一条真也です。18日の早朝から、松柏園ホテルの神殿で月次祭が行われました。今朝の小倉は雨で、気温は25度でした。だいぶん涼しくなりました。
ホテルの貴賓室には父の遺影が・・・
この日のわたしは、ブラウンのサングラス姿でした。
というのも、京都から戻ってほどんど寝ないで執筆したのですが、目に負担をかけたようで、霰粒腫を患ってしまいました。眼科に行くと切開手術をされました。その傷跡を隠すためにサングラスを着けた次第です。松柏園に到着して貴賓室に入ったら、デスクの上に父である佐久間進名誉会長の遺影が置かれていました。父は、いつも見守ってくれています。わたしは遺影に向かって「明後日は、一周忌ですね。新しいお墓も完成しましたよ。今日は、これから月次祭と天道塾ですよ」と話しかけました。
月次祭のようす
厳粛な気分になります
玉串奉奠で柏手を打つ
山下常務に合わせて柏手を打つ
皇産霊神社の瀬津権宮司によって神事が執り行われました。サンレーを代表して、わたしが玉串奉奠を行いました。会社の発展と社員の健康・幸福、それに能登半島地震の被災者の方々の日常が早く戻ることを祈念しました。
山下常務に合わせて拝礼
神事の最後は一同礼!
この日は、わたしに続いて山下常務が玉串奉奠をしました。山下常務と一緒に参加者たちも二礼二拍手一礼しました。その拝礼は素晴らしく美しいものでした。わが社が「礼の社」であることを実感しました。儀式での拝礼のように「かたち」を合わせると「こころ」が1つになります。神事の後は、恒例の「天道塾」を開講しました。
「天道塾」開講前のようす
最初は、もちろん一同礼!

サングラス姿で登壇しました
激動の9月を振り返りました
神事後は恒例の「天道塾」です。この日も松柏園のメインバンケット「グランフローラ」で行われました。最初にわたしが登壇し、「おはようございます! 今日は9月の主な出来事からお話します。8月は『死者を想う月』でしたが、9月も死者と関わりの深い月でした」と言いました。6日の夜、北九州市八幡西区折尾のサンレーグランドホールで、秋のイベントが盛大に開催されました。一昨年までは「隣人祭り・秋の観月会」という名称でしたが、昨年からは「リメンバー・フェス」としてアップグレード。ただし、昨年は父である佐久間名誉会長が緊急搬送されたため、参加は叶いませんでした。その3日後に父は旅立ちました。
最初は、リメンバー・フェスについて
リメンバー・フェスは「秋祭り」と言いたいところですが、まだまだ気温が高くて「夏祭り」といった印象です。夏祭りといえば、「盆踊り」の存在を忘れることはできません。日本の夏の風物詩ですが、もともとはお盆の行事の1つとして、ご先祖さまをお迎えするためにはじまったものです。今ではご先祖さまを意識できる格好の行事となっています。盆踊りというものは、生者が踊っている中で、目には見えないけれども死者も一緒に踊っているという考え方もあるようです。照明のない昔は、盆踊りはいつも満月の夜に開かれたといいます。その意味で、このリメンバー・フェスでの盆踊りは正統なのです。
浴衣を着て主催者挨拶をする
この日、わたしは浴衣を着て盆踊りの櫓の上にあがって、主催者挨拶をしました。わたしは、「この『リメンバー・フェス』は、家族や友人、地域の人たちと集まって、亡き人を想いながら、いまを楽しむという、ちょっと新しい形のお祭りです。英語で“Remember”、つまり「思い出す」。大切な人のこと、心に残る出来事を思い出して、感謝の気持ちを伝える。それがこのフェスの名前に込めた願いです。射的やヨーヨー、屋台にキッズダンス、フラダンスなどなど、楽しいことを通して、わたしたちは自然と“あの人”を思い出します。一緒に過ごした時間、かけてもらった言葉。心の奥に残っている“あの笑顔”。それこそが、今を生きる力になると、わたしは信じています」とも言いました。
「月への送魂」について
すると、MCから「社長、この後は“月への送魂”も行っていただけると伺いましたが・・・・・・?」の言葉がありました。そうです。今夜、盆踊りの後に行われるのが、このフェスの“クライマックス”とも言えるセレモニー、「月への送魂」です。夜空に浮かぶ月を目指して、故人の魂をレーザー(霊座)光線に乗せて送る新時代の「月と死のセレモニー」です。故人への想いを“光の矢”に乗せて月へと届ける儀式であり、宗教や形式にとらわれず、誰でも気持ちを届けられる「新しい供養のかたち」です。
佐久間名誉会長&鎌田先生の追悼動画を流れる
わたしは、「今夜、みなさまの想いと一緒に、わたしたちがとくに月に光を送りたい人が2人がいます。1人は、昨年9月20日に亡くなった、わたしの父であり、サンレーの創業者である佐久間進名誉会長です。『人を大切にすること』『感謝をかたちにすること』を生涯貫いた人でした。ときに厳しく、でも心の奥はとても優しく、社員や地域の人々を家族のように想っていました。まさに“太陽のような存在”でした。父が旅立って、まもなく1年になります。このフェスも、本当は父と一緒に見たかったです。今夜は、このフェスを見せてあげるつもりで、感謝とともに光を月へと送ります」と言いました。
佐久間名誉会長を追悼する

鎌田先生を追悼する
また、わたしは「そして、もう1人は、今年の5月30日に亡くなられた、京都大学名誉教授で日本を代表する宗教哲学者の鎌田東二先生です。わたしの師であり、同志であり、魂の義兄弟でした。サンレー社歌を作って下さった方です。鎌田先生が提唱する『明るい世直し』を目指して共に歩んでまいりました。また、『死を明るく語ること』『亡き人を想い、祈ることが、いまを生きる力になる』といった考え方を、先生は伝えて下さいました。鎌田先生も旅立たれ、本当に寂しくなりました。しかしながら先生から頂いた数々の教えは、これからもわたしたちの光となり、道しるべとなると信じています。今夜、わたしは先生への『ありがとう、ずっと忘れません』という深い感謝の想いも、しっかりと光に込めて送ります」と言いました。

会場のみなさまに呼びかけました

熱心に聴く人びと
そして最後に、わたしが「会場にいらっしゃるみなさまへ、お願いです。どうか今、この場で、あなたにとって大切だった人を、心の中でそっと思い浮かべて下さい。『ありがとう』でも、『会いたいよ』でも、なんでもいい。その気持ちを、夜空に向けて、光に込めていただけたらと思います。この後に行われる『月への送魂』では、皆さんの想いが光となって、夜空に放たれます。きっと、月の向こうにいる“あの人”に届くと信じています。このあとは、どうぞご一緒に、光の祈りである『月への送魂』をご覧ください。本日は、ありがとうございました!」と言うと、盛大な拍手が起きました。

遺影とともに月を見上げる
「月への送魂」のプレ・ムービーが流れた後、皇産霊神社の瀬津隆彦神職が登場、魂弓(たまゆみ)を射って、送魂の儀を行いました。「魂弓を祈りを込めて引きつらむ 光の矢をば月に送らむ」という庸軒道歌が披露されました。そして、第一子を授かったばかりの瀬津神職が持つ神弓から発せられたレーザー(霊座)光線が夜空の月に到達すると、満場のお客様から盛大な拍手が起こりました。わたしは佐久間名誉会長と鎌田先生の遺影を持ちながら、天上の月に霊座が到達している光景を眺めました。
「かまたまつり」について
9月13日の11時半に、わたしは京都府亀岡の大本本部に到着しました。ここの「大本みろく会館」で、わたしが葬儀委員長を務める「かまたまつり」が開催されました。わたしが敬愛してやまない出口王仁三郎聖師の教えを守る総本山において、わが「魂の義兄弟」の百日祭が開かれ、まことに感無量であります。「かまたまつり」は、先生ご自身が生前に「自分の死後は“かまたまつり”と呼ぶまつりをやってほしい」と語られていた構想を、遺言としてわたしたちに託されたものであります。わたしは鎌田先生より、葬儀委員長の大役を仰せつかりました。

「かまたまつり」について

熱心に聴く人びと
鎌田先生の最期の願いは、「型にはまらない、思いっきり自由で、面白い、まつりのようなお別れをしてほしい」というものでした。「かまたまつり」は、12時30分から受付開始で、参加者全員に刷り上がったばかりの『満月交命』鎌田東二・一条真也著(現代書林)が配られました。788ページの鈍器本ですが、わたしからの贈呈です。13時から「かまたまつり」の第一部「鎌田ものがたり」が開始されました。「かまたまつり」は、12時30分から受付開始で、参加者全員に刷り上がったばかりの『満月交命』鎌田東二・一条真也著(現代書林)が配られました。788ページの鈍器本ですが、わたしからの贈呈です。13時から「かまたまつり」の第一部「鎌田ものがたり」が開始されました。

鎌田先生の追悼ムービーを流しました
冒頭の追悼ムービーの後、葬儀委員長であるわたしが奉辞を述べました。 わたしは「わが魂の義兄 鎌田東二の御霊に捧げ奉ります」として、「去る5月30日、鎌田東二先生はこの世を卒業されていきました。翌31日、わたしは先生のご自宅を訪ね、ご拝顔させて頂きました。その表情はまさに即身成仏のような、深く穏やかで、何とも言えない安らぎに満ちていました。鎌田先生、あなたは本当にご自分の人生を全身全霊で生きられました。この場をお借りして、心から申し上げます。お見事な人生でございました!」と述べました。

わたしの奉辞を紹介しました
また、わたしは次のようにも述べました。
「本日、わたしたちは京都大学名誉教授であり、宗教哲学者であり、そして、わが魂の義兄弟であった鎌田東二先生を偲び、感謝を捧げるために、ここに集いました。鎌田先生は、生涯を通じて『明るい世直し』という志を掲げ、思想と行動の両面から日本社会に多大な影響を与え続けた、偉大な実践思想家でした。病を得てもなお、その情熱と行動力は少しも衰えることなく、最期の瞬間までわたしたちの前を歩き、未来を照らし続けて下さいました。先生、あなたは、まさに『光』そのものでした。それも人々に寄り添い、慈愛に満ちた『月の光』でした」
奉辞の動画を流しました
それから、わたしは次のように述べました。
「大本の出口王仁三郎聖師は『オリオンの星座を出でて世を救う 月の光は闇夜を照らさむ』など、月にまつわる多くの名歌を遺し、また『月宮殿』――後には『月宮宝座』と、月の名を冠する聖地を築かれました。月の光そのものであられました鎌田先生をお送りするこの場が、出口聖師とご縁深きこの亀岡であることは、必然であるとさえ感じられます。去る9月6日、わたしたちは鎌田先生の御霊を『月への送魂』にて月面へとお送りし、お鎮まりいただきました。今、鎌田先生は月光そのものとなられ、出口聖師が唱えられた『万教同根』を象徴する月より、わたしたちを見守ってくださっていると確信しております」

新たな悲しみが湧いてきます
それから、わたしは次のようにも述べました。
「わたしにとって、鎌田先生は最大にして最高の理解者でした。魂のこと、祈りのこと、死と再生のこと、そして人生の意味・・・どんなに深いテーマも、どこまでも真剣に、まっすぐに語り合うことができました。先生と初めて出会ったのは1990年。あれから35年――幾度もの対談や語らいを重ね、わたしたちはいつしか『魂の義兄弟』と呼び合うようになりました。そしてあるとき、わたしはふと感じたのです。『これはきっと、一度きりのご縁ではない』と。何度も何度も生まれ変わりながら、語り合ってきたような既視感がありました。先生、きっとわたしたちは、過去も、未来も、つながり続けているのですね」

鎌田先生の志を受け継ぎます
さらに、わたしは「先生との思い出は多いですが、特に心に残っているのが、満月の夜に交わし続けた『ムーンサルトレター』です。Web上の往復書簡は、240信以上、実に20年間も続きました。そして、わたしは1秒たりとも〆切を破ることなく、書き続けました。なぜなら、わたしは『約束を守る男』でありたいと誓っていたからです。先生、わたしは今ここで、新たな約束をいたします。あなたが遺してくださった『明るい世直し』の志を、魂の義兄弟として、人生をかけて受け継ぎ、生きて、生きて、生き抜いてまいります」とも述べました。

奉辞の最後の最敬礼を紹介
そして、わたしは「いつか、わたしもそちらに行ったとき、どうか笑顔で迎えてください。そしてこう言ってほしいのです。『魂の弟よ、本当によく頑張ったな』と。今日、ここに集ったわたしたちの想い、祈り、拍手、涙、そして笑顔。そのすべてが、きっと鎌田先生のもとへ届いています。先生の言葉、歌、祈りは、宗教の壁も、時代の隔たりも超え、これからも、わたしたちの心の奥に、生き続けていくでしょう。そして先生の偉大な足跡と志を胸に刻み、未来へとつないでいくことを、ここにお誓い申し上げます。鎌田先生、本当にお疲れ様でした。そして、ありがとうございました」と述べ、「最後にもう一度だけ言わせて下さい。鎌田先生、お見事な人生でございました!」と述べたのでした。わが魂は震えました。
「かまたまつり」について紹介
その後、第二部「鎌田東二が未来に託したもの」が行われ、「北上の歌」の画像が流され、「能登学について」(能登学メンバー)、「災害学について」(災害学メンバー)の発表があり、わが社の大谷賢博部長も出演しました。第三部「縁の行者鎌田東二を食べる~かまた学問道 道としての学問・方法としての学問・表現としての学問」が行われ、島薗進先生(NPO法人東京自由大学学長)と辻信行氏(同運営委員長)による司会進行で、参列された方々の自由奉談が行われました。1人3分ぐらいの持ち時間で多くの方々が話されましたが、その中には占星術研究家の鏡リュウジ氏もいました。その他、ダンスや石笛や法螺貝の奏上などがありました。
「まつり」の熱唱を紹介しました
そして、ラストは、生前の鎌田先生との約束により、わたしが北島三郎の国民的名曲「まつり」を歌いました。わたしは背に「祭」と入った黄金の法被をまとって登壇しました。ただし、鉢巻きと腰帯だけは鎌田先生のイメージカラーであるグリーンに替えました。その装いでわたしが登壇すると、客席からどよめきが起こりました。最初に、「鎌田先生とわたしはカラオケが共通の趣味で、数えきれないほど御一緒しました。先生は、わたしが歌う北島三郎の『まつり』がお好きで、『かまたまつり』のラストでぜひ歌ってほしいと言われていました。諸先輩方おられる中で誠に不遜ではございますが、故人の希望であり、ご容赦ください!」と言いました。
皆の衆、この世も、あの世も面白く行こうぜ!
それから、わたしは「鎌田先生、お元気ですか? わたしたちは元気です! これから、鎌田先生が大好きだった『まつり』を歌います。月まで届け、この歌・・・」と言ってからカラオケがスタートしました。イントロ部分で「初宮祝に七五三、成人式に結婚式、長寿祝に葬儀を経て法事法要・・・人生は祭りの連続でございます。今日は出口王仁三郎聖師ゆかりの大本みろく会館で鎌田東二百日祭の『かまたまつり』ということで、めでたいなあ~。さあ、祭りだ、祭りだ~! 皆の衆、この世も、あの世も面白く行こうぜ!」と言うと、早くも会場が熱狂の坩堝と化しました。よし、つかみはOK牧場!(笑)

会場を練り歩きました
わたしが「男は〜ま〜つ〜り〜を〜♪」と歌い始めると、「祭」と書かれた巨大団扇やブルーの法被を着た助手が登場して、会場はカオス状態になりました。「山の神」「海の神」と口にするたびに大きな歓声が起きます。大本みろく会館の音響やスクリーンも最高です。まるで、出口王仁三郎聖師も応援してくれているような気分になりました。みんなで歌い、踊り、大いに盛り上がりました。わたしは、会場中を練り歩き、みなさんと握手をしながら歌いました♪ 間奏では、「満月交感🎵満月交遊🎵満月交心🎵満月交命🎵」と鎌田先生との往復書簡集の書名を連呼し、さらには「令和の霊界物語♪ この世もあの世も面白く♪」と即興でラップを披露しました。
ワッショイ!!
最後は、「これが日本のまつり~だ~よ~♪」の歌詞を「これが鎌田のまつり~だ~よ~♪」に替えました。興奮が最高潮に達しました。歌い終わって、「イエ〜イ!!」と叫ぶと、舞台の左右からジャンボクラッカーが鳴らされました。まさに「狂乱のカーニバル」そのもので、割れんばかりの盛大な拍手が起こりました。歌い終わったわたしは、「鎌田先生、そちらに行ったら、またカラオケ行きましょう! その日まで、オルボワール!」と言いました。透明人間になった鎌田先生は喜んで下さったでしょうか?

魂のメッセージを伝えました
歌唱後、わたしは葬儀委員長として、ステージ上で謝辞を述べました。わたしは、「葬儀委員長でございます。こんな格好で失礼します。本日は、誠にありがとうございました。いま、魂のすべてを込めて、鎌田東二先生に捧げる『まつり』を歌わせていただきました。この曲の最後の一節、『これが鎌田のまつりだ〜よ〜!」と叫んだ瞬間、わたしの胸に去来したのは、先生のあの笑顔と、あのまっすぐな眼差しでした。鎌田先生は、日本を代表する宗教哲学者であると同時に、“いのちの現場”に生きた人でした。祈り、歌い、叫び、そして、どこまでも明るく、誰よりも熱く、『世直し』を語っておられました。わたしたちでそれを引き継いでまいりましょう!」と言いました。

最後は最敬礼しました
それから、わたしは「みなさま、本日は『かまたまつり』へご参集いただき、感謝いたします。みなさまのお力添えをいただき『かまたまつり』はフィナーレを迎えようとしています。葬儀委員長として心より御礼申し上げます。誠にありがとうございました」と述べました。それから、わたしは「鎌田先生もきっとこの『まつり』の様子を見て、笑顔を浮かべていることを確信しております。そして今日ここにお集まりいただいた皆さまとともに、鎌田先生の偉大な功績と志を胸に刻み、未来へとつなげていきたいと思います」と延べました。そして、「最後にもう一度、心から叫ばせてください。これが――鎌田のまつりだ~よ~!」と叫んだ後、「ありがとうございました!」と最敬礼し、わたしは燃え尽きました。わたしはこの日、奉辞とカラオケの両方をやりましたが、これは1人で「礼楽」を実現したような気がしました。
「かまたかたみ」について
14日の午後、京都から小倉に戻りました。三連休中日のJR京都駅は異様なほどの人の多さであり、オーバーツーリズムを痛感しました。かなり疲れましたが、「かまたまつり」の余韻がまだ残っていました。その「かまたまつり」では、鎌田先生が生前に愛用した数々の品が展示されていましたが、その中でもひときわ目を引いたのが2個の茶器でした。これは「耀盌(ようわん)」と呼ばれる器です。大本教の出口王仁三郎が念願して造った茶碗のことで、その独特の輝きと美しさで各界の芸術家や評論家に衝撃を与えました。評論家の加藤義一郎が「星の光」という意味を込めて名付け、その作品は展覧会などを通して国内外に広まり、平和を願う希望の光として多くの人々を勇気づけました。この2個の耀盌を鎌田先生の形見として、謹んで頂戴いたしました。鎌田先生から頂いた形見ですので、「かまたまつり」ならぬ「かまたかたみ」です。
出口王仁三郎と月宮殿について
出口王仁三郎、鎌田東二、一条真也に連なる1つの精神的系譜があります。それは、月を聖地とみなす思想です。王仁三郎は「月宮殿」(後の月宮宝座)を築き、鎌田先生は「月面鳥居」を、わたしは「月面聖塔」を構想しました。第二次大本事件が起きるまでは、天恩郷には十字の形の礎石に月宮殿が建っていました。1928年(昭和3年)に完成した月宮殿は、出口王仁三郎が高熊山修行(1898年・明治31年)中に見せられた天界の宮殿を地上に模写したものとされています。約9000個にのぼる石を使用した総石造りで、日本建築史上にまったく類例がありません。しかも、古代アジアの伝統絵画を参考にしたというその様相は独創的で、まるで竜宮城のようだったとか。月宮殿は政府によって破壊され、その跡に月宮宝座が建立されました。この月宮殿のエピソードに限りないロマンをおぼえます。わたしも「月の宮殿」を地上に造ってみたい!
最後に、信じられほどの社会現象を巻き起こしている「鬼滅の刃」について話しました。ブログ「劇場版『鬼滅の刃』無限城編 第一章 猗窩座再来」で紹介した大ヒットアニメは日本の映画興行史上ナンバーワンに迫っているだけでなく、北米や韓国などの世界市場をも席巻。ブログ「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」で紹介した作品が5年前に超ヒットしたとき、その秘密を、わたしは『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)で詳しく書きましたが、「劇場版『鬼滅の刃』無限城編 第一章 猗窩座再来」が再び大ヒットしている現状に、いろいろ考えました。

「鬼滅の刃」と日本人について
まず、「鬼滅の刃」という物語の背景には神道・儒教・仏教という日本人の「こころ」の三本柱があることは同様ですが、それらが際立つのは日本人の「こころ」が不安定な状態にあるときではないか。そう思いました。つまり、前作のヒットがコロナ禍で祭りが中止されたことに対する不安を背景にしていたなら、本作のヒットはコメ不足という日本人の根幹に根差す不安、猛暑などの異常気象への不安、地震などの天変地異への不安、さらにはインバウンド外国人観光客の異常なまでの増加、熊の脅威などに対する不安などを背景にしていたのではないでしょうか?いずれにせよ、日本人としてのアイデンティティを求める無意識が今回の鬼滅ブームには表れていると思います。
最後は、もちろん一同礼!
わたしは、『「鬼滅の刃」に学ぶ』をアップデートした『「鬼滅の刃」と日本人』という本を書き上げました。某出版社が緊急出版してくれるそうで、前代未聞のスーパー・プロモーションも計画しています。「天下布礼」に大きな弾みがつくことが予想されます。この「天道塾」の終了後は、北九州空港に向かって東京に飛びます。理事長を務める冠婚葬祭文化振興財団の経営会議への参加などが主な目的です。最後に、「明日東京から戻りますが、翌20日は父である佐久間名誉会長の一周忌法要、墓石開眼供養、納骨といった一連の儀式が控えています。儀式なくして人生なし!」と言ってから降壇しました。 連日のハードスケジュールですが、自らの使命と志を果たさなければ、佐久間名誉会長や鎌田先生に顔向けできません。
それでは、東京に行ってきます!
2025年9月18日 一条真也拝