一条真也です。東京に来ています。
70回目の「終戦の日」となる15日、わたしは靖国神社を参拝しました。
「出版寅さん」こと内海準二さんと一緒に赤坂見附のホテルからタクシーで向かいましたが、靖国に近づくにつれ、ものすごい数の右翼の街宣車が道路脇にズラリと並んでいました。昨年よりも、はるかに数が多いです。
靖国神社前にて
大東亜戦争終戦七十年
大鳥居の前で
「出版寅さん」こと内海準二さんと
ブログ「靖国参拝」に書いた昨年に続いて「終戦の日」当日の参拝を果たすことができました。神社の境内に入ると、わたしは柏手を打って大鳥居をくぐりました。そして、大村益次郎の銅像を見上げ、「大村さん、今年も来ましたよ。どーぞー、よろしく!」と銅像に向かってつぶやきました。
大村益次郎の銅像
多くの人々が集まっていました
前にはものすごい数の人々が・・・
後にもものすごい数の人々が・・・
本殿の前には、ものすごい数の参拝者が整然と列を作って並んでいました。その数は昨年を上回ります。これは、なかなか参拝できそうにありません。わたしは、すぐに汗ビッショリになりました。周囲には喪服のような黒いスーツに黒ネクタイの男性たちもたくさん並んでいました。おそらく彼らは愛国主義者、いわゆる右翼の人たちでしょう。一般に、「右翼は怖い」などと思われていますが、英霊に対して礼装で臨む態度は立派です。わたしも礼服とまではいきませんが、薄紫のサマージャケットは羽織ってきました。もっとも、ジャケットの下は薄紫のポロシャツでしたが・・・・・・。
今年は1時間以上並びました
正午より黙祷が行われました
だんだん順番が近づいてきます
いよいよ拝殿が近づいてきました
昨年は参拝までに約30分待ちましたが、今年ははるかに参拝者の数が多かったです。その間、正午からは黙祷も行われました。そして、待つこと1時間以上、ようやく、わたしが参拝する順番が回ってきました。
拝殿には「国のため命 ささげし人々の ことを思へば 胸せまりくる」という昭和天皇御製が掲げられていました。昭和34年の千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて詠まれた歌です。70年前、昭和天皇の苦悩はいかばかりだったでしょうか。ブログ「靖国で考えたこと」にも書きましたが、わたしは、安倍首相の公式参拝はもちろん、本来は天皇陛下がご親拝をされるべきだと思っています。二礼二拍手一礼で参拝すると、とても心が澄んだ感じがしました。
昭和天皇御製が掲げられていました
わたしは、ブログ『永遠の知的生活』で紹介した本で、「現代の賢者」と呼ばれる渡部昇一先生と対談させていただきました。そこでは「靖国問題の本質」についても意見交換させていただきました。そこで、渡部先生は、いわゆる「靖国神社問題」について以下のように語られています。
「靖国神社問題は純粋に宗教の問題です。先祖、先人の霊を慰め供養するというのは、長い歴史と伝統によって培われた日本人の宗教的感情であり行為です。国のために命を捧げた人々を慰霊する靖国神社参拝は、この日本人の伝統的宗教感情の発露にほかなりません。 中国と韓国の剥き出しの対日批判は、日本人のこの宗教行為に手を突っ込み、伝統を破壊しようとしている、ということです。こういうのを野蛮と言うのです。中国や韓国が靖国神社参拝に罵りの声を高めれば高めるほど、これらの国の経済的発展にもかかわらず、その内実は相も変わらぬ野蛮な後進国であることを喧伝していることになる、ということです。こういう国は軽蔑する以外にはありません」
『永遠の知的生活』(実業之日本社)
また、ブログ『渡部昇一、靖国を語る』で紹介した本で、渡部先生は「靖国は、日本が日本であるためのカギ」と述べておられます。対談でその言葉の意味を質問させていただいたところ、先生は以下のように言われました。
「そもそも、明治以後、神道以外に戦死者を祀ることはできませんでした。わたしの田舎(山形県)の話をすれば、わたしの父の家は真言宗で母の家は曹洞宗でした。父の親類で戦死者が出たとすると、村から戦死者が出たら村で祀らないといけない。村の全員が真言宗ならいいのですが、ほかの宗派の人もいます。そういうとき、誰も文句を言わないのが『神様』なのです。だから招魂社(護国神社の前身)ができた。母の親類で戦死者が出れば、その村全員が曹洞宗ならいいけれど、ほかの宗派の人もいるから神社で祀るしかない。それで招魂社ができた。各家では自分のところの宗派で祀るが、宗派を超えて祀るとすれば、日本人の場合、神道の儀式しかないのです。だから神道は日本人とイコールであると言えるのです」
わたしが「なるほど。近代戦争による大量の戦死者の発生が、日本人の供養のあり方に変化をもたらしたわけですね」と申し上げると、先生は「それから、靖国神社が担っている役目というのは、単に慰霊してお祀りする場であるだけでなく、戦死者に対する国民の感謝をあらわす場であるということです。また、そうでなくてはならない。功績者への顕彰という意味がある以上、宗派があるような施設は使えません。教派神道も使えない。だから宗派とは関係がない靖国神社が、いままでも多くの国民の慰霊という空間の中に無理なく存在してきたのです」と語って下さいました。
『渡部昇一、靖国を語る』の帯
『渡部昇一、靖国を語る』には、「後に続くものを信ず」と言い残して、それぞれの国難に遭って命を投げ出してくれた父祖たちを決して忘れてはならないというメッセージが貫かれています。それとともに、この本には目から鱗が落ちるというか、今まで知らなかったことがたくさん書かれていました。鎮霊社というのも、その1つです。
参拝を終えて・・・・・・
「鎮霊社」とは何か。靖国神社には現在、約250万柱の英霊が祀られていますが、明治維新以来の日本人兵士全員が祀られているわけではありません。そこに祀られているのは官軍の兵士のみです。靖国神社の前身である東京招魂社は、1896年6月の第一回合祀で幕末以来の内戦の「官軍」つまり新政府軍の戦死者3855人を祀って以来、靖国神社となってからも今日まで、内戦の死者としては官軍の戦死者のみを祀り、「賊軍」つまり旧幕府軍および反政府軍の死者は祀っていません。
鎮霊社
しかし、靖国神社の参道を真っ直ぐに進み本殿前の拝殿の手前で左に曲がると木々の中に10平方メートル程度の小さな祠があります。その祠の名前は「鎮霊社」。屋根は本殿と同じ薄緑色ですが赤錆による腐食も本殿と違い目立ちます。1965年(昭和40年)7月に建立され、例祭は毎年7月13日です。ここには、拝殿に祀られていない死者たちが祀られています。「国を護る基礎を創る為に国に殉じた者を祀るのが靖国神社の基本。 決して靖国神社は遺族だけの為に存在しているモノでは無い」「日清・日露・大東亜戦争などで日本と交戦した国々の兵士も彼らは自国の為に殉じ散華したのであり靖国神社に祀られる英霊と立場は同じ」という立場から、ペリー来航(1853年)以来の、本殿に祀られていない日本人戦没者(民間人や、戊辰戦争の旧幕府軍や西南戦争の西郷隆盛方戦没者などの「朝敵」)と世界中の戦没者が祀られているのです。
「鎮霊社」の前で
このように鎮霊社とは、国籍や人種を超えた戦争犠牲者の霊を祀る祠です。しかしながら、2006年までは高さ約3メートルの鉄柵で囲われ、一般参拝することは不可能でした。そもそも靖国神社は、国のために尊い命を投げ出した者に敬意を表す場所です。つまり、決して追悼施設ではありません。これは、アメリカの国立アーリントン墓地も同じです。一方、国立千鳥が淵戦没者墓苑や、この「鎮霊社」は、亡くなられた方の霊を慰めるための追悼施設ということになります。また国際慣例として諸外国の首脳は戦士の墓苑には儀礼上は参拝する義務がありますが、単なる追悼施設には参拝義務が生じません。
今年、安倍晋三首相は、まだ靖国神社を参拝していません。
ブログ「安部首相の靖国参拝」にも書いたように、安倍首相は一昨年の12月26日午前、 靖国神社を参拝しています。参拝後に発表された首相談話の冒頭で「本日、靖国神社に参拝し、国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとご冥福をお祈りしました。また、戦争で亡くなられ、靖国神社に合祀されない国内、及び諸外国の人々を慰霊する鎮霊社にも、参拝いたしました」と語っています。わたしは、首相の靖国神社公式参拝を批判する視点と「葬式は、要らない」や「0葬」の視点は共通していると考えています。そこには、「死者の尊厳」を欠いた歪んだ唯物論を感じます。
終戦からの70年間における日本の変貌は著しいですが、最大の変化は日本人が「死者を軽んじる民族」になってしまったことではないかと思います。
いま、「0葬」というものが話題になっています。
通夜も告別式も行わずに遺体を火葬場に直行させて焼却する「直葬」をさらに進めた形で、遺体を完全に焼いた後、遺灰を持ち帰らずに捨ててくるのが「0葬」です。これらの超「薄葬」が、いかに危険な思想を孕んでいるかについて声を大にして訴えました。本文でも書きましたが、葬儀を行わずに遺体を焼却するという行為は、ナチス・オウム真理教・イスラム国の巨大な闇に通じています。しかも「0葬」の提唱者として知られる某宗教学者は、最近ラジオで、なんと「英霊は忘却されるべきです」と話したといいます。それを知ったわたしは怒髪天を衝く思いがしました。まさに言語道断!
わたしは「日本民俗学の父」と呼ばれる柳田國男の名著『先祖の話』の内容を思い出します。『先祖の話』は、敗戦の色濃い昭和20年春に書かれました。柳田は、連日の空襲警報を聞きながら、戦死した多くの若者の魂の行方を想って、『先祖の話』を書いたといいます。日本民俗学の父である柳田の祖先観の到達点であると言えるでしょう。
柳田がもっとも危惧し恐れたのは、敗戦後の日本社会の変遷でした。具体的に言えば、明治維新以後の急速な近代化に加え、日本史上初めての敗戦によって、日本人の「こころ」が分断されてズタズタになることでした。
柳田の危惧は、それから50年以上を経て、現実のものとなりました。家族の絆はドロドロに溶け出し、「血縁」も「地縁」もなくなりつつあります。日本社会は「無縁社会」と呼ばれるまでになりました。この「無縁社会」の到来こそ、柳田がもっとも恐れていたものでした。彼は「日本人が先祖供養を忘れてしまえば、いま散っている若い命を誰が供養するのか」という悲痛な想いを抱いていたのです。
両手に『唯葬論』(三五館)と『永遠葬』を持って・・・・・・
戦後70年を迎えた今こそ、日本人は「死者を忘れてはいけない」「死者を軽んじてはいけない」ということを思い知るべきであると思います。柳田國男のメッセージを再びとらえ直し、「血縁」や「地縁」の重要性を訴え、有縁社会を再生する必要がある。わたしは、そのように痛感しています。そして、わたしは「家族葬」「直葬」「0葬」といった一連の薄葬の流れに対抗すべく、『唯葬論』(三五館)および『永遠葬』(現代書林)を書きました。
10年前の「終戦の日」も靖国参拝しました
今日、この2冊を靖国神社に持参し、「天下布礼」への想いを強くしました。
そういえば、10年前の今日、60回目の「終戦の日」にわたしは刊行されたばかりの『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)と『ハートフル・ソサエティ』(三五館)とを靖国神社に持参したことを思い出しました。
あれから、もう10年が経過したのですね。信じられない思いです。
再び2冊の新刊を持参することができ、感無量です。
さて、話を渡部昇一先生との対談に戻しますが、先生は「カミ文明圏」というものについて興味深いお話を語って下さいました。英語のGodを「カミ」と訳してしまったには、日本人が犯した最大の誤訳の1つだそうです。
Godは、けっして「カミ」ではないのです!
渡部先生は、「たとえば仏教は『ホトケ』といわれ、織田信長の時代には信仰の対象は『ゼウス』でした。ところが明治以後、キリスト教のGodがカミと訳されたことで、妙な現象が起こりました。『日本人には宗教がある人が少ないから』などいう言われ方をし始める」と述べておられます。
わたしも、渡部先生に対して次のように申し上げました。
「日本には宗教心がないなどと言われます。日本人の宗教について話がおよぶとき、必ずと言ってよいほど語られるネタがあります。いわく、正月には神社に行き、七五三なども神社にお願いする。しかし、バレンタインデーにはチョコレート店の前に行列をつくり、クリスマスにはプレゼントを探して街をかけめぐる。結婚式も教会であげることが多くなった。そして、葬儀では仏教の世話になる・・・・・・。日本人は無節操だということで批判的に言われることが多いですね。このような日本人の生活宗教習慣は『シンクレティズム』という言葉で表現されます。シンクレティズムとは『習合信仰』や『重層信仰』と訳されますが、違うものが混じりあって、区別がつかないというネガティブな意味合いが強いようです」
『永遠葬』を持つ内海さん
続いて、わたしは次のように言いました。
「でも、日本の宗教の歴史を見てみれば、まさにその通りと言う他はありません。もともと神道の原型である神祇信仰のあったところに仏教や儒教が入ってきて、これらが融合する形によって日本人の伝統的精神が生まれてきました。そして、明治維新以後はキリスト教をも取り入れ、文明開化や戦後の復興などは、そのような精神を身につけた人々が、西洋の科学や技術を活かして見事な形でやり遂げたわけです。まさに、『和魂洋才』という精神文化をフルに活かしながら、経済発展を実現していったのです。わたしは『心学』の『ええとこどり』の精神が日本人を支えていると考えていますので、別に悪いことだとは思いません。
渡部先生は、日本は「カミ文明圏」の国であると言われます。カミ文明圏は仏教も立派に吸収してきました。しかも世界で今、仏教がさかんなのは日本だけです。日本で盛んなのは大乗仏教ですが、それはカミ文明圏の中でのみ栄えました。日本には仏教系の大学がいくつかあります。仏教はカミ文明圏の中で欠くべからざる重要なものになりました。注意すべきは、日本が仏教文明圏になり、その中にカミが残ったのではないということです。
儒教もしかり。儒教はカミ文明圏では儒学になりました。仏教同様、儒学がもっともよく残り、継承されているのがカミ文明圏の中の日本においてです。朝鮮は儒教文明に屈して仏教をほとんど絶滅させたのに、いまでは漢字さえ使わない国なりました。ここでも儒教文明圏にカミの文明圏が入ったのではなく、カミ文明圏のみが儒教を儒学として温かく抱擁しています。
キリスト教もカミ文明圏の中で生き続けています。渡部先生もクリスチャンですが、伊勢神宮や出雲大社にもお参りします。違和感はありません。そして、最後に渡部先生は「靖国神社の問題は、カミ文明圏で考えなければいけません」と述べられました。
わたしは、それを聞いて「カミ文明圏」とは「和の文化」と同じ意味であると思いました。日本は「カミ文明圏」にして「和の文化」の国なのです。
四季があって、春には桜が咲き、冬には雪が降る。梅雨には大雨が降り、台風が来て、雷が鳴り、地震が起こる。実にバラエティゆたかな自然の科学的理由を知らなかった古代の日本人たちは、それらの自然現象とは神々をはじめとした超自然的存在のなせる業であると信じたのです。
そして、そこから、多神教である神道が生まれました。
大戦(いくさ)より過ぎし月日は
七十年(ななととせ)和を求めんと誓ふ蘘國
神道は日本宗教のベースと言えますが、教義や戒律を持たない柔らかな宗教であり、「和」を好む平和宗教でした。天孫民族と出雲民族でさえ非常に早くから融和してしまっています。まさに日本は大いなる「和」の国、つまり大和の国であることがよくわかります。神道が平和宗教であったがゆえに、後から入ってきた儒教も仏教も、最初は一時的に衝突があったにせよ、結果として共生し、さらには習合していったわけです。宗教学者エリアーデは、「日本人は、儒教の信者として生活し、神道の信者として結婚し、仏教徒として死ぬ」という名言を残していますが、そういった日本人の信仰や宗教感覚は世界的に見てもきわめてユニークです。
わたしは、靖国神社の拝殿脇において以下の歌を詠みました。
●終戦70周年の日に靖国神社にて詠める
大戦より過ぎし月日は七十年
和を求めんと誓ふ蘘國(庸軒)
和とは「大和」の和であり、「平和」の和です。
日本は、世界に誇るべき大いなる「和」の国です。
わたしは、これからも「和」を求めて生きていきたいと思います。
そして、この日、わたしは執筆していた『和を求めて』を脱稿しました。
『礼を求めて』および『慈を求めて』(ともに三五館)の続編です。
約50編の論考が入っていますが、最後は「戦後70年に思う」です。
『和を求めて』のサブタイトルは「なぜ日本人は平和を愛するのか」です。
10月末に三五館から刊行予定です。どうぞ、お楽しみに!
靖国神社の前で
*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。
2015年8月15日 一条真也拝