一条真也です。
2日、北陸に入りました。その夜、「おわら風の盆」を視察しました。富山市八尾地区に伝わる「おわら風の盆」は毎年9月1日から3日にかけて開催される富山県を代表する祭りです。最初は、曳山展示館で展示物を見学。
八尾地区のようす
「おわら風の盆」を見にやってきました
曳山展示館の前で
展示物の曳山
「おわら風の盆」は、哀調を帯びた胡弓の調べによる「越中おわら節」にのせ、起伏のある町並みを風情のある踊りで観るものを魅了します。掛け声はなく無言で踊り手が町を流すのです。女性による妖艶にして優美な踊り、男性による力強く勇壮な踊りが楽しめます。涼しげな揃いの浴衣に、編笠姿はなんともいえない幻想的な雰囲気があります。なんと例年約25万人もの観光客が訪れるという人気のある祭りです。
曳山展示館の中には、養蚕展示室もありました。
この八尾地区は昔から養蚕で栄えてきたようです。
「蚕養宮」という神社の模型もあり、興味深かったです。
また、蚕の幼虫と成虫の模型は「モスラ」そのものでした。
ブログ『ゴジラとエヴァンゲリオン』で紹介した本で、SF評論家の長山靖生氏は、東宝が生んだ多くの怪獣たちの中でも特に人気の高いモスラについて以下のように述べています。
「ゴジラがスサノオノミコトを思わせる父権的な怪獣だとすれば、モスラは母性的な怪獣だった。モスラの名称はmoth(蛾)に由来している(英語のモスを怪獣名に使う発想は、福永夫人によると武彦が療養中の病院で愛用していた蚊除剤『モスキートン』が元ネタ)が、motherも重ねられているだろう。またモスラの幼虫や繭はカイコのそれに酷似している。養蚕は女性の仕事だった。天照大御神も機織をしていたとされ、近代以降の宮中でも、天皇が田植えをし、皇后がカイコを飼っていたように、象徴的な意味を持つものだった」
それから、舞台で実演する「おわらステージ」を見学しました。
おわら風の盆行事運営委員会公式HPでは、「おわら風の盆」の来歴を次のように説明しています。
「おわらがいつ始まったのか、明瞭な文献が残っていないためはっきりしません。『越中婦負郡志』によるおわら節の起源として、元禄15年(1702)3月、加賀藩から下された『町建御墨付』を八尾の町衆が、町の開祖米屋少兵衛家所有から取り戻した祝いに、三日三晩歌舞音曲無礼講の賑わいで町を練り歩いたのが始まりとされています。どんな賑わいもおとがめなしと言うことで、春祭りの三日三晩は三味線、太鼓、尺八など鳴り物も賑々しく、俗謡、浄瑠璃などを唄いながら仮装して練り廻りました。これをきっかけに孟蘭盆会(旧暦7月15日)も歌舞音曲で練り廻るようになり、やがて二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う『風の盆』と称する祭りに変化し、9月1日から3日に行うようになったと言われます」
現在では多くの観光客が3日間に集中することもあり、混雑を緩和するために8月20日から30日まで「前夜祭」が行われています。
さて、「おわら」とはどんな意味なのでしょうか。
諸説あるようですが、江戸の文化年間に芸達者な人々は、七五調の唄を創作して、その唄の中に「おわらひ(大笑い)」という言葉を入れて町内を練り廻ったことから「おわら」と唄うようになったとも、豊年万作を祈念した「おおわら(大藁)」から来ているとする説もあります。また、近郷の小原村の娘が唄い始めたので「おわら」と呼ぶようになったとも。
また、「風の盆」の風とは、祭りが開催される時期からきているようです。
雑節のひとつで立春を起算日として210日目に当たる日が「二百十日」。現在の暦では9月1日頃ですが、台風の多い日もしくは風の強い日とされています。もっとも科学的な根拠はないようですが、かつては「二百十日」前後は、台風により収穫前の稲が被害に遭わないように豊作祈願が行われていました。そのために「風の盆」と呼ぶようになったようです。
ちなみに富山の八尾地区では休日を「ボン(盆日)」と呼んでいたそうです。「種まき盆」「植え付け盆」「雨降り盆」などと呼んでいたとか。しかし、現在の幻想的な祭りに変貌していくのは大正から昭和初期だったようです。
おわら風の盆行事運営委員会公式HPで、その経緯をみてみましょう。
「大正ロマンと呼ばれるほど文化に自由な気風が溢れた時代、大正9年に誕生した『おわら研究会』も影響を受け、おわらの改良(唄や踊り)を行いました。また、昭和4年に結成された『越中八尾民謡おわら保存会』初代会長の川崎順二の文化サロンを中心とした働きで、各界の文人が次々と八尾に来訪しました。おわらに一流の文化意識を吹き込んだ文化人には、宗匠・高浜虚子、作家・長谷川伸もいたと言われています。
同年、東京三越での富山県物産展に於ける公演を契機に、おわらの改良がなされ、画家の小杉放庵、舞踊の若柳吉三郎が創った『四季の踊り』は大人気となりました。このときのおわらが『女踊り』『男踊り』として継承され今日のおわら風の盆になりました」
おわら風の盆行事運営委員会公式HPには、さらに以下のように書かれています。
「その時代に生きた文芸人らの想いは今、歌碑となって町内のあちらこちらで息づいています。散歩がてら町の『おわら名歌碑』めぐりをして廻るのもおわらの楽しみの一つです。
新しい時代の息吹を吸収しながら生きるおわら風の盆は、これからも新しい変化を繰り返し、次の世代へと継承されていくことでしょう。また、そう願わずにはいられません」
「おわら風の盆」の音を出す
曳山展示館の前で
夕暮れの八尾地区で
八尾地区のショットバーで
祭りとしての起源は古いのですが、多くの観光客を魅了するようになったのは祭りを大事に後世に継承していくという使命感を持った地元の人々がいたからに他なりません。そう、初期設定も重要ですが、アップデートしていく不断の努力なしに「伝統」は残っていくことが出来ないものなのです。これは「祭り」を含む「冠婚葬祭」そのものについてもいえることではないでしょうか。幻想的な踊りを堪能しながら、「日本の伝統」の来し方行く末について想いを馳せるひとときを過ごしました。
しかし、この夜は9万人以上の人出があり、あまりの混雑ぶりに「おわら風の盆」の町流しの光景を写真に収めることはできませんでした。残念ですが、場所取りをしていなかったので仕方ありません。帰りは、富山市の近くでトンカツを食べてから金沢駅前のホテルに向かいました。
*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。
2016年9月3日 一条真也拝