
お年寄りと子供を離してはいけない。彼らを引き離すことは、過去と未来を断つことと同じだ。泣くことを恐れるな。涙はこころの痛みを流し去ってくれるのだから。死は存在しない生きる世界が変わるだけだ。あなたが生まれたとき周りの人は笑って、あなたが泣いたでしょう。だから、あなたが死ぬときはあなたが笑って、周りの人が泣くような人生を送りなさい。
(ネイティブ・アメリカンのことわざ)
一条真也です。
わたしは、ネイティブ・アメリカンの言葉に心を打たれます。彼らの持つ死生観は日本人と共通しているのではないでしょうか。ネイティブ・アメリカンたちの言葉を集めた『今日は死ぬのにもってこいの日』ナンシー・ウッド著、フランク・ハウエル画、金関寿夫訳(めるくまーる)という名著があります。
出自が不明な白人女性ナンシー・ウッドが、ネイティブ・アメリカンであるタオス・プエブロ族の古老たちから聞き出した伝承を詩と散文で綴ったものです。同書のすべてのページには、ネイティブ・アメリカンの人生哲学が語られていますが、その核となっているのは、やはり彼らの死生観です。プエブロ族の古老たちは、大地への深い共生感とともに、万物は死ぬことによって再び生命を得るということ、つまり「人は死なない」という真理をシンプルな語り口で告げています。たとえば、彼らは次のような詩を残しています。
長い間、わたしは君とともに生きてきた。
そして今、わたしたちは別々に行かなければならない、
一緒になるために。
恐らくわたしは風になって
君の静かな水面を曇らせるだろう、
君が自分の顔を、あまりしげしげと見ないように。
恐らくわたしは星になって
君の危なっかしい翼を導いてあげるだろう、
夜でも方角がわかるように
恐らくわたしは火になって
君の思考をえり分けてあげるだろう、
君が諦めることのないように。
恐らくわたしは雨になって
大地の蓋(ふた)をあけるだろう、
君の種子が落ちてゆけるように。
恐らくわたしは雪になって
君の花弁を眠らせるだろう、
春になって、花開くことができるように。
恐らくわたしは小川となって
岩の上で歌を奏でるだろう、
君独りにさせないために。
恐らくわたしは新しい山になるだろう、
君にいつでも帰る家があるように。
(『今日は死ぬのにもってこいの日』)
この詩は、かの「千の風になって」によく似ていますね。そういえば、実際はアメリカ人女性による「千の風になって」は長いあいだ、ネイティヴ・アメリカンによる詩ではないかと推測されていました。ネイティヴ・アメリカンの人々は、自然界における自分の位置を知っているがゆえに、死を恐れないのでしょう。
考えてみれば、もともと日本人の祖霊観は、きわめて彼らの精神世界に近いものです。それは日本民俗学の事実上のスタートとされている柳田國男の『先祖の話』の内容からも明らかです。死者は近くの山や森林に上って、そこから子孫を見守る。そして、風や光や雪や雨となって、子孫を助ける。正月には「年神さま」、お盆には「ご先祖さま」というかたちで、愛する子孫を守ってくれる。
死者はどこか遠い世界ではなく、残された者のすぐ近くの自然のなかにいるのです。だから、風が吹いたら、あなたの今は亡き愛する人を思い出して下さい。雨や雪が降ったら、思い出して下さい。山を見たら、海を見たら、思い出して下さい。そして、夜空にかかる月を見たら思い出して下さい。あなたの愛する死者は、いつも、あなたの近くにいます。
ところで、『今日は死ぬのにもってこいの日』という本のタイトルが素晴らしいですね。これは同書に収録されている詩の一つに冠せられたタイトルである “To day is a very good day to die”の日本語訳です。もともと同書の原題は"MANY WINTERS"だったのですが、それを『今日は死ぬのにもってこいの日』という日本語に置き換えたのは大正解でしたね。この一篇の詩には、本書全体を貫く思想が見事に集約されているからです。その「今日は死ぬのにもってこいの日」とは、次のような詩です。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。すべての声が、わたしの中で合唱している。すべての美が、わたしの目の前で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。 子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。
(『今日は死ぬのにもってこいの日』)
訳者の金関寿夫氏は、本書全体に流れている思想の背景について、「訳者あとがき」で、「この詩集に現れる輪廻転生思想的言辞といい、『究極の理解』(all understanding)といった観念(悟りに似ている)といい、この詩人もまた、仏教、特に禅をかじった人かな、と怪しまれる。だが、どうやら、そうでもなさそうなのである。事実『禅』という言葉は、この本のどこにも出てこない。その点、かえって好感が持てる。今どき『禅』を口にしない文系アメリカ人は、探してもそう簡単には見つからないからである」と述べています。 わたしも、この詩集から漂ってくる香りは、禅ではなく、また仏教でもないように思います。むしろ、それは儒教の香りに近いような気がします。とくに、儒教の「孝」の思想を強く感じてしまいます。なお、今回の言葉は『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)に掲載されています。
2025年5月3日 一条真也拝


