皇居へ!

一条真也です。東京に来ています。
8月15日は、70回目の「終戦の日」でした。ブログ「靖国参拝」に書いたように、この日、靖国神社を参拝後、わたしは皇居へ向かいました。


皇居にやって来ました

1年ぶりに訪れました



宮内庁HP「皇居」には、以下のように書かれています。
徳川幕府の居城(江戸城)であったものが、明治元年(1868年)10月に皇居とされ、翌2年(1869年)3月明治天皇は千年余りの間お住まいであった京都からこの地にお移りになり現在に至っています。皇居内には、天皇皇后両陛下のお住居である御所を始め、諸行事を行う宮殿、宮内庁関係の庁舎、紅葉山御養蚕所などの建物があり、その一角に桃華楽堂などのある皇居東御苑があります」


なぜ、わたしは戦後70年を迎えた日に、靖国から皇居に向かったのか?
それは、70年前のこの日、日本の敗戦を知った人々が驚きと悲しみのあまり皇居二重橋前の広場に集まったからです。わたしは靖国神社を参拝したとき、拝殿の中に「国のため命 ささげし人々の ことを思へば 胸せまりくる」という昭和天皇御製が掲げられているのを見たとき、「どうしても皇居に行かなければ!」と改めて思いました。


桜田門の前で

桜田門の石碑

皇居外苑案内図

訪問者はほとんど外国人でした

皇居周辺のビル群を背に



こうして、わたしは汗びっしょりのまま皇居を訪れました。
70回目の「終戦の日」の皇居には意外にも日本人が少なかったです。
靖国神社とは大違いですね。その代わり、外国人の姿が多かったです。
欧米人やアジア系の人もたくさん見かけました。彼らはもちろん観光で日本に来ているのでしょうが、いわゆる「親日」なのでしょうか?


二重橋のようす

二重橋を背に昭和天皇をお偲びしました



わたしは、しばらく二重橋を眺め、昭和天皇をお偲びしました。
すると、ブログ「終戦のエンペラー」で紹介したハリウッド映画を思い出しました。「終戦のエンペラー」では、皇居を撮影したシーンが印象的でしたね。インタビューで、主演のマシュー・フォックスが以下のように答えています。
Q:日本では、皇居で撮影をされたそうですね。いかがでしたか?
マシュー:あれは興味深かったよ(笑)。
Q:中には入れたのですか?
マシュー:いや、皇居の前で撮影することが許可されただけだ。規制もすごかった。何も食べられないし、たばこも吸えない。限られた時間しか与えられなかったし、常に監視されていた。でも、とても神聖な場所にいる感覚を覚えたよ。そして・・・・・・(撮影を)楽しんだ。(「『終戦のエンペラー』トミー・リー&マシュー・フォックス単独インタビュー」より)


終戦のエンペラー」は、昭和天皇の実像に迫る作品です。
マッカーサーと初対面を果たした天皇は、まず一緒に写真を撮影します。
あの、あまりにも有名な天皇マッカーサーのツーショット写真です。
天皇は写真を撮り終え一度は椅子に腰掛けます。しかし、すぐに立ち上がってマッカーサー元帥に自身の偽らざる思いを述べます。
そう、戦争に対する自らの責任について心のままに述べるのです。
このシーンを見て、わたしは涙がとまりませんでした。
歴代124代の天皇の中で、昭和天皇は最もご苦労をされた方です。
その昭和天皇は、自身の生命を賭してまで日本国民を守ろうとされたのです。昭和天皇が姿を見せるシーンは最後の一瞬だけでしたが、圧倒的な存在感でした。そして、実際の天皇の存在感というのも、この映画の「一瞬にして圧倒的」という表現に通じるのではないでしょうか。


天皇はけっして自身の考えを直接口にすることはなく、昭和天皇の戦争に反対する気持ちも祖父である明治天皇御製の歌に託するほどでした。その昭和天皇がたった一度だけ、自らの意思で、勇気を持って断行したのがポツダム宣言の受諾であり、玉音放送を国民に流すことでした。玉音放送昭和天皇自身の生命の危険を招く行為であり、そのあたりはブログ「日本のいちばん長い日」で紹介した日本映画を観ればよくわかります。


日の本に平和のこころ戻したる玉の音より早七十年



昨年の「終戦の日」、わたしは二重橋を眺めながら謹んで「大君の心しのびて二重橋 あの長き日は遠くなりけり(庸軒)」という歌を詠みました。そして、今年は万感の想いを込めて以下の歌を詠みました。


終戦70周年に日に皇居二重橋にて詠める


日の本に平和のこころ戻したる
      玉の音より早七十年(庸軒)



天皇陛下の最も大切な仕事とは何でしょうか。
それは、「国の平和と国民の安寧を願って祈られる」という仕事です。
天皇陛下とは、日本で最も日本人の幸福を祈る人なのです。


東日本大震災が起きたときも、昭和天皇の「終戦詔書」以来となる復興の詔勅としての「平成の玉音放送」を行われました。また、世界史にも他に例がないほどの回数の被災地訪問をなされました。そして、心から被災者の方々を励まされたのです。これからも日本列島を地震津波や台風が襲うたびに、天皇陛下はきっと「すべての日本国民が無事でありますように」とお祈りになられることでしょう。


ブログ「祈る人」にも書きましたが、ブッダ、イエスといった「人類の教師」とされた偉大な聖人にはじまって、ガンディー、マザー・テレサダライ・ラマ14世など、人々の幸福を祈り続けた人はたくさんいます。しかし、日本という国が生まれて以来、ずっと日本人の幸福を祈り続けている「祈る人」の一族があることを忘れてはなりません。1人の日本人として、わたしは日本に天皇陛下がおられることを心より有難く、誇りに思います。


御幸通りをバックに



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年8月15日 一条真也

靖国参拝

一条真也です。東京に来ています。
70回目の「終戦の日」となる15日、わたしは靖国神社を参拝しました。
出版寅さん」こと内海準二さんと一緒に赤坂見附のホテルからタクシーで向かいましたが、靖国に近づくにつれ、ものすごい数の右翼の街宣車が道路脇にズラリと並んでいました。昨年よりも、はるかに数が多いです。


靖国神社前にて

大東亜戦争終戦七十年

大鳥居の前で

出版寅さん」こと内海準二さんと



ブログ「靖国参拝」に書いた昨年に続いて「終戦の日」当日の参拝を果たすことができました。神社の境内に入ると、わたしは柏手を打って大鳥居をくぐりました。そして、大村益次郎銅像を見上げ、「大村さん、今年も来ましたよ。どーぞー、よろしく!」と銅像に向かってつぶやきました。


大村益次郎銅像

多くの人々が集まっていました

前にはものすごい数の人々が・・・

後にもものすごい数の人々が・・・



本殿の前には、ものすごい数の参拝者が整然と列を作って並んでいました。その数は昨年を上回ります。これは、なかなか参拝できそうにありません。わたしは、すぐに汗ビッショリになりました。周囲には喪服のような黒いスーツに黒ネクタイの男性たちもたくさん並んでいました。おそらく彼らは愛国主義者、いわゆる右翼の人たちでしょう。一般に、「右翼は怖い」などと思われていますが、英霊に対して礼装で臨む態度は立派です。わたしも礼服とまではいきませんが、薄紫のサマージャケットは羽織ってきました。もっとも、ジャケットの下は薄紫のポロシャツでしたが・・・・・・。


今年は1時間以上並びました

正午より黙祷が行われました

だんだん順番が近づいてきます

いよいよ拝殿が近づいてきました



昨年は参拝までに約30分待ちましたが、今年ははるかに参拝者の数が多かったです。その間、正午からは黙祷も行われました。そして、待つこと1時間以上、ようやく、わたしが参拝する順番が回ってきました。
拝殿には「国のため命 ささげし人々の ことを思へば 胸せまりくる」という昭和天皇御製が掲げられていました。昭和34年の千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて詠まれた歌です。70年前、昭和天皇の苦悩はいかばかりだったでしょうか。ブログ「靖国で考えたこと」にも書きましたが、わたしは、安倍首相の公式参拝はもちろん、本来は天皇陛下がご親拝をされるべきだと思っています。二礼二拍手一礼で参拝すると、とても心が澄んだ感じがしました。


昭和天皇御製が掲げられていました



わたしは、ブログ『永遠の知的生活』で紹介した本で、「現代の賢者」と呼ばれる渡部昇一先生と対談させていただきました。そこでは「靖国問題の本質」についても意見交換させていただきました。そこで、渡部先生は、いわゆる「靖国神社問題」について以下のように語られています。
靖国神社問題は純粋に宗教の問題です。先祖、先人の霊を慰め供養するというのは、長い歴史と伝統によって培われた日本人の宗教的感情であり行為です。国のために命を捧げた人々を慰霊する靖国神社参拝は、この日本人の伝統的宗教感情の発露にほかなりません。 中国と韓国の剥き出しの対日批判は、日本人のこの宗教行為に手を突っ込み、伝統を破壊しようとしている、ということです。こういうのを野蛮と言うのです。中国や韓国が靖国神社参拝に罵りの声を高めれば高めるほど、これらの国の経済的発展にもかかわらず、その内実は相も変わらぬ野蛮な後進国であることを喧伝していることになる、ということです。こういう国は軽蔑する以外にはありません」


永遠の知的生活』(実業之日本社



また、ブログ『渡部昇一、靖国を語る』で紹介した本で、渡部先生は「靖国は、日本が日本であるためのカギ」と述べておられます。対談でその言葉の意味を質問させていただいたところ、先生は以下のように言われました。
「そもそも、明治以後、神道以外に戦死者を祀ることはできませんでした。わたしの田舎(山形県)の話をすれば、わたしの父の家は真言宗で母の家は曹洞宗でした。父の親類で戦死者が出たとすると、村から戦死者が出たら村で祀らないといけない。村の全員が真言宗ならいいのですが、ほかの宗派の人もいます。そういうとき、誰も文句を言わないのが『神様』なのです。だから招魂社(護国神社の前身)ができた。母の親類で戦死者が出れば、その村全員が曹洞宗ならいいけれど、ほかの宗派の人もいるから神社で祀るしかない。それで招魂社ができた。各家では自分のところの宗派で祀るが、宗派を超えて祀るとすれば、日本人の場合、神道の儀式しかないのです。だから神道は日本人とイコールであると言えるのです」


渡部昇一、?国を語る

渡部昇一、?国を語る

わたしが「なるほど。近代戦争による大量の戦死者の発生が、日本人の供養のあり方に変化をもたらしたわけですね」と申し上げると、先生は「それから、靖国神社が担っている役目というのは、単に慰霊してお祀りする場であるだけでなく、戦死者に対する国民の感謝をあらわす場であるということです。また、そうでなくてはならない。功績者への顕彰という意味がある以上、宗派があるような施設は使えません。教派神道も使えない。だから宗派とは関係がない靖国神社が、いままでも多くの国民の慰霊という空間の中に無理なく存在してきたのです」と語って下さいました。


渡部昇一、靖国を語る』の帯



渡部昇一、靖国を語る』には、「後に続くものを信ず」と言い残して、それぞれの国難に遭って命を投げ出してくれた父祖たちを決して忘れてはならないというメッセージが貫かれています。それとともに、この本には目から鱗が落ちるというか、今まで知らなかったことがたくさん書かれていました。鎮霊社というのも、その1つです。


参拝を終えて・・・・・・



鎮霊社」とは何か。靖国神社には現在、約250万柱の英霊が祀られていますが、明治維新以来の日本人兵士全員が祀られているわけではありません。そこに祀られているのは官軍の兵士のみです。靖国神社の前身である東京招魂社は、1896年6月の第一回合祀で幕末以来の内戦の「官軍」つまり新政府軍の戦死者3855人を祀って以来、靖国神社となってからも今日まで、内戦の死者としては官軍の戦死者のみを祀り、「賊軍」つまり旧幕府軍および反政府軍の死者は祀っていません。


鎮霊社



しかし、靖国神社の参道を真っ直ぐに進み本殿前の拝殿の手前で左に曲がると木々の中に10平方メートル程度の小さな祠があります。その祠の名前は「鎮霊社」。屋根は本殿と同じ薄緑色ですが赤錆による腐食も本殿と違い目立ちます。1965年(昭和40年)7月に建立され、例祭は毎年7月13日です。ここには、拝殿に祀られていない死者たちが祀られています。「国を護る基礎を創る為に国に殉じた者を祀るのが靖国神社の基本。 決して靖国神社は遺族だけの為に存在しているモノでは無い」「日清・日露・大東亜戦争などで日本と交戦した国々の兵士も彼らは自国の為に殉じ散華したのであり靖国神社に祀られる英霊と立場は同じ」という立場から、ペリー来航(1853年)以来の、本殿に祀られていない日本人戦没者(民間人や、戊辰戦争旧幕府軍西南戦争西郷隆盛戦没者などの「朝敵」)と世界中の戦没者が祀られているのです。


鎮霊社」の前で



このように鎮霊社とは、国籍や人種を超えた戦争犠牲者の霊を祀る祠です。しかしながら、2006年までは高さ約3メートルの鉄柵で囲われ、一般参拝することは不可能でした。そもそも靖国神社は、国のために尊い命を投げ出した者に敬意を表す場所です。つまり、決して追悼施設ではありません。これは、アメリカの国立アーリントン墓地も同じです。一方、国立千鳥が淵戦没者墓苑や、この「鎮霊社」は、亡くなられた方の霊を慰めるための追悼施設ということになります。また国際慣例として諸外国の首脳は戦士の墓苑には儀礼上は参拝する義務がありますが、単なる追悼施設には参拝義務が生じません。



今年、安倍晋三首相は、まだ靖国神社を参拝していません。
ブログ「安部首相の靖国参拝」にも書いたように、安倍首相は一昨年の12月26日午前、 靖国神社を参拝しています。参拝後に発表された首相談話の冒頭で「本日、靖国神社に参拝し、国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとご冥福をお祈りしました。また、戦争で亡くなられ、靖国神社に合祀されない国内、及び諸外国の人々を慰霊する鎮霊社にも、参拝いたしました」と語っています。わたしは、首相の靖国神社公式参拝を批判する視点と「葬式は、要らない」や「0葬」の視点は共通していると考えています。そこには、「死者の尊厳」を欠いた歪んだ唯物論を感じます。



終戦からの70年間における日本の変貌は著しいですが、最大の変化は日本人が「死者を軽んじる民族」になってしまったことではないかと思います。
いま、「0葬」というものが話題になっています。
通夜も告別式も行わずに遺体を火葬場に直行させて焼却する「直葬」をさらに進めた形で、遺体を完全に焼いた後、遺灰を持ち帰らずに捨ててくるのが「0葬」です。これらの超「薄葬」が、いかに危険な思想を孕んでいるかについて声を大にして訴えました。本文でも書きましたが、葬儀を行わずに遺体を焼却するという行為は、ナチスオウム真理教イスラム国の巨大な闇に通じています。しかも「0葬」の提唱者として知られる某宗教学者は、最近ラジオで、なんと「英霊は忘却されるべきです」と話したといいます。それを知ったわたしは怒髪天を衝く思いがしました。まさに言語道断!


先祖の話

先祖の話

わたしは「日本民俗学の父」と呼ばれる柳田國男の名著『先祖の話』の内容を思い出します。『先祖の話』は、敗戦の色濃い昭和20年春に書かれました。柳田は、連日の空襲警報を聞きながら、戦死した多くの若者の魂の行方を想って、『先祖の話』を書いたといいます。日本民俗学の父である柳田の祖先観の到達点であると言えるでしょう。
柳田がもっとも危惧し恐れたのは、敗戦後の日本社会の変遷でした。具体的に言えば、明治維新以後の急速な近代化に加え、日本史上初めての敗戦によって、日本人の「こころ」が分断されてズタズタになることでした。
柳田の危惧は、それから50年以上を経て、現実のものとなりました。家族の絆はドロドロに溶け出し、「血縁」も「地縁」もなくなりつつあります。日本社会は「無縁社会」と呼ばれるまでになりました。この「無縁社会」の到来こそ、柳田がもっとも恐れていたものでした。彼は「日本人が先祖供養を忘れてしまえば、いま散っている若い命を誰が供養するのか」という悲痛な想いを抱いていたのです。


両手に『唯葬論』(三五館)と『永遠葬』を持って・・・・・・



戦後70年を迎えた今こそ、日本人は「死者を忘れてはいけない」「死者を軽んじてはいけない」ということを思い知るべきであると思います。柳田國男のメッセージを再びとらえ直し、「血縁」や「地縁」の重要性を訴え、有縁社会を再生する必要がある。わたしは、そのように痛感しています。そして、わたしは「家族葬」「直葬」「0葬」といった一連の薄葬の流れに対抗すべく、『唯葬論』(三五館)および『永遠葬』(現代書林)を書きました。


ロマンティック・デス―月を見よ、死を想え (幻冬舎文庫) ハートフル・ソサエティ 唯葬論 永遠葬



10年前の「終戦の日」も靖国参拝しました



今日、この2冊を靖国神社に持参し、「天下布礼」への想いを強くしました。
そういえば、10年前の今日、60回目の「終戦の日」にわたしは刊行されたばかりの『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)と『ハートフル・ソサエティ』(三五館)とを靖国神社に持参したことを思い出しました。
あれから、もう10年が経過したのですね。信じられない思いです。
再び2冊の新刊を持参することができ、感無量です。


唯葬論

唯葬論

さて、話を渡部昇一先生との対談に戻しますが、先生は「カミ文明圏」というものについて興味深いお話を語って下さいました。英語のGodを「カミ」と訳してしまったには、日本人が犯した最大の誤訳の1つだそうです。
Godは、けっして「カミ」ではないのです!
渡部先生は、「たとえば仏教は『ホトケ』といわれ、織田信長の時代には信仰の対象は『ゼウス』でした。ところが明治以後、キリスト教のGodがカミと訳されたことで、妙な現象が起こりました。『日本人には宗教がある人が少ないから』などいう言われ方をし始める」と述べておられます。


永遠葬

永遠葬

わたしも、渡部先生に対して次のように申し上げました。
「日本には宗教心がないなどと言われます。日本人の宗教について話がおよぶとき、必ずと言ってよいほど語られるネタがあります。いわく、正月には神社に行き、七五三なども神社にお願いする。しかし、バレンタインデーにはチョコレート店の前に行列をつくり、クリスマスにはプレゼントを探して街をかけめぐる。結婚式も教会であげることが多くなった。そして、葬儀では仏教の世話になる・・・・・・。日本人は無節操だということで批判的に言われることが多いですね。このような日本人の生活宗教習慣は『シンクレティズム』という言葉で表現されます。シンクレティズムとは『習合信仰』や『重層信仰』と訳されますが、違うものが混じりあって、区別がつかないというネガティブな意味合いが強いようです」


永遠葬』を持つ内海さん



続いて、わたしは次のように言いました。
「でも、日本の宗教の歴史を見てみれば、まさにその通りと言う他はありません。もともと神道の原型である神祇信仰のあったところに仏教や儒教が入ってきて、これらが融合する形によって日本人の伝統的精神が生まれてきました。そして、明治維新以後はキリスト教をも取り入れ、文明開化や戦後の復興などは、そのような精神を身につけた人々が、西洋の科学や技術を活かして見事な形でやり遂げたわけです。まさに、『和魂洋才』という精神文化をフルに活かしながら、経済発展を実現していったのです。わたしは『心学』の『ええとこどり』の精神が日本人を支えていると考えていますので、別に悪いことだとは思いません。



渡部先生は、日本は「カミ文明圏」の国であると言われます。カミ文明圏は仏教も立派に吸収してきました。しかも世界で今、仏教がさかんなのは日本だけです。日本で盛んなのは大乗仏教ですが、それはカミ文明圏の中でのみ栄えました。日本には仏教系の大学がいくつかあります。仏教はカミ文明圏の中で欠くべからざる重要なものになりました。注意すべきは、日本が仏教文明圏になり、その中にカミが残ったのではないということです。
儒教もしかり。儒教はカミ文明圏では儒学になりました。仏教同様、儒学がもっともよく残り、継承されているのがカミ文明圏の中の日本においてです。朝鮮は儒教文明に屈して仏教をほとんど絶滅させたのに、いまでは漢字さえ使わない国なりました。ここでも儒教文明圏にカミの文明圏が入ったのではなく、カミ文明圏のみが儒教儒学として温かく抱擁しています。
キリスト教もカミ文明圏の中で生き続けています。渡部先生もクリスチャンですが、伊勢神宮出雲大社にもお参りします。違和感はありません。そして、最後に渡部先生は「靖国神社の問題は、カミ文明圏で考えなければいけません」と述べられました。



わたしは、それを聞いて「カミ文明圏」とは「和の文化」と同じ意味であると思いました。日本は「カミ文明圏」にして「和の文化」の国なのです。
四季があって、春には桜が咲き、冬には雪が降る。梅雨には大雨が降り、台風が来て、雷が鳴り、地震が起こる。実にバラエティゆたかな自然の科学的理由を知らなかった古代の日本人たちは、それらの自然現象とは神々をはじめとした超自然的存在のなせる業であると信じたのです。
そして、そこから、多神教である神道が生まれました。


大戦(いくさ)より過ぎし月日は
   七十年(ななととせ)和を求めんと誓ふ蘘國



神道は日本宗教のベースと言えますが、教義や戒律を持たない柔らかな宗教であり、「和」を好む平和宗教でした。天孫民族と出雲民族でさえ非常に早くから融和してしまっています。まさに日本は大いなる「和」の国、つまり大和の国であることがよくわかります。神道が平和宗教であったがゆえに、後から入ってきた儒教も仏教も、最初は一時的に衝突があったにせよ、結果として共生し、さらには習合していったわけです。宗教学者エリアーデは、「日本人は、儒教の信者として生活し、神道の信者として結婚し、仏教徒として死ぬ」という名言を残していますが、そういった日本人の信仰や宗教感覚は世界的に見てもきわめてユニークです。
わたしは、靖国神社の拝殿脇において以下の歌を詠みました。


終戦70周年の日に靖国神社にて詠める


大戦より過ぎし月日は七十年
         和を求めんと誓ふ蘘國(庸軒)


和とは「大和」の和であり、「平和」の和です。
日本は、世界に誇るべき大いなる「和」の国です。
わたしは、これからも「和」を求めて生きていきたいと思います。



そして、この日、わたしは執筆していた『和を求めて』を脱稿しました。
礼を求めて』および『慈を求めて』(ともに三五館)の続編です。
約50編の論考が入っていますが、最後は「戦後70年に思う」です。
『和を求めて』のサブタイトルは「なぜ日本人は平和を愛するのか」です。
10月末に三五館から刊行予定です。どうぞ、お楽しみに!


靖国神社の前で



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2015年8月15日 一条真也

戦後70年談話

一条真也です。東京にいます。
本日、平成27年8月15日は70回目の「終戦の日」です。
政府が戦後70年の安倍晋三首相談話を発表しました。
「安倍首相戦後70年談話全文」を読むには、こちらをクリックして下さい


産経新聞」8月15日朝刊



産経新聞」朝刊一面には「70年談話発表」「『謝罪』次世代に背負わせぬ」「大戦へ深い悔悟の念」「侵略、植民地 永遠の訣別」「私たちで終止符」という見出しに続いて、以下のリード文が書かれています。
「政府は14日の臨時閣議で戦後70年の安倍晋三首相談話を決定した。首相は決定後に官邸で記者会見し、談話を発表。談話では、先の大戦に関し「お詫(わ)び」や「侵略」といった過去の首相談話のキーワードについて対象を名指しせずに触れる一方、「あの戦争には何ら関わりのない世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と述べ、謝罪の繰り返しに歯止めをかける考えを示した」



リード文に続いて、記事には以下のように書かれています。
「首相は会見で『事実を率直に反省し、これからも法の支配を尊重し、不戦の誓いを堅持していくということが、今回の最も重要なメッセージだ』と語った。談話では、有識者会議『21世紀構想懇談会』の報告書を踏まえ、先の大戦に至る経緯を詳述。戦後50年の村山富市首相談話や60年の小泉純一郎首相談話を念頭に『わが国は繰り返し痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきた』と述べ、『こうした歴代内閣の立場は今後も揺るぎない』と明記した。
その一方で『日本では戦後生まれの世代が今や人口の8割を超えている』として、将来にわたる謝罪の継続の必要性を否定。戦後、日本が国際社会に復帰できたのは諸外国の『寛容の心』によるものだとして、『心からの感謝を表したい』とも記述した。
『侵略』『植民地支配』の文言に関しては、『もう二度と用いてはならない』『永遠に訣別(けつべつ)』といった一般論的な形で触れ、『先の大戦への深い悔悟の念とともに、わが国はそう誓った』と明記。また慰安婦問題に対し『戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去をこの胸に刻む』と述べ、今後、女性の人権問題で世界をリードする姿勢を強調した。
さらに『積極的平和主義』に基づく、国際社会に貢献する決意を強調した」



安倍首相戦後70年談話」を知って、わたしが最初に思ったことは、孟子「吾れ言を知る」と言った孟子の言葉です。「吾れ言を知る」と言った孟子は、その「言」を4つ挙げている。1つは、ひ辞。偏った言葉。概念的・論理的に自分の都合のいいようにつける理屈。2つ目は、淫辞。淫は物事に執念深く耽溺することで、何でもかんでも理屈をつけて押し通そうとすることである。3つ目は、邪辞。よこしまな言葉、よこしまな心からつける理屈。4つ目は、遁辞。逃げ口上である。つまり、これら4つの言葉は、リーダーとして決して言ってはならない言葉なのです。安倍首相は、極力これらの言葉を語らないように心を砕いておられたように感じました。



「日本では戦後生まれの世代が今や人口の8割を超えている」として、将来にわたる謝罪の継続の必要性を否定されたことは、まったくもって正しいと思います。また、戦後、日本が国際社会に復帰できたのは諸外国の「寛容の心」によるものだとして、「心からの感謝を表したい」と述べたことには深い感銘を受けました。拙著『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)にも書きましたが、「謝」という一字には「謝罪」と「感謝」の意味があります。


「謝」には「謝罪」と「感謝」が込められている



ブログ「ブログを休みます」で書いたように、わたしは2012年8月31日、2000本の記事を達成した「一条真也のハートフル・ブログ」の休止を宣言しました。その記事では「謝」という書を掲載しましたが、あのとき、「謝」には「謝罪」と「感謝」の両方の意味が込められていることを痛感しました。
「謝」には「ありがとう」と「ごめんなさい」が込められている。
そして、「ありがとう」こそは世界最強の言霊です。


安倍首相戦後70年談話」は昨日の臨時閣議会議で決定されました。
そういえば、ブログ「日本のいちばん長い日」で紹介した、昨夜観た映画にはやたらと臨時閣議会議が登場していました。
特に玉音放送の原稿ともなった「終戦の詔」の内容を決定する時間が非常に長かったようです。「終戦の詔」は陽明学者の安岡正篤先生が考案されたものですが、達意の名文であると思います。できれば、映画にも安岡先生を登場させていただきたかったです。そして、今回の「70年談話」の草案は、わたしは渡部昇一先生に書いていただきたかったです。安岡先生の後を継承する歴史観と人間学の達人といえば、現代日本では渡部先生を置いて他にはおられません!



日本のいちばん長い日」には、歴史的事実を基にしたさまざまな物語が描かれていました。先の戦争について思うことは、あれは「巨大な物語の集合体」であったということです。真珠湾攻撃戦艦大和、回天、ゼロ戦、神風特別攻撃隊ひめゆり部隊沖縄戦満州硫黄島の戦い、ビルマ戦線、ミッドウェー海戦東京大空襲、広島原爆、長崎原爆、ポツダム宣言受諾、玉音放送・・・挙げていけばキリがないほど濃い物語の集積体でした。それぞれ単独でも大きな物語を形成しているのに、それらが無数に集まった巨大な集合体。それが先の戦争だったと思います。
超大作といわれる「日本のいちばん長い日」も、巨大な集合体から派生した小さな物語に過ぎません。実際、あの戦争からどれだけ多くの小説、詩歌、演劇、映画、ドラマが派生していったでしょうか・・・・・・。



「物語」といっても、戦争はフィクションではありません。紛れもない歴史的事実です。わたしの言う「物語」とは、人間の「こころ」に影響を与えうる意味の体系のことです。人間ひとりの人生も「物語」です。そして、その集まりこそが「歴史」となります。そう、無数のヒズ・ストーリー(個人の物語)がヒストリー(歴史)を作るのです。
最近、某宗教学者が「英霊などというのもは、もう忘却したほうがいい」とラジオで発言したことを知り、愕然としています。靖国神社を否定するのも、遺灰を火葬場に捨ててくるのも、その根底にある「死者軽視」の精神は同じです。しかし、死者を軽んじる民族に未来はありません!


15日朝の東京の曇り空



これから、わたしは万感の想いを胸に靖国神社を参拝し、皇居を訪れます。その感想は、当ブログおよび産経新聞社のWEB「ソナエ」に連載中の
一条真也のハートフル・ライフ」9月2日(水)号に書きます。
今朝の東京の空は曇り模様です。
靖国神社の暑さも少しは和らぐでしょうか?
それでは、行ってきます!



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年8月15日 一条真也