菅原文太さん逝く!

一条真也です。
俳優の菅原文太さんが81歳で亡くなられました。11月28日、転移性肝がんによる肝不全のため、東京都内の病院で死去されました。葬儀は近親者で営まれたそうです。最近、大物芸能人の死去がリアルタイムで報道されなくなりましたね。ファンは、その日に泣きたいと思うのですが・・・・・・。


訃報を伝える朝刊各紙



今朝の「毎日新聞」朝刊には、以下のように書かれています。
仙台市生まれ。早稲田大中退後、雑誌モデルとして活躍中の1956年『哀愁の街に霧が降る』で映画初出演した。所属した新東宝が売り出すが、61年に同社は倒産。松竹に転じたがそこでも芽が出ず、東映に移籍した。任侠路線全盛の東映では二線級のスターだったが、71年『懲役太郎 まむしの兄弟』(中島貞夫監督)がヒットして頭角を現し、73年『仁義なき戦い』(深作欣二監督)でトップスターに躍り出た。暴力団の抗争をリアルに描いた実録路線のさきがけでシリーズ5作は大ヒットした。一方、75年の『トラック野郎 御意見無用』では、乱暴だが情に厚いトラック運転手をコミカルに演じ、これも人気シリーズに育った。また、77年『ボクサー』(寺山修司監督)▽78年『ダイナマイトどんどん』(岡本喜八監督)▽79年『太陽を盗んだ男』(長谷川和彦監督)など異色作にも挑戦。『トラック野郎』シリーズが79年で終了してからは渋い脇役として存在感を示した。2001年『千と千尋の神隠し』の釜爺役で声優として出演。12年、俳優引退を表明していた」


毎日新聞」2014年12月2日朝刊



菅原さんの出演作の中でわたしが最も好きなのは、やはり「仁義なき戦い」シリーズです。大学生の頃にハマって、レンタルビデオを借りて観ました。あれを観たときは、本気でヤクザに憧れたものです。まあ、その意味で東映ヤクザ映画の功罪は大きいのではないかとも思いますが・・・・・・。


それから、沢田研二と共演した「太陽を盗んだ男」で殺されても死なない不死身の刑事を怪演したことも忘れられません。「太陽を盗んだ男」はカルト映画としても有名ですが、3・11東日本大震災の直後に初めてDVDで観たのですが、強烈なインパクトを受けました。


その東日本大震災は、菅原さんの人生に大きな影響を与えました。
福島原発事故を受けて「命よりカネ優先だ」と憤って脱原発を表明しました。大震災の翌年の12年には消費社会を見つめ直す運動体「いのちの党」の発起人となりました。11月1日には沖縄知事選で翁長雄志氏の応援演説に立つなど最近まで精力的に活動していました。
また私生活では、98年に岐阜県清見村(現高山市)に移住。2001年に長男で俳優の加織さん(当時31歳)を踏切事故で亡くされました。その悲しみは非常に大きかったと伺っています。07年には膀胱がん発症で一時帰京しましたが、09年に山梨県北杜市農業生産法人を設立、耕作放棄地でライ麦などの有機農業に取り組まれました。



ブログ「鎮魂の森と人間尊重」で紹介したように、サンレーグループ佐久間進会長は昨年、菅原さんと会っています。佐久間会長は、2013年3月11日に明治神宮で開かれた東日本大震災の祈念集会に参列したのですが、そこで横浜国立大学名誉教授で地球環境戦略研究機関国際生態学センター長である宮脇昭という方の講演を聴きました。宮脇氏は、世界各地で植樹を推進する現場主義の植物生態学者として、これまで国内外1700か所以上で植樹指導し、4000万本以上の木を植えてきた方です。
佐久間会長は、宮脇氏の講演を聴いて深い感銘を受けたそうですが、ちょうど隣の席が菅原文太さんでした。菅原さんは「宮脇先生のお話を伺って、役者をやっている場合ではないと思ったんですよ」と言われたとか。実際、その前年に菅原さん俳優業を引退、当時は山梨県内で農業を営んでいました。


菅原さんは多くのCMにも出演され、「時代はパーシャル!」とか「朝日ソーラーじゃけん!」といったセリフが今も耳に焼き付いています。
ブログ「高倉健さん逝く!」に書いたように、11月10日に俳優の高倉健さんが亡くなりましたが、またもや昭和の名優がこの世を去りました。
健さんは二枚目の正義感の役が多く、文太さんは三枚目のアウトロー役が多かったですが、ともに東映全盛時代の二大スターでした。
お二人は「大脱獄」など、いくつかの映画で共演しています。
あの世でも、ぜひ、お二人の共演が実現するといいですね。
謹んで菅原文太さんの御冥福をお祈りいたします。合掌。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2014年12月2日 一条真也