「ウエスト・サイド・ストーリー」はまさに抗争の物語)、さらには9・11同時多発テロのような悲劇を引き起こし、最終的には戦争へと至ってしまいます。逆に、まったくの赤の他人同士であるのもかかわらず、人と人とが認め合い、愛し合い、ともに人生を歩んでいくことを誓い合う結婚とは究極の平和であると言えないでしょうか。結婚は最高に平和な「出来事」であり、「戦争」に対して唯一の反対概念になるのです。その意味で、結婚は「最高の平和」であり、「ハッピーエンド」なのだと思います。最後に、「移民問題をめぐる社会の分断」というテーマを描いたはずのこの映画ですが、劇中の抗争は、人種的なものというより、ギャングの縄張り争いに起因している点や、描かれる分断の範囲が、「社会全体」ではなく、あくまで「若いギャング」に絞られていた点が残念でなりません。


おそらくスピルバーグ監督は、ドナルド・トランプ大統領時代の不寛容な政策を見て、「ウエスト・サイド・ストーリー」という“不寛容”の物語をリメイクし、世界に“寛容”の必要性を問いたかったのだと思います。しかしながら、物語があまりにも限定的な不良少年の話に終始してしまい、そこに世界中に訴える普遍性は感じにくかったと思います。せっかく現代にシャーク団やジェット団を復活させたのですから、そこにはもっと現代の世界が抱える問題を取り込んでほしかった。中国という人権無視の独裁国家による欺瞞に満ちたオリンピックが北京で開催され、米露戦争の危機が高まっており、さらにはオミクロン株による新型コロナウイルスの感染拡大の最中に日本公開されたこの映画を観ながら、わたしはそのように思いました。

 

2022年2月13日 一条真也