終活のこころみ

一条真也です。
東京に来ています。26日は互助会保証の取締役会に出席、27日は全互協の「儀式創新プロジェクト会議」に出席しました。その会議で議題となったのが、今年11月11日(火)に「國學院大學オープンカレッジ」で行われる対談でした。國學院大學の石井研士教授の司会で、互助会保証の藤島安之社長とわたしが対談します。そのテーマは「終活を考える」というものです。



「タウンペーパーQ」2014年3月号


本日、「タウンペーパーQ」の2014年3月号が発行されました。
わたしの連載である「一条的こころみ」が掲載されています。
第6回目の“こころみ”は、奇しくも「終活のこころみ」です。



いま、「終活」という言葉をよく聞きます。
誰もが迎える人生の最期に向けて、生前に葬儀や墓の手配などを済ませておくことを指します。全国各地では、さまざまな「終活セミナー」が開催され、ちょっとしたブームの観さえあります。わたしも新聞社や福祉法人などが主催するセミナーで講師を依頼されることがしばしばです。



これまでの日本では「死」について考えることはタブーでした。
でも、よく言われるように「死」を直視することによって「生」も輝きます。
その意味では、自らの死を積極的にプランニングし、デザインする「終活」が盛んになるのは良いことだと思います。



一方で、気になることもあります。「終活」という言葉には何か明るく前向きなイメージがありますが、その背景には「迷惑」というキーワードがあるように思えてならないのです。みんな、家族や隣人に迷惑をかけたくないというのです。「迷惑」という言葉の肥大化は無縁社会を生んだ一因です。



「迷惑」の一語が人間同士を引き離すのです。
その本音の部分には「面倒くさい」ということがあるのではないでしょうか。例えば、育児や親の介護などは「面倒」なことです。しかし、それは人間として当たり前の行為で、現実に多くの人がやっています。むしろ、そうした面倒なことの中にこそ、人としての幸せがあるのではないでしょうか。



人は、ゆかりの人たちに見送られて旅立つのが幸せでしょう。葬式に一人も参列者がいないことはつらいこと。人間はみな平等であり、死は最大の平等です。身寄りのない人でも、社会の一員であり、人知れず社会から消えることはあってはなりません。それを防ぐのが葬式の最大の機能の1つです。



そして、わたしは自分の葬儀を具体的にイメージすることが大切だと思います。周囲にどのように悼んでもらいたいかを具体的に想像すれば、他者との関係を良い方向に見直せるはずだからです。親族や友人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かります。生まれれば死ぬのが人生です。
死は人生の総決算。葬儀の想像とは、死を直視して覚悟することです。
覚悟してしまえば、生きている実感がわき、心も豊かになるのです。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2014年2月28日 一条真也